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写経絵の先生、観心寺の住職先生に高野山を案内して頂いた。写経絵一年の総終結、写経絵を高野山奥の院御廟前に奉納する。参加出来た6名の私達生徒と絵のデザインの先生ご夫妻、住職先生と9人で廻った。まずは寶亀院(ほうきいん)私にとっては初めての寺院。先生の計らいでちゃんと予約を入れておいてくださったので、寺院の僧侶さんが付いてずっとご説明くださり凄く良かった。この寺院は弘法大師空海様の衣を約1000年以上もの間、絶える事なく毎年、檜皮色の御衣を大師に献じているお寺である。空海没後86年目に
東宮の雅院にて桜の花の御溝水に散りて流れけるを見てよめる菅野高世枝よりもあたに散りにし花なれば落ちても水のあはとこそなれ〔古今和歌集巻第二春歌下〕+++++++【日本古典文学全集(小学館)の訳】+++++++東宮(保明親王)の雅院のお庭で、軒下の溝に桜の花が散って流れるのを見て詠んだ歌菅野高世枝からもむだ花として散った花だから、流れに落ちてからも水の泡となってむなしく消えることだろう。+++++++++++++++++++++++++++++++
歌舞伎などの演目でよく知られている菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)は、菅原道真が、政敵の藤原時平の策略により、太宰府に流されるというもの。菅原道真は、藤原氏にあらずして、右大臣にまで出世しましたが、左大臣藤原時平によるいわゆる昌泰の変(901年)により、太宰府に左遷させられ、903年に没しました。しかし、その6年後には藤原時平が39歳で亡くなります。他にも、不吉なことが続いたので、人々は、菅原道真の祟りと噂し、919年に勅命により天満宮が創建されました。後に、菅原道真が、学問
38忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな右近【出典】『拾遺集』巻十四・恋四・870「題しらず」【参考】『大和物語』の84段に、「同じ女、男の忘れじとよろづのことをかけて誓ひけれど、忘れにける後に言ひ遣りける」とある。この恋の相手は藤原敦忠とされる。++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++あなたに忘れられた我が身をつらいとは思いません。それよりも私との愛を誓ったあなたの命が神罰のために失われるのではないかと思うと