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◎名古屋鉄道愛知県、岐阜県主な路線:豊橋~新岐阜、名鉄名古屋~犬山ほか営業距離:445・4㎞名古屋を中心に岐阜、豊田、豊橋、犬山、中部国際空港などを結ぶ中京圏最大の鉄道会社が名古屋鉄道こと名鉄である。愛知県三大カンパニーのひとつにも数えられる(名鉄、トヨタ、松坂屋)。名鉄名古屋駅は上下1本、上下路線の間に挟まれた特急用のホームに、様々な場所から様々な方向へ、ボトルネックのように普通から特急まであらゆる種別の電車が着発。初めて乗る人にとっては迷うこ
飯田徳治1924年4月6日~2000年6月19日神奈川県横浜市出身、内野手、外野手、投手浅野総合中学校で野球を始め、東京鉄道管理局ではエースで4番として活躍し、1942年には都市対抗野球で打撃賞を獲得した。1947年に南海ホークスに入団し、開幕から5番・一塁手として起用された。チャンスに強く、長打力と6年連続40盗塁の脚力を武器に南海の5度の優勝に貢献。1949年5月21日の巨人戦ではサヨナラ満塁本塁打を放った。1951年打率.296、1952年には打率.
大正12年(1923年)9月1日11時58分に関東大震災が発生した。関東大震災は、地震の多い日本で、人々が災害への備えを怠ったために起きた悲劇でした。この未曾有の大災害は、東京の街を焼き尽くし、多くの人命を奪った。野球界もまた、大きな被害を受けました。野球場は倒壊・焼失し、多くの選手や関係者が被災した。しかし、野球人は絶望するばかりではなかった。ユニフォーム姿の若者たちが救援活動に奔走する姿は、野球が単なる娯楽ではなく、社会に貢献する力を持つことを証明した。関東大
プロ野球の長い歴史の中で、彗星のごとく現れ、たった一年でそのエネルギーを使い果たした様な投手がいる。偶然にも3月1日という同じ命日を持つ二人の投手が、西村一孔(阪神)と木村保(南海)だ。昭和30年代、球界を席巻しながらも、太く短い現役生活を駆け抜けた二人の足跡を振り返ってみる。◎1955年、阪神に入団「1年で散った伝説の剛腕」西村一孔1935年10月11日~1999年3月1日山梨県北都留郡出身右投右打、投手1955年(昭和30年)、大阪タイガースに入団した西村一
門田博光1948年2月26日~2023年1月24日奈良県五條市出身左投左打、外野手、指名打者。■ゼロからの出発:高校時代は本塁打「0」門田博光は1948年、山口県に生まれ、幼少期に奈良県へと移った。名門・天理高校では4番打者として甲子園にも出場していますが、意外なことに高校3年間で放った本塁打は「0」だった。卒業後は社会人のクラレ岡山に進み、靴の製作業務に携わりながら研鑽を積みます。1968年のドラフトで阪急から12位指名を受けるも拒否。翌1969年、南海ホーク
石戸四六1941年6月4日~198年8月2日秋田県大館市出身。右投右打、投手。石戸四六(いしどしろく)は、1938年6月4日に秋田県大館市で生まれた。長男でありながら「6月4日」に因んで名付けられた。秋田商業高校では投手として活躍し、3年時の1958年夏に甲子園へ出場。初戦で板東英二を擁する徳島商業と対戦し、0-3で敗れた。卒業後は社会人野球の日立製作所へ進み、1962年の都市対抗野球大会には日本鉱業日立の補強選手として登板。好投手として注目を集めた。同年9
吉岡悟1949年4月14日生まれ富山県中新川郡出身右投左打、内野手。1976年、パ・リーグの打撃成績表のトップに君臨したのは、スター選手でも助っ人外国人でもない、それまで「守備の人」と目されていた一人の内野手、吉岡悟だった。■幸運と執念が重なった「1976年の奇跡」吉岡悟を語る上で欠かせないのが、太平洋クラブライオンズ時代の1976年だ。前年にロッテからトレードで移籍した吉岡は、当初は内野の守備固め的な立ち位置だった。しかし、レギュラー二塁手だった基満男の負傷欠場
久慈次郎1898年10月1日~1939年8月21日岩手県・盛岡市出身右投右打、捕手。■生い立ちと盛岡中学時代1898年(明治31年)10月1日、逓信省の役人であった父・清とツヤの次男として青森県青森市に誕生。父の海外単身赴任が多かったため、幼少期は岩手県盛岡市に住む兄のもとで暮らした。幼少期は絵を描くことを好み画家を志す一面もあったが、当時、急速に盛り上がりを見せていた野球に出会った。仁王小学校卒業後、一度は盛岡中学の受験に失敗して岩手師範学校に入学するが、翌19