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写経絵の先生、観心寺の住職先生に高野山を案内して頂いた。写経絵一年の総終結、写経絵を高野山奥の院御廟前に奉納する。参加出来た6名の私達生徒と絵のデザインの先生ご夫妻、住職先生と9人で廻った。まずは寶亀院(ほうきいん)私にとっては初めての寺院。先生の計らいでちゃんと予約を入れておいてくださったので、寺院の僧侶さんが付いてずっとご説明くださり凄く良かった。この寺院は弘法大師空海様の衣を約1000年以上もの間、絶える事なく毎年、檜皮色の御衣を大師に献じているお寺である。空海没後86年目に
歌舞伎などの演目でよく知られている菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)は、菅原道真が、政敵の藤原時平の策略により、太宰府に流されるというもの。菅原道真は、藤原氏にあらずして、右大臣にまで出世しましたが、左大臣藤原時平によるいわゆる昌泰の変(901年)により、太宰府に左遷させられ、903年に没しました。しかし、その6年後には藤原時平が39歳で亡くなります。他にも、不吉なことが続いたので、人々は、菅原道真の祟りと噂し、919年に勅命により天満宮が創建されました。後に、菅原道真が、学問
小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ貞信公/拾遺集雑秋1129[小倉山の紅葉よ、もし貴方に趣きを理解する心があるなら、帝の行幸まで散るのを待ってくれないか]延喜3年2月25日(903年)、前右大臣で大宰権帥の菅原道真が、流謫の身のままこの世を去りました。菅原道真の死後、旱魃や洪水など全国で天変地異が起きて、「道真公の祟り」が噂されていく中。その恐怖は朝堂をも蹂躙して、時の権力者たちを奈落のどん底に叩き落すのですが、これがまた凄まじい。
第60代醍醐天皇の第十四皇子、母は中宮の穏子(藤原基経の娘)で、第61代朱雀天皇の同母弟である。第62代村上天皇の治世では、親政とされたが、実際には政治の実権は、依然摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあった。村上天皇は歌人・歌壇の庇護者であり、琴・琵琶等の楽器にも精通し、平安文化を開花させ、"天暦の治"として後世景仰された。その反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われ、内裏焼亡をはじめ、数々の災難もあった。村上天皇は在位のまま崩御した(宝算42)。