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※2026年2月5日訪問※乾曲輪の真ん中には【十字紋の鬼瓦↗️】と書かれた案内板が建てられています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼にの門櫓(右の二層櫓)の唐破風屋根に乗っている鬼瓦には、十字紋が貼られています。キリシタンの名残りとか魔除けともいわれますが、日本の城では珍しい紋瓦です。なお、この櫓の南面と東面の鬼瓦には、波しぶきが彫ってあります。これは火除けを祈ったものと思われます。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲案内板の矢印はすぐ側にそびえる【にの門櫓】に向けられてい
※2026年2月5日訪問※はの門を潜った先は【乾曲輪】という曲輪が広がっています曲輪の北側には地形に沿ってへの字に折れ曲がった平櫓【ロノ櫓】が見えていますねロノ櫓は左右に控える土塀と共に、国の《重要文化財》に指定されています左手に見える低い石垣の上には、かつて【イノ櫓】や【多聞櫓】が建てられていたようですこの辺りの石垣も石の積み方が古く、羽柴秀吉時代の石垣ではないかと推測されています◆播磨国・姫路城(白鷺城)十字紋の鬼瓦(にノ門櫓)/世界文化遺産・国宝・特別史跡◆に続く
戎光祥出版が発行する『戦国武将列伝』も本書が最終巻。羽柴(豊臣)秀吉・秀長兄弟をはじめとする一門や宇喜多秀家、京極高次、杉原家次ら親族衆蜂須賀正勝・家政、竹中重治、黒田孝高・長政親子などの譜代家臣団加藤清正、藤堂高虎、石田三成ら子飼い家臣そして蒲生氏郷、長岡(細川)忠興、池田輝政という旧織田家臣(主な活躍時期が本能寺の変以降となる世代)の順に計40名の武将の列伝が解説されています。最新研究に基づく解説により、旧来言われてきた「蜂須賀小六(正勝)は野盗あがり」などの俗説を一蹴しつ
二股台奥陣城(鳥取市馬場町・栗谷町・上町)鳥取城包囲陣の一つ。各陣城の境界が不明なので、仙石秀久陣城、堀尾吉晴陣城、羽柴藤五郎陣城、二股台陣城、二股台東陣城、二股台奥陣城、舞上陣城と七つ連なった概略図西十三郭西十二郭西十一郭西十郭西九郭二股に別れる通路西八郭西七郭西七郭の東櫓台西七郭の南土塁西六郭西五郭西四郭西三郭西三郭の北土塁西二郭主郭主郭の謎の溝謎の溝軌跡ログ鳥取市の城
日程:2026年11月28日(土)時間:14:00~16:30場所:国立オリンピック記念青少年総合センター料金:無料内容①「羽柴秀吉天下人への第一歩〜長浜」講師:松下浩氏(滋賀県観光文化スポーツ部文化財保護課)②「賤ケ岳の戦い1.羽柴軍の最前線〜神明山砦・堂木山砦」講師:大崎康文氏(滋賀県観光文化スポーツ部文化財保護課)③「賤ケ岳の戦い2.羽柴軍の本陣〜田上山城」講師:松田篤氏(滋賀県観光文化スポーツ部文化財保護課)詳しくはこちらで「近江の城」魅力発信事業・東京
※2026年2月5日訪問※将軍坂を登った先には【はの門】が待ち構えています梁の部分には【はノ門】と書かれた札が据え付けられていますねはの門は天守への侵入を防ぐ重要な門で堅牢な櫓門の形式です屋根は切妻造り、門扉は素木のままで、門を飾る金具も最小限に省略された簡素な造りの脇戸付櫓門です門の側には【石灯籠の基礎】と書かれた案内板が設置されているので確認しておきましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼姫路城では、姫山やその近隣にあった寺の墓石や石仏、古墳の石棺などの石造品が石垣や建物
※2026年2月5日訪問※天守へと向かう登城路の途中に位置する【はの門南方土塀(将軍坂)】を見て行きましょうこの場所は、分厚い土塀を間近で堪能出来る、お城ファンにはたまらない場所ですよね観光客の方が多い時間帯などは道が混雑してしまい、中々シャッターチャンスが難しい場所ではありますが、土塀と坂道と天守群を1枚の画角に納める事の出来る絶好の撮影スポットでもあります📷ちなみに、この石段の坂道は、松平健主演のテレビドラマ『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系列/昭和53年〜平成14年放映)で江戸城という
※2026年2月5日訪問※西の丸跡から天守方面へ歩いて行きます途中に【「五芒星」の刻印】と書かれた案内板が設置されているので確認しておきましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼一西の丸・化粧櫓西側一姫路城の石垣には、約50種90個の文様や文字などが刻まれ、これらを「刻印」と呼んでいます。刻印は、石の産地、提供者名、工事担当者名、運搬作業者名や呪符などではないかと考えられています。石垣の地面に近いところに、「奈良村」と刻まれた石があります。江戸時代、姫路市周辺に「奈良
おはようございます🌅歴史人タケ海舟です😊敗軍の将となり、所領を失った滝川一益は…出家して、越前での蟄居生活に入りました😖柴田勝家の領国だった越前は、丹羽長秀が新たな領主となっていました🆕一益は同僚である長秀との縁を頼り、越前に腰を落ち着けたと思われますが…そのまま、大人しく引退したのか❓と言えばそうではなく…秀吉の下、京都で政治活動を行っていました🆕関東の取次役であった経験を買われたのか⁉️一益は小田原北条氏宛の書状を出すなど、秀吉の外交活動に従事‼️洛中では茶の湯を主催す
二股台東陣城(鳥取市馬場町・栗谷町・上町)鳥取城包囲陣の一つ。各陣城の境界が不明なので、仙石秀久陣城、堀尾吉晴陣城、羽柴藤五郎陣城、二股台陣城、二股台東陣城、二股台奥陣城、舞上陣城と七つ連なった概略図西二郭主郭主郭の北土塁東土橋北横堀東二郭東二郭の北東横堀東三郭軌跡ログ鳥取市の城
※2026年2月5日訪問※化粧櫓のすぐ側には西の丸の北側の出入口である【西の丸北門】が設けられていました【西の丸北門跡】の案内板が設置されているので確認しておきましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼西の丸への入口は、南北に一つずつあります。ここは北入口の門跡で、脇戸付きの高麗門でした。通路上に残る約50cm角の3つの石が門の礎石です。西の丸はかつて本多忠刻の居館があったので、出入口はしっかりと守られました。この門の西端には武者溜りがあります。化粧櫓1階部分の石垣を張り出さ
今晩は⭐️歴史人タケ海舟です😊本日より…秀吉の関白任官についてお話したいと思います🆕「豊臣兄弟!」では、いきなり秀吉が関白となるべく…元関白である近衛前久(このえさきひさ)の養子となるべく、直談判に及んだ❗️かのような描写がありました💦史実としては間違いはないのですが…問題は、この当時の秀吉が、朝廷内でどのような地位にあったのか❓という説明が省略されていたと思われます🆖先ずはそこから話したいと思います🆕天正十年(1582)に起きた本能寺の変で、信長と信忠父子が落命した段階
※2026年2月5日訪問※ワノ櫓から化粧櫓までの【百間廊下】と呼ばれる長屋の内部、約240mを散策して来ました百閒廊下の内部の印象としては、当時の女中や千姫達の『居住区』としての印象が強かったように感じましたしかし、姫路城はれっきとした『お城』という軍事要塞🏯🔥今度はその『要塞』としての様子がわかりやすい建物の外観を確認して行きたいと思いますまずは出口となった【化粧櫓】から【化粧櫓】【カノ渡櫓】【ヌノ櫓】【ヨノ渡櫓】【ヨノ渡櫓〜ヌノ櫓】【ヨノ渡櫓】【タノ渡櫓〜ルノ櫓〜ヨノ
※2026年2月5日訪問※西の丸百閒廊下の最終地点である【化粧櫓】を見て行きましょうワノ櫓から約240mに渡って続いた百閒廊下の出口部分になっている化粧櫓千姫所縁の櫓としてとても有名ですよね【化粧櫓】の案内板が設置されているので、確認しておきましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼化粧櫓は、千姫が本多忠刻に嫁いだ際に、将軍家から贈られた10万石の化粧料の一部を使用して建設されたといわれる櫓です。階上には18畳、15畳、窓辺に6畳の3室をとって、天井には杉板張り、壁面はすべて黒
徳川家康(6)燃える土の巻(山岡荘八歴史文庫)Amazon(アマゾン)山岡荘八著「徳川家康〔6〕燃える土の巻」を読みました。前巻は大賀弥四郎が武田勝頼に通じて企てた謀叛まであと少しというところで終了しましたが、築山御前はそれとは別に家康の側室・お万の方の暗殺を企てます。お万の方に子供が生まれたお祝いを送る口実で侍女を差し向けますが、この侍女が刺客でした。同席していたもう一人の側室・お愛が、侍女が懐剣をお万に向けたときに見事に取り押さえ、計画は失敗に終わります。こ
二股台陣城(鳥取市馬場町・栗谷町・上町)鳥取城包囲陣城の一つ。各陣城の境界が不明なので、仙石秀久陣城、堀尾吉晴陣城、羽柴藤五郎陣城、二股台陣城、二股台東陣城、二股台奥陣城、舞上陣城と七つ連なった概略図主郭のL字型土塁主郭の北土塁主郭南二郭南二郭の東虎口東横堀外から見た東虎口北二郭東二郭東二郭の北土塁東二郭の南土塁東二郭の東横堀横堀からの竪堀群外側に土塁のある北横堀軌跡ログ鳥取市の城
※2026年2月5日訪問※ヨノ渡櫓南棟から扉の奥の【ヨノ渡櫓北棟】へと進んで行きます門を潜り、90度折れ曲がるとその先にヨノ渡櫓北棟・ヌノ櫓・カノ渡櫓と小部屋が続きますこちらは【ヌノ櫓】部分ヌノ櫓も国の《重要文化財》です幅1間の廊下は何度も曲げられており、廊下側には石落しや狭間、高窓(煙出し)など、厳重に警備されています🔥ヨノ渡櫓・ヌノ櫓・カノ渡櫓はかつて千姫の待女達が暮らした《長局》で、昭和の大修理の際に華麗な装飾が施されていた事がわかっています続いては【カノ渡櫓】へこちらも国
※2026年2月5日訪問※タノ渡櫓から進み【ルノ櫓】へ歩いて来ましたこのルノ櫓も国の《重要文化財》に指定されていますルノ櫓内部では姫路城や城郭建築についてのパネル展示がなされていました【伝統の技術】▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼姫路城は、慶長6年(1601)の池田輝政による大改修により完成。明治政府の廃藩置県や第二次世界大戦の空襲など、幾度かの消滅の危機を乗り越え、大、小の天守群をはじめとする多数の木造城郭建築群が、築城当時とはほぼ変わらない姿で約400年後の今日まで伝えら
期間:2026/10/06〜10/13天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額戦)豪姫:豪気なる賢姫覇)前田利家:笄斬りの剛直覇)羽柴秀吉:立身出世の星武)宇喜多秀家:千軍万馬の構薬)摩阿姫:窈窕の蒲柳戦)宇喜多直家:悪辣の風雲児©コーエーテクモゲームス
※2026年2月5日訪問※仮設廊下から扉の先に進むと【ヲノ櫓】に入ります階段を上がり櫓の二階部分へこちらのヲノ櫓も現存する貴重な櫓で、国の《重要文化財》に指定されています城の外側を向いた壁には狭間が設けられています【狭間】についての案内板が設置されているので確認していおきましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼挟間は、鉄砲や弓矢を放つために土塀や櫓等の壁面に開けられた開口部です。円形、三角形、正方形のものは鉄砲挟間(銃眼)、縦長の長方形のものは矢挟間です。西の丸の櫓群には
羽柴藤五郎陣城(鳥取市馬場町・栗谷町・上町)鳥取城包囲陣の一つ。堀尾吉晴陣城、二股台陣城との境界が不明なので、仙石秀久陣城、堀尾吉晴陣城、羽柴藤五郎陣城、二股台陣城、二股台東陣城、二股台奥陣城、舞上陣城と七つ連なった概略図西七郭西六郭西五郭西四郭西三郭櫓台土橋北三郭北四郭西二郭主郭主郭から東への土橋北横堀東二郭東二郭の北の窪み北二郭軌跡ログ鳥取市の城
※2026年2月5日訪問※百間廊下の中でも比較的新しいと感じる長屋部分を進んで行きます実は百間廊下のほぼ中央部、ヲノ櫓とレノ渡櫓のこの部分は、昭和になって建てられた【仮設廊下】の長屋なんです1934年(昭和9)年にレノ渡櫓に続く隅櫓が石垣もろとも崩落修理にあたり、隅櫓に接する渡櫓も腐朽が激しかったために解体され、石垣だけが詰み直され、土塀が新たに築かれました建物の復旧は諦めた為、現在は渡り廊下として整備されており、この部分は文化財指定は受けていないとの事でした◆播磨国・姫路城(白鷺城
いつもは愛知県の城址や戦国時代の史跡を巡っている愛知ウォーキング城巡りクラブで滋賀県長浜市の長浜城址に行ってきました。>>愛知ウォーキング城巡りクラブ公式サイト織田信長によりが浅井氏が滅亡した後、この地は羽柴秀吉に与えられました。秀吉は山城の小谷城から平城の長浜城へ移ります。この時、小谷城下から商人や町人を移しましたが、さらにいくつもの寺院まで長浜へ移したのです。今回はそれら寺院のうち、知善院、徳勝寺、妙法寺を巡りました。知善院(ちぜんいん)知善院は長浜城の「鬼門」にあた
おはようございます☀️歴史人タケ海舟です🙂滝川一益のお話…私がかなり気持ちが入ってしまっているのか⁉️かなり長引いてしまいました😅伊勢方面で羽柴方を引き付けておいた隙に…柴田勝家が近江に向けて出陣❗️さらに岐阜城の織田信孝が挙兵❗️三方面作戦を強いることにより、羽柴軍の戦力分散と持久戦で疲弊させる戦略を展開していたのですが…賤ヶ岳での主力対決で柴田軍は、秀吉の美濃大返しという奇略の前に大敗🆖北の庄城に逃げ帰った勝家に態勢を立て直させる間を与えず…秀吉は寝返った前田利家を先鋒
後半は主に天正壬午の乱に対応する、羽柴秀吉と柴田勝家以下の織田家の有力者たちとその周辺大名の群像劇だ。本能寺の変により、織田信長・後継者の織田信忠・織田政権の中枢の閣僚たちが全滅。織田政権は消滅した。再建を図る者・乗っ取りを謀る者・生き残りを図る者たちが書かれている。この本は、普通に見て2040前後のアメリカ崩壊時に、日本とその周辺諸国が取るべき行動の重要な参考になる事は間違い無い。主人公である毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家、そしてこの三人と関わりの深かった羽柴秀吉をクローズアップしている。
申したであろう御仏の怒りはこの秀長が、一切引き受けると磐覚(ばんかく)和尚の坂口涼太郎さん怪演でしたね〜///時に冷静されど一転、仏像のような立ち姿で激情そんなこんなで太閤検地は進められたわけかあと、蜂須賀正勝の高橋努さんあの芸人さんにそっくりだなは置いといて笑無骨ながら情に厚く誰に対してもはっきり自分の意見が言えるそんな漢になりたい(*´-`)
※2026年2月5日訪問※廊下の突き当たり部分には【石落し】を確認する事が出来ます【石落し】の案内板が設置されているので確認しておきましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼石落しは、橋、城門、土塀などに設けられる防御のための設備で、下に迫る敵の監視や攻撃を行うための防御設備です。建造物の外壁や塀の一部を張り出し、床面の開口部には蓋を設けて、主に鉄砲、館、矢等で攻撃することができます。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲階段を登って、更に先へ進んで行きます【近代の姫路城】
おはようございます☀️歴史人タケ海舟です😊久々の午前中の更新です🆙三好信吉から羽柴秀次への改名話の続きです❗️「信吉」という名前に改めたのは、清須会議前後の時期であった❗️とされているのですが…織田信孝と三好康長の養子縁組が解消されたことを受けて…新たに信吉が養子になったことに伴い改名しました🆕注意すべきは、養父康長の名乗りを含めずに…「信吉」と改めたことで、「信」は織田家の通字❗️「吉」は秀吉の下の字から名前を構成していたことであり…清須会議での決定事項、すなわち織田新体制
※2026年2月5日訪問※ワノ櫓から【百間廊下】へと向かいます🚶まずは百間廊下についての予習をしておきましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼西の丸を囲むように築かれた300m近い長屋は「百間廊下」と呼ばれています。右手(北)の部分は長局で、忠刻の御殿で働く奥女中の住む部屋がありました。そうした居住施設としての機能の他に、西側からの攻撃に対する防御機能がありました。姫路城の西側は山がすぐ近くに迫り、防御上の弱点でした。そのため、百間廊下では外側(西)に向かって格子窓や狭間
今晩は🌙歴史人タケ海舟です🙂小牧・長久手の戦いの前後に秀長が改名した話をいたしましたが…同時に甥の三好信吉も名前を改めています🆕ところで🎌よくよく考えますと、この秀吉・秀長の甥は…何度も養子に出されては呼び戻され…その度に、何度も改名をしていますまさに、叔父兄弟の急激な出世ぶりを象徴するかのような足跡を辿っていることが窺われまますね😥こうした傾向は、この後も変わるどころが…ますます加速して💨遂には彼自身を破滅させることになるのですが☢️今回の「豊臣兄弟!」がそこまで描くの