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おはようございますツルハシです。間があきましたが今回も京都府の旧鉱山調査の記事になります。さて、続いて訪れたのは、京都府福知山市大江山。ここは、旧河守鉱山跡。現在は、鬼の里に変わり大江山グリーンロッジという施設となっている。ここは、昔酒呑童子の根城と言われていた山。酒呑童子の目に余る悪行に995年(長徳年間)平安時代源頼光四天王が酒呑童子討伐に向かう。その時に神からもらった神便鬼毒酒という毒酒を酒呑童子に飲ませ動かなくなったところを討伐したという。酒が好きなところから酒呑
前に探索しに行ったけどイマイチ場所がわからなかった八塩鉱山を発見したので、行き方も含めて書いておこうと思う。まずはナビを八塩館(藤岡市浄法寺127)にセットして、八塩館が右手側に来る様に走って行くと非常にわかりやすい。まず道路から弁天山ハイキングコース&駐車場の看板があるので、これが見えたら山の方に入って行くと良いぞ。但しここに車を停めてしまうとやたらと歩くのでまずはそのまま進んでしまおう。この赤い矢印の方に行く感じで進んで坂を登ると、少し道が細くなって不安になるけどそれでも構わず進むべ
西進さん@XYl5sn#マッドフラッド三井本館日本銀行の隣です。ドアの高さが歩いている現代人と比べると2倍以上あり、また4本の柱が寸分狂わず同じです。高い建築技術が必要で、江戸末期から明治に造れると思えません。日銀や三越本店と同じ、高度な前文明遺構で、取り壊さず残してくれたことには感謝しています。*タルタリア建築、と言っていいのか、威容を誇る外観ですよね。3D技術かも知れないですね。エルミタージュ?美
県庁所在地の大津市。宿場町でもあり明治以前より4箇所の遊郭があった。その中の2箇所上柴屋と下柴屋と呼ばれた長等商店街に隣接した柴屋町遊郭。ここは滋賀県で一番有名だと言っても過言ではない遊郭があった場所。Googlemapでも水月楼と名前がでてくる。遊郭は経営者がよく変わるので時代によって楼名がちがうのもよくある話です。しかし私が訪れた6月またしても1ヶ月ほど前に解体されたであろう更地に。全国の遊郭ファンの間では知らない人はいないであろうこの遺構。見ることができず。幸
手元の資料を見返すと三波川村(現在は合併により消滅)と日本ニッケルの間に締結された約定書類にはこう書かれている。「甲ハ乙ノ選鉱場用地トシテ字雲尾部落ノ土地売渡及ビ家屋移転並ビニ之ニ附帯スル事項ヲ斡旋シ附近村有地内一定区域ヲ限リ乙ニ貸与スルモノトス」雲尾のニッケル鉱の項目に出ている事と地図から割り出した場所からしてもやはり多野鉱山で間違い無かったようだ。更に読み進めて行くと日本ニッケル株式会社多野鉱山と普通に出てたwwwカタカナと漢字だとついつい飛ばしがちになっちゃうけどちゃんと隅々まで読
果たしてこのマニアックな産地に訪れる人がいるのだろうか?と言うより他の鉱山に比べて栃木はマニアックな所が多い気がするのは気のせいなのか?到着した時には既に16:00…ッッ!!本来ならばその時間から山に入るのは無謀!それでもせっかく来たのだから行くしか無いだろうwwwこの鉱山は恐らく最近人が入ってない様に思える。林道に道を塞ぐ様に木が倒れておりちょうど良く通れない感じになっていたからだ!それを長永さんがどかしwww車で走るも下がガレていて危険!ジムニーなら難無く入って行けるだろうが、パ
電波がないなら電波のある場所に行けば良い。そう考えたか~み~は取り敢えず尾根を目指した。それこそいつもの様に無理矢理斜面を直登するのだから、チャクラを大幅に削られる。恐ろしいのはそのヌチャヌル度合いである!!本来あるべき姿のふかふかの斜面は…ッッ!!ローション坂48へと姿を変え…ッッ!!か~み~をスリップ地獄へと嵌らせた!!一方その頃だみやんボーイは…。ムレムレの湿気地獄の中、か~み~の到着があまりに遅すぎる為怒りがピークに達していた!!以下は下山後に聞いたその時のやり取りである。
何気に結構前…確か二月だったかな?奥・奥多摩鉱山を攻め終わって時間が余ったので、洞窟にでも行ってみるかって話になったんだ。場所が奥多摩だから言わずもがな洞窟がわんさかあるのはケイバーには常識である。とは言っても一般の認知度はほぼ皆無…ッッ!!何気に奥多摩で洞窟はこの日のちょうちん穴が初めてで、何となく地図にアタリをつけておいたので正直自信はなかった。現地に到着し素早く装備を整えて石灰岩がある所へと進んで行く。実は当初の目的はちょうちん穴の近くにある聖穴に行こうと思っていたのよね。それ
というわけで、柿生駅南口へ。ここには、バスターミナルの「残骸」があります。写真中央の上屋があるところがそう以前の川崎市バスと東急バス、小田急バスもですが、ここから発着していました。言うまでもなく、駅にはこちらの方が近いのですが、なぜこのバスターミナルが使われなくなったのかは、ここに達するアプローチ部分としての道路が狭隘で交通量が非常に多く危険なことでした。かつては、ここへのアプローチ部分には誘導員が立っていて、バスを誘導したり歩行者や他の車を止めたりしていたそうです。↑の写
ここは広島県福山市加茂町岡山県の県境くらいまで来たのではないだろうか?ここまでの道はあまりにも危険過ぎた舗装されている事だけでも助かったが一時タイヤが半分谷側にはみ出た所もあった。動画もこういう撮影をすれば緊迫感が伝わるかと思ったがそれを実行していれば今頃は谷底に落ちていた可能性が高い…こんな看板があちらこちらにある。前回の旧鉱山跡から比べ辺りの雰囲気が様変わりした。かなり山奥に入ってきたという事もあり人の気配というか人工音が全くしない。耳に入るのは風音、そして
近鉄の株主優待券があったので、それを使用して遠征を思い立ち、約25年前に訪城した「長島城」「高須陣屋」「今尾陣屋」へ、11月18日(木)に再訪することに決め計画を練りました。ただ、「高須」と「今尾」をどのようなアクセスで廻るかがポイントでしたが、海津市のコミュニティバスを如何に巧く乗り継ぐかを時刻表を細かく探しながら見つけることが出来ました。1日に数本しかないバスでしたが、見つけた時は凄く嬉しくて、その3城に行くことを決断しました。近鉄の優待券は遠征する方がお得で、特急券を購入
先日、八瀬の花尻の森に伺った帰り道、ケーブル八瀬駅にも立ち寄った。少し前に知った八瀬もみじの小径、早くも新緑の季節。ところが少し様子が変わっていた。橋などが手入れされ、枯れていた人口の渓流にも並々と水が注がれ、滝も復活していた。元々この場所にはお寺か屋敷が建っていて、その庭園の遺構がそのまま残っていると聞いた事があった。最近のSNS効果で紅葉期には沢山の人が訪れるようになり、新たな紅葉名所として動き出したのか、かなりほったらかしだった山肌に足場が
国内最大級のダム事業として2000年に完成した宮ヶ瀬ダム。宮ヶ瀬ダムによってできたダム湖の下にも村が沈んでいる。補償が決まった時、その代償として多くの村人は〝家焼き〟を受け入れた。移転する厚木市中荻野の代替地に新築を建てながら、一方では長年住んだ宮ヶ瀬村の家を自ら壊し燃やさなければならなかった。柱や家財、畳を1週間かけて灰にしたと言う。行政は随分と残酷なことさせたもんだ…渇水時に時々顔を出す村の一部。道路や橋、標識・・・中でも珍しいのが、ダム湖に沈んだ滝だッッ!!!実際は村から
[津軽要塞]88式海岸射撃具演習砲台北海道函館市函館山起工:不明竣工:昭和3年(1928年)以降備砲:改造38式野砲標高:294.5メートル観測所:遠距離電気式(新設)任務:(御殿山第1/第2/千畳敷共通)其の全周囲を射撃し互いに協力して敵艦を遠距離に扼支し以て其の砲撃に対し勉めて函館港内を掩護するに在り出典:国土地理院1948/05/22(昭23)USA-M1077-112、抜粋・加工88式海岸射撃具観測所は、観測具で観測したデータを計器盤と算定具を用いて
北野新地は1858年大須観音の北野神社のあたりを中心にできました。明治7年に堀川の以東5ヶ所に移転。以後大須界隈の遊郭を旭遊郭と呼ぶようになりました。全盛期の明治41年貸座敷173軒娼妓1508人と大規模な遊郭になりました。明治以降遊郭を貸座敷と称してます。大正12年中村大門に移転。昭和20年の名古屋空襲にて大須観音の本堂をふくめ一帯を焼失しました。しかし伏見通り西側の一画の一部が消失を免れ当時の痕跡を今もなお見つけることが出来ます。北野神社の玉垣には当時奉納された楼名が記さ
今日は、飯塚市庄内町にあった炭鉱を調査いたします、(旧赤坂炭鉱全景)操業時の写真、煙が立ち込める様子がわかる。大きな炭鉱施設そして高い煙突何故かジブリの映画に出てきそうな雰囲気である。航空写真では、(昭和49年の航空写真)積込場の遺構や選炭施設が確認できます。このY字の道は現在も通行できる。赤坂団地裏側の道、道沿いを歩くと。巨大な遺構が薮の中に残っていた。一日目には地主さんと連絡が取れず、二日目やっと地主さんと連絡が取れ敷地内に入る許可をいただいた。あ
【2】より続く。現れた、第三の橋梁。これまでと違い、中音水川の本流を渡る橋梁である。正対して見ると、渡河した先で、路盤はググッと左に曲がっていくのがわかった。そしてお気づきだろうか、桁のIビームもわずかに曲げてあるのが。これは面白い!念のために申し添えておくと、上流は写真右側。よって流されてきた岩などで曲がったわけではない。なんだろう、あそこから少し曲がり始めないと路盤の曲線と合わせられなかったんだろうか。めっちゃ気になるわ~。現地でもこれは盛
先日まで篠栗町の現場で工事を行っておりましたが休憩中に工内で気になる石を多く発見。これは…ここはボタ山だったか?現場の向かい側の山も、…おもいっきりボタ山。向かい側は津波黒地区。津波黒、津波黒…あっ、なるほどね。仕事中に向かう事はできないので休みの日に行く事にした。向かい側の山が気になった理由はユンボが山を削っているので何かしらあるのではないかと思った。現地へ向かうとこのような巨大なコンクリートの物があった。見る限り骨材にはボタ、仕切りが二層三層あった面
【22年12月4日探索・24年4月19日公開】現在地はこの辺尾根筋まで上がってきた。この先、道なり方向には赤い看板があった。道はこの先に延びているし、私は過去にこの先にも行った事があるんだが、以前はこんな看板はなかったぞ。あんな真新しい看板を見たらその脇を抜けて先に行く気にならないので、振り返り方向の道を進んでみよう。車道ではない道が続いていたが、秩父ファミリーパークとは無関係と思われた。この先20m地点に何かがあるのがちらっと見え
ここ最近下関要塞の記事書き直しが多いですが、今回は2年前にレポートした角島砲台の記事をあらためて書いていきます。まずは昭和期の下関要塞配置図で場所を確認します。角島砲台の履歴です。◆起工:昭和14年(1939年)7月1日◆竣工:昭和15年(1940年)9月26日◆備砲:ラ式十五糎加農4門(昭和16年6月備砲完了)◆設置標高:60m/63.5m◆任務:角島西北方海面における敵艦船の航行妨害、敵軽艦船(潜水艦)の攻撃に対し我が輸送船の海上交通を掩護する◆特記:砲台西南方の標
後編では矢印の所から北に進みます。砲座の北側には円形窪地がまとまって築かれていますが、これらは射撃時の指揮/観測や平時の見張を行う掩体群で、測距儀、高射装置、望遠鏡などが置かれました。ただ、この周辺からシダが濃くなってくるので思うように遺構確認ができなくなります。写真を載せても被写体がシダになるだけなので(笑)、見て判別できる掩体だけ掲載します。1つ目。なお、この掩体の谷側は石垣で補強されています。2つ目。3つ目。指揮/観測掩体群から尾根上のシダを漕いで進む
2019/5/3訪問前編はこちらかなり歩いたせいか、思いのほか疲労を感じながら探索を続ける・・・では次は職員室を覗いていこう。先程の図書室同様に床の傷みが激しい状態で、立ち入るのは危険なようだ。パソコンなどの備品は荒らされることなくきれいに残っていた。隣の教室は机の上に書籍が沢山積み上げられている。ここは他の部屋の中でも一番傷みが少なかった。
戸山公園で秘境感を探した続きですが昨日の記事をアップした後、少し言葉が足りなかったかなと反省しました。というのも新宿区民になって3年余り。一歩ずつお散歩のエリアを広げて戸山公園にも来ていました。ただ、いつも河田町方向から来て箱根山の周囲を歩き、坂を下って梅林やバラ園を見るなど決まった場所しか歩いていなかったので反対方向(明治通り)から広大な団地である戸山ハイツの規模にとても驚いた、という経緯があるのです。なので戸山ハイツを抜けた低地の広さにまたビックリ!そこから何度も来
1868年、王政復古の大号令に伴い新政府が誕生しました。その後、新政府軍は旧幕府軍を中心とした反対勢力と戦いましたが、明治2年の五稜郭陥落をもって戊辰戦争は終結し、これ以降明治政府は本格的に国の改革を進めていくことになります。蝦夷地は北海道と改称され開拓使が置かれました。設置当初の軍事力は僅かなものでしたが、屯田兵設立からの第七師団創設により常備軍隊が充実されていきました。このような中で函館では、日清戦争後の明治30年(1897年)前後から陸軍の施設が増加することになり、明治30年11月
牛久市のお目当て小坂城跡に着きました公園になっています整備されていると案内板があるのでわかりやすいです結構大きいな小規模な城だったと思うがこう見ると広いわ他がもっと大きいってことかしらね小田氏から分かれた岡見氏が築城さすが城登るんじゃ~整備されているから上りやすいんだがやはり・・・きついわぁあ
所在地〒403-0032山梨県富士吉田市上吉田特徴市街地の丘陵に残る城郭遺構で、バリケードを進むと主郭には瓦礫が積み上げられている。主郭の奥に大きな土塁があり、その先に連郭式の遺構が残る。感想しかし、縄張りは単純で残存度合いも低い。
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司×]火ノ山砲台*:[概略][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山×][龍司山*]
函館要塞で築造された低地観測所は3か所ですが、立待、穴澗は既に紹介しましたので、今日は3つ目の高龍寺山低地観測所をレポートします。地図で場所を示します。赤色が低地観測所の位置となります。◆起工:明治35年(1902年)9月11日◆竣工:明治35年(1902年)11月10日◆観測所の数:御殿山第一、第二砲台用に各1基函館要塞の概略はこちらをご覧ください→→→立待と穴澗の低地観測所は千畳敷砲台用も設けられたましたが、高龍寺山にはありません。おそらく千畳敷砲台が北側への射撃を
タイトルにある通り残念ながら林道工事により産地が消滅した…。実は前回訪れた時にほぼ消滅しかかってたんだけど、心の中ではまだ大丈夫だろうと油断していた。本来ならわざわざ行かなくても前回で終わりにすれば良かったんだろうけど…この産地には非常に強い想い入れがある。梅田鉱山はか~み~が初めて水晶を採った場所でもあり、鉱山デビューした始まりの場所でもあるのだ…ッッ!!その思い出の地が無くなってしまうんだから最後に一度見ておきたかったってやつだ。過去ネタは↓から!梅田鉱山①梅田鉱山②梅田鉱山
男鹿高原駅の駅ノートを描いてから向かったら、待ち合わせの時間から一時間が経過していた。だがこれは決して遅刻ではない!!か~み~WORLDと彼等のいる世界の時差は…約二時間!すなわち一時間前行動をしているのであって!実質偉いのだ!何ら気にする必要はない!!そんなこんなで入山料を払い装備を整えたら状況開始…ッッ!!だみやんボーイから送られて来た地図を元に、山の中で彼奴(with2740さん)と合流だ!!蛍鉱山と言えば石マニアには相当有名らしい。とは言っても石より穴に入れさえすればボクちゃん