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「TinkertoEverstoChance」20世紀初頭1906年から1910年にナショナル・リーグ4回優勝1907年、1908年はワールドシリーズ制覇。強いシカゴ・カブスの率いたダブルプレー・トリオの響き。右からオールドベースボールカードのティンカー、エバースそしてチャンスティンカーからエバース、そしてチャンス!このフレーズは、20世紀初頭のナショナル・リーグ、シカゴ・カブスの鉄壁の二遊間と一塁手を称えるものです。彼らの名前は、ショートのジョー・テ
1978年(昭和53年)10月12日、西武への球団売却と本拠地移転が発表された際、ライオンズファンだけでなく、所属選手の多くは大きな戸惑いを覚えただろう。長年、福岡の平和台球場を本拠地とし、「西鉄、九州のライオンズ」として愛されてきた歴史があり、選手たちも福岡での生活に根付いていた。当時の選手会長だった大田卓司選手(クラウン、西武に在籍)によると、チームメートの9割が所沢への移転に難色を示し、正直なところ「行きたくなかった」というのが本音だったらしい。しかし、球団
1961(昭和36)年10月11日、西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)のエース稲尾和久投手が42勝を記録。スタルヒン投手と並ぶシーズン勝利数の日本記録を達成した日です。稲尾和久投手の凄さはライブで見たときないので、見てきたようにしか語れないが彼の凄さや鬼神のような現役時代を知ったのは「Number14」を読んでからでした。「西鉄ライオンズの衝撃」とも言えるような雑誌で野武士野球の凄まじさにも驚いた。稲尾投手の存在は野武士の中に凛とした戦士の香りが文章か
吉原正喜1919年1月2日~1944年10月10日熊本県熊本市出身右投右打、捕手。本荘尋常高等小学校で4番・捕手を務めた吉原は、熊本工業学校へ進学後も捕手として頭角を現します。1934年(昭和9年):熊本県大会で優勝。南九州大会では準決勝で西郷準擁する鹿児島第二中学校を決勝で大分商業を破り、第20回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)に出場。決勝で呉港中学校(藤村富美男擁する)に敗れ準優勝となったものの、その健闘が称えられ、神戸市長・黒瀬弘志の招待で宝塚歌劇
正力松太郎は、1885年(明治18年)に富山県射水郡大門町(現・射水市)で誕生。1911年に東京帝国大学(法学部)を卒業し、内務省に入省。警察官僚として頭角を現し、警視庁警務部長などを歴任し、1923年12月の虎ノ門事件を受けて警視総監とともに引責辞職となる。読売新聞社長として躍進1924年2月、正力は後藤新平の助力を得て、経営難に陥っていた読売新聞を買い取り、第7代社長に就任。彼は次々と意表を突く新企画を実行し、積極的な経営で社勢を拡大。当初は二流紙扱いだっ
小川健太郎1934年1月12日~1995年10月8日福岡県久留米市出身。右投右打、投手。野球ファンなら誰もが知る、あの「黒い霧事件」。球界を震撼させた大スキャンダルによって、志半ばでユニフォームを脱がざるを得なかった選手たちがいる。その一人、小川健太郎。中日ドラゴンズのエースとして一時代を築きながら、わずか7年の現役生活で球界を永久追放された男の、鮮烈な光と深い影。小川健太郎が中日ドラゴンズに入団したのは1964年。東映フライヤーズを短期間で退団後、社会人野
金田正一1933(昭和8)年8月1日~2019年10月6日愛知県出身左投左打、投手。10月8日(2019年)は金田正一氏の命日です。通算400勝、4490奪三振、365完投、投球回数は5526.1回1951年から1964年までの14年間連続20勝と投手記録のアンタッチャブルレコードをいくつも持っている。プロ野球史上最高峰投手のひとりだ。天皇と呼ばれるほど、国鉄スワローズでは監督より権力はあったともいわれている。監督の交代は、金田投手をいかに手なずけら
野口明1917年8月6日~1996年10月5日愛知県名古屋市出身右投右打、投手、捕手。昭和の野球史の中に輝く「野口四兄弟」。その長兄であり、アマチュア・プロの両方で“延長試合最長記録”のグラウンドに立ち続けたのが野口明です。中京商業(現・中京大中京高)時代、正捕手として夏の甲子園3連覇(1933年)を達成。準決勝の明石中戦における「延長25回」の死闘で、エース吉田正男の336球を最後まで受け切ったエピソードは、高校野球史でも記録と記憶に残っています。明治
西園寺昭夫1937年10月31日~2011年10月3日熊本県熊本市出身。右投右打、三塁手、遊撃手、外野手。高校時代は名門・熊工で1954年のセンバツに中堅手として出場し準決勝進出。エースの添島時人(のち巨人)や田中春雄(のち阪神)らとプロの卵たちとプレー。しかし、夏は2年連続で甲子園出場を逃すという、苦杯も味わっている。この敗戦の経験が、彼の粘り強いプレースタイルを形作ったのかもしれない。卒業後は社会人野球の東洋レーヨンを経て、1957年に東映フライヤーズに入団。
1960(昭和35)年10月2日は前年最下位で苦しんだ大洋ホエールズが闘将三原脩を監督で初優勝した日だ。大洋ホエールズは1950(昭和25)年にセパ両リーグに分裂した際セ・リーグに加入した球団で、親会社はマルハ(現マルハニチロ)。50年代は打撃力が高い球団で巨人から青田昇、阪神から藤井勇などの名打者が移籍してきたが、投手力不足や球団生え抜きの選手が育たずBクラスに甘んじていた。そこで、巨人、西鉄で監督をしていた三原脩が西鉄内での場所が微妙な雰囲気なったという話を聞いた大洋側が招聘
1903年10月1日。野球界の中で一番盛り上がるイベント「ワールドシリーズ」が開幕した。記念すべき第1回はナショナルリーグの覇者ピッツバーグ・パイレーツアメリカンリーグの覇者ボストン・アメリカンズ(現レッドドックス)の間で戦いが始まった。ナショナルリーグは1876年に創設、野球界のトップに君臨していた。そのため、徐々に選手間の年棒や運営にも問題を抱えていた。20世紀に入って、全米各地にあるプロ野球リーグの一つウエスタンリーグがアメリカンリーグと名称を変更後、当時の会長
ピート・ローズ(ピーター・エドワード・ローズ・シニア)1941年4月14日~2024年9月30日アメリカ合衆国オハイオ州出身右投両打、外野手、一塁手、三塁手、二塁手。安打製造機、チャーリー・ハッスルの愛称で呼ばれそして波乱に満ちた野球人生——。メジャーリーグ史にその名を深く刻んだ伝説のスイッチヒッターです。泥臭く駆け抜けた「チャーリー・ハッスル」1941年、オハイオ州シンシナティに生まれたローズは、1960年に地元球団のシンシナティ・レッズと契約。1963年のオー
野球の歴史には、あの時打っていれば!あのエラーがなければ!あのプレーが流れを変えた!とか瞬間瞬間のプレーで野球の勝敗、栄光と挫折が決まってしまう。長い野球の歴史の中で、一人の選手のスーパープレーが試合だけでなく、野球の歴史に永遠に語り続けるであろう守備を紹介したい。それをしたのは、ニューヨーク・ジャイアンツの外野手ウィリー・メイズだ。1950年ジャイアンツと契約、入団すぐ頭角を現し1951年公式戦デビューし121試合、20本塁打、68打点打率.274で新人王に輝い
坪内道則(道典)外野手右投右打(1914年4月7日-1997年9月17日)愛媛県出身選手歴:大東京(1936-1944)-ライオン軍-朝日軍ゴールドスター(1946-1948)中日ドラゴンズ(1949-1951)立教大学を中退後、1936年大東京軍に参加、秋からレギュラーとして1番もしくは3番を打った。センターの守備は定評があり、大東京時代の本拠地洲崎球場では、柔らかい足場を利用してもダイビングキャッチはファンの歓声を浴びた。足も速く1941(昭和16)年
プロ野球トラブル史でもう二度と出ないのではないか?と思われる「放棄試合」今回は戦後のドタバタ時に起こった笑うに笑えない物でした。プロ野球は終戦後、すぐにプロ野球再開に動き、1946年にはリーグ戦を再開した。しかし、戦後初のペナントレースは物資不足、交通インフラの整備不足等戦争の傷跡が深い時代だったので、通信インフラは郵便がメインだった。プロ野球初の放棄試合はそんな時代だったからこそ起きた事故だったかもしれない。1946(昭和21)年9月27日西宮球場ではゴールドスター対セネ
9月26日(1980年)は大正時代に早稲田大学野球部で活躍した名投手で、戦後は巨人軍初の専任コーチとしても野球界に貢献した、谷口五郎氏の命日です。『本当にね、天下を取ったような気持ちでしたよ。』「逆ワインドアップ(モーション)事件」後来日した全米軍のモリアリティ審判によりボークでないと判定された時の感想より(吉澤野球博物館インタビューテープから)●谷口五郎(岩瀬五郎)1901(明治34)年1月2日~1980(昭和55)年9月26日佐賀県出身大正時代を代表する快速左腕投手
1936(昭和11)年9月25日に巨人軍の澤村栄治投手が日本プロ野球初のノーヒット・ノーランを達成した。澤村は京都商業を中退して、1934(昭和9)年日米野球の全日本軍投手として参加。米国選抜軍にはベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス等当時の大リーグでもトップクラスのメンバーがそろい、日本軍は0勝16敗と惨敗だったが、その中で11月20日草薙球場での澤村はルー・ゲーリッグ本塁打1本に抑え、惜しくも0対1で敗れたもののこの1試合が今も名勝負として澤村の名声を
9月24日(1985年)は大正時代最強打者!井口新次郎が亡くなった日です。大正時代の最強打者と言われている井口新次郎氏は野球殿堂入りしているが、21世紀なってからはあまり語られない伝説の野球人だ。井口新次郎1904年6月7日~1985年9月24日和歌山中学(現桐蔭高校)の投手兼遊撃手。大正10年(1921年)の第7回甲子園大会で優勝の中心となり、その強さは1試合平均18点以上、総得点数75のすさまじい破壊力を持ったチームであった。井口も個人記録として持
プロ野球でこれから見られない、もしくは、してはいけないものに「放棄試合」があると思う。今は「放棄試合」は厳禁という規定があるのも、プロである以上、天候不良や不慮の事故での試合中止はともかく観客のためにも最後まで試合をすることが前提になったのではないか。そして、その厳禁となったきっかけの「放棄試合」が1967年9月23日甲子園、阪神対大洋戦ででおこった。出典:スポーツニッポン阪神タイガースの歩みより1回表、大洋はいきなり3点を取り、なお2死満塁と阪神を攻めていた。打者は投手の
9月23日は阪急一筋の左腕投手梶本隆夫投手の命日です。(1935年4月8日~2006年9月23日)岐阜県多治見市出身右梶本隆夫投手左中西太「悲壮感より、梶本ならしょうがない」という独特の愛され方をした伝説の左腕、梶本隆夫は、200勝投手の中で唯一の負け越し(254勝255敗)投手として知られている。その野球人生は、多くの苦難と輝かしい記録に彩られていた。岐阜県多治見市で生まれ育った梶本は、多治見工業高校のエースとして活躍。3年夏の岐阜予選決勝でノーヒットノーラ
町田行彦1934年3月8日~2025年9月22日長野県長野市出身右投右打、外野手。野球雲8号では特別インタビューをさせて頂き、町田氏の野球人生を、明るく、真剣に語っていただきました。その際は、笑顔で「聞きたいことは何でも聞いて!」と楽しんでも頂けました。【少年期・高校時代】長野北高校(現・長野高校)時代、3年夏は練習を休みがちであったが、立教大学の砂押邦信監督からの誘いを受けて練習に参加するようになり、立教大進学のきっかけを得た。2年次(1950年
9月22日は戦前イーグルスで活躍した亀田忠(テッド亀田)投手の命日です。(1912年9月8日~1976年9月22日)右投右打戦前、プロ野球がまだ「職業野球」と呼ばれ、苦労が多かった時代。その中で、一際異彩を放った投手がいました。それが、記録好きの野球マニアなら知らない者はいない、伝説の剛腕、亀田忠です。ハワイのオアフ島出身。ハワイ朝日では、後に阪神で活躍する捕手・カイザー田中とバッテリーを組み、剛速球と沈む球を武器に「ビッグ・トレイン」の異名で恐れられま
記録的には平凡な成績でも、強烈な記憶として語り継がれているプロ選手が日米共にいると思いますが、これから紹介する選手はちょっとしたミスが、100年以上もの間語り続かれ、伝説、いや神話化して言った話をご紹介します。選手の名前はフレッド・マークル1888年12月20日ウィスコンシン州で生まれ、1907年に当時メジャー最強のチーム名将ジョン・マグロー率いる『ニューヨーク・ジャイアンツ』に入団。1916年までジャイアンツの在籍し、1926年にコーチ兼任としてヤンキ
1996年9月20日に若き星野仙一監督の熱血を超えた暴言事件があった日です。現役時代の実績もさる事ながら、中日、阪神、楽天の3球団で監督としての実績は現役以上で、戦後生まれ1000勝を達成し、リーグ優勝4回、日本シリーズ優勝1回の名監督となった。現役時代は退場経験がないのに、監督時代は6回経験している。2度目の中日監督時代、1996年(復帰1年目)9月21日に星野監督は試合中の退場よりも、激しい言葉を審判にぶっつけた!東京ドームで行われた巨人戦終了後、星野監督は思うところがったの
1958年(昭和33年)9月19日は長嶋茂雄が打った本塁打を取り消された日です。巨人軍の長嶋茂雄三塁手が後楽園球場対広島戦5回表に新人本塁打記録の28号を打ったが、しかし、一塁ベースを踏み忘れて、本塁打を取り消されてしまった。開幕戦では国鉄の金田正一投手に4打席4三振とプロの洗礼を受けたがその後は、新人ながら5月には打率3割を打ち、本塁打はリーグトップとなった。8月には巨人軍の4番になり、順調に本塁打を積み上げていった。ベース踏み忘れとという「珍プレー」に
9月19日は俳句や短歌など、近代日本文学に多大な功績を残した偉人として知られる正岡子規の命日です。正岡子規(1867年10月14日-1902年9月19日)は、明治時代を代表する俳人・歌人。愛媛県松山に生まれ、東京大学予備門へ進学後、病床につきながらも文学の道を志しました。俳句や短歌の革新運動を主導し、自然や物事をありのままに描写する『写生』の概念を提唱。これにより、従来の文学とは異なる写実的な表現を確立した。彼は俳句雑誌『ホトトギス』を創刊し、高浜虚子や河東碧梧桐と
内村祐之(うちむらゆうし)1897年11月12日~1980年9月17日東京都出身内村祐之は、明治から大正にかけて活躍したキリスト教思想家、内村鑑三の長男として生まれた。父は非戦論者であり、教科書にも登場するほどの著名な思想家。祐之は、そのような偉大な父のもとで育ち、その教えを深く心に刻む。東京帝国大学医学部を卒業し、精神医学の道へ進んだ祐之は、1936年(昭和11年)には東京帝国大学医学部教授に就任。しかし、彼の人生において、野球は単なる趣味ではなかった。それ
坪内道則(道典)(1914年4月7日-1997年9月16日)愛媛県伊予郡(現伊予市)出身右投右打、外野手選手歴:大東京(1936-1944)-ライオン軍-朝日軍ゴールドスター(1946-1948)中日ドラゴンズ(1949-1951)戦前、まだプロ野球が発展途上だった時代から、戦後にかけて活躍した選手に坪内道典がいます。彼は数々の「プロ野球史上初」の記録を打ち立て、野球界の歴史に名を刻んだパイオニアです。立教大学を中退後、1936年に大東京軍に参加。景浦
ジーン・バッキー(ジーン・マーティン・バッキー)1937年8月12日~2019年9月14日アメリカ合衆国ルイジアナ州ラファイエット出身アメリカでのバッキーの野球人生は決して順風満帆ではなかった。1957年からマイナーリーグでプレーし、1962年には3Aのハワイ・アイランダーズに在籍していたが、結婚式を挙げたわずか2日後に解雇された。この解雇は、オーナーが一族を招待した試合で、10-0と大差をつけていた9回に一挙に11点を奪われて大逆転負けをし、怒り狂ったオーナーは、敗戦