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今年は天王川公園に藤を観に行こうと思っていたのに、満開が4月20日前後だったそうで、すっかり出遅れてしまった県内に藤はないかな?と調べたら、万葉の里、西山公園、紫式部公園が出てきたので、この3カ所を巡ってみることにしたまずは、越前市にある「万葉の里」ここへ来るのは初めてけっこう広い敷地で、入場無料!越前市は太っ腹だなんかいろいろあるみたいなので、まずは右方向へ進んでみようこちらが万葉館万葉集をモチ
九州の古代史を読み解く上で、「磐井の乱」は避けては通れない最重要のターニングポイントです。527年、大和王権のリーダー・継体(けいたい)天皇の勢力が、北部九州の大豪族・磐井(いわい)を滅ぼしたこの事件。当時の日本は近畿を中心としたヤマトが各地の豪族と緩やかな連合を形成していましたが、磐井の存在はその勢力均衡を揺るがすほど強大でした。継体天皇は、前代の武烈天皇に後継がいなかったため、福井(越前)から迎えられたとされる「実在が確定している」王です。しかし、応神天皇の末裔という出自を持ちなが
1.「百済=本拠地」という逆転の発想定説では、白村江の戦いは「日本が同盟国である百済を助けに行った戦い」とされていますが、じつは「ヤマト王権のルーツそのものが、百済という地にあった」と考えます。そう考えれば、白村江の戦いにおける「国力を使い果たしてまでの必死の救援」や、万葉集で額田王が詠んだ、あの絶望的なまでの郷愁の正体が見えてきます。あれは遠い異国を想う歌ではなく、失われゆく「自らのルーツ・本国」への悲痛な叫びだったのでしょう。この視点に立つと、実在性が疑われる「欠史八代」の謎も氷解し
ご訪問ありがとうございます今回から「日本書紀」も「敏達天皇紀」に入りますが、この辺りから、異母姉妹や叔母、姪との近親婚が増えてきます。なぜかというと、「嫡子」欽明天皇以来、天皇の血統がとかく重視され、「嫡子」つまり、雄略・仁賢・継体天皇の血を引く欽明天皇の血統が重視されていき、皇后も皇族から選ばれて、その子がまた血統を受け継ぐ、「嫡流」が形成されるからです。金色が嫡流だと思ってくださいそういう意味では、敏達天皇は継体天皇の嫡孫でもあり、母石姫皇后(宣化皇女)を通じて、継体天皇の最
それでは仮説の内乱とはどのようなものなのでしょうか。まず『日本書紀』の記述に矛盾があり、継体天皇(欽明天皇の父)の没年が「辛亥」年(531年)と記載されている一方、その次の第27代安閑天皇(欽明天皇の兄)の即位元年を甲寅年、3年後の534年としていること。つまり、継体と安閑天皇の治世の間に「空白の3年」が生じているわけです。そして決定的な矛盾は、平安時代に書かれた『上宮聖徳法王帝説』にあります。この史料によると、欽明天皇の治世は41年の長きにわたり、その没年から
大阪府枚方市の樟葉に交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)があります。その神社の奥には貴船神社があるのですが、その貴船神社の辺りはその昔、継体天皇の樟葉の宮があったと伝わる場所です。交野天神社–大阪文化財ナビosaka-bunkazainavi.org継体天皇元年二月四日、天皇はこの地で即位され仁賢天皇の皇女、手白香皇女を皇后にお迎えしました。そしてその直後の三月九日、天皇が詔を出されました。「男が耕作しなければ民は飢える、女が紡がないと天下は凍える、だ
継体天皇、歴史に突如現れた謎多き大王の実態に迫る!ユーチューブチャンネル「戦国BANASHI【ミスター武士道】」が2026年3月31日投稿した動画です!【解説】『継体天皇』歴史に突如現れた謎多き大王の実態に迫る!【BOTTO古墳トークフェス】(再生時間23分57秒)https://www.youtube.com/watch?v=L5eDpQqtSOc継体天皇https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A
これまでみてきたとおり、継体天皇は当時の王朝一族と血縁的につながり、まるで別の血族集団によって皇位が継承されたわけではなかった可能性が浮上しています。そうはいっても、先代の武烈天皇とはかなり遠い血縁関係にあることから、皇統は事実上断絶したといえなくはありません。その皇統が安定し、親子相続か兄弟相続かは別にして、世襲体制が確立するのは、継体天皇の皇子で磯嶋金刺宮(奈良県桜井市)を皇居とした第29代欽明天皇(539~71年)の時代の6世紀半ばになってからでしょう。しかし、皇
2026年3月21日ぶらっと三重旅、大観音寺に続いて、本日のラスト射山神社に行ってきました枕草子にも出てくると知って、来てみたかった神社です。御祭神は大己貴命と少彦名命。宮家または皇大神宮の湯垢離の温泉で、継体天皇の皇女ササゲヒメノミコトが斎王になられた際に、この地で採った榊を長命水に一夜浸してから皇大神宮に運んだ行事は今も続いているのだとか。周辺も、ちょっとだけ散策しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー■若狭ー尾張ルート隋唐使者の裴世清も使った、朝鮮半島経由の大陸ー倭國航路半島左下の珍島ー対馬で、距離を掛け緩い角度で対馬海流を確実に横断半島南の海岸線には無数の小島が浮いていて、人数と貢物を乗せた中規模舟だと座礁してしまうので、対馬海流に出たら陸から離れ沖に出る必要がある魏書にある狗邪韓国を釜山と比定すると、対馬に行くより遠回りで、わざわ
こちらの記事は【第26代継体天皇】のINDEX記事です実在が確定しており現代につながる皇室の始祖とされる天皇※記事の日時=更新日時です※画像や動画の流用は固くお断りします目次概要誕生/崩御在位期間譚父母子略歴継体天皇を祀る社/創建社福井県)毛谷黒龍神社福井県)足羽神社目次を開く概要誕生/崩御450年?/531年3月10日?在位期間507年3月3日〜531年3月10日?譚男大迹(ヲホド)父彦主人王(応神天皇玄孫)母振媛(垂仁天皇7世孫)
こちらの記事は福井県福井市【足羽神社】のINDEX記事です※整備中※記事の日時=更新日時です※画像や動画の流用は固くお断りします📍〒918-8007福井県福井市足羽1丁目8−25目次概要創建御祭神由緒境内足羽宮碑狛犬/拝殿狛犬/枝垂れ桜アルバム2024年4月関連記事福井市INDEX目次を開く概要創建継体天皇朝(古墳時代)『第26代┠継体天皇※古墳時代507年〜531年?』こちらの記事は【第26代継体天皇】のINDEX記事です実在が確定して
当家何時から巫女の家?これはエビデンス出せと言われても文字もろくに無かった時代のお話。女子口伝は秘匿だらけ断片開示を追うよりありません。最近、五条様の偲フ花のコメント欄でのポロリ暴露続きで😂ブログにちゃんと書くべきかと思いささやかながら纏めてみました。女系口伝より「はっきり言っていいのは継体天皇期からね」二媛だけでなく従姉妹からも聞いています。現在の姓となったのは12世紀末それが家系図上公式ですがそれは取り込まれた先の後の姓です。継
円鏡寺の二王門を出て道路の向こうに円鏡寺公園があります。(何度も言いますが…)円鏡寺の本坊はこの公園の向こうにあります。遠目で見るとキリスト像かと思えるものがあったので近寄って見ると…ちょっと違うみたい。「蠶霊」と書いてあります。(蠶と言うのは旧字体の(虫の)蚕のことらしいです。)即ち蚕の霊?…ではなく蚕の神さま…のことで蚕霊や蚕玉と書いて(こだま)と読むそうです。なので…蚕の神さまの像と言うことになります。右横には聖徳太子養蚕訓なるものが書かれています。(決して
追われて、匿われたのは淡海の海(琵琶湖)から東、いくつも山を越えた山間の集落だった。すぐに都へ還れるはずが、1年が経ち、2年が経ち、3年が経つ頃にはすっかり故郷のような安らぎを覚え始めていた。冬は厳しいが夏は過ごしやすく、そして、春には桜を始めとした花々が、秋には山を赤く染める紅葉が美しい。薄墨に出会ったのはいつの頃だったか、皇子宮とは名ばかりの、炭焼き小屋になんとか主従が住めるように手を入れた我が家に、下働きということで連れてこられた村長の娘だった。大事に育てられた
まず、『日本書紀』が継体天皇を「応神天皇五世の孫」としているのが謎解きのポイントとなります。「倭の五王」のくだりで述べたとおり、その5代の天皇の間に、実際には応神天皇を祖とする一族から別の一族へ王朝が変わっていますが、『日本書紀』はその断絶を認めず、『釈日本紀』の筆者卜部兼方(鎌倉時代の官人)によって、応神の皇子である稚野毛二派(わかぬけのふたまた)皇子の曾孫を継体として扱い、皇統をつないでいます。果たして応神天皇の皇子から継体までつながるのでしょうか。『日本書紀』によ
男大迹王(古事記では袁本杼命、後の第26代継体天皇、以下継体という)と尾張の豪族、尾張連草香の娘である目子媛(めのこひめ)との結婚は、まだ継体が即位前で越前(古事記では近江)の地方豪族であったころです。継体が二十歳前後で目子媛が十代の契りと推測されます。目子媛は現天皇の直系にあたりますので、尾張氏が5~6世紀に権勢を強め、どのようにして継体と繋がりを持ったのか興味の湧くところです。そのあたりについて、2月の古代史の研究会で発表がありました。継体の出身地は記紀によって違います
小学校の校庭にそれはそれは大きな桜があります。明治時代から、たくさんのかわいいいちねんせい運動会や夏休みのラジオ体操、野球の試合、大雪に埋まった校庭で元気に雪合戦の子供たちを見守りたくましく巣立っていく卒業生を見送ってきたのでしょうねあたしの生まれ育った町のおとなりの地区だったので、子供の頃からこの大きなさくらの木を何度となく見てきましたさくらの品種はエドヒガンザクラだそうですソメイヨシノよりすこし色白ですこの小学校から歩いて10分足らずのところにお寺があります数日前に満開の写
「倭の五王」の時代に皇統が断絶したのだとすると、どの天皇の時代に世襲体制が確立したのでしょうか。そこで第26代継体天皇の素性が次の問題となります。継体天皇から欽明朝の時代へ継体という漢風諡号には、体制を継ぐという意味合いがあり、その名のとおり、古代ヤマト政権が6世紀に皇統断絶の危機に見舞われた際、皇統をつないだ天皇と理解されています。まず当時、皇位継承がかなり混乱していた事実は『日本書紀』からも窺がえます。武烈天皇には后がなく、皇子もいなかったことから、そ
今回は岐阜本巣市の淡墨桜を見に行ってきました今年こそは見に行きたいと思っていた淡墨桜、満開で見れました週末どうだろうと思っていたら前日にちょうど満開になってくれましたこむだろうと早めに出発して8時前には着きましたが、もうけっこうな人きてました樹齢約1500年の淡墨桜すごい圧巻です尾寝谷淡墨桜は蕾はピンク満開は白散り際は淡い黒色に変化する珍しいの品種だそうで、継体天皇の
近畿の大五芒星の中心は奈良じゃなくて枚方なんじゃね?「樟葉宮」が真ん中なんじゃね?継体天皇が重要なんじゃね?逆五芒星の真ん中の五角形の中に再臨主イエス・キリストは居るのだろう継体天皇と関係する場所だな枚方市交野市河内磐船に168号線府道144号線もかな?鵲橋と144000人やね。けい‐たい【継体】.〘名詞〙君主の位を受け継ぐこと。あとつぎ。よつぎ。継嗣。けいてい。[初出の実例]「是以。継体之君。受禅之王」コピペ謎の大王の正体!継体天皇と樟葉宮…奈良
祭日とは天皇がお隠れになられた日、命日です。宮中祭祀では初代神武天皇祭と先帝祭として先帝以前三代の天皇の例祭が当日に行われていますが御歴代の天皇・皇后・皇親については沢山いらっしゃるため、春季皇霊祭、秋季皇霊祭(春分の日・秋分の日)にまとめて霊をお祭りされています。ただし100年毎には大祭として当日お祭りをされます。第二十八代宣化天皇は大和時代の天皇です。この時代は、古事記、日本書紀の時代です。御名は、桧隈高田皇子(ひのくまたかたのみこ)、建小広国押楯命/武小広国押盾尊(たけおひろくにお
もう30年以上前の事だが、妻の実家宮崎県の延岡に出かけた際、私は一人75㌔ほど離れた西都原古墳に出かけたことがある。「男狭穂塚古墳」および「女狭穂塚古墳」を興味深くみてきたが、これは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)に比定されている。一方では仁徳天皇の妃・髪長姫とその父・日向諸県君の墓だとも伝わる。水野祐氏の「三王朝交代説」は現在では受け入れられていないようだが、私は興味深く読ませていただいた。ここでは崇神天皇~仲哀天皇を「第一王朝」、神功皇后・応神天皇~武烈天
第二十六代継体天皇は古代、奈良時代の天皇です。御名は袁本杼命(おほどのみこと)、男大迹王(おおどのおおきみ)。御父は応神天皇の五世の孫、玄孫の彦主人王(ひこうしのおおきみ)、御母は越前の豪族三尾氏の娘で垂仁天皇七世の孫、第十一皇子・磐衝別命(いわつくわけのみこと)の六世孫に当たる振媛(ふるひめ)。彦主人王は、男大迹王がまだ御幼少の頃薨去されましたので、振媛は実家の高向(福井県坂井市)に帰京して男大迹王の養育をされました。第二十五代武烈天皇は皇子も皇女もなく崩御されました。そこでお迎え
熊本は装飾古墳が多いんですね。全国の装飾古墳は849基で熊本には212基あるんですね。25%です。その中でマーキングしていたのは、チブサン古墳。ここに入る道が細いので入るのに勇気が入ります。継体天皇の527年の磐井の乱の磐井のところにもこの様な石像がいっぱいあるんですよね。土日の午前10時と午後2時に中の見学出来ます。レプリカ書いていました。ペンキ屋さんです。熊本県立装飾古墳館は古墳の目の前にあります。貝塚レプリカです。この様な勾玉の首飾り良いですね。宇宙人?
皇位継承は「男系男子限定が適切」高市発言の様子「男系男子限定が適切」ということは「男系女性天皇は不適切」ということか。大変失礼な発言だ。自分が「男性首相限定が適切」と言われたら、「失礼な」と激怒するのではないのか。しかも「過去に女系天皇はひとりもいなかった」と断言。そんなこと分かるわけがない。皇紀二千六百八十六年、初代天皇は神武天皇といわれているが、始祖天照大神は女性。西暦507年に即位したと言われる越前育ちの第二十六代継体天皇は実は新皇統を興した人物だったのでは、
今、ちびちび読んでるのだが、他の情報と混じってしまう。この辺りの日本の勢力図についてはいろいろな新発見もあったり、となかなか混沌としているところではあるようです。この関氏の視点も実に興味深いのだ母に貸し出せそう、なものを選んだつもりだ。
昭和生まれからすると、天皇誕生日は4月29日の体感が強い。62年間祝日であったことやゴールデンウィークの始まりということと平成の天皇誕生日の12月23日は年末の忙しい盛りの真っ最中だったり人によってはクリスマスイブの代替日だったりして4月29日よりは個人的には印象が薄めである。譲位が発表され次の天皇誕生日が2月23日になることが決定した頃、店のチラシを作っていて商品部長が「販促的には使いづらい祝日だな」と言ったのを覚えている。明治が始まって太平洋戦争敗戦までの約80年間、日本史研究の中で天皇史
今まで「先史時代」というテーマで考古学を軸に勉強してきたのだが、歴史書である「日本書紀」そのものについて少し考えてみたい。近代の歴史学は「日本書紀」が編纂された8世紀と似ていて、国威発揚のために歴史書が必要とされた。たまたま8世紀までの歴史書として「日本書紀」があったためそのままそれを使って皇国史観を構成した。中国では正史は次の、あるいはのちの王朝の歴史家によって編纂される。例えば、「三国志」は西晋の陳寿(233-97)が、「後漢書」は南朝の宋の范曄(398-446)が編纂した。現王朝
こんにちは。だいぶ春の気配を肌で感じるようになってまいりました。今日は尾張でも18℃まで気温が上がるとか。朝晩が寒いので風邪ひかないように注意ですな。花粉も。さてさて、熱田区白鳥界隈の続きにて堀川から狭い道に入ります。古墳が気になりまして。ヤマトタケル亡き後、この辺りに白鳥に姿を変えて舞い降りたという伝承から白鳥(しらとり)となったそうです。因みに熱田神宮社殿では白鳥御陵といいます。には入れませので外から拝みます。ヤマトタケルのお墓ではないかといわれて