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第60代醍醐天皇の第十四皇子、母は中宮の穏子(藤原基経の娘)で、第61代朱雀天皇の同母弟である。第62代村上天皇の治世では、親政とされたが、実際には政治の実権は、依然摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあった。村上天皇は歌人・歌壇の庇護者であり、琴・琵琶等の楽器にも精通し、平安文化を開花させ、"天暦の治"として後世景仰された。その反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われ、内裏焼亡をはじめ、数々の災難もあった。村上天皇は在位のまま崩御した(宝算42)。
さてさて………………この日の計画では、距離があるかなと諦めていたのだが、【円融天皇陵】から、割と徒歩近くにその目的地への参道があったもちろんそうとなれば、頑張って歩きますこの日は、【円融天皇陵】にてすでに6つの『天皇陵』に参拝して通算109陵目(124陵分の)となっていたが……………次の目的地が110陵目となる『天皇陵』への参道をてくてく歩く……………割と長い石段をてくてく昇りようやく目的地が見えてきたぞーーーっ到着したのは………………【村上天皇村上陵】京都府京都市右京区鳴
代明(ヨシアキラ)親王は醍醐天皇の第三皇子、母は藤原連永の娘・鮮子で醍醐天皇の更衣。代明は右大臣藤原定方の娘と結婚し、多くの子に恵まれたが、妻に先立たれ、その後を追うように翌年薨去(享年34)。代明親王の長男・源重光(シゲミツ)は権大納言に至るも翌年には辞任し、官職を藤原伊周(摂政関白太政大臣藤原道隆の嫡男)に譲る。そのため、致仕大納言と称された。享年76。代明親王の次男・源保光(ヤスミツ)は円融・花山・一条朝にかけて昇進を続け、中納言に至る。従二位に昇るも当時流行した疫
"醍醐天皇の系譜"では、話が及ばなかった源高明の系譜について触れる。源高明(タカアキラ)は醍醐天皇の第十皇子で、一世源氏の尊貴な身分に加えて学問に優れ朝儀にも通じており、また朝廷の実力者でかつ高明と同じく故実に通じた藤原師輔やその娘の中宮・安子の後援も得て、朝廷で重んじられた。藤原師輔の三女を妻とし、この妻が没すると、五女の愛宮(アイノミヤ)を娶って友好関係を結んだ。高明にとっては師輔は有力な後援者であった。愛宮の母は醍醐天皇の第十皇女・雅子内親王、高明の同母姉である。
醍醐天皇は20人に近い女御・更衣をかかえ、代明親王・重明親王・有明親王・源高明(臣籍降下)・兼明親王・寛明親王(後の朱雀天皇)・成明親王(後の村上天皇)をはじめ、36人の子女を儲けた。康子(ヤスコ)内親王は藤原基経の娘・穏子(ヤスコ)を母とする朱雀・村上天皇の同母姉で、35歳の時に准三后に任ぜられたが、同年に藤原師輔(基経の孫)と結婚した。天皇の同母姉である皇女が臣下と結婚したのは前代未聞の事態で、世間を驚かせた。母・穏子が没し寂しくなり、妻・雅子内親王(康子の異母姉)を
文徳天皇の系譜が途絶え、仁明天皇の親王から高齢で即位した光孝天皇の系譜へ戻す。光孝天皇は仁明天皇の皇子、母は藤原総継の娘・沢子、陽成天皇が母方の伯父である藤原基経によって廃位されたのち、55歳で即位した。やがて病にて、子息の源定省を皇籍に復し立太子させ、58歳で崩御した。定省親王は第59代宇多天皇として即位する。宇多天皇の母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘・班子(ナカコ)女王である。藤原基経の妹の尚侍・藤原淑子(ヨシコ)と親密な仲で、所生の定省王(後の宇多天皇)を淑子の猶子とす
◯上醍醐は、寺務所から醍醐水、清瀧宮、准胝観音堂跡を経た先に薬師堂が存在し、それから更に登って行くと、やっと五大堂・如意輪堂・開山堂の醍醐山山頂に達する。その一番手前に建つのが五大堂になる。◯上醍醐の五大堂前には、次の案内板が設置してあった。五大堂醍醐天皇御願により、延喜七年(九〇七)に建立された五大堂であるが、再建の都度に祝融にあい、慶長十一年豊臣秀頼再建の様式を伝え、昭和十五年に再建されたものである。お祀りしてあるのは不動明王、降三世夜叉明王、軍荼利
平安時代中期へと近づいたところで、再び藤原氏摂関家の系譜へ視点を戻してみたい。藤原時平(トキヒラ)は摂政関白太政大臣・基経の嫡男で、母は光孝天皇の同母弟・人康親王の娘、若くして栄達し、第60代醍醐天皇が即位すると、左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、同時に右大臣に就いたのが、菅原道真である。道真は宇多上皇の側近を引き続き占め、醍醐天皇と時平、近臣たちとの間に対立が生まれる遠因となった。まもなく道真は"宇多上皇を欺き惑わした""醍醐天皇を廃立して娘婿・斉世親王を皇位に就け
日本遺産西国三十三番満願霊場谷汲山華厳寺からのお知らせさくらまつり2024今年も谷汲観光駐車場にてさくらまつりが行われます。日時:令和6年4月7日(日)9時~16時場所:谷汲観光駐車場谷汲踊の上演11時~13時~14時30分~※雨天中止13時の踊り終了後、踊り手さんとの写真撮影会(約15分間)餅まき11時30分~15時~(※15時からの餅まきは「くじ付き」)ふれあい市各種物産販売やバザーなど※天候により内容を変更する
西国三十三番満願霊場谷汲山華厳寺昨日の暖かさで一気に満開になりましたよ参道周辺の山桜が満開です798年に創建、醍醐天皇から寺名を授かり朱雀天皇から国家の祈願道場に定められるなど歴史ある満願札所です*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆今日も命を授けていただきありがとう(^-^)二度とない人生だから今日が大事、今日が大切今日もいい日でありますように【合掌】日本ブログ村に参加していますこちらのバナーをクリックすると大勢の方のお遍路ブログが覗けま
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》759醍醐のみかどかくれ給ひて後(のち)、弥生(やよひ)のつごもりに、三条右大臣に遣はしける中納言兼輔(かねすけ)桜散る春の末(すゑ)にはなりにけり雨間(あめま)も知らぬながめせしまに☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆醍醐の帝が亡くなられて後、三月の晦日に、三条右大臣に詠み贈った歌中納言兼輔桜の散る春の末にはなってしまったことです。晴れる
元慶九年一月十八日(885年)、源定省(さだみ)の第一王として源維城(これざね)が誕生しました。旧暦では、1139年前の本日のことです。※改暦は何度もありましたのが単純に旧暦にあてはめています。臣籍降下していた源定省は2年後皇籍復帰し、父帝光孝天皇の崩御により即位されました(宇多天皇)ので維城も皇族となり5歳の時に親王宣下を受けその翌年には敦仁と改名されました。そして13歳で立太子、宇多天皇の譲位により即位されました(醍醐天皇)。醍醐天皇は、臣籍に生まれ即位された唯一の天皇です。
こんばんは、たかのんです。本日もご覧下さり、ありがとうございます…先ほどは…ついに「あの瞬間」を迎えましたが、皆様、どんなお気持ちでお迎えになられましたでしょうか…?残念ながら僕はすっかりスクショする事だけに(笑)頭がいっぱいで、✨願い事するのを忘れてしまいました…😅(笑)✨願い事が出来た方も出来なかった方も、皆様の🙏願いが無事に叶いますように〜🧙✨✨✨最近の👼ちゃん…⌚腕時計も…🚙車のメーターも…別の🚙車のメーターも…📱携帯画面も…最近の🐲龍神
タタリがスゴ過ぎて神様になった菅原道真菅原道真も「タタリ」がスゴ過ぎたんであとから慌てて「神様」として祀られました。ウソの訴えで左遷され、九州に追いやられた道真、「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」という歌を詠み、遠い九州の太宰府へ向かいました。道真は2年後の延喜3年(903)、太宰府で嘆きながら死んじゃった。道真の死から、朝廷は道真の怨霊に悩まされるようになります。『北野天神縁起絵巻』などによれば、道真が死んでまもない夏の夜、比叡
【食育クイズ:Vol.1549】「京都府」の「13世天台座主、尊意僧正」おさらいクイズ!尊意が道真の怨霊を鎮めた「道真の登天石」がある神社とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)
醍醐天皇(だいごてんのう)885年2月6日〈元慶9年1月18日〉-930年10月23日〈延長8年9月29日〉日本の第60代天皇(在位:897年8月4日〈寛平9年7月3日〉-930年10月16日〈延長8年9月22日〉)。諱は維城(これざね)、のちに敦仁(あつぎみ・あつひと)。60代天皇なのに「だいご」とはこれ如何に?こんにちは。特に醍醐天皇について調べたかった訳ではなくてNHK大河「光君へ」を見てたら道長の奥様の父上の源何某(名前忘れた)が自分はなんちゃら天皇の血筋だぜす
24.01/28.12:53-13:4214:25-15:15京阪三室戸駅から東にJR線路、府道7号線を渡って車道が右にカーブの二股分岐まっすぐ東に、駐車場から左折して三室戸寺山門石段を上って、本堂本尊千手観世音菩薩に納経右となりに、四十八願寺堂親鸞聖人の父「日野有範卿」墓、御廟右となりに奥、浮舟之古蹟碑石碑前に、鐘楼東奥に、三重塔戻って、狛蛇ともいえる「宇賀神」財運・金運の蛇神に見送られ石段を下って、山門を出る入山料払所の前に、新羅大明神明星山三室戸
24.01/21sun.08:00-16:35(丸亀-西梅田)郷照寺78番から県道33号線に戻り、西に大束川、土器川を渡り多度津駅が近づいて予讃線踏みきり手前を左折、門前駐車場から第77番札所道隆寺仁王門正面に奥まって本堂本尊薬師如来に納経手前右側内向きに、大師堂…大師堂の左、本堂の右に、多宝塔大師堂の右前に、弘法大師に衛門三郎の像本堂の左裏に、潜徳院殿堂江戸後期の典医・京極左馬造公の墓所で眼病にご利益があると信仰されている本堂の裏に、愚痴きき地蔵尊飾
1月25日の歴史菅原道真公左遷の日901(延喜元)年1月25日右大臣菅原道真公が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷されました道真公は左大臣藤原時平により陥れられたのです道真は国家の政治を私物化していると醍醐天皇に何度も讒言し菅原道真を大宰府にに左遷筑紫国に流罪とした道真公は自宅の庭に植えられていた梅が咲いているのを見て歌を残しました東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花主無しとて春を忘るな菅原道真は無念を残したまま2年後の903年2月25日に亡く
一旦目3時半に覚め、今朝起きたの7時ちょっち過ぎやったが鼻詰まりしとった。ウェザーリポートの「ヘヴィー・ウェザー」をレコードで聴いた。朝食は山形産つや姫でご飯炊き、卵2つの目玉焼きでご飯一膳半。デザートは熊本産トマト。伊藤志宏→若井優也→中島徹→松本全芸→武本和大と、これ迄ライブ聴いとるピアニストをユーチューブで聴いた。筋トレ20分し体温めてから外出。昼食に西浅草「フルールドサラザン」に行った。頼んだんは黒ランチで、福井サーモン玉子・チーズ・生クリーム・わさびのガレット1780円
903(延喜3)年2月、菅原道真は都からはるか西の大宰府で死んだ。宇多法皇は、醍醐天皇と藤原時平の新政権に遠ざけられ、真言宗の阿闍梨として仏道に傾斜してゆく。時平ら藤原氏は、基経以来のわが世近しと欣喜雀躍していたことだろう。しかし、現代からみればバカバカしいことかもしれないが、ひとりの男のタタリが平安の世を不安のどん底にたたき落としてしまう。菅原道真道真は死の直後、神号を得て神となっていた。徳川家康が死んで東照大権現という神になったように、道真は天満大自在天神という神になった。いま
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》718延喜御時、屏風歌紀貫之祈りつつなほ長月(ながつき)の菊の花いづれの秋か植ゑて見ざらん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆延喜の御代、屏風の歌紀貫之仏に長寿を祈りながら、なおそのうえに、長寿を願う九月の菊の花よ。いつの年の秋に、植えて見ないことがあろうか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》717題知らず藤原興風山川(やまがは)の菊の下水(したみづ)いかなれば流れて人の老(お)いを堰(せ)くらん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず藤原興風山川の菊の花の下を流れる水は、どうして、流れながら、人の老いを堰き止めているのであろうか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
『愛国百人一首』の選定された25首目は菅原道真です。ここから平安時代(前期)の歌で、あの有名な「東風吹かば・・・」とは異なる歌が選ばれています。(著者所持の『愛国百人一首』の菅原道真の絵札)海ならずたヽへる水の底までも清き心は月ぞ照らさむこの歌は、901(延喜元)年の醍醐天皇時代に詠まれた歌です。歌の意(こころ)海だけでなく、たたへる水の底の底までも、その水の澄み
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》715延喜御時、屏風歌紀貫之年ごとに生(お)ひ添(そ)ふ竹の代々(よよ)を経(へ)て変らぬ色をたれとかは見ん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆延喜の御代、屏風の歌紀貫之年ごとに生え加わる竹の、代々を経て変わらない色を、誰と見立てようか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴
◉宇多天皇・藤原氏に吹くすきま風余ら父子がともに皇位を得る運命になったのはすべて大臣(基経)の力による。いのちある限り、決して忘れてはならぬ。光孝天皇は息子・源定省にそう言った。奇跡の皇籍復帰のすえ、宇多天皇となることができたのは基経のひとことに尽きる。宇多は基経を憚ることが甚だしく、次のように勅した。万機巨細、百官己れに総べ、皆太政大臣に関(あずか)り白(もう)し、然る後に奏下すること、一に旧事の如くせん関白という言葉が歴史にあらわれたはじめが宇多のこの勅旨である。
『脱亜論』という福沢諭吉の卓論があるが、私にはよくわからない。日本が独立を達成するには,西洋文明を導入してアジアなるものを脱却し,列強から存在を認められるようになる以外にない。ということらしい。日本はアジアにあってアジアではない。と言ってしまうと語弊があるだろうか。ただ、アジアの巨大文明国である中国の隣にあるという地政学上の宿命を抱く日本が、その影響をつねに受けながら、その都度、車が脇道にそれるように異なる独自の進展を遂げてきた。その脱亜の祖型が、平安時代にあるように思える。6
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》712延喜(えんぎ)御時、屏風歌紀貫之木綿(ゆふ)だすき千年(ちとせ)をかけてあしひきの山藍(やまあゐ)の色は変らざりけり☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆延喜の御代、屏風の歌紀貫之木綿だすきを掛け、山藍染めの衣を着てお仕え申しあげる、その衣の山藍の色は永久に変わらないことだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『まんが日本史』で、太政大臣から人臣初の摂政になった藤原良房のその陰謀劇を描いた回がヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想(『まんが日本史』より、タイトル画面)良房の子の基経、その子の時平、忠平らによる他氏排斥が菅原道真の配流により完成するというのがポイントレビュー悲劇の主人公、菅原道真(『まんが日本史』より、菅原道真)菅原道真に反発を感じ、道真排斥に成功する藤原氏藤原基経(前作の良房の子)、その子の時平をはじめとする藤原三兄弟(『まんが日本史』より藤原基経とそ
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》676延喜御時、「歌奉れ」と仰せられれければ紀貫之雪のみや降りぬとは思ふ山里(やまざと)にわれもおほくの年ぞ積れる☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆延喜の御代、天皇が、「歌をさしあげよ」とお命じになったので紀貫之雪だけが白く降り積もって、古くなったと思おうか、そうは思わない。わたしも、白髪が増えて、多くの年が積もっていることだ。☆☆☆