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原文G13其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。読み下しY13其の行來・渡海して中國に詣るに、恒に一人をして、頭を梳(くしけず)らず、蟣蝨を去らず、衣服垢汚し、肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしめ、之に名づけて持衰と爲す。若し行く者吉善なれば、共に其の生口・財物を顧み、若し疾病有り、暴害に遭えば、便ち之を殺さんと欲す、其の持衰謹まずと謂えばな
15日のお世話を終え、仕事が休みでしたので、生駒の聖天様へ参拝に行きました。いつものように、それぞれのお社で手を合わせ、思ったことをお伝えし、おみくじを引きました。すると、いつもと同じようなアドバイス。まず凶を引き、それを引き取っていただいた後に大吉でした。凶は「動くと良くない」、その後に我慢を重ねれば大吉になる、という意味なのだろうかと考えました。少し気持ちを落ち着けながらも、ふと岩谷ノ滝が頭に浮かび、向かうことにしました。岩谷ノ滝は行場ですが、行をしなくても参拝は可能です。御本尊にご挨拶をし
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十三決まりを破ったら回峰行者ではない千日回峰行は、「行不退」だという。いったん回峰行に入れば、いかなる理由があろうとも退くわけにはいかない。行が続けられない時は自害せよ、というのである。しかも浄域であり、霊山である比叡山中を穢してはならないから、山外に出て、やれというのである。このことでもわかるように、千日回峰行には大変厳しい決まりが、いくつもある。まず、千日回峰行は誰でも勝手にはできない。百日回峰行をやった者の中から、先達会議(千日回峰行者で構成)で許可された者
こんにちは、笑里(エリ)です。随分と更新はしていないのですが、定期的に訪れて下さる方がいらっしゃる様なので、久しぶりにブログでもという気になりました実は書きかけては止め、少し書いては止めを何度もしています。休んでいる間にも書きたい内容は幾つも出てきています。とてもじゃないですがさらっと書くのは非常に難しいのです。合間にでもまた時間を掛けて、分けて書ければなと、そう思っています。改めて先ず私のブログは、一定数のフォロワー数にしかならないように、最初から設定、管理されてい
令和7年12月14日日曜日、久々の雨。今日の再掲は中段の理由から法隆寺。聖徳太子の寺だから当然、数えてはないが一番多く登場させてる寺かもしれない。法隆寺駅を降りて法隆寺までの1.5kmは派手な店も無くのどかな散歩道。のんびり歩いても20分ちょっとで着く。散々書いている寺なので多くの秘密や謎も書いて来たから詳細は割愛、西暦607年に創建された謎の多い唯一無二の建物。何度も何度もユダヤに攻め込まれ焼かれているが_世界最古の木造建造物として残り続けてる。聖徳太子、法隆寺こそ日本の心であり
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十ニ行は、わしの人生の最後の砦③「出家の動機?それがあんまりはっきりしないのね。最初は伯母に、無動寺谷にある弁天さんに連れてこられたの。そしたら、お寺というのは葬式をやる所だとばかり思っていたのに、どういうわけか、護摩を焚いたり、行をやっているお坊さん達もいる。こんな生き方もあるんだなって思って、何となくお山に足を運んでいるうちに、得度しなさい、というの。得度って何ですかって聞くと、坊さんになることだというの。もう、うれしくなっちゃったね、わしなんかでも坊さんにな
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十一行は、わしの人生の最後の砦②酒井阿闍梨の半生をブロフィール的に紹介すると――ー。酒井阿闍梨は、大正十五年五月、大阪で生まれる。本名忠雄。まもなく東京に移り、旧制中学校を卒業後、予科練に入る。復員後、そば屋、菓子屋、株尾、工具など職業を転々とする。三十歳すぎに大阪に移り、結婚したが、妻が自殺。亡妻の母親に誘われて無動寺の弁天堂にお参りするようになったのが、昭和三十六年頃であった。その後もしばしば比叡山を訪れた。人生の挫折感を癒そうというのではなく、自分の残りの
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十行は、わしの人生の最後の砦初めて酒井阿闍梨にお会いしたのは、昭和五十五年の早春の頃であった。『日本の聖域――最澄と比叡山』を出版するため、写真の掲載許可をいただくのが目的であった。その後も、『行道に生きる』(島一存著)、『科学の知恵心の智慧』(広中平祐著)、『仏教健康法入門』(朝倉光太郎著)の出版で、編集者として著者に同行して酒井阿闍梨から話を聞く機会を得た。その他にも、画家の前田常作画伯、国立歴史民俗博物館の山折哲雄教授(当時)の取材にも同行し、インタビューさ
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十九酒井雄哉二千日回峰行の記録③この後、南谷西尊院から叡南の辻を経て、無動寺に至る。またもとの道を引き返して、大比叡の中腹、深い熊笹に覆われた行道を通って智証大師廟を経由し、法華総持院から西谷の山王院に出る。浄土院に礼拝して、西塔の各堂を巡拝し、峰道に至る。峰道で左右諸方を拝みつつ玉体杉で玉体加持を行なう。地主権現から阿弥陀が峰を通って横川中堂に至る。横川の諸堂を巡拝し恵心僧都の墓所より、斜め道を一挙に飯室谷に降りる。全長約四十キロ。酒井阿闍梨の足で所要時間七時間~
八葉蓮台さん、お早う御座いますます、何時もお世話に為って居ります。お陰様で在ります。感謝で在ります。師走十日縁日天照皇大神、普寛行者リブログさせて頂きます。皆さん、御覧頂きまして、在り難う御座います。お陰様で在ります。日々寒さ厳き折の中の北海道三陸海岸地震、被災地の方々に心より御見舞い申し上げ致します。どうぞ風邪等引かぬ様御自愛下さいませ、失礼致します。合掌
武蔵の国の天鼓雷鳥さん、お早う御座います。何時もお世話に為って居ります。お陰様で在ります。感謝で在ります。師走十日縁日普寛行者尊リブログさせて頂きます。合掌皆さん、御覧頂きまして、在り難う御座います。お陰様で在ります。寒さ厳き折の中、北海道三陸海岸地震被災地の方々に心より御見舞い申し上げ致します。どうぞ風邪等引かぬ様御自愛下さいませ、失礼致します。合掌
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十八酒井雄哉二千日回峰行の記録②まず、飯室不動堂を出峰。松禅院、慈忍和尚廟に進み、奈良坂を下って帝秋寺、西教寺と拝みながら日吉神社東本宮に至る。山王二十一社をくまなく参詣して生源寺前の鳥居に至り、坂本の諸方諸神を遙拝して滋賀院、真乗院、妙徳院、霊山院と進む。霊山院は、かつて酒井阿闍梨が小僧生活に入った寺で、故人となった師匠の冥福を祈る。霊山院を出て、走井堂、日吉神社西本宮をまわり、八王寺山の急坂を一気にかけ登っていく。八王寺三の宮を詣で、最澄の両親が参籠したと伝え
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十七酒井雄哉二千日回峰行の記録前項で「三百九十年ぶりの飯室回峰」と書いたが、実は、この久しく絶えていた飯室回峰の復興を願って百日回峰を満じたのが、酒井阿闍梨の師匠である箱崎文応師であった。昭和十五年九月に、無動寺回峰を千日満行した箱崎師は、昭和十九年に古い回峰手文を見ながら百日の飯室回峰を満行した。だが、昭和四十九年、酒井阿闍梨が千日回峰を決意し、無動寺谷から飯室谷に移ってきた時には、箱崎老師は八十三歳になっていた。先達を務めることができず、酒井阿闍梨に回峰コースを
皆さん、こんにちは。何か1つお願い事というか、祈願というものを神仏に対してしなさいと言われたら、世界平和とか、みんなが健康で幸せに笑顔でとか、そういったものしか思い浮かびません。国家存亡の危機になったら、それ相応のもっと入り組んだものを最大限に祈願するとは思いますが。でもですね、もしそれを言うならば、自分自身がもっと高みに上がってないといけない。常に、終わることのない、自己研鑽の行は、死してなお続く勢いであると同時に、先を見通すでもなくまさに今日、いやこの刹那刹那にピークを迎える、常にピ
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十六三百九十年ぶりの飯室回峰③だが、現在のような回峰コースが確立したのは室町時代以降のことであるといわれる。酒井阿闍梨の師僧であった小寺文穎師は、「比叡山回峰行の史的展開」という論文の中で次のように述べている。「北峰修験の比叡山回峰行は千年一日のごとく続けられているけれども、その歴史的な形成過程には、次のごとき四段階があったと思考される。第一期山林巡行時代(831~1130)第二期三塔巡礼時代(1131~1320)第三期比叡山巡礼時代(1321~1570
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十五三百九十年ぶりの飯室回峰②回峰行の始祖は相応和尚であると書いたが、『慈覚大師』の著作がある山田座主に、「飯室回峰は慈覚大師の叡山巡拝が基本になっている」というご教示をいただいた。慈覚大師は、飯室谷を出て、日吉神社から八王子山に登り、神宮禅院にお参りして、悲田谷を登って、根本中堂にお参りすることを繰り返されたという。帰りは西塔、横川を経て飯室に帰られたのだろう。まさに飯室回峰は慈覚大師の巡拝の道と軌を一にしているのである。ともあれ相応和尚によって始められた回峰行は
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十四三百九十年ぶりの飯室回峰恵心僧都源信(九四二~一〇一七)が住した横川の恵心院をすぎ、霊苑を経て急坂二キロ余を降りると横川六谷の一つ、飯室谷に達する。この道は飯室回峰の行者道になっている。東塔五谷、西塔五谷に対して横川だけ、なぜ六谷なのか。それは比叡山の「離れ小谷」ともいうべき飯室谷があるからだという。飯室谷は、慈覚大師円仁がこの地で感見した不動明王を自ら彫刻して拓かれた谷である。伝説によると、食物を司る神とされる飯櫃童子が老翁の姿になって現われて、慈覚大師に供
大峯山龍泉寺の前から柿の葉寿司を食べて12時35分に出発。山上ヶ岳歴史博物館洞川郵便局山上川洞川温泉郷のすずかけの道(行者さん通り)を歩く。蛇之倉七尾山ごろごろ水(名水百選)母公堂の前のトイレの前で転倒、幸い怪我は無かったが立ち上がるのに苦心した。山上川沿いをひたすら歩いた。大橋茶屋(水曜日定休日)発
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十三きみは「不動明王」を見たか③ところで、回峰行者の本尊とする不動明王は、右手に剣と左手に索をもち、目をカッと見開いた忿怒の相の恐い仏像である。仏さんにも序列がある。仏の最高位が如来。これは悟りの境地の仏で、次が菩薩。これは如来と同じ境地には達しているが、まだ修行の位。この如来と菩薩の働きを助けるのが明王で、仏道修行を邪魔する悪鬼悪獣などを叩きのめして追い払うのが役目。不動明王は、サンスクリット語で、アチャラ・ナーダといい、正しくは不動尊。降三世、軍荼利、大威徳、
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十二きみは「不動明王」を見たか②宗祖最澄の考え方は、「顕密一致」の実践哲学である。顕教であるこの「法華経』の精神と不動明王を念じる密教色の濃い山岳信仰とが重なって、千日回峰行が生まれた。中国の天台大師智顗(五三八~五九七)の著した『摩訶止観』に、「歩々・念々・唱々」という言葉がある。ひたすら歩け。ただただ念じよ。そして、お経・真言を唱え続けよ。まさに回峰行者の修行は、この端的な言葉で表わされている。『酒井雄哉大阿闍梨の世界五十一』酒井雄哉大阿闍梨の世界五十一き
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十一きみは「不動明王」を見たか千日回峰行を一言でいうならば、それは「常不軽菩薩の行」であるという。前項で紹介した相応和尚の夢告は、つづめていえば、『法華経』の「常不軽菩薩品」に出てくる「不専読誦、但行礼拝」ということになる。経を読むことを専らにせず、ただ礼拝行に徹する。天台の教えに「山川草木悉有仏性」という言葉があるが、山や川、草や木、石ころまで、全てのものに仏性があるという考え方だが、その生きとし生けるもの、全てを礼拝して歩くというのが千日回峰行なのである。宮
カナダに帰ってきてからすぐの出来事です。明け方、映像が見えました。ーー行者さん横向きで立っているかぶっていた傘を外す「終わった〜」というようなほっとした感じーーわたしについてくださっているらしい4人?のうちの1人、旅の装いをした5〜60代くらいの男性行者さん(自分の前世でもある)。傘はいつもの菅笠?のようで、外したあとの伸び伸びした感じが印象的でした。旅のあいだ、彼も一緒に来ていたのかなと思いました。肩の荷が下りたなのか、一仕事終え
15年ほど前、暴力を受けたことで左瞼が変形し、手術を受けた。けれど結果は大失敗に終わった。思い返せば、手術の前日…痛みもなく突然、左瞼だけが腫れ上がった。あの時、本当は「やめておけ!!」と必死に止めてくださっていた方々の声だったのに、私はそれを“邪魔されている”と勘違いしてしまった。あれからもう15年。薬師如来様に執着を解いていただき、受け入れられたはずだった。それでも最近になって再チャレンジを考えるようになり、気づけば1日1回はそのことを思い浮かべていた。そんな折、ある会
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十千日回峰行はいつ始まったのか③行満せば不動明王本尊となり一切災殃を除くべし、、、、このようなお告げがあり、巡礼の苦行を満じた時、行者は不動明王そのものになるといわれたのである。こうして、東塔の無動寺谷を根拠地にして、比叡山巡拝の修法を編み出し、更に比良山系の山林抖欺にも足を伸ばし、現在の回峰修験の基礎を確立したのである。ところで、比叡山には古来から「三塔十六谷」という言い方がある。三塔とは東塔、西塔、横川をさし、それぞれに、横川をさし、それぞれに、(東塔)
今月も兵庫県芦屋市ロックガーデン入口にある高座の滝にて、滝行・護摩行を厳修させて頂きました。秋も深まり高座の滝周辺の木々も紅や黄に色づく中、午前11時の滝行では一般参加の方1名を迎え近畿連合会所属の行者4名が冷涼なる滝水に打たれました。また行者の滝行で導師を勤めた当講講長もその後滝行衣に着替えて一人滝行を行ないました。六甲山中より流れ出る渓流の水はかなり冷たいはずですが、一般参加の方は滝行体験とは言え立派に般若心経を念じられ滝行を終えられました。午後1時すぎからは護摩堂において当講
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十九千日回峰行はいつ始まったのか②円仁はその様子を黙って見ていた。その若い僧は、後になって千日回峰行の始祖といわれる相応和尚(八三一~九一八。建立大師)であった。相応和尚は、十五歳で鎮操というお坊さんに連れられて、比叡山に入山した。『法華経』の勉強をするうちに、その中の「常不軽菩薩品」に感銘を受け、なんとか常不軽菩薩の境地に達したいと、先のような礼拝行を続けていたのである。この行が円仁に認められ、相応和尚は円仁から「不動明王法」「別尊儀軌護摩法」などの秘法を授けられ
日本一小さいお寺真言宗明正寺も9年目を迎えました。たった4帖のスペースの寺ですから当然檀家さんのいるお寺と同じ運営は出来ませんので、密教の加持祈祷を修する祈祷寺として運営しております。勿論、葬儀や法事も行じております。メタボ和尚は最近ご相談内容のハードルが段々と上がっているなと感じています。元々、お寺にくるご相談は様々な所でご相談して来られて思うような結果を得られず明正寺に訪れて来られる方がほとんどです。これまでは決して簡単ではありませんが、仏様からメタボ和尚の力量に合わせたご相談
徳本上人とくほんしょうにん⏬️✨️徳本上人仏像圖繪より✨️⏬️紀伊国日高郡(現在の和歌山県日高町志賀)に生まれる生家の田伏氏は畠山政長(1442年-1493年)の次男・畠山久俊の子孫と伝わる❓️❓️畠山政長と畠山久俊は親子で…畠山久俊の子孫🌟畠山政長の次男・久俊の子孫と伝わるのは江戸時代の僧侶である❓️『徳本(とくほん)』です徳本は、紀伊国日高郡の田伏氏の家に生まれましたがその家は畠山久俊の子孫と伝えられています仏像圖繪では畠山重忠の後孫❓️❓️
転校ご挨拶……昨日の続き!このたびgooブログから転校してきた「自分史専科山の辺書房自分史編集室」よしいふみとです。よろしくお願いします。沿革1970年、約五年間地方紙記者1987年、熊野文芸編集室起業(和歌山・新宮)自費出版(自分史)制作開始1994年、J.P,Scenariocenter卒2002年、日本自費出版Network入会2003年、日本自費出版文化賞小説部門選考委員2004年、ISBN取得、「山の辺書房自分史編集室」改称2013年、奈良県橿
供養の息が途切れた寺がある。ただ一歩足を踏み入れただけで、亡者の気が渦を巻いているのが分かる。“寺”という形をしていても、すべてが有難いとは限らない。供養が流れていなければ、そこはただの建物となるのだ。その寺へ同行した家族は、駐車場で突然片目の視界を失った。影がふっと湧き、飛蚊症のように視界を曇らせたという。また、私の実家の前にある寺からは、時おり“亡者の気”が家の方へと流れ込んでいた。風ではなく、ただ“気の流れ”そのものが方向を変えて押し寄せてくる…そんな感覚だった。あの頃