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今晩は🌙歴史人タケ海舟です❗️昨日の「豊臣兄弟!」…秀吉・秀長兄弟と市との間に築かれていた良好な関係が…遂に終わりを告げる時が訪れましたね😔秀吉の本性を見抜いた市が秀長に対して…「お前には兄を支える覚悟があるのか⁉️」という厳しい言葉を投げかけていました😱信長の天下一棟を自分がやり遂げる‼️そのためには織田家を滅ぼすことも辞さない😱たとえ立ちはだかる者が市であっても…決して容赦はしないだろう‼️秀吉の野望を阻止すべく、市はその秀吉から懇願された柴田勝家との結婚を決意‼️
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第30回「清須会議」の感想です。(続きです)<清須会議>織田信雄、信孝の御前で、重臣4人が報告した。秀吉:「我ら4人で織田家をお守りいたしまする。」秀吉、勝家ら家老の合議で政にあたることが告げられました。不服そうな信孝と信雄。=========================<長浜城>長浜の女たちは三法師の小袖を作り上げた。=========================<京・
抜け目なく、陰謀の才に恵まれ、時には大博打に打って出る度胸もある、この武将が私は好きである。北に上杉、東に北条、南に武田という強大な大名に囲まれ、翻弄され続けた生涯だったといえる。さて、長く武田に臣従し続けたが、武田が滅んで以降、臣従相手は次々に変わった。滝川一益上杉景勝北条氏直徳川家康上杉景勝羽柴秀吉秀吉が柴田勝家と戦っている時、関東でも大きな戦いがあった。本能寺の変が伝わると、北条は4万の大軍を率いて北上し、滝川一益と激突、滝川一益は大敗した。上州から、信州、美濃、尾張、伊勢
祇園祭の時期に限らず年中あるものなのですが……。八幡山の三条町に羽柴秀吉旅宿跡の石碑があります。夫婦円満の象徴として向き合う雄雌の鳩が描かれた幔幕は、八幡山のある町内のあちらこちらに掛けられています。ムクゲの鉢植が石碑に季節感を与えていますね。「室町時代祇園社領三条町」とあります。社領とは神社が所有・管理していた土地のこと。ここで言う神社は八坂神社を示しています。石碑のある建物には「万商」と記された看板灯が設置されています。何の商いをされているのかはわかりませんでした。八
羽柴秀吉が明智光秀との山崎の戦い(1582年)で最前線に出ていなかったことを示唆する書状が見つかった。「天下分け目の天王山」という旧説を更に崩す発見で、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の舞台めぐりコーナーでも言及された。馬部隆弘(ばべたかひろ)中京大学教授は2024年、古書店で山崎合戦当日の6月13日に記された書状(縦13.6cm、横39.3cm)を入手し、確証を得て2年後に公表した。黒田官兵衛孝高の父親・小寺職隆(こでらもとたか)に宛てて、敵方の勝龍寺城がある西岡(にしのおか)に秀吉は明日出
岸和田中北町だんじり1/20モデル見送り「賤ヶ岳の合戦」本能寺の変の後、織田家の後継をめぐり羽柴秀吉と柴田勝家が対立1583年、賤ヶ岳で両軍が激突し、秀吉軍が勝家軍を破った戦を制した秀吉の天下人への道が開かれたpic.twitter.com/InIxbYMI4K—あっつん@織広堂(@orihirodoatsu)2026年8月15日あっつん@織広堂転載管理人
賤ヶ岳砦を約1時間で攻め落として、温泉でサッパリして時間調整(長浜城を攻めていいのは朝9時〜)してから移動。この日は、それほど暑くならなかったのか、琵琶湖周辺は天然のラジエターで意外と涼しいのか、山の中で20℃ぐらい、湖岸ドライブもエアコンなしで大丈夫なくらいで気持ちイイ。長浜城周辺は豊公園として整備されていて、そこの駐車場は太っ腹なことに3時間まで無料!さすが秀吉のお膝元。(秀吉は城下町繁栄のために長浜城下を朱印地として年貢免除の特権を与えた。)天下人秀吉の最初の城という割に有名では
↓☆☆☆☆三段枠6-①PC&スマホ用Prototype試作中あ、ゆく夏や浪漫街道神河町ももこ流OneShiningMoment.「ひょうごの景観ビューポイント150選」にも選ばれている、東雲橋からの景観。網干川の船溜まりには小舟やボートが並んで係留されています。因みにコレは?指差し道標左面「いはみむろつ」正面「志かまひめじ」兵庫県姫路市網干区、旧室津道(浜街道・網干街道)が網干川を渡る「東雲橋」の周辺(東詰の東雲橋北詰交差点付近や渡ったすぐの辻など)には、往時の道
吹き込む風が涼しく思うてるおですけど、何か?「暑くてしんどいよ~、正直」と先日のガイドさんに言われていた。がしかし、懸念していた台風のお陰で、風が強く良い風が吹き込んできた。東北や関東が大変なことになってるので喜ぶことはできないけどね。姫路城【赤松貞範が築城。戦国時代は黒田孝高(黒田官兵衛)が城主。後に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が城主となり、中国攻めの拠点とし、3層の天守などを置く。関ヶ原の戦いの後、池田輝政が入城し現在の姿に大改修。後に本多忠政が城主となり西の丸など
前記事のつづき、賤ヶ岳登山でもうすぐ頂上というところから。頂上の一角に到着。ここまで、登山口から約30分。振り返ると、近江盆地の水田地帯と伊吹山。整備されて公園のように開けた山頂部に『史跡賤ヶ嶽』の石柱と、碑文が全く読めない石碑。オシャレな木製の山名パネル?早朝の琵琶湖展望が素晴らしい。奥には三等三角点。30分で標高400mも登れる訳がないから、登山口は少し標高があったのだろう。奥に見えてるのは余呉湖。低山には珍しく、凝った立派な彫刻作品が。武者像『戦のあと』という作品で
今晩は🌕歴史人タケ海舟です😋清須会議のお話の二回目‼️何故清須で会議が開催されたのか⁉️前回の投稿で二つの理由があるとお話しました❗️一つは尾張国が織田家の本国であり🤚尾張における信長の本拠が清須だったこと‼️そして今一つのそれについてですが…多分に偶発的な要因によるものでした🆕信長は本能寺で自害🔪同じく京に滞在していた嫡男の信忠は二条新造で明智軍を迎え討ったのですが…衆寡敵せず😔最後は城に火を放って自害を遂げました🔪この時、信忠は家臣の前田玄以に…(のちの五奉行の一
https://ncode.syosetu.com/n7250mf/48継ぐ者源義経〜鬼の弟〜[源頼朝戦記続編]但馬、竹田城。水源を守る出城で、秀長は身を横たえていた。起き上がる力も、もはや残ってはいない。それでも、その男が縄張りした砦は、毛利の大軍を跳ね返し続けている。――やがて、水を運ぶ隊が襲われたとの報が入る。挿絵1:ハイライト源頼家「爺!これまでにない大軍が、こちらへ向かっておりますぞ……!」秀長「他の砦との繋ぎは、取れておるか」源頼家「途
無念、柴田勝家様、律儀で実直で武者の柴田勝家様、賤が谷の戦いで、羽柴秀吉さんに敗れ、お市様と、北ノ庄城で、自刃されました。こういう生き方しか出来なかったのでしょうね。像もいかにも凛々しい。!小浜に浅井三姉妹のパネルがあるのが分かりました。お初の嫁いだ京極高次さんは、小浜城主だったのですね。豊臣兄弟は、これからも楽しみですね。https://www.instagram.com/p/Da6YTX5E28w/?igsh=MWd3bjJvd2RrNGVmNA==
大河ドラマ「豊臣兄弟!」30話「清須会議」を見ました。清須会議、実はよく知らなかった。織田信忠の息子・三法師様が織田家当主になることしか知らなかった。だから名代が織田信雄になるか織田信孝になるか興味津々だった。つまり今話では、名代は羽柴秀吉がなったと言うことで良いのかな?時系列もよく分かっておらず、調べて清須会議は1582年6月27日(山崎の戦いの14日後)この日に領地配分も行われて、織田信雄、織田信孝両名が三法師を支えると決まったらしい。お市と柴田勝家の婚姻は様々説
こんばんは!NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。今日は、20時からのNHKの放映を見たので少し投稿が遅くなりました。前回、「秀吉」は「信長」の弔い合戦でもある「山崎の戦い」で「明智光秀」を攻め、「光秀」は軍勢を整えるべく本拠城「坂本城」へ戻る途中に農民の侍狩りに合って亡くなります。今日のお話ですが、「織田信長」の後継者を決める「清須会議
明智実(光秀嫡流)が作詞歌唱した。君の名は希望。乃木坂46。山崎合戦に羽柴秀吉が遅延した話。津村記久子「ポトスライムの舟」(芥川賞)の話。32万CDオリコン年間22位。レコード大賞を50曲取った!。
覇)三好長慶:吟風弄月の雅覇)甲斐姫:東国の明玉覇)お船:主家存続の決覇)織田信長:古今無双の将覇)立花宗茂:九州の逸物覇)本多忠勝:東国無双覇)佐竹義重:天魔鬼神の業覇)石田三成:主従三世の縁覇)島津義弘:死地後生の決覇)羽柴秀吉:出世の神様©コーエーテクモゲームス
ハムの美味しい食べ方教えて!▼本日限定!ブログスタンプう〜ん、ハムカツ?…🤔「ハムの日」日付けは「ハ(8)ム(6)」の語呂合わせ日本にハムの製造技術が伝わったのは19世紀の後半、第一次世界大戦時にドイツ人捕虜として日本で食肉加工に従事したアウグスト・マイヤー氏が、1921年(大正10年)にロースハムを発明したそうです。「広島平和記念日(広島原爆忌)」1945年(昭和20年)8時15分アメリカ🇺🇸の爆撃機B29エノラ・ゲイが広島に原子爆弾を投下し、14万人以上が犠牲になったと推計
今晩は❗️歴史人タケ海舟です😋本能寺の変の直前…明智光秀は表敬訪問のため安土城を訪れた徳川家康の饗応役を務めていました‼️この頃、方面軍の指揮を担う有力武将はそれぞれの任地での戦闘指揮に忙殺されていて不在‼️方面軍司令官の中で、唯一手の空いていた光秀が信長の命により家康の接待にあたっていました‼️ところが…備中高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉より…高松城を救援すべく、毛利の当主輝元が出馬‼️同じく叔父である吉川元春と小早川隆景が先鋒として高松城近くに布陣‼️高松城を挟んで秀吉
仁王門聖域俗界仕切り門「摩尼さん」と親しまれる天台宗の古刹仁王門鳥取県下には数少ない本格的な形式をもった三間一戸楼門である仁王門階下に金剛力士階上に釈迦如来と十六羅漢を安置鳥取県の有形文化財に、本堂・鐘楼・山門は国の登録有形文化財本堂までは303段の石段がある仁王門は単なる建物の入り口以上の意味を持ち、寺院の聖域と俗界の境界を象徴しますまた、参拝者を守り、寺院の神聖さを示す重要な構造物です摩尼山(357m)は古くから亡くなった人の霊魂が集まる場所と信仰されていた場所158
1583年4月、羽柴秀吉vs柴田勝家の賤ケ岳の戦いがありました。近江と越前を結ぶ北国街道沿いで起きました。柴田勝家は鉄壁の山城・玄蕃尾城を構え、4万の兵を率いてました。羽柴秀吉は北国街道を封鎖するように東野山城を中心にほか3つの砦で防衛ラインを敷いた。漫画「キングダム」で言う函谷関みたいな感じ。そしてその後方に大岩山砦や岩崎山砦など3つの砦で第2防衛ラインを敷いた。総勢7万の兵。最前線の防衛ラインには決して自分たちから攻めるなと告げられていた。動いたのは、美濃で織田信
今晩は🌙歴史人タケ海舟です😋明日は日曜ですが…「豊臣兄弟!」はお休みです😅本能寺の変のキーマンであった齋藤利三のお話…織田政権における長曾我部氏の取次を担当していた明智光秀のもとで…実際に外交折衝の実務を担当していたのが…光秀の筆頭家老だった斎藤利三と…彼の兄である石谷頼辰(いしがいよりとし)の兄弟でした🆕頼辰・利三兄弟の義理の妹が長曾我部元親の正妻で嫡男信親の生母であることから…石谷・斎藤・長曾我部の三家による姻戚関係を軸に織田政権と長曾我部との外交は順調に推移していました
右近城(八頭郡智頭町毛谷)標高360m・比高144m右近城は智頭町毛谷集落の坂清水にあったが、備前国の住人小宮山備前入道宗珠が、文明(1469〜1489)の頃、この地に築城し右近城と称したと云われる。別名を篠坂城というが、それは二の丸以下は旧毛谷村にあり、本丸は旧篠坂村にあったので、その名がある。小宮山氏は、天文十三年(1544)、尼子氏が山中鹿之助を将として大軍をもって攻め寄せてきた時にはその軍門に服し、のち天正年間(1573〜1592)の羽柴秀吉中国攻略の時にも再びその軍門に降ったのち
「敵は本能寺にあり」「是非におよばず」「中国大返し」「洞ケ峠」「天下分け目の天王山」「三日天下」ー、歴史好きな人だけでなく、たいていの日本人はこれらの言葉のどれか一つぐらいはご存じであろう。いずれも天正10年(1582)6月2日、まだ夜も明けやらぬ京の本能寺で起こった「本能寺の変」と、それに続く2週間ほどの事柄にまつわる言葉である。今から約440年も昔の事件に由来するこれらの言葉が私たち脳裏に浮かぶということは、本能寺の変が日本史上まれにみるクーデター(武力政変)であるばかりか、そこ
天下分け目の戦いと言われるのは3つある。その中の「山崎の戦い」をNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」でやっていた。この古戦場には行ったことがある。天王山の山裾から東側を見ると、眼下に広い平地がずっと広がっている。ここで合計4万人ぐらいの軍勢が戦ったんだなあ、と思うと何とも感慨深い気持ちになる。この場所で1時間くらい、ぼおっと景色を見ていた。山崎の戦古戦場1km余り前方を新幹線がひっきりなしに走っている。その速さもすごいが、音もすごい。右側から左へは大阪から京都へ。左側から右
今晩は‼️歴史人タケ海舟です‼️先週の「豊臣兄弟!」…織田連合軍と明智軍との決戦となった…山﨑の合戦❗️勝敗の行方が決した時点で…内藤剛志さん演じる斎藤利三が…要潤さん演じる光秀に対して…戦場からの撤退を進言していました❗️「殿がご無事であれば我らはまだ戦うことができまする❗️」利三の進言を受け入れ、坂本城へ逃れることを決断した光秀は…「坂本城で会おう❗️」「必ずそなたも参れ❗️」と利三に生きて戻って来るように言葉を掛けていました🆕そして…その直後の利三の言葉に…
3連休を貰えたので何処かへ1人旅に行こうか考えてましたら、高松と徳島のホテルが安く取れそうでしたので、香川で讃岐うどん巡りをして~、徳島で城巡りと徳島ラーメンを目当てに行ってきましたよ。その前に、どうしても行きたい城跡がありまして・・・、瀬戸大橋渡る前に岡山県の総社市の方へ向かいました。その城跡は備中高松城ちなみに住所は岡山市北区高松になってます。今、まさにNHKの大河ドラマで中国の毛利討伐に向かってた羽柴秀吉でしたが、織田信長が明智光秀に討たれた後、秀吉が中国大返しを行った地。備中
今晩は🌙‼️歴史人タケ海舟です😄昨日の「豊臣兄弟!」…本当に見応えがありましたね‼️色々と思うところがあるのですが…私が気になったシーンを…一つだけピックアップします‼️それにしても…豊臣兄弟の絆の深さとは対照的に…織田兄弟の救いようのない仲の悪さは…次世代でも引き継がれることになります🆖信長VS信勝兄弟から…信雄VS信孝の確執へ‼️次回以降の清洲会議への伏線が早くも貼られていましたね🆕明智討伐戦において総大将の役割を務めことになった信孝の所に…異母兄信雄の書状が届
大河ドラマ「豊臣兄弟」の第29回を鑑賞。今回は、「山崎の戦い」でしたね。総大将が、織田信孝であるということが、明確に、描かれていた。やはり、「羽柴秀吉は、現場に居なかったのでは」と、言う話は、ドラマの中では、採用されなかった。もっとも、この説が出たのは、つい、最近で、この説が、報道された時には、もう、ドラマの撮影は、終わっていたのではないでしょうかね。明智光秀の最期は、明確に、描かれませんでしたが、これが、後に影響を与えるということは、無いのでしょう。明智光秀は、「山崎の
大河ドラマ「豊臣兄弟!」29話「天下への道」を見ました。わざわざ明智光秀を生け捕りにして動機を聞く内容でしたね。自分の思う足利義昭黒幕説を補強してくれてありがとうです^^自分の思う足利義昭黒幕説とは?毛利領鞆の浦で堂々と生きている足利義昭。浅井長政、朝倉義景、武田信玄を失っても影響力を持ってたと考えます。本願寺や上杉謙信や雑賀衆や備前や播磨や摂津や丹波にも書状を書きまくって織田信長を倒そうとしていたと考えます。別所長治や荒木村重の謀反も足利義昭の影響と考えます。織田信