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◎西武鉄道~鉄道、土地開発、ホテル、パルコそしてライオンズ①地域:東京都、埼玉県②主な行先:池袋~西武秩父、西武新宿~本川越ほか③走行距離:176・6㎞西武鉄道といえば、1978(昭和53)年に誕生した西武ライオンズを経営。阪神、阪急、南海、近鉄などの名だたる鉄道会社の後に続き最後にプロ野球に参入した鉄道会社と思われるが、実は最後ではないのはご存じのとおり。西武鉄道は堤康次郎という五島慶太と並ぶカリスマ経営者が有名だが、元々は現在の西武新宿線を母体とする西
◎東急電鉄~時代を読んで??野球を手放す!①地域:東京都、神奈川県②渋谷~横浜、中央林間ほか③営業距離:104.9km戦後、一リーグ時代のプロ野球に参入した私鉄が「東京急行電鉄」(東急)だ。東急は五島慶太が設立、五島は大実業家として通信大臣まで登りつめた。戦時中は京浜急行、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現京王電鉄)を併合し大東急を作った。その大東急時代にセネターズを引き継ぐ形で1947(昭和22)年に球団を買収。チーム名を「東急フライヤーズ」
◎南海電気鉄道日本最古の私鉄は鶴岡親分と共に①地域:大阪府、和歌山県②行先:難波~極楽寺・和歌山市・関西空港ほか③営業距離:154㎞南海電鉄は大阪なんばと紀州・和歌山と一大聖地・高野山とを結ぶ。いわば全く異なる性格の二つの路線を柱としている。私鉄としては日本鉄道(現JR東北本線)、東京馬車鉄道に次いで開通。純粋民間資本としての私鉄としては日本最古の私鉄会社です。現在は大阪難波を中心に和歌山、関西国際空港、高野山方面に路線を伸ばし、関西南部の大きなインフラとなって
土橋正幸1935年12月5日~2013年8月24日東京都台東区浅草出身右投右打、投手。プロ野球界にその名を刻んだ土橋正幸は、投手として、監督として、そして評論家として、多岐にわたる足跡を残した。1935年12月5日に東京・浅草に生まれ、特に「江戸っ子」と称されたその気骨ある人柄と、現役時代の数々の記録は、多くのファンの記憶に深く刻まれている。彼の「江戸っ子」という異名は、単なる出身地を示すだけでなく、その後の彼の野球人生全体を象徴するものだった。彼の
大岡虎雄(おおおかとらお、1912年3月28日-1975年8月23日)福岡県出身、右投右打。主に一塁手として活躍。彼の野球人生は、戦前のアマチュア野球界での傑出した実績と、戦後37歳という異例の年齢でプロ入りし、短期間で目覚ましい成績を残した点に、その特異性が際立ちます。大岡は1935年には既に、創設間もない東京巨人軍から投手としてスカウトされるほどの才能を持っていた。しかし、彼はプロ入りせず、安定した企業チームである八幡製鐵所に残留した。この時期は、
久慈次郎1898年10月1日~1939年8月21日岩手県・盛岡市出身右投右打、捕手。■生い立ちと盛岡中学時代1898年(明治31年)10月1日、逓信省の役人であった父・清とツヤの次男として青森県青森市に誕生。父の海外単身赴任が多かったため、幼少期は岩手県盛岡市に住む兄のもとで暮らした。幼少期は絵を描くことを好み画家を志す一面もあったが、当時、急速に盛り上がりを見せていた野球に出会った。仁王小学校卒業後、一度は盛岡中学の受験に失敗して岩手師範学校に入学するが、翌19
◎阪神電鉄最強の武器・甲子園球場を建築した大阪府、兵庫県を走行行先大阪梅田・大阪難波~元町ほか営業距離45・1㎞阪神電鉄(阪神電気鉄道株式会社)は1899年に創立、大阪の梅田と神戸の中心地の元町を本線としており、大手私鉄の中では最も営業距離が短かかった。(1990年に準大手私鉄だった相模鉄道が大手私鉄となり、現在は相模鉄道が営業距離が一番短い)阪神電車は駅と駅の間が短い、そのためダイヤが詰まらないように加速の良い電車を導入し、官鉄(
◎京成電鉄ベーブ・ルース、沢村栄治と谷津球場営業地域:東京都、千葉県営業地:京成上野・押上~成田空港、ちはら台、金町、松戸営業距離:178.8㎞昭和に入って、野球ビジネスに参画したのは京成電鉄。京成電鉄は習志野にあった塩田を埋め立てて、1925(大正15)年に娯楽施設「京成遊園地」を開園、その中に野球場を建設した。他にも園内には勧業銀行本館の建物を移設「楽天府」として開館した。その後、坂東妻三郎の映画スタジオも作られ、一大娯楽施設として
野球雲が日本の野球を変えた100人の中に選んだひとりが作曲家の古関裕而だ。古関裕而(こせきゆうじ)(福島県出身、1909年8月11日~1989年8月18日)1909年、古関裕而は福島県福島市で、老舗呉服店の次男として生まれました。幼い頃から音楽に非凡な才能を示し、小学生の時にはハーモニカや蓄音機に夢中になります。家業を継ぐために商業学校に進学するも、音楽への情熱は冷めやらず、独学で作曲を学び始めた。この頃、彼は教会でオルガンを弾くなどして、西洋音楽の基礎を身に
野球の長い歴史の中で、MLB公式戦のプレー中に負った傷が原因で死亡した選手は、後にも先にもたった一人しかいない。それはクリーブランド・インディアンス(現ガーディアンズ)の遊撃手、レイ・チャップマン(RayChapman)です。1920年8月16日、ポロ・グラウンズでの事故事故が起きたのは、ニューヨークのアッパー・マンハッタンにあったポロ・グラウンズでのニューヨーク・ヤンキース戦で起こった。5回表、インディアンスの攻撃で打席に入ったのがチャップマン。対するヤンキース
ベーブルース:野球の神様、その偉大な足跡1948年8月16日は、野球界の頂点に君臨した「野球の神様」、史上最高のプレーヤーと称されるベーブ・ルースの命日です。日本でも子どもの伝記シリーズの書籍にもなり、多くの人々に愛されてきました。彼の偉大な足跡は、野球というスポーツがある限り、永遠に語り継がれることでしょう。ベーブ・ルースが生まれたのは1895年2月6日。本名はジョージ・ハーマン・ルース、幼少期のルースは、ボルチモアの貧しい家庭に育ち、素行の悪さ
8月15日は終戦記念日です。1945(昭和20)年8月15日に太平洋戦争が終わり、この日を境に日本は大きく変わっていきました。1934(昭和9)年にプロ野球が誕生し、そのつかの間日本は戦争へ突き進んでいきました。そして、多くの人々が戦争で亡くなり,野球人の中にも、犠牲になった方々がいました。東京ドームの北側にその戦争で亡くなられた方々の名前が刻まれた鎮魂の碑があります。当初は後楽園球場脇にあった野球体育博物館の建物横にありましたが、後楽園球場から東京ドームに建替えたた
ミッキー・チャールズ・マントル1931年10月20日~1995年8月13日アメリカ合衆国オクラホマ州出身右投両打、外野手1931年にオクラホマ州スパビナウで生まれ、フィラデルフィア・アスレチックスの捕手ミッキー・カクレーンにちなんで名付けられた。父マットはセミプロの投手で、マントルにスイッチヒッターとしての英才教育を施した。これにより、後にヤンキースに入団した際、監督のケーシー・ステンゲルのプラトーン・システム(対戦相手の投手の利き腕によって打者を使い分けるシステム
◎阪急電鉄プロ野球設立に奔走した小林一三開通自治体:大阪府、兵庫県、京都府路線行先:大阪梅田~三宮・宝塚・河原町ほか路線距離:146・6㎞阪急が野球と関わったのは1913(大正2)年5月1日、関西初の野球場を大阪府豊脳群豊中村(現豊中市)に建築したのが始まりだ。木製の観客席を備えて、野球以外に陸上競技、ラグビー、サッカーにも使用。同時に豊中駅を開業した。1915(大正4)年、大阪毎日新聞社、朝日新聞大阪本社が新聞拡販のためと箕面有馬電気軌道(現阪急宝塚
北井正雄1913年8月7日~1937年8月7日。島根県簸川郡出身(現出雲市)右投右打、投手。日本プロ野球の発足期、阪急軍のエースとして輝かしい実績を残しながら、わずか24歳でこの世を去った投手がいる。北井正雄である。旧制大社中学(現・島根県立大社高校)時代、北井はその俊足を買われ当初は陸上部に所属していた。同校の先輩には1932年ロサンゼルス五輪男子100mで6位入賞を果たした「暁の超特急」吉岡隆徳がおり、吉岡自身も目に留めるほどの足を持っていたという。
◎京浜急行電鉄初の本格的スタジアム羽田球場と女子野球への参入①営業地域:東京都、神奈川県②営業区間:泉岳寺・品川~横浜・浦賀・三崎口ほか③営業キロ程:87・0㎞大手私鉄の中で、最初に「野球ビジネス」を始めたのが、1909(明治42)年、京浜電気鉄道(現京急電鉄)だ。羽田にある自社所有の6万坪の干拓地のうち1万坪の敷地に日本初の観客席を整備した羽田運動場を建設した。作家・押川春浪が京浜電気鉄道の技師・中沢臨川に公共の運動場の必要性を語り、中沢が会社を
明治時代の野球は初期(1872~1890)野球伝来から新橋アスレチックスの時代第2期(1890~1904)旧制一高頂点の時代第3期(1904~1906)早慶戦熱狂の時代第4期(1906~1912)早慶戦ライバル時代に大きく分かれるように思える。今回は第3期を簡単にご紹介します。●早慶戦の前の学生野球一高全盛時代、日本のチームは試合をさせてもらえないくらい大きな存在であり、日本一の野球チームという傲慢な態度であった。●1890(明治23)年から明治37年までが一高
苅田久徳1910年1月19日~2001年8月3日神奈川県横浜市出身。右投右打、内野手端正な顔立ちから「神宮に女性ファンを集められる選手」として人気を博し、草創期のプロ野球界を牽引した名プレーヤーだ。苅田の野球人生は、地元横浜から始まった。横浜市立寿小学校、旧制本牧中学校を経て、旧制法政大学では遊撃手として若林忠志と共に黄金時代を築く。卒業後は、父親のコネクションで東京中央放送局に勤務しながら、クラブチーム「東京倶楽部」で野球を続行。六大学時代のライバル、宮
石戸四六1941年6月4日~198年8月2日秋田県大館市出身。右投右打、投手。石戸四六(いしどしろく)は、1938年6月4日に秋田県大館市で生まれた。長男でありながら「6月4日」に因んで名付けられた。秋田商業高校では投手として活躍し、3年時の1958年夏に甲子園へ出場。初戦で板東英二を擁する徳島商業と対戦し、0-3で敗れた。卒業後は社会人野球の日立製作所へ進み、1962年の都市対抗野球大会には日本鉱業日立の補強選手として登板。好投手として注目を集めた。同年9
鎌田実1939年3月8日~2019年8月1日兵庫県南あわじ市出身右投右打、内野手男四人兄弟の末っ子として生まれ、幼くして父を亡くした。苦労を重ねる母の姿を見ながら育ち、野球に打ちこんだ。洲本高校時代は4番・遊撃手として活躍し、甲子園出場は叶わなかったものの、その才能はプロのスカウトの注目された。大学進学を希望するも、家庭の事情から断念せざるを得ず、壮絶な争奪戦の末、1957年に大阪タイガースへ入団。「日本球界最強の鉄壁の内野陣」を築いた守備の要入団当初は「空前絶後
穴吹義雄1933年5月6日~2018年7月31日香川県出身右投右打、内野手、外野手高松高校時代からその打棒は鳴り響き、1952年に中央大学経済学部へ進学すると、その才能はさらに開花。東都大学野球リーグでは、2年次の1953年春季リーグで優勝を経験。同年の大学全日本選手権では惜しくも準優勝に終わったが、リーグ通算で打率.318、6本塁打、55打点というい成績を残した。特に3年と4年には2季連続で首位打者を獲得し、そのバッティングセンスは群を抜いていた。
阿南準郎1937年9月2日~2024年7月30日大分県佐伯市出身。右投右打、内野手、監督。広島カープの初優勝、そして1980年代黄金期を語る上で欠かせない男が阿郎準郎(本名・潤一)だ。派手なスタープレーヤーではなかったが、職人技の守備と深い洞察力で球団史に大きな足跡を残した。佐伯鶴城高から1956年に広島へ入団。打撃は非力ながら内野ならどこでもハイレベルにこなす堅守を誇り、特に古葉毅とのコンビで形成した三遊間・二遊間は絶品と称された。現役15年で失策数
長谷川良平1930(昭和5)年3月25日~2006(平成18)年7月29日愛知県半田市出身右投右打、投手広島創設時から「弱小」広島カープを支えた投手。ノンプロで活躍していた長谷川は創設された広島カープの入団テスト受け、石本監督の前で得意のシュートでバットをへし折るピッチングに石本監督がほれ込み入団。1950(昭和25)年にセ・リーグに参加した広島カープは勝てない。長谷川1年目で15勝27敗の成績を上げ、カープのエースとして活躍。167㎝の身長ながら、スリーク
鉄道が野球を支えた。明治維新からの付き合い「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」――明治の世、日本に西洋文化が押し寄せた象徴の一つが「鉄道」であり、その隆盛は国民の生活様式を大きく変えた。そして、この「鉄道」と「野球」という二つの文化は、時代を超えて深く結びつき、互いに発展を遂げてきた。鉄道がもたらした野球文化の黎明日本に野球を広めた功労者の一人である平岡ひろしは鉄道技師だった。彼は自費留学で訪れた米国でベースボールと出会い、1876年帰国、1878年
葛城隆雄(かつらぎたかお)1936年12月21日~2013年7月27日大分県大分市出身右投右打、内野手、外野手大分上野高から1955年に毎日オリオンズに入団。高卒2年目には早くもレギュラーの座を掴み、その才能はすぐに開花。特に、1958年と1959年の2年間は強打者として印象付けた。1958年、チームが「大毎オリオンズ」へと名称変更されたこの年、葛城は打率.305、20本塁打を記録し、自身初の打点王に輝いた。この年の打点王争いは壮絶だった。シーズン終盤まで打
伊藤健太郎千葉県出身1916年12月28日~1944年7月26日右投右打、外野手千葉県初のプロ野球選手でもある伊藤は千葉中学校時代には強打でチームを牽引し、甲子園初出場に貢献。その後、東京鉄道局を経て、1935年に巨人軍へ入団した。入団のきっかけは、恩師である藤本定義監督が巨人に招かれた際、エースの前川八郎とともに同行を熱望されたことだった。プロの世界でもその強打は健在。多くの試合で5番打者を任され、背番号も打順と同じ「5」を与えられた。1936年、巨
伊勢川真澄1921年6月30日~1996年7月26日和歌山県紀の川市出身右投右打、捕手和歌山県出身の伊勢川真澄は、1940年に19歳でライオン軍に入団した。新人ながら49試合に出場し、翌41年には早くも正捕手の座を獲得。戦前と戦後にまたがり、ライオン、朝日、パシフィック、太陽と球団名が目まぐるしく変わる激動の時代に、伊勢川はチームの要として奮闘。特に戦後の混乱期、旧朝日軍の選手が分裂し新球団ゴールドスターを立ち上げる中、伊勢川は旧朝日軍の流れを汲むパシフィック
若くしてプロ野球の舞台に足を踏み入れ、その才能を輝かせながらも、戦火に散った一人の投手がいた。村松幸雄1920年3月6日~1944年7月25日静岡県出身右投右打、投手史上6人目という偉業であるシーズン防御率0点台を達成しながら、わずか24歳で短い生涯を終えた「幻のエース」だ。静岡県出身の村松は、藤枝尋常高等小学校時代からその名を轟かせた名投手だった。掛川中(現在の掛川西高校)では、東海地区No.1投手と評され、1938年には主将として甲子園に出場。選手宣
堀井数男1923年12月12日~2006年7月24日大阪府東大阪市出身右投右打、外野手戦前からの強豪、日新商業学校で鳴らした堀井数男は、1943年、南海軍に入団。日新商の監督を務めていた平野正太郎が元南海の選手であった縁から、堀井の父との間で話が進められ、支度金300円、月給130円という当時の好条件で入団が決定した。細身ながらも当時としては大柄の堀井は、1年目からレギュラー外野手の座を掴む。戦況が悪化し、主力が次々と出征する中、1944年には早くも4番打
平井三郎(旧姓:生田)1923年9月14日~1969年7月23日徳島県徳島市出身右投右打、内野手徳島県で産まれた平井三郎はその類まれな野球センスで早くから注目を集めた。徳島商業では1939年から1940年にかけて、春夏合わせて3度甲子園に出場。当時の徳商は「徳島県高校野球育ての親」稲原幸雄監督率いる猛練習で知られ、後に名将となる蔦文也がその厳しさに恐れをなしてテニス部に逃げ込んだという逸話も残るほどだ。卒業後、明治大学を経て、恩師・稲原が監督を務める社