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織田信長が討たれた「本能寺の変」の翌日に、中国地方を攻めていた羽柴秀吉が、敵対する武将に宛てた書状が見つかりました。この時点で秀吉は、信長が討たれたと知らなかったとみられ、専門家は「歴史的な大事件直後の秀吉の政治的な動向がわかる貴重な史料だ」と指摘しています。書状は10月に東京大学史料編纂所がインターネットオークションで購入したもので、村井祐樹准教授が調査に当たりました。その結果、1582年に起きた本能寺の変の翌日、今の岡山市にある備中高松城を攻めていた秀吉が、敵対する毛利側の上原
岐阜県不破郡関ヶ原町には、徳川家康の東軍と石田三成の西軍が戦った関ヶ原の戦いの跡地を見ることができます。ここが開戦地の跡地です。関ヶ原町は四方を山に囲まれていて、あちらこちらに陣地を張って様子を見ることができます。戦国時代最大の合戦、関ヶ原の戦いは、まさにこの場所で行われました。今は、合戦が行われたとは思えない田園風景が広がるのどかな場所です。笹尾山の麓には、島左近が陣地をはっていました。石田三成に仕えた優秀な知将だと言われています。広い陣地だったようです。笹尾山の
地方別に発刊されてきた『戦国武将列伝』シリーズですが、織田・豊臣に関しては著名武将だけで物凄い人数がいるので東海地方から独立して32人を集めた列伝です。織田信長を筆頭に、柴田勝家、羽柴秀吉、惟住(丹羽)長秀、滝川一益、前田利家、佐々成政などといった尾張出身の超有名武将をはじめ、信忠・信勝・信孝などの信長の子たちや信兼・長益といった一門、村井貞勝・松井友閑などの側近・文官、惟任(明智)光秀、長岡(細川)藤孝などの幕臣の系譜を引く武将、荒木村重、高山右近、筒井順慶といった畿内の武将に加え、信長