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4月25日から長浜城歴史博物館で秀吉・秀長兄弟をテーマにした企画展が始まっています。秀長が出した現存最古の文書など、貴重な資料が展示されているようです。「木下長秀書状」(豊臣秀長の最古の書状)「木下長秀書状」は、豊臣秀長が「木下長秀」を名乗っていた頃の文書。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
覇)三好長慶:吟風弄月の雅覇)甲斐姫:東国の明玉覇)お船:主家存続の決覇)織田信長:古今無双の将覇)立花宗茂:九州の逸物覇)本多忠勝:東国無双覇)佐竹義重:天魔鬼神の業覇)石田三成:主従三世の縁覇)島津義弘:死地後生の決覇)羽柴秀吉:出世の神様©コーエーテクモゲームス
琵琶湖に浮かぶ竹生島は、古くから弁才天と観音の聖地として信仰されてきた島。戦国時代に北近江を支配した浅井氏三代の領内にあったことから、浅井氏にとっては極めて重要な信仰の場でした。1558年(永禄元年)の「永禄の大火」で島内の堂塔・社殿がことごとく焼失しまうと・・・三代当主の浅井長政は島内の宝厳寺や竹生島神社の復興に深く関わり、織田信長との戦いで籠城中であったにもかかわらず、復興のための材木を筏を組んで島へ運ばせていたのだといいます。信長も、この復興作業を攻撃せず黙認していたのだと伝えられ
歴史的大発見!織田信長?羽柴秀吉?武田信玄?徳川家康?淀君?バカボンのパパ?※AIに作ってもらったんですが、あんまり私たちの想像する顔と違いますよね。
「木下澤瀉(おもだか)」っていうのか!いや、子供の頃から、気になっていたんですよ。豊臣秀吉、になる前の羽柴筑前守秀吉、木下藤吉郎秀吉は、家紋は何を使っていたんだろう、って。ほら、子供って、家紋大好きじゃないすか(?)。よくドラマで、羽柴秀吉時代の秀吉が、のちに豊臣の代名詞になる桐紋を使ってるのを見て、これおかしくないか?って思ってたんです、だって桐は天皇家の替紋であって、将軍だ関白だになると使うことを許されるヤツですよね。あれは信長から貰ったんだという話を読んだ事あるけど、天皇から貰った
黒壁スクエア滋賀県長浜市元浜町12番38号娘のママ友さんと3人で最初は長浜へ黒壁スクエア江戸時代に栄えた北国街道周辺に、今なお残る歴史的建造物を利用して構成される複合観光スペース江戸~明治時代に造られた蔵や商家を生かしたショップ、ギャラリー、レストラン、カフェ、ガラス工房などが点在4月16日黒壁の裏側に花の簾が娘と友人のMさん
如意輪山小谷寺(おだにじ)小谷寺は、今から約1300年前、聖武天皇の神亀5年(728年)、加賀白山の開祖泰澄上人が、白山から伊吹山までの峰々に修験場を開き、その時、小谷山に建てられた坊舎の中の一つでしたその頃は、「常勝寺」といわれていましたが、これが現在の小谷寺の開創だといわれています『淡海木間攫』(おうみこまざらえ)寛政4年(1792)成立によれば、中興海山勢伝法印の時に、浅井亮政の祈願寺として「小谷寺」と改めたとされる天正元年(1573)、小谷落城の時、お寺も本
『長浜曳山まつり』は、「京都の祇園祭」「高山市の高山祭」と並んで「日本三大山車祭」の一つに数えられる祭りで、4月9日から17日まで祭典が続きます。祭りの期間中は各行事が行われ、15日の本日には「長浜八幡宮」から「御旅所」まで子供歌舞伎が4か所で演じられ、長刀山と出番山の4基の車が勢揃いします。長浜城主だった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に男の子が生まれた際、秀吉は城下の人々に祝いとして砂金を下賜したと伝わります。町民たちは、秀吉から頂いた砂金を元に12台の山車を作り、長浜八幡宮の祭礼で曳き
織田信雄・徳川家康の連合軍と、羽柴秀吉軍が争った小牧・長久手の戦い1584年の小牧・長久手の戦いを紹介する「長久手古戦場記念館」が、4月22日にオープンします開館に合わせた新お土産として、名古屋名物のひよこ形スイーツ「ぴよりん」とコラボさせた「長久手古戦場ぴよりんもなか」が完成されたと報道で見ました「長久手古戦場ぴよりんもなか」は、長久手市観光交流協会と、長久手市下権田の和菓子店「浅井屋製菓舗」、愛知淑徳大の学生さん達で共同開発をされたそうです「ぴよりん」の製造元であるジ
大河ドラマ「豊臣兄弟」の第14回を、鑑賞。今回は、いわゆる「金ヶ崎の退き口」の話でしたね。この「金ヶ崎の退き口」について、ネットで調べて見る。そもそも、この「金ヶ崎の退き口」のきっかけになったのは、織田信長が、北陸に出陣をしたこと。昔は、この織田信長の北陸への出陣は、若狭の平定を口実にして、越前、朝倉氏を攻めるために行われたと言われていましたが、近年、この織田信長の出陣は、信長の意思ではなく、将軍、足利義昭の命令だったのではないかと言われています。なぜ、足利義昭が、織田信長
創作小説『戦国サイコパス』〜迷の七〜天正13年(1585)7月、より高みの権威と権力を欲する羽柴秀吉(48)が、朝廷より関白を補任されると、月末には四国の長宗我部元親(46)は停戦条約を呑んで全面降伏した。そして、8月には四国割譲が行われた。己の政権を確立させた秀吉は、これをきっかけに全国規模での国替えを押し進める。更には未だ秀吉政権に抵抗をみせる九州征伐の準備にも取り掛かるのだった。権威と権力を行使した、飴と鞭による人身掌握、これこそが秀吉の天下統一だった。同年8月、秀吉は佐
創作小説『戦国サイコパス』〜迷の六〜天正13年(1585)5月、紀州雑賀攻めを終えると羽柴秀吉(48)は、その勢いのまま四国征伐を行う。この行軍に水野勝成(21)は秀吉方・仙谷秀久家中として手勢1000人で従軍していた。これは、秀吉の直臣となっていた水野忠重(44)が、雑賀攻めの織田信雄(27)が勝成を抱えていたことを知り、猛抗議でこれを指摘したためだった。忠重と信雄の序列は、もはや同等にまでなっており、信雄はやむなく勝成を放出せざるを得なかったのだ。たが、かねてより勝成を知り
日本三大名城の一つとされる姫路城は、1346年(正平元年)に赤松貞範により築かれました!西国統治の重要拠点として、羽柴秀吉・池田輝政・本多忠政が城を拡張し、五層六階の大天守と三つの小天守があり、その真っ白な外観と形から白鷺城とも呼ばれています!姫路城は、江戸時代初期に建てられた天守や櫓などの主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されています。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として、国の特別史跡に指定されています。明治時代に大修理が行われ、姫山
おはようございます。今日、4月6日は・・・。しろの日兵庫県姫路市が1991年に、日本三大名城の一つ姫路城を中心とした市の復興の為に制定。四(し)六(ろ)で「しろ」の語呂合せ。姫路城は、1333(元弘3)年に赤松則村によって築かれた。西国統治の重要拠点として羽柴秀吉・池田輝政・本多忠政が城を拡張し、現在の形になったのは1619年であった。五層六階の大天守と三つの小天守とがあり、その形から白鷺城とも呼ばれる。1912年に国宝に、1993年に世界文化遺産に指定された。新聞をヨム日
令和八年四月五日、尾張国小牧山ニ於テ桜祭催サレ、其ノ余興トシテ小牧長久手チャンバラ合戦行ワル。小牧武道館ノ小児精鋭、羽柴秀吉軍(黄)ニ属シテ参陣ス。其ノ面々、年若キト雖モ気概鋭ク、三度ノ戦ニ臨ミ、二勝一敗ノ功ヲ挙ゲ、軍ヲ勝利ニ導ケリ。其ノ働キ、実ニ目覚マシ。或ハ刀ヲ携エテ果断ニ突入シ、或ハ草陰ニ身ヲ潜メ、敵ノ虚ヲ衝キテ奇襲ヲ成功セシ者モアリ。是等ノ策、巧ミニシテ、敵軍、遂ニ壊滅寸前ニ追イ込マレタリ。後ニ語リ伝エラルル所ニ曰ク、「小牧武道館ノ若武者共、齢少ナキト雖モ武勇群ヲ抜キ、戦国ノ
堀城(日野郡日野郡榎市)標高337m・比高17m堀城は毛利方の城で、秀吉の中国来攻の時に落城し、討死にした武将の墓や五輪塔があり、小休場、出張、首塚などの地名が残っている。堀八幡宮へ参道途中の東三郭東二郭南東腰曲輪北東竪堀北東竪堀の下の北東帯曲輪堀八幡宮が鎮座する主郭主郭の南土塁北二郭南堀切南二郭西二郭西二郭の北竪堀東出丸堀城遠望軌跡ログ日野郡日野町の城
こんばんは、mmm(まーママ)です。3月12日(木)今回、初めての長期の車中泊、タンクの水が無くなったので、水汲み場を急遽探しました。繖命水(さんめいすい)滋賀県東近江市北須田町174繖山(きぬがさやま)のトンネル掘削作業中に鈴鹿山脈に源を発した伏流水が湧きだした場所です。数台駐車可能なスペースもあります。口にする前には煮沸するよう注意書きがありました。お賽銭を入れてお詣りしました。それでは、本日のメインイベント「安土城
創作小説『戦国サイコパス』〜迷の四〜天正13年(1585)水野勝成(21)は遠江の徳川家康(42)を訪ね、羽柴秀吉(48)の討伐を打診するが断られ、再び放浪の身となる。しかし、家康としては討伐を諦めた訳ではなかった。天正11年から12年にかけて徳川家の領内では地震や大雨の災害が重なり、更に小牧・長久手の戦いでの田畑の荒廃は飢饉を招いていて、大規模な戦よりも領内の立て直しが近々の急務であったためである。なにより小牧・長久手の戦いで何も得られなかった徳川家の財政はひっ迫していた。家康は
英雄たちの選択「長浜」を見ました。1573年、浅井長政の小谷城を攻め落とした。小谷城を残すか?残さないか?が選択だったが、残さなかった。木下藤吉郎秀吉は琵琶湖に面した今浜と言う地の名を改め長浜とし、湖中まで広げた長浜城を築城した。琵琶湖水運と年貢免除地を巧みに利用して、金と人を得た。ここから自分の妄想が始まるが、明智光秀の坂本城に船で行けるようになり、武具、兵糧など近江なら自由に移動できるようになった。だから進軍スピードが上がったのでは無いでしょうか?それと小谷城は
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公・豊臣秀長の家臣・藤堂高虎の築城について歴史探偵『戦国の築城名人藤堂高虎』の内容メモ秀長の家臣として築城術を学び、家康の下で時代に合わせた築城の才をいかんなく発揮した藤堂高虎(NHK歴史探偵『戦国の築城名人藤堂高虎』より)内容や感想について藤堂高虎がいかにして築城の名人となったのかを探る回(NHK歴史探偵『戦国の築城名人藤堂高虎』より)秀長の下で学んだ築城術高虎が築いた三重県熊野地方の赤木城で、その縄張りや防御力を高めた石垣な
創作小説『戦国サイコパス』〜迷の壱〜小牧・長久手の戦いはその後、各所で小競り合いはあったものの、両軍による全面的かつ決定的な衝突のないまま膠着状態が続いていた。事態は次第に諸国の諸大名、諸将を巻き込んだ外交戦へと推移していた。羽柴秀吉(47)は、兵力において圧倒的優位であったにも関わらず、相次ぐ戦況の悪化は、実質的な軍事敗北間近という窮地に直面していた。状況を打開すべく秀吉は自ら積極的に調略を含む和平工作に動き出す。秀吉が当初、徳川家康(41)と織田信雄(26)に示した和議の調
大河ドラマ『豊臣兄弟!』で猪塚健太さんが演じる織田四天王の一人、滝川一益について『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|全番組が無料放送』の内容メモ鉄砲・お茶・能と多芸な滝川一益、信長に関東を任されるも、直後の本能寺の変で運命が急転(『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|』より)内容と感想今回は、柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀らとともに織田四天王の一人と呼ばれた一回の牢人から関東の主にまでのし上がるも没落した滝川一益の人生を見る回<丹羽長秀年表
豊臣秀吉さん豊臣秀吉(とよとみひでよし/とよとみのひでよし、旧字体:豐臣秀吉)または羽柴秀吉(はしばひでよし)改名:木下藤吉郎、秀吉、羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉別名:別名:元吉渾名:木綿藤吉、豊太閤、猿、禿げ鼠1537年3月17日(天文6年2月6日)生まれ、1598年9月18日(慶長3年8月18日)、61歳没。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。1941年~45年刊行、吉川英治の歴史小説『
3月16日月曜日大河ドラマ「豊臣兄弟」主要登場人物明智光秀(要潤)明智光秀(あけちみつひで)戦国時代から、安土桃山時代にかけての武将、大名。明智氏は第56代清和天皇を祖とする清和源氏頼光流多田源氏の一流土岐氏の流れを汲む一族であるが、光秀が同明智氏出身かは不明。通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに
3月1日1月末に続き、茨城県水戸へ妻と行ってきた。第1の目的は、茨城県の県立歴史館で2月7日から3月22日まで行われている企画展『資料を集め、伝え、編む~東京大学史料編纂所』。史料編纂所所蔵の織田信長直筆書状や羽柴秀吉が中国攻めの際に発出したとされる起請文(キショウモン)が自分的に見どころ。第2は水戸偕楽園が梅まつりを開催中なので、そちらも行くつもり。奥さんは、多分、後者がメインw今回は、本番なので開館30分前の9時少し前に歴史館に到着
大河ドラマ『豊臣兄弟!』で倉悠貴さんが演じる黒田官兵衛の若き頃の失敗を『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|全番組が無料放送』の内容メモ確かに理も大事だが、情が分からなかったので荒木村重を説き伏せられずに幽閉されてしまった若き黒田官兵衛の失敗(『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|』より)内容と感想今回は、信長に反旗を翻した荒木村重を単身で説得しにいくも捕らえられ、幽閉生活を送ることになった黒田官兵衛のその失敗の理由を探る回です。<黒田官兵衛
大河ドラマ『豊臣兄弟!』で池田鉄洋さんが演じる”米五郎佐”と言われた織田四天王の一人、丹羽長秀について『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|全番組が無料放送』の内容メモ1歳年上、兄のような信長に仕えた織田四天王の丹羽長秀、本能寺の変後は秀吉に従い、織田家と対峙せざるえないことに(『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|』より)内容と感想今回は、信長四天王の一人、”米五郎左”こと丹羽長秀ついて<丹羽長秀年表>(『偉人・敗北からの教訓|BS11
いつも「カッキーは全国を旅するブログ」をご覧くださいましてありがとうございます。2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」にちなんで、豊臣兄弟の立身から成長の舞台となった「愛知・岐阜」をめぐった様子を紹介しました。🏯今回の目標「10城を攻略」は達成しましたが、そのほかにも目標設定してることがあります。それが「東海道新幹線に乗って"秀勝"を登用する」というものなのでした。豊臣秀吉の養子となった羽柴秀勝は3人存在したそうで、それにちなんだイベントに参加した様子を紹介します。
創作小説『戦国サイコパス』〜暴の四〜天正12年(1584)3月、織田家の力を完全に削ぎたい羽柴秀吉(47)は織田信雄(26)配下の臣らへ、自身の家臣への鞍替えを囁き続ける。甘言に応じる者が出るなか、水野忠重(43)はこれには頑なに応じなかった。家臣団も情報網も喪失して、秀吉に不満と敵意を募らせていた信雄は、秀吉のこの行動に立腹した。そして、家中に内通者が居るとして、自身の重臣だった三家老らを謀殺してしまう。信雄はこの時既に、家中配下の人事の動向すら掌握できていなかったし、信雄に進言
いつも「カッキーは全国を旅するブログ」をご覧くださいましてありがとうございます。引き続き、2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」にちなんで、豊臣兄弟の立身から成長の舞台となった「愛知・岐阜」を日帰りでめぐった様子を紹介します。前回記事より名古屋市の近隣にある「天守のあるお城🏯」を連続で訪問しています。今回その一つで「失敗したこと」を紹介します。岐阜城で失敗!今回はこちらのお城から始まります。「岐阜城」は金華山の山頂に天守が建つお城。この建造物は1956年(