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野球の歴史には、あの時打っていれば!あのエラーがなければ!あのプレーが流れを変えた!とか瞬間瞬間のプレーで野球の勝敗、栄光と挫折が決まってしまう。長い野球の歴史の中で、一人の選手のスーパープレーが試合だけでなく、野球の歴史に永遠に語り続けるであろう守備を紹介したい。それをしたのは、ニューヨーク・ジャイアンツの外野手ウィリー・メイズだ。1950年ジャイアンツと契約、入団すぐ頭角を現し1951年公式戦デビューし121試合、20本塁打、68打点打率.274で新人王に輝い
坪内道則(道典)外野手右投右打(1914年4月7日-1997年9月17日)愛媛県出身選手歴:大東京(1936-1944)-ライオン軍-朝日軍ゴールドスター(1946-1948)中日ドラゴンズ(1949-1951)立教大学を中退後、1936年大東京軍に参加、秋からレギュラーとして1番もしくは3番を打った。センターの守備は定評があり、大東京時代の本拠地洲崎球場では、柔らかい足場を利用してもダイビングキャッチはファンの歓声を浴びた。足も速く1941(昭和16)年
尾崎行雄1944年9月11日~2013年6月13日大阪府泉大津市出身投手右投右打6月13日は東映フライヤーズに1962年から1973年まで在籍し、現役生活12年間のうち最初の6年で、伝説を作り上げた剛速球投手・怪童と呼ばれた尾崎行雄氏の命日です。ノスタルジックベースボールカードより浪商時代、甲子園大会では1960年夏の大会、1961年春の選抜と夏の大会に出場。法政二校の柴田勲投手との対決は、甲子園の名勝負として今も語り継がれている。1961年11月6日、浪商を中退
大豊泰昭1963年11月15日~2015年1月18日台湾南投県出身左投左打、内野手、外野手。◎台湾での日々から来日まで大豊泰昭(たいほうやすあき、本名:大豊泰昭/陳大豊)は、台湾の育英小学校、東峰中学校を経て、名門・華興高校へと進んだ。高校時代には世界大会優勝を経験し、一学年後輩には後に巨人などで活躍する呂明賜がいた。王貞治に憧れ日本球界を志した大豊だったが、当時の台湾の規定により20歳まで出国が叶わず、卒業後の2年間は母校でコーチを務めながら機会を待った。そ
新田恭一(慶応義塾大学)1898(明治31)年9月24日-1986(昭和61)年1月9日広島県広島市出身(松竹時代の新田恭一)大正5年(1916),第2回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園大会。当時は、豊中球場で開催)に、慶應普通部の右翼手・投手として出場し優勝。翌6年(1917)には、エースピッチャーとして出場した。大正7~12年(1918~1923)、慶応義塾大学では、遊撃手以外のすべてのポジションをこなした稀にみる万能選手だった。専門は投手で、コン
島原幸雄1934年4月21日-1995年1月6日愛媛県松山市投手、右投右打。島原幸雄は1950年代の西鉄ライオンズ黄金期において、稲尾和久が登場する直前のエースとして、またその後は主力投手の一人として活躍した。■入団と不遇の二軍時代1952年、愛媛県立松山東高等学校を中退し、西鉄ライオンズの二軍監督であった重松通雄を通じて入団テストを受け、プロの世界に入った。デビュー当初の島原は、オーバースローから速球を投げ込む本格派であったが、制球力に難があった。当時の西鉄