ブログ記事524件
いろいろな古代史本を読んでいると、「なんとなく」決まり事みたいになっている事柄に出会うことがあります。「第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の崩御年が453年(『古事記』では454年)である」というのもその一つではないでしょうか。【允恭天皇陵(市野山古墳)】古市古墳群にある墳丘長230メートルの前方後円墳です。5世紀後半の築造と考えられています。『日本書紀』では、允恭天皇は壬子(みずのえね)の年(412年)に即位され、治世42年に年若干(そこばく)で崩御されたと記します。
今回は早口言葉のような題名ですがwwwとりあえず、継体天皇の出自についての検証を進めてまいりましょう。さてホムツワケ王、「古事記」では系譜の部分では、沙本毘古命の妹、佐波遅比売命を娶して、生みませる御子、品牟都和気王。とあり、前回まで見てきた沙本毘古王の反乱の伝承では、沙本毘売命と本牟智和気の御子となっています。その後は「其の御子」とだけ呼ばれて、「品牟都和気王」や「本牟智和気の御子」という呼び名は出ません。ん~あやしいです(-""-;)こういう風に別名がさりげなく織り込まれて
角宮神社(すみのみやじんじゃ)山城国乙訓郡京都府長岡京市井ノ内南内畑35(P無し、社前のゴミ集積所内に停めました)■延喜式神名帳乙訓坐大雷神社名神大月次新嘗の論社■旧社格村社■祭神火雷神[配祀]玉依姫命建角身命活目入彦五十狹芽尊京都市南西部の長岡京市、向日神社の西500mほどに鎮座。また長岡京跡からは西1km足らずほどの密集市街地内。かつては上下賀茂社と同格の屈指の大社であったにも関わらず、残念ながらゴミ集積所が境内前にあるなどを、存在感も薄く参拝者もほとんど
東北は、あまりにも逃れた人々が多すぎていろんな氏族と婚姻を結びすぎているうえに、語らない、言わない、声をあげるのは、藤原家。「密かに」暮らしすぎ。山深くて迷う、目的をすぐ見失う。して、落馬する運命にされる。蘇我や物部といったあの時代の氏族も、東北へくると皆、一緒。それどこじゃなかった。北方の蝦夷が強かったから。東北に混在する物部氏と蘇我氏の歴史を。そうそう、三神合神社にいた聖徳太子みたいな像は、こんな雰囲気(これをもっとゆる~くした感じ)-----------
ご訪問ありがとうございます。今回のテーマは両道入姫フタヂイリビメです。布多遅比売が稲依別王の母としてはふさわしいとわかったのに、いまさら?と思われると思うのですが、彼女は彼女で重要視された理由があり、それもヤマトタケル伝承の成立過程に関わるので、どうぞおつきあいくださいませ(。uωu)そこで「日本書紀」の両道入姫フタヂイリビメ皇女の出自ですが、やっぱりというか(^_^;)やや不安定な感じがします。まず景行紀の日本武尊の系譜には出自の説明がないのです。いきなり両道入姫が
寒中禊#寒中禊#福井県#福井市#足羽#足羽神社#式内社#旧県社#継体天皇#生井神#福井神#綱長井神#阿須波神#波比岐神#祀#神徳#越前開闢之祖人#継続繁栄#子授け#安産#戸の神#水の神
先日、ちょっと茨木市に行くことがあったのでついでに近くにあったこちら太田茶臼山古墳へ。こちらは宮内庁が継体天皇の陵墓にしていしている古墳。-天皇陵-繼體天皇三嶋藍野陵(けいたいてんのうみしまのあいののみささぎ)www.kunaicho.go.jp宮内庁は継体天皇の陵墓としているのですが考古学的に継体天皇の陵墓とされているのはお隣、高槻市にある今城塚古墳。んじゃ、これは誰の古墳!?これだけの大きな古墳だもの。継体天皇の曽祖父のものする説があるそう。住宅地の中にぽつんと