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西鉄ライオンズホーム用・ビジター用1954年途中〜1959年、1960年〜1961年、1962年~1965年※今回は1954年途中~1959年までを中心に語ります。略年表1954年《ホーム・ビジター共通》日本シリーズから採用される。また、この日本シリーズだけNLマークの紺地の帽子を着用される。1958年ビジター用のみ胸ロゴがNISlTETUからFUKUOKAとなる。1960年《ホーム・ビジター共通》帽子のマークが花文字のLマークに変更。左袖に番号がつく。ともに1961年まで。
高倉照幸1934年12月8日~2018年2月12日福岡県北九州市出身右投右打、外野手。◎願書提出の遅れが生んだ野球人生。高倉照幸は1934年、福岡県北九州市で誕生。戦時中に熊本県へ疎開し、父の経営する鉄工所の影響から熊本工業高校を志望するが、願書の提出期限にわずか2時間遅れるという失態をした。しかし高倉は動じることなく熊本商業高校へ進路を変更。1951年、春の選抜に出場した高倉は、準々決勝で敗退したものの大会唯一の本塁打を放ち、その名を全国に知らした。卒業時には
河村英文1933年8月30日~2005年2月16日大分県出身右投右打、投手西鉄ライオンズの黄金時代を語る際、稲尾和久の名が筆頭に挙がるのは必然ですが、その稲尾が登場する直前、チームを初のリーグ優勝へと導いたのが河村英文です。「シュートの河村」として恐れられ、後に名コーチとしても足跡を残した野球人を振りかえる。◎期待されなかった入団から「25勝」の快挙へ河村英文は別府緑丘高校で名将・小嶋仁八郎の指導を受け、社会人の東洋高圧大牟田を経て1953年に西鉄ライオ
ひとつ前の当ブログでちょっと触れた、1960年代掉尾の西鉄ライオンズを中心にした「黒い霧事件」について、2023年4月28日に書いた「『黒い霧事件』に巻き込まれて、球界を追放されてしまった稀代の名投手・池永正明さん」を以下に再録します。***このところの当ブログで、昨年2022年9月25日に76歳で亡くなられた池永正明さんのことを書いています。僕がプロ野球を観始めるようになった頃の大エースで、憧れの投手でした。それだけに、1969年の「黒い霧事件」に巻