ブログ記事418件
千葉県木更津市にある大洋ホエールズが川崎球場時代の選手だった田中章さんが営む「もつ焼きあきちゃん」に行きました。木更津駅から近くでした。田中さんが焼いてくれた焼鳥を頂きました。店内は、最初に入団した読売時代や、オールスターに出場するほど活躍した西鉄・太平洋時代の写真やチームメイトのサインが飾ってあり、昭和のスターの話を聞かせてくれました。田中さんが大洋に在籍した時代の湘南カラーのユニフォームにサインしてもらいました。木更津が始発の久留里線の久留里〜上総亀山間が廃止されてしまうニュース
河合保彦1933年10月3日~1984年9月11日岐阜県岐阜市出身右投右打、捕手、外野手。河合は、名門・岐阜高校で野球を始め、高校1年生の1949年には、夏の甲子園に左翼手として出場。準優勝という快挙を成し遂げた。この時のチームには、エースの花井悠や、後にプロで活躍する森和彦もいた。しかし、この栄光の裏で、決勝では佐々木信也を擁する強豪・湘南高校に惜しくも敗れた。この後、河合は捕手に転向。卒業後の1952年、外野手として名古屋ドラゴンズ(現中日ドラゴン
◎西武鉄道~鉄道、土地開発、ホテル、パルコそしてライオンズ①地域:東京都、埼玉県②主な行先:池袋~西武秩父、西武新宿~本川越ほか③走行距離:176・6㎞西武鉄道といえば、1978(昭和53)年に誕生した西武ライオンズを経営。阪神、阪急、南海、近鉄などの名だたる鉄道会社の後に続き最後にプロ野球に参入した鉄道会社と思われるが、実は最後ではないのはご存じのとおり。西武鉄道は堤康次郎という五島慶太と並ぶカリスマ経営者が有名だが、元々は現在の西武新宿線を母体とする西
最近の大地震の頻発と熱波は地球が怒っているのではと思う。罪もない人達が犠牲になるのは実に理不尽だ。最初にベネゼエラの地震、最近報道されないが死者は数千人と思われる。それから熊本の地震、8月10日にコロンビアで地震、2百数十人が亡くなったとニュースで言っていた。今日はインドネシアのフローレス島付近でM7.7の地震。南ヨーロッパでは5回目の熱波で、山火事も凄まじい。カナダの山火事は地図で見ても恐ろしい程広い範囲で起こっている。✳︎近年よその国に侵攻しても成功例はないのに
豊田泰光1935年2月12日~2016年8月14日茨城県久慈郡出身右投右打、内野手。水戸商から西鉄ライオンズへ豊田泰光は1935年2月12日、茨城県に生まれた。茨城県立水戸商業高等学校では遊撃手として活躍し、1952年の夏の甲子園大会では開会式で選手宣誓を務めるなど、当時から注目を集める存在だった。高校卒業後の1953年、三原脩監督率いる西鉄ライオンズに入団。豊田は1年目から遊撃手レギュラーの座を掴み取り、高卒新人としては異例の27本塁打を放って新人王を獲得し
福岡県福岡市中央区の舞鶴公園内。かつて西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)や福岡ダイエーホークスが本拠地としていた平和台球場。1949年開場の1997年閉場解体、ということで一応その頃は小学校低学年ではあったのだが、田舎育ちでそもそも野球に全く興味がなかったので野球場のことなんて知る由もなかった。父方の祖父母が住んでいたので福岡市に来ることは割とあった。恐らく解体後にここを通ったのだろう、車の中で父に「ここは平和台球場ってゆうて野球場があったったい。福岡ドー
福岡県福岡市の天神から、神奈川県横浜市・東京都豊島区池袋を経まして、埼玉県さいたま市の大宮までの約1152キロを結んでおりました「ライオンズエクスプレス」が、平成27年春に運行を終了(休止)しましてから11年になりました。この「ライオンズエクスプレス」とは、平成31年4月1日に解散しました、西鉄グループでありました旧西鉄高速バス(上の画像は8545・日野LKG-RU1ESBA)、西武グループであります西武観光バス(上の画像は1643・いすゞADG-RU1ESAJ)で運行していたもの
1952年(昭和27年)7月16日は平和台事件が起きた日です。平和台事件は戦後プロ野球史の中でも結果的に大きな影響を広げた事件となりました。そして、最も平和台事件で影響を受けたと思われるのがその野球人の名前は湯浅禎夫21世紀の今では忘れられた名選手・野球人と言えるでしょう。湯浅は1902(明治35)年10月2日鳥取県米子市で生まれ米子中学から豪速球投手として名は上がっていた。卒業後は大連実業団で野球をしていたが、明治大学OB大沢逸朗に誘われ明治大学に入学、当時の
末期症状の広島東洋カープ、#ゾンビたばこ問題(^_^)(^_^)(^_^)週刊誌のFLASHが、#羽月隆太郎(はつきりゅうたろう)が暴露した5選手のうち3選手を2025年5月2日撮影写真を報道している。まず、#矢野雅哉(ヤノマサヤ)、強くボールを打つ等勘違い発言が目立ち、極端なバッティング不振からレギュラーを剥奪されている。次に、#小園海斗(こぞのかいと)、今年に入っての極端なバッティング不振が目立ち、打率も2割4分を前後している。最後に、#田村俊介(たむらし
「松山千春『空-翼を広げて』に思うこと~松山千春全作品解説139~」S2697・松山千春DATABESE総合TOPPAGENF・アーティスト別LIVEDATABESE総合TOPPAGENF◇更新履歴V1.0:2014.10.31初稿V1.1:2019.09.26最新エディタにて記事を作成し旧記事と差し替えおよび所有のアルバム画像を掲載V1.2:2022.09.29追記及びオフィシャル動画・音源へのリンクV1.3:2024.02.19追
急ぐ旅?でもないので(仕事に行くわけでも、出かける用事があるわけでもない)家事に時間がかかる位何の支障もないのですが、ちょっと作業を始めると「お〜い」とYouTubeを観ていたウチのお父さんから声がかかるひとつ観終わってまたちょっと作業を始めると「お〜い」私の日常はウチのお父さんファースト(長年の、そして現在のいろんな事情があります)ウチのお父さんの機嫌がいいのが一番なので呼ばれたらすぐ行く今日のウチのお父さんは”超ご機嫌”楽天に三連敗したライオンズが夕べは日ハムに気持
和田博美1937年3月26日~2009年6月22日大分県出身、捕手右投右打鹿児島に生を受け、幼少期に大分県臼杵へ転居した和田は、小学校5年から捕手としての才能を開花させる。高校時代は父の意向で一時野球部を退部するも、「血を見るのが苦手」という意外な理由で復帰。2年時には秋季九州大会、3年時には夏の甲子園県予選を勝ち抜き東九州大会に進出するも、甲子園出場は叶わなかった。1955年、西鉄ライオンズに入団。三原脩監督に見出され、その類まれなる強肩とシャープな打撃は
こんばんはアナログです。甲子園での阪神対西武の交流戦第二戦。今日は曇りという天気予報を信じて来たのに、甲子園に着いたらまた降ってきました外野席で雨は非常にきつい😓降りはこの前の日本ハム戦とほぼ同じくらいの強さで試合進行はできるんですけど、とにかく雨でポンチョ来て狭い外野席が余計に嵩張るんですなんだか相手ばかりが活発に動いて、阪神は投打共に精彩がありませんでした左手側にライオンズファン。私は昔田淵さんがトレードに出された時西武のファンだったことがあります。今でもパ・リーグの中では西
5月23日は天才打者大下弘の命日です。戦後、神に選ばれた野球選手『大下弘』を考える昭和20年8月15日、日本は戦争に負けた。私の父は戦中派だ。愛媛の片田舎で育った。毎日、大本営放送があったが、その日は正午に「今日は玉音放送があるから・・」という事で近くの役場に行った。大人たちは土下座をしながら泣いていたのを子供たちは見ていた。しかし、数日後、村の人たちは『戦争が終わった』ことを大いに喜んでいたのを強烈に覚えていて不思議に思ったらしい。子供達はすぐに三角ベース
5月17日、西武ライオンズは768日ぶりにパ・リーグ首位に立ちましたライオンズが首位に立つのは2024年4月9日以来のことで12球団で最も首位から遠ざかっておりました。ちなみに5月以降では2022年9月1日以来1354日ぶりになりますね。4月16日に最下位にいたチームが約1か月で首位に躍り出るとは。この好調ぶりを維持して7年ぶりのリーグ優勝を目指して頑張って欲しいものです『5位じゃダメなんです西武ライオンズ…10月4日』くさせんりがNPB12球団で唯一嫌いな球団である埼玉西武ライオンズ昨20
中西太怪童と言われた強打者(香川県出身、1933年4月11日~2023年5月11日)右投右打、一塁手、三塁手。左:中西内野手、右:梶本投手昭和32年6月号中西太は高松一高時代から打撃の凄さは有名で、甲子園でも活躍した。1952年早稲田進学を諦めて西鉄ライオンズに入団。1年目から活躍し新人王を獲得。2年目の1953(昭和28)年は史上最年少でトリプルスリーを記録。10代で打撃は出来上がっていた。成績は打率.3139(2位)、36本塁打(1位)、86打
続きましては‥頂きモノ西鉄グランドホテル伝統のビーフカレー辛さはマイルドながらも旨味あり♪チキンはゴロゴロで旨し♪福岡県産いちご🍓あまおう割引価格320円‥うーん所々傷んでるなぁやはり値引きされてるのは傷んでるのが多い全てシェアして頂きました‥トータルカロリー分けて200程‥⁉️
西鉄ライオンズホーム用・ビジター用1970年〜1972年略年表1970年《ホーム・ビジター共通》稲尾和久監督就任に伴いユニフォームを変更。ライオンの袖章が変更になる。ビジター用の地色がブルーグレー地に変更。1971年《ホーム・ビジター共通》ラインがシングルからダブルに変更。また、ライオンの足が二本に変更。ビジター用のみ袖章Lionsがなくなる。通常の帽子に加え、帽子の天ボタンと空気穴がオレンジのタイプも併用される。1972年まで。ホーム用西鉄ライオンズの黒とオレンジのユニフォ
1949(昭和24)年のシーズンが終わり、正力松太郎が提唱していた「2リーグ構想」が進みかけていたが、その構想に巨人、中日、大陽の3球団が反対し当初、2リーグに賛成していた大阪(阪神)が、巨人に説得され反対派に回り、南海、阪急、東急、大映が2リーグ推進派となり、結果的に2リーグに分立した。そして、反対派のリーグはセントラル・リーグと創設し新規球団として西日本新聞社はプロ野球に参入した。当初はパシフィック・リーグ西鉄と一緒になって広告部門で参入を考えていたが、巨人が九州にセ
野口正明1925年3月7日~2004年3月24日福岡県飯塚市出身右投右打、一塁手、外野手、投手。◎激動の戦前:28イニングの死闘と投手転向野口正明は飯塚商業から1942年、名古屋軍に入団。当時は内野手だった。プロ入りの年に、今や伝説的な「プロ野球最長イニング・延長28回」で1番・一塁手としてフル出場している。翌1943年には投手に転向し、弱冠19歳で12勝をマーク。晩年の沢村栄治から安打を放つなど、類まれな才能を見せた。しかし、1944年の大会を最後に戦地へと赴くこ
榎本喜八1936年12月5日~2012年3月14日東京市中野区出身左投左打、一塁手。野球の歴史な中で避けては通れない一人の打者がいる。榎本喜八。「安打製造機」という言葉が、単なる愛称ではなく、文字通り「安打を産み出すための求道」を体現した孤高の天才だ。榎本喜八の野球人生のはじまりは、戦後の混乱期にある。1936年に農家に生まれ、5歳で母を亡くし、父はシベリアへ抑留。祖母と弟との極貧生活を余儀なくされた。雨漏りのするボロ家で、畳からキノコが生えるような環境
河村英文1933年8月30日~2005年2月16日大分県出身右投右打、投手西鉄ライオンズの黄金時代を語る際、稲尾和久の名が筆頭に挙がるのは必然ですが、その稲尾が登場する直前、チームを初のリーグ優勝へと導いたのが河村英文です。「シュートの河村」として恐れられ、後に名コーチとしても足跡を残した野球人を振りかえる。◎期待されなかった入団から「25勝」の快挙へ河村英文は別府緑丘高校で名将・小嶋仁八郎の指導を受け、社会人の東洋高圧大牟田を経て1953年に西鉄ライオ
高倉照幸1934年12月8日~2018年2月12日福岡県北九州市出身右投右打、外野手。◎願書提出の遅れが生んだ野球人生。高倉照幸は1934年、福岡県北九州市で誕生。戦時中に熊本県へ疎開し、父の経営する鉄工所の影響から熊本工業高校を志望するが、願書の提出期限にわずか2時間遅れるという失態をした。しかし高倉は動じることなく熊本商業高校へ進路を変更。1951年、春の選抜に出場した高倉は、準々決勝で敗退したものの大会唯一の本塁打を放ち、その名を全国に知らした。卒業時には
2月6日(1984)年は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトの監督として氾濫万丈の野球人生を送った三原脩氏の命日(享年72歳)。三原脩1911年11月21日~1984年2月6日香川県出身三原脩の功績は数え切れないほどありますが、日本の野球史の中で今も一番影響を与え続けている一人かもしれません。旧制中学時代から野球にのめりこみ、大地主の末っ子として父親の意向で丸亀中学から高松中学に転校。その高松中で野球と勉強をすることで転入を認められ第14回夏の甲子園に出場。早稲田大
■80年も生きてくると、自分の中では未解決のささいな出来事や、小さなトゲが刺さったままの思い出がある。(注)今週は先週のブログの「後編」です。前編はこのブログの文末に添付しています。私は先週、現在米国に住む高齢男性のある”依頼事”に奔走した人々の心温まるエピソードを紹介した。・・・簡単にその概略を書いておこう。昨年7月、「1963年(注・昭和38年)に西鉄ライオンズと契約し入団したはずだが、在籍した選手として名前が残っていない。確認をお願い
■今から60数年前に福岡に住んでいた米国の81歳になる男性が「自分はプロ野球選手として契約したはずだが、在籍リストに名前が残っていない・・・」と昨年夏、調査を依頼してきた。今日はそこから始まる温かい物語です。九州・福岡での出来事ですが、調査に関わった人々の善意や思い、熱意が伝わってくる話です。今から54年前の1972年(昭和47年)まで、プロ野球に『西鉄ライオンズ』というチームがあった。現在の埼玉西武ライオンズ(以下西武球団)の前身である。(大学時代の親友で野球
島原幸雄1934年4月21日-1995年1月6日愛媛県松山市投手、右投右打。島原幸雄は1950年代の西鉄ライオンズ黄金期において、稲尾和久が登場する直前のエースとして、またその後は主力投手の一人として活躍した。■入団と不遇の二軍時代1952年、愛媛県立松山東高等学校を中退し、西鉄ライオンズの二軍監督であった重松通雄を通じて入団テストを受け、プロの世界に入った。デビュー当初の島原は、オーバースローから速球を投げ込む本格派であったが、制球力に難があった。当時の西鉄
■年末に寂しいニュースが流れてきた。同学年のプロゴルファー・尾崎将司さんが亡くなった。昨年のブログ投稿の最終回は12月26日だった。私はその中で、「2024年の墓碑銘から・・・」と題して昨年亡くなられた3人の方と親友のご長女を改めて偲んだ。親友のご長女は直前の11月に亡くなられていた。今年もブログで取り上げた故人を偲ぼうと、ある方に関する追悼ブログを読み返しながら準備していたが、12月23日思いがけない訃報が届いた。プロゴルファーの尾崎将司
R7年12月26日(金)晴れ徳島海南高校時代プロゴルファー時代ジャンボ尾崎こと尾崎将司さんが、2025年(令和7年)12月23日、S状結腸癌のため78歳で逝去されました。日本のゴルフ界に多大な功績を残した伝説的なプロゴルファーで、現役時代は「ジャンボ」の愛称で親しまれました。昭和39年に開催された選抜高校野球(春の甲子園大会)に出場した、徳島県立海南高校は全くの無名校。同大会に和歌山海南高が出場した為、徳島海南として紹介されました。エースの尾崎正司は身長181c
「ジャンボ」の愛称で親しまれた男子ゴルフ界のレジェンド、尾崎将司さん(本名・尾崎正司)が12月23日、S状結腸がんのため死去しました。78歳でした。約1年前から闘病していました。尾崎さんはプロ野球投手を経て1970年にプロゴルファーに転身。国内最多のプロ通算113勝(うちツアー94勝)、歴代最多12度の賞金王に輝き、2010年に世界ゴルフ殿堂入り。約半世紀にわたりゴルフ界に携わり、近年は後進の育成に尽力しました。亡くなる前日に自宅を訪ねた中嶋常幸プロは、長男の智春さんから「今は会えな