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❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者75雄哉は、一九八七(昭和六十二年)三月二十八日から七月五日まで、最後の三塔十六谷の山内の巡拝を行った。霊山院に寄ると、必ず一杯のお茶が用意されている。小寺文穎師は一九八二年(昭和五十七年)二月二十八日、四十九歳で亡くなった。霊山院は次男が継ぐが、長男康穎は今、雄哉の弟子として修行中である。小寺夫人の心づくしの茶を喫しながら、雄哉は亡き小寺師に毎日、何を語りかけているのだろうか。行の師匠、文應は95歳を超えた。大
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨四章酒井雄哉の足音14千日回峰行のうち、七百日までは自利行という自分が不動明王に近づくための修行をする。そのうち百日につき一日だけは、利他行といい、人のために祈る修行をする。七十五日目のこの日、『京都切廻り』をする。この日は比叡山を下り、京都市中四十五キロを行をしながら歩く。多くの人々が沿道にひざまづき、首(こうべ)を垂れて阿闍梨のご加持を待つ。不思議にこの日には便意をもよおさないと阿闍梨さんはいう。千日回峰行中でも最高に体調がよいとき
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑨正式に長寿院の住職となっても田んぼで米を作り、畑を耕す。精力的に文應は動いた。北嶺大行満大阿闍梨となれば比叡山の高僧の仲間入りである。悠々自適の生活を送ることも出来るのだか、現実は厳しい。弟子も居ない。五十九歳の時、一九四八年(昭和二十三年)には比良山に籠もり比良回峰と『比良八講』も再興した。独特の行を続けたのである。富士山にも登り籠山したという。十二月の暮から正月にかけて、九日間の断じ、断水の行は三十六回も
洞川温泉マツコの知らない世界で紹介した天川村の宿。☆花屋徳兵衛創業500年の老舗。客室は和室で展望風呂付きの部屋や最大23名が宿泊可能な広間もある。お風呂は大浴場と露天風呂、有料の貸切風呂がある。大浴場は24時間、好きな時間に入れる。夕食は地元の素材を生かたた山の幸会席。山菜や川魚、季節によってはかも鍋やボタン鍋などジビエ料理も。自家製味噌を使った牛肉のホウバ焼きがいただけるプランもある。洞川(どろがわ)温泉☆後鬼の湯・宿
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者65『火あぶり地獄』といわれる大護摩供は、雄哉でさえ「堂入りしながら護摩焚いているようなもの」という苛酷極まりない炎の行で、さらにその前に百日間の厳しい前行が加わる。それは『五穀断ち』というもので、百日間、五穀と塩を断つのである。五穀とは米、麦、粟、豆、稗(ひえ)をさすが『五穀断ち手文』はさらに茄子、柿、西瓜、梅、桃、海苔、昆布、ひじきなどの果物、海草類も一切禁じている。阿闍梨はこの年の八月九日から十一月十六日ま
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者77雄哉は二千日回峰行を満行した後は、なにも考えていなかった。まわりは「どうしますか、今どんなことをお考えですか」って聞くが、「今日で終わったのかなあ」という感覚だった。たとえ『生き仏』と崇められても『大阿闍梨』の称号を授けられても何も変わらないのである。人からすごいと思われたくもない。雄哉のところに来ると、みな力が抜けてしまう。会う前は『なんだかすごい坊さんらしいぞ』なんて思って、ガチガチになってやってくる。気
明けましておめでとうございます出雲大社の系列の神社の巫女を経まして。教派神道の神職の資格を習得した占い師、白川葵です本年もよろしくお願い致します今回の記事は、人間が奇跡を起こすメカニズムについてですが人は古代から太陽を崇拝して来たので「火」がシンボルになっているお祭りは、世界中の国々で行われています。日本でも、「陽」や「火」を崇め奉る神事は、全国的に行われていますが、その中に「火渡り」がありますこれは、火を付けて燃やした炭の上を僧
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑥比叡山に居場所がない文應、文諦師も窮したがそれでも心を奮い立たせた。修行地をかえて一九四二年(昭和十七年)大峯回峰に挑戦したのである。吉野から大峯までの往復四十八キロの難路を五十日間歩きつづけたあと、奥駆けの峰入りを四十日間抖擻(とそう)した。さらに締めくくりとして、間を置かず、山上ヶ嶽から大台ヶ原を経由し、伊勢神宮まで徒歩参拝するという、百二十日にも及ぶ前代未聞の大荒行を敢行した。大峯山は女人禁制の修験の根
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑦飯室谷飯室谷とは。第三世天台座主、慈覚大師円仁が、自らの隠棲修行の場所として開いた谷で、もともと比叡山では歴史と由緒がある谷である。円仁は十五歳で最澄の門に入り、最澄が入寂するまでの十四年間、その膝下で学問修行した高弟の一人で、八三八年(承和五年)から八四七年(同十四年)まで約十年間、唐にわたり、五台山で念仏三昧法(五会念仏)を相承した。さらにこの入唐求法の旅で、最澄が果たせなかった天台密教の充実をはかった