ブログ記事3,460件
本当に桜が咲きませんね~まあ昔に戻ったと思えばいいんですけどね~ということで春の天気の良いお蔵入り寸前の逗子マリーナと由比ヶ浜をお届けしますいつもの逗子マリーナに続くトンネルからスタート!春の海は海水が綺麗ですね~材木座方面を望みます!由比ヶ浜と手前は日本最古の築港遺構「和賀江嶋」です!以下Wikiより転載和賀江島(わかえじま/わかえのしま)は相模湾東部に位置する人工島。和賀江嶋、和賀江の築島[1]ともいう。国の史跡に指定されている(指定名称「和賀江嶋(わかえのしま)」)。鎌
後編では地下壕Bと砲座Bを見ていきます。まずは配置図です。前編でも書きましたが、現地ではGPSの精度低下で正確性を欠きましたので、上図はあくまで参考程度と言うことで。洞窟砲台構築に至る経緯や場所は下記リンクをご覧下さい。◆下関要塞の本土決戦準備→→→砲座Aの坑道入口から南東に上がっていくと、地下壕Bの入口があります。入口は奥ですが、石垣で道筋が出来ています。入口です。半ば埋まっていますね(^^;)入ってみましたが、しばらく進むと行き止まりでした。写真は行き
その4では基地南部に設けられた隧道を見に行きます。昭和19年(1944)半ば以降、空襲対策として基地南北の山あいに隧道を構築して燃料や弾薬などを分散配置しました。北部の隧道群は未確認ですが、南部の広末隧道/赤幡隧道は現存しています。***************************まずは広末隧道から見に行きます。この名称は戦後に書かれた『明細目録』に記載されていますので採用しましたが、築上町では「広末弾薬庫倉庫壕」と紹介されています。この山の麓にいくつもの坑口を持
大東亜戦争末期、北九州市小倉南区曽根に陸軍の飛行場が建設されました。場所はこちら。大東亜戦争中、北九州・関門地区の防空は第19飛行団(のち第12飛行師団に改編)が担っていましたが、航空基地増強のため、水田79ha余、塩田64haを買収して、昭和18年(1943)4月より曽根飛行場の建設が開始されました。昭和20年(1945)2月から第70独立整備隊、4月には第80飛行場中隊が学生などの勤労奉仕を得て鋭意建設に務めたものの、終戦までに完成しませんでした。(昭和19年9月に建設したとの
薬師山砲台は、函館山最高峰の御殿山ピーク(標高334m)から北東にやや下がった標高250m付近に位置しています。地図で場所を示します。なお矢印は射撃の首線となります。御殿山第一、第二および千畳敷砲台が湾内~津軽海峡に向けての海上射撃を行う海正面砲台だったのに対し、薬師山砲台の射撃の首線は後方にあり、函館港内および地峡に広がる函館市街地に敵が侵入した際にはこれを射撃し撃退することが任務でした。陸正面防御の要素が強いので砲台と言うよりは堡塁と呼んだ方がしっくり来ますが、実際史料には「薬師
さて、続いては中山地区に炭鉱調査へ入る。こちらも鞍手郡の中心部でかなり整備されてます。こちらも、三菱他、(第二会社か祖鉱区か)京ノ上、松尾、中ノ屋敷、武内、土与丸、丸森、石ヶ崎などの炭坑が操業していたようだ。先ず旧山ノ神下広場に、明治22年、河村純義の名義の植木、中山、新入、猪倉、木月を三菱社が買収したとある。昭和25年に本社直轄になり各炭坑の名を鉱業所と改めた。先に、第六坑をと思ったのだが何故か第七坑へと向かった。炭鉱住宅の付近に差し掛かった時町誌に載っていた
【23年12月3日探索・24年3月17日公開】現在地はこの辺神奈川県南足柄市大雄町県道723号関本小涌谷線だ。県道は600mほど進むと大雄山最乗寺になり、通行不能区間になって山越えとなるんだが、本日の目的はここを左折する。2018年に行った第1次探索だが、画像が失われている(FC2の別館の記事はあるが)ので、今回は下から辿ってみようというのが趣旨になる。すぐに未舗装になったのは林道明星線だ。林道はこの後左カーブになり大雄川を渡るんだが、私はその右の方に行く。
【23年12月3日探索・24年3月20日公開】現在地はこの辺4番目の支柱を後に、さらに先に進む。基本、道があるわけではないので、索道の主索(ワイヤー)は目的の場所を見失わないようにするための重要情報だ。しばらく進んでいくと、木々の向こう側に次の支柱が見えてきた。先ほどの支柱の次がこれかと思うほど、その高さは全然違っていた。5番目の支柱は目測だが4番目の3倍くらい違うのではないだろうか。場所を確認しておこう。この谷沿いに進んでいくんだな。
下は昔の弾薬庫専用線の廃線跡です。猪熊隊員、本日デビュー‼️山田緑地は、昔は弾薬庫がめちゃくちゃありました。今夜のYouTubeで詳しくお伝えします。今日は、スペシャル隊員ばかりが集結しました。こんな静かな場所に、大量の弾薬庫があったなんて、、、本日のメンバー吉森隊員、のぶ隊員、秋山隊員山形隊員、金丸隊員、猪熊隊員はしゃぐ吉森金ちゃんも。この二人はかなりマニアックです。さ、森の中へ進みます。戦中からあったと思われる橋弾薬庫。この敷地内、150近い当時の建物や、
神ノ島高砲台は、長崎湾口北側に位置する神ノ島に設置されました。地図で場所を確認します。砲台の履歴です。◆起工:明治31年(1898年)4月19日◆竣工:明治33年(1900年)3月31日(?)◆備砲:28㎝榴弾砲8門(明治34年7月備砲完了)◆標高:78m(砲座位置)◆経過:・明治37-38年(1904‐05年)日露戦争で動員下令・大正8年(1912年)要塞整理にて6門編成となる・大正12年(1916年)要塞再整理要領にて4門編成となる・昭和11年(1925年)
2021年5月8日に書換を行いましたので、下記リンクをご覧ください。『徳山海軍警備隊探訪㊼~大津島防空砲台-書換-その1(兵舎)』前回大津島の発電所を取り上げましたが、ついでなので昨年7月に書いた防空砲台に関する記事を書き換えることにしました。新たに撮影した写真を掲載するわけではないので…ameblo.jp以下、旧記事となります。※2020年10月28日、配置図掲載により書換え◆砲台名:大津島防空砲台◆竣工:昭和16年2月◆装備(引渡目録より抜粋):12.7cm
光海軍工廠は光市の光井・島田地区に建設された国内7番目の海軍工廠で、大東亜戦争開戦前年の昭和15年(1940年)10月1日に開庁しました。海軍の兵器工場として、砲煩、水雷、製鋼、爆弾、造機、航空機用魚雷の生産が戦時中においても着実に行われていきましたが、終戦前日の昭和20年(1945)8月14日、米軍の空襲によって施設の7割が壊滅し、700人以上が犠牲となりました。場所を地図で示します。茶臼山から見た光海軍工廠跡地です。戦後跡地には日鉄ステンレスや武田薬品などの工場が建設されました
「足立山高射砲陣地」は、門司から小倉に至る企救(きく)山系の足立山西側、標高442mピークの山頂に構築されました。現在のピークの名称は砲台山ですが、企救山系を縦走する登山ルート上にありますので、訪れる登山者も非常に多い場所となっています。場所の地図はこちらのリンクにて。『北九州の防空①~概略』本日から新しいカテゴリーを投入します(・∀・)大東亜戦争3年目となる昭和19年(1944年)に入ると、米軍機がインドを経由して中国大陸に進出してきました。中…ameblo.jpそんなメジ
【23年12月3日探索・24年3月18日公開】現在地はこの辺反対側のワイヤーがアンカーで固定されている1本目支柱を上側から写した。アンカーで留められた理由は、おそらく下部駅の場所が駐車場兼公園として整備されたのだろう。で、アンカーで留められたという事は索道としてはもう機能しない事を意味している訳だが、なぜワイヤー自体は外されていないのだろうか?上に向かって進んでいくと程なく2番目の支柱が見えてきた。2番目の支柱だ。スキー場のリフトくらいの支柱だが、人は運ばれて
【23年12月3日探索・24年3月22日公開】現在地はこの辺9本目の支柱を探すため、頭上のワイヤーを見ながら先に進む。進むのはいいんだが、本日の天気予報でもまったく触れられていなかった、強風がすさまじくなってきた。現在地の標高は約550m、この先の目的地は700mを超える標高になるので、この先が不安になってきた。ともあれ9本目の支柱が見えてきた。9本目もまた低い高さのものだった。10本目に向かって進む。何とか下部軌道の上側駅まで行きたいが、そんな
【23年12月3日探索・24年3月21日公開】現在地はこの辺6番目の支柱を後に、さらに山を上って行く。少し上っていたら林道に出た。林道大日陰線というピストン林道だ。明神ヶ岳方面へのハイキング道は林道を横切る。道、いやに荒れているな。次の支柱はハイキング道からそう離れていないはずなんだが、それっぽいものが見当たらないので、この辺で右に入っていく。30mくらい進んだだろうか。主索のワイヤーが見えた。どうも少し上まで来てしまったようだ。
前回まで淡路島南東端の紀淡海峡に面した由良地区を探訪しましたが、今回は南西端の鳴門海峡付近に移動します。明治期に入って全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、大阪湾や瀬戸内海に通じる紀淡海峡及び鳴門海峡を閉塞して敵艦の侵入を防ぐべく立案されたのが「由良要塞」と「鳴門要塞」でした。淡路島側の門崎と四国・徳島県側の孫崎とを結ぶ鳴門海峡最狭部の幅は約1,300mですが、鳴門のうず潮の影響で航行の難所となっており、可航幅は500mに満たないと言われています。た
北の丸と本丸を結ぶ架け橋が発掘調査で確認され復元されました400年前の遺構がそのまま復元されて石を使わない土だけの山城はとても珍しい山城です現在は型崩れ防止の為に芝生が張られていますが本来は関東ローム層(赤土)がそのまま露出し滑りやすく登り難い造りになっていました。
守谷市で遊んでいます守谷市と言えば・・・そりゃあもう、見どころ満載と言うことで・・・電車見に来た守屋駅ですこちらはJR守谷駅おっとぉTXだぁそして隣には関東鉄道の守谷駅関鉄がんばれローカル線いいぞ!さて城址目指して行きましょう守谷森林公園その前に
山口県鉱山調査は、中央部から海岸線を北部へと向かいます。萩市から西部に下る。調査も県外となると資料探しや地権者さん、地元役所などとの話しで時間がかかった。とりあえず最初は萩市の三見へ。三見に到着すると三見からさらに奥へと入って行く。進んで行くと青長谷という地区に出る。思い切り海岸、鉱山といえば山の奥深い場所というイメージだったのでこんな所に鉱山跡があるのか?と疑ってしまう。周囲を見渡すとちょうど畑に人影が…家もないのにこんな所に畑がせっかくなので聞き取り調査も
おはよう御座います。ツルハシです。さて、今回はと言いますと長崎県の知り合いから連絡があり、「栢木炭鉱が大事になっとります!」内容は、以前に炭鉱調査へ入った長崎県松浦市旧栢木炭鉱の坑口が土砂崩れによって崩壊しているとのことでした。周囲の詳細な確認をお願いしたところ扁額が埋まらず坑門から剥がれ落ちていると報告を受けた。崩落前の坑口崩落前の写真2この坑門に埋め込まれた扁額が…このように1つ1つバラバラに散らばっていたとの事でした。坑門は、完全に崩れて土砂に埋まっていたと聞いた。
はい、こんにちは!ご無沙汰しております鶴嘴屋のツルハシです。実は、昨年末から持病の心臓疾患が悪化して毎年恒例の年末年始鉱山調査を中止いたしました。しかし、年が明け何とか歩けるまでに回復いたしました。昨年に山口県美祢市の旧吉部鉱業所美祢炭鉱へ伺った時の話しだが地主さんが美祢炭鉱の事務所を解体するとの事で看板を寄贈という話しは前回したと思います。その時に配置図や図面、書類等も寄贈していただいた。その中に旧東吉部鉱山の名が書かれていた。昭和42年に作成されたものであった。鉱種名、鉄
筑西市国指定文化財になっている関城跡に来ています八幡神社からさらに歩いて遺構を探しています庚甲塔浅間大神等々たくさん置かれていますこの辺りも土塁でしょうか近くに点々と石仏も置かれていました通りの名前も関城通りださらに歩くと石碑がありました関宗祐父子墓案内板付きで
明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、長崎港ならびに港湾内の造船所など重要施設の防御を担うべく立案されたのが「長崎要塞」でした。長崎港は安土桃山時代から内外貿易の要港です。江戸末期には長崎製鉄所が建設されましたが、これがのちに三菱重工業長崎造船所として発展し、大東亜戦争までに軍艦を始めとして数多くの艦船が建造されました。軍港を防御す
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司×]火ノ山砲台*:[概略][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山×][龍司山*]
山口県山陽小野田市、炭鉱の共同浴場が残っていると聞いて向かう事にした。現在そこはゴルフ場になっているようだ。昔の航空写真を見ると陸地から沖の島まで長い長い桟橋が伸びる、坑木置き場らしき場所や多くの長屋らしき建物も確認できた。さて現地に到着。高台から海岸を覗くと、こんなにギリギリな所に共同浴場がある事に驚いた。オーシャンビューですね、湯槽は3つ1つは、かろうじて立っていた、しかし基礎の柱は残っていますが中の土砂は流されています。台風や悪天候の時はモロに波をうける
今度は嘉麻市旧筑紫炭鉱跡地へと向かう。林の中に遺構が残っているようで現地調査を行う。(昭和49年の航空写真)林の入口、台座でしょうか大きなボルトが確認できます、周辺にも遺構が、ポケットかと思いましたが下部に開口部が確認できないためにタンクであろうと推測する。奥には、これもまたコンクリート製円形の遺構。振り返ると、台座のような遺構があるのだが…これは凄い!内部です、内部は複雑な形をしています。周辺に石炭や煉瓦も転がっています、この遺構の真上にも、太いボ
境町に来ています次に来たのが長井戸香取神社長井戸城跡でもあります遺構を見ることができるのか・・・こちらも広い境内です創建は不詳のよう長井戸城跡に移築されているよう創建は不詳ですが宝永3年の記録も残っているそうです先へ進みますいつのものか・・・寛政文化天保文久
【問題】平戸城(長崎県平戸市)に残る、全国でも珍しい遺構とは次のうちどれか?【選択肢】二等辺三角形の井戸海中の曲輪版築の鉢巻土塁石の狭間【正解】石の狭間【解説】通常、城の狭間は城外の敵を狙うために塀や壁に穴が開けられるが、平戸城には石垣の中に開けられた珍しい狭間が残る。狸櫓の付近でその姿を見ることができる。
『象の鼻防波堤』という場所がありました。(^^)1859年(安政6年)、横浜港が開港。像の鼻地区は、横浜港の発祥の地です。(^∇^)大さん橋の付け根から、左手方向へ延びているのは「象の鼻」と呼ばれる防波堤。(^^)横浜港開港150周年にあたる2009年(平成21年)に明治期の防波堤が復元され、象の鼻パークとして開園した。(*^o^)/\(^-^*)明治期の姿に復元した防波堤や港を見渡すことのできる芝生の丘など、歴史と景観を活かした緑地で、夜は魅力的な夜間景観を演出しています。向こうに