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5月17日、西武ライオンズは768日ぶりにパ・リーグ首位に立ちましたライオンズが首位に立つのは2024年4月9日以来のことで12球団で最も首位から遠ざかっておりました。ちなみに5月以降では2022年9月1日以来1354日ぶりになりますね。4月16日に最下位にいたチームが約1か月で首位に躍り出るとは。この好調ぶりを維持して7年ぶりのリーグ優勝を目指して頑張って欲しいものです『5位じゃダメなんです西武ライオンズ…10月4日』くさせんりがNPB12球団で唯一嫌いな球団である埼玉西武ライオンズ昨20
中西太怪童と言われた強打者(香川県出身、1933年4月11日~2023年5月11日)右投右打、一塁手、三塁手。左:中西内野手、右:梶本投手昭和32年6月号中西太は高松一高時代から打撃の凄さは有名で、甲子園でも活躍した。1952年早稲田進学を諦めて西鉄ライオンズに入団。1年目から活躍し新人王を獲得。2年目の1953(昭和28)年は史上最年少でトリプルスリーを記録。10代で打撃は出来上がっていた。成績は打率.3139(2位)、36本塁打(1位)、86打
続きましては‥頂きモノ西鉄グランドホテル伝統のビーフカレー辛さはマイルドながらも旨味あり♪チキンはゴロゴロで旨し♪福岡県産いちご🍓あまおう割引価格320円‥うーん所々傷んでるなぁやはり値引きされてるのは傷んでるのが多い全てシェアして頂きました‥トータルカロリー分けて200程‥⁉️
西鉄ライオンズホーム用・ビジター用1970年〜1972年略年表1970年《ホーム・ビジター共通》稲尾和久監督就任に伴いユニフォームを変更。ライオンの袖章が変更になる。ビジター用の地色がブルーグレー地に変更。1971年《ホーム・ビジター共通》ラインがシングルからダブルに変更。また、ライオンの足が二本に変更。ビジター用のみ袖章Lionsがなくなる。通常の帽子に加え、帽子の天ボタンと空気穴がオレンジのタイプも併用される。1972年まで。ホーム用西鉄ライオンズの黒とオレンジのユニフォ
1949(昭和24)年のシーズンが終わり、正力松太郎が提唱していた「2リーグ構想」が進みかけていたが、その構想に巨人、中日、大陽の3球団が反対し当初、2リーグに賛成していた大阪(阪神)が、巨人に説得され反対派に回り、南海、阪急、東急、大映が2リーグ推進派となり、結果的に2リーグに分立した。そして、反対派のリーグはセントラル・リーグと創設し新規球団として西日本新聞社はプロ野球に参入した。当初はパシフィック・リーグ西鉄と一緒になって広告部門で参入を考えていたが、巨人が九州にセ
野口正明1925年3月7日~2004年3月24日福岡県飯塚市出身右投右打、一塁手、外野手、投手。◎激動の戦前:28イニングの死闘と投手転向野口正明は飯塚商業から1942年、名古屋軍に入団。当時は内野手だった。プロ入りの年に、今や伝説的な「プロ野球最長イニング・延長28回」で1番・一塁手としてフル出場している。翌1943年には投手に転向し、弱冠19歳で12勝をマーク。晩年の沢村栄治から安打を放つなど、類まれな才能を見せた。しかし、1944年の大会を最後に戦地へと赴くこ
榎本喜八1936年12月5日~2012年3月14日東京市中野区出身左投左打、一塁手。野球の歴史な中で避けては通れない一人の打者がいる。榎本喜八。「安打製造機」という言葉が、単なる愛称ではなく、文字通り「安打を産み出すための求道」を体現した孤高の天才だ。榎本喜八の野球人生のはじまりは、戦後の混乱期にある。1936年に農家に生まれ、5歳で母を亡くし、父はシベリアへ抑留。祖母と弟との極貧生活を余儀なくされた。雨漏りのするボロ家で、畳からキノコが生えるような環境
河村英文1933年8月30日~2005年2月16日大分県出身右投右打、投手西鉄ライオンズの黄金時代を語る際、稲尾和久の名が筆頭に挙がるのは必然ですが、その稲尾が登場する直前、チームを初のリーグ優勝へと導いたのが河村英文です。「シュートの河村」として恐れられ、後に名コーチとしても足跡を残した野球人を振りかえる。◎期待されなかった入団から「25勝」の快挙へ河村英文は別府緑丘高校で名将・小嶋仁八郎の指導を受け、社会人の東洋高圧大牟田を経て1953年に西鉄ライオ
高倉照幸1934年12月8日~2018年2月12日福岡県北九州市出身右投右打、外野手。◎願書提出の遅れが生んだ野球人生。高倉照幸は1934年、福岡県北九州市で誕生。戦時中に熊本県へ疎開し、父の経営する鉄工所の影響から熊本工業高校を志望するが、願書の提出期限にわずか2時間遅れるという失態をした。しかし高倉は動じることなく熊本商業高校へ進路を変更。1951年、春の選抜に出場した高倉は、準々決勝で敗退したものの大会唯一の本塁打を放ち、その名を全国に知らした。卒業時には
2月6日(1984)年は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトの監督として氾濫万丈の野球人生を送った三原脩氏の命日(享年72歳)。三原脩1911年11月21日~1984年2月6日香川県出身三原脩の功績は数え切れないほどありますが、日本の野球史の中で今も一番影響を与え続けている一人かもしれません。旧制中学時代から野球にのめりこみ、大地主の末っ子として父親の意向で丸亀中学から高松中学に転校。その高松中で野球と勉強をすることで転入を認められ第14回夏の甲子園に出場。早稲田大
■80年も生きてくると、自分の中では未解決のささいな出来事や、小さなトゲが刺さったままの思い出がある。(注)今週は先週のブログの「後編」です。前編はこのブログの文末に添付しています。私は先週、現在米国に住む高齢男性のある”依頼事”に奔走した人々の心温まるエピソードを紹介した。・・・簡単にその概略を書いておこう。昨年7月、「1963年(注・昭和38年)に西鉄ライオンズと契約し入団したはずだが、在籍した選手として名前が残っていない。確認をお願い
■今から60数年前に福岡に住んでいた米国の81歳になる男性が「自分はプロ野球選手として契約したはずだが、在籍リストに名前が残っていない・・・」と昨年夏、調査を依頼してきた。今日はそこから始まる温かい物語です。九州・福岡での出来事ですが、調査に関わった人々の善意や思い、熱意が伝わってくる話です。今から54年前の1972年(昭和47年)まで、プロ野球に『西鉄ライオンズ』というチームがあった。現在の埼玉西武ライオンズ(以下西武球団)の前身である。(大学時代の親友で野球
島原幸雄1934年4月21日-1995年1月6日愛媛県松山市投手、右投右打。島原幸雄は1950年代の西鉄ライオンズ黄金期において、稲尾和久が登場する直前のエースとして、またその後は主力投手の一人として活躍した。■入団と不遇の二軍時代1952年、愛媛県立松山東高等学校を中退し、西鉄ライオンズの二軍監督であった重松通雄を通じて入団テストを受け、プロの世界に入った。デビュー当初の島原は、オーバースローから速球を投げ込む本格派であったが、制球力に難があった。当時の西鉄
■年末に寂しいニュースが流れてきた。同学年のプロゴルファー・尾崎将司さんが亡くなった。昨年のブログ投稿の最終回は12月26日だった。私はその中で、「2024年の墓碑銘から・・・」と題して昨年亡くなられた3人の方と親友のご長女を改めて偲んだ。親友のご長女は直前の11月に亡くなられていた。今年もブログで取り上げた故人を偲ぼうと、ある方に関する追悼ブログを読み返しながら準備していたが、12月23日思いがけない訃報が届いた。プロゴルファーの尾崎将司
R7年12月26日(金)晴れ徳島海南高校時代プロゴルファー時代ジャンボ尾崎こと尾崎将司さんが、2025年(令和7年)12月23日、S状結腸癌のため78歳で逝去されました。日本のゴルフ界に多大な功績を残した伝説的なプロゴルファーで、現役時代は「ジャンボ」の愛称で親しまれました。昭和39年に開催された選抜高校野球(春の甲子園大会)に出場した、徳島県立海南高校は全くの無名校。同大会に和歌山海南高が出場した為、徳島海南として紹介されました。エースの尾崎正司は身長181c
「ジャンボ」の愛称で親しまれた男子ゴルフ界のレジェンド、尾崎将司さん(本名・尾崎正司)が12月23日、S状結腸がんのため死去しました。78歳でした。約1年前から闘病していました。尾崎さんはプロ野球投手を経て1970年にプロゴルファーに転身。国内最多のプロ通算113勝(うちツアー94勝)、歴代最多12度の賞金王に輝き、2010年に世界ゴルフ殿堂入り。約半世紀にわたりゴルフ界に携わり、近年は後進の育成に尽力しました。亡くなる前日に自宅を訪ねた中嶋常幸プロは、長男の智春さんから「今は会えな
尾崎将司さんが亡くなられた。尾崎さんと言えば、ジャンボの愛称でゴルフで活躍。自分なんかは、ゴルフの存在を尾崎さんを通じて知りました。70年代後半から80年代にかけて、青木功さん、中嶋常幸さんと熾烈な賞金王争いを展開。3人の争いは、AONと呼ばれた。ツアー勝利94。どのスポーツもある程度活躍すると海外に活路を求める。ゴルフもそうです。よって、尾崎さんのツアー勝利は永遠に破られないことでしょう。女子も含め、ゴルフの地上波テレビ中継があるのは、尾崎さんの活躍が大きい。尾崎さんは、野球の投手
こんばんは。夕方になって、残念なニュースが入ってきました。プロゴルファーのジャンボ尾崎さんが逝去されました。78歳でした。ジャンボ尾崎さんは、西鉄ライオンズからプロゴルファーに転身され、大活躍されました。西鉄ライオンズ時代自分が勝てなかった選手が、#20池永正明さんと仰ってましたね。私も池永正明さんには、マスターズリーグの際石川球場でお会いしています。謹んでご冥福をお祈りします。
ども武蔵川拳です。昨日が、年末ジャンボ最終日でした😊当たりますように昨日、ジャンボ尾崎さんが他界されました。平均寿命より少し早い享年でした。ビートたけしさんとは同学年ですね。彼は、徳島海南高校で選抜優勝。西鉄ライオンズからプロゴルファーになりました。御冥福を祈ります。
R&B21マスターズリーグ2003-2004F1稲尾和久当ブログ8月5日の投稿でロッテのユニフォーム姿の稲尾和久さんのカードを紹介しましたが西鉄ライオンズ以外のユニフォームを着用したカードがもう一枚あります。【R&B21マスターズリーグ2003-2004】■F-1稲尾和久(福岡ドンタクズ)カード裏面です。むかしむかし墨田区両国の両国駅前にR&B21というカードショップがありました。たぶん"アール・アンド・ビー・トゥエンティワン"が正式な店舗名だと思いますが正式な
もし宇宙に行けたら何したい?▼本日限定!ブログスタンプ月や火星でゴルフテレビで『プロ野球総選挙』を放送していたので観た。こういう番組って、ONや金田・野村克也はランクインするのに、稲尾・米田や張本・土井正博がランキングに入らないのは不公平なんじゃないの?記録だけでなくMLB挑戦など“凄い選手”という前提の上で敢えて言うが、ランクインしている新庄剛志よりも、これら前述のレジェンドたちがランクインしていない理由が分からない。福本・衣笠・山本浩二・門田や江夏・鈴木啓
稲尾和久1937年6月10日~2007年11月13日大分県別府市出身右投右打、投手。幼少期とプロ入り前稲尾和久は1937年、大分県別府市に7人兄弟の末っ子として生まれた。父は漁師であり、稲尾氏は幼少期から漁の手伝いとして伝馬船の艪を漕ぎ、この経験がマウンドで動じない度胸と強靭な下半身を培ったと語っている。少年時代には別府を本拠地とする実業団チーム、星野組のエース、荒巻淳に憧れて野球選手を目指した。1950年に中部中学校に入学し野球部に入部。当初は捕手だったが、1
しばしのお休みを頂戴いたしまして福岡へ行ってまいりましたが、向こうではほぼほぼ半袖Tシャツ1枚で歩きまわり、時には「これ、日焼け必至の日差しであるな」と思わされるお天気だったのですなあ。ところが最終日になってかなりひんやりしてきたと思いつつ東京に戻ってみれば「なんか妙に寒いんでないの…」と。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」てな言葉が昔ささやかれておりましたけれど、いやいや日本も結構広いと思わされた次第でありますよ。で、このほどの福岡行きは彼の地で開催される、さるイベントに参加せんがた
齢(よわい)六十七の小生よわいと言っても、決して弱くはないつもりですが・・・・意志の弱さは、天下一品(T^T)ついつい酒に手が伸びてしまう人生を送って来ました。前述の年齢にもなり、思い立ちました「こげん事じゃ、いかんばい」で、8月より、克明に記録を残す事としました。以前から記録自体は録っていたのですが、集計は初めてで、星取表ですが・・・・(画像は参考資料)☆勝ち星=誘惑に負けず、一滴の酒類も口にしなかった日★負け星=上記以外の日。家の内外を問わず酒類を口に含んでし
1978年(昭和53年)10月12日、西武への球団売却と本拠地移転が発表された際、ライオンズファンだけでなく、所属選手の多くは大きな戸惑いを覚えただろう。長年、福岡の平和台球場を本拠地とし、「西鉄、九州のライオンズ」として愛されてきた歴史があり、選手たちも福岡での生活に根付いていた。当時の選手会長だった大田卓司選手(クラウン、西武に在籍)によると、チームメートの9割が所沢への移転に難色を示し、正直なところ「行きたくなかった」というのが本音だったらしい。しかし、球団
1961(昭和36)年10月11日、西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)のエース稲尾和久投手が42勝を記録。スタルヒン投手と並ぶシーズン勝利数の日本記録を達成した日です。稲尾和久投手の凄さはライブで見たときないので、見てきたようにしか語れないが彼の凄さや鬼神のような現役時代を知ったのは「Number14」を読んでからだ。「西鉄ライオンズの衝撃」とも言えるような雑誌で野武士野球の凄まじさにも驚いた。稲尾投手の存在は野武士の中に凛とした戦士の香りが文章から感じ
私の好きなモノは『ラーメン・ラグビー・ライオンズ』。その中から、今日はライオンズの話です。私は野球観戦が大好きだ。小さい頃、校庭や稲刈りの終った田んぼで草野球をしたのも小学校までだった。走るのが苦手で運動神経が鈍かったのだ。しぜんと観戦する側に回った。それから70年が経過した。(9月28日、所沢在住の友人とライオンズ対ソフトバンク戦の観戦に行った。3年ぶりだった。)これまで応援してきたチームは、高校野球は故郷の高校、大学野球は早稲田大学、そして昔次兄がプ
くさせんりがNPB12球団で唯一嫌いな球団である埼玉西武ライオンズ昨2024年のレギュラーシーズンは首位から42ゲーム差でぶっちぎりの最下位。福岡時代末期や所沢移転直後のライオンズ低迷期の嫌な記憶がよみがえる惨状でした『悔しくないのか西武ライオンズ…10月10日』くさせんりがNPB12球団で唯一嫌いな球団である埼玉西武ライオンズ。昨2023年のレギュラーシーズンは首位から22.5ゲーム差の5位に低迷。巻き返しを図るはず…ameblo.jp新監督を迎えて心機一転の今2025年シーズン、本日で
1960(昭和35)年10月2日は前年最下位で苦しんだ大洋ホエールズが闘将三原脩を監督で初優勝した日だ。大洋ホエールズは1950(昭和25)年にセパ両リーグに分裂した際セ・リーグに加入した球団で、親会社はマルハ(現マルハニチロ)。50年代は打撃力が高い球団で巨人から青田昇、阪神から藤井勇などの名打者が移籍してきたが、投手力不足や球団生え抜きの選手が育たずBクラスに甘んじていた。そこで、巨人、西鉄で監督をしていた三原脩が西鉄内での場所が微妙な雰囲気なったという話を聞いた大洋側が招聘