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ドクターが帰った後、私は叔母や叔父、妹、兄達、身近な家族達にだけ母の時間が1週間もないことを伝えた。母はラムネみたいに舐めるタイプの痛み止めを飲んでも身体は相変わらず痛いと言って私が昨日よりしんどい?痛みは強くなっている?と聞くと頷いた。そして身体が熱いのか「熱い熱い」とも言っていた。眠れてもいないし体力も限界だったと思う。それでも母は私達の事を気づかってばかり。トイレも自分で行こうとしたから、今日は歩くの大変だからオムツでしようと伝えた。この時はしんどそうだったけど時折、自分で水
おはようございます昨晩は夫と魔女の宅急便を観てたら(豚の次)眠くなってきた夫いよいよ半分にカットした薬の出番です飲んだのは22:00頃私は様子を見るために隣の部屋でパート仲間とLINEしたり手帳タイムしたりしてました~24:00頃かな夫が起きた様子「やっぱり半分じゃダメだわ…「どうなのかな?意識しすぎじゃない?自分で自分に暗示かけてるタイプです。実は私本日土曜日バイトの子が体調崩した為急遽ロングタイムになりまして朝イチから夕方まで働く事に…なので夫のその後は分か
お昼すぎに訪問ドクターと看護師の方が来てくれた。母のお腹の様子や一通り診察して点滴を開始。この時まで母は点滴の事を気にして私達に、これ落ちてる?点滴ちゃんと落ちてるって常に聞いていた。私はゆっくり落としているから落ちてないように感じるけど、ちゃんと量は減っているから点滴できているよと嘘をついていたから点滴がちゃんと開始され母に嘘をつかなくても良くなったから一安心。ドクターに吐血の事を伝えると、口からの吐血ばかりは辛いから鼻にチューブを入れて鼻から出すようにしましょうだったか、ちゃんとし
両親を看取った後、介護や在宅医療関係のファイルは捨てました。今になって考えると、検査結果表、薬剤情報提供書は残しておけばよかったと思います。どんな病気や症状に対してどんな薬を処方されたかは、自分や周囲の人に将来役立つ情報かもしれません。心筋梗塞+ステント留置、心筋梗塞の後遺症の糖尿病で、父に処方されたのは以下の薬だったと思います。β遮断薬アーチスト(カルベジロール)抗凝固剤バイアスピリンとプラビックス(クロピドグレル)糖尿病トラディアンス配合剤利尿剤スピロノラクトン、フロセ
終末期宣告、今思い出してもあの宣告はキツかった身体の力が一気に抜けていき、膝を着きそうになるほどの脱力感。途端に込み上げる涙、絶望感。決して忘れないであろう。まーちゃんもとても恐ろしかったに違いない。しかし泣き叫ぶ事は無かった。先生たちの前では懸命に堪えたのだと後日聞いた。まーちゃん、強い娘やしかし2人きりになると途端に「パーちゃん、まーは死ぬんやな😭、なんでなん?死にたくない!みーちゃんやパーちゃんと生きたい!」と声をあげて涙ポロポロ流しながら叫んだ。僕はまーちゃんに「確かに終末期宣
ビリルビン値の異常で抗がん剤治療は中止CTでもMRIでも胆道胆管に詰まりはなく原因のわからないビリルビンの異常値を下げる為色んな治療をしてもらったけどビリルビンは下がらなかった治療の効果がないという事は既に肝臓の機能が失われているいわゆる肝不全に近い状態抗がん剤治療もビリルビン値を下げる治療もついに終わりを迎えた終わりを告げられた時主治医も看護師さんも泣いていた腹水でお腹がパンパンの旦那は声を発する事が難しくなっていたけど精一杯の力を振り絞り主治医に「○○先生
人間【絶対】と言えるのは、ただ一つだと思います。【人間絶対に死ぬ】縁起の悪い事を言わないでと言われる方が多いと思います。医学がいくら進歩したといっても、死の苦しみは簡単に和らぐものではありません。そんな折週刊現代に医者が明かす「痛い死に方ランキング」ワースト50なる記事が掲載されていた事を思い出し調べてみました。そもそも論ですが、痛感等は個人差があり医師は何を根拠にこんな順位を付けられるのだろう?そこで何らかのエビデンスに基づきデータを掲載しているのか調べてみました。と言っ
11月10日に、今まで手術から化学療法までの治療で3年以上お世話になった大学病院とお別れをしました。CT検査の結果から、もう改善の見込みがない事と、病院としてこの先出来る治療が無いと判断された為。今後は訪問診療のほうで、緩和治療をしながら最期を迎えてもらう、というのが、病院としての見解でした。三行半?治る見込みがない患者さんを積極的に治療するのは病院としては出来ないそうな。なので、病院と「さよなら」しました。今後の予約も無いし、病院に行く事も取り敢えずは無い。お世話
2部に分けて投稿しています本文はこちらです看取りケアの技術終末期に起こりやすい発熱と低体温(冷感)終末期は発熱や低体温が起こりやすい・高齢者は、体温調節機能の低下により、気温や室温の影響を受けやすくなっています。・終末期となり、身体が衰弱してくると、急に発熱したり、低体温になったりすることもあります。・発熱は感染症や脱水によっても生じますが明らかな感染症がない場合は冷罨法(クーリング)などで対応します。・発熱は頻脈(100回/分以
2部に分けて投稿しています本文はこちらです看取りケアの技術呼吸の変化を観察する呼吸状態の変化について理解し、家族に説明する・最期のときが近づいてくると、呼吸の状態が変わってきます。・口を開けたまま、あえぐような呼吸をすることがあり、苦しそうに見えますが、ご本人は苦痛を感じていないとされています。・終末期でこのような呼吸をしているとき、心臓や肺の機能は低下し、呼吸筋の動きも弱くなっています。・血液中の酸素が欠乏し、脳に十分な酸素が供給
やっと日本に帰れる日、私は複雑な気持ちだった。母がこの日まで無事でいてくれた事は、とても嬉しいし有難い。だけどきっとこれが母と会える最後の時間になるかもと考えたら日本に帰るのが少し怖くなった。会いたい気持ちや帰りたい気持ちは強いけどいつものような明るい気持ちとは違ったから。長いフライト中も母の状態がずっと不安で眠れなかった。日本に到着して、母の無事を確認して一安心。ゼリーぐらいしか口にできないと聞いていた母に美味しいゼリーを食べさしてあげたいと千疋屋のゼリーを何種類か買った。そして
4月24日(金)3週間毎の治療の日。数ヶ月前までは、酸素ボンベも無しで一人で電車で行けていた病院。酸素ボンベを持参するようになってからも、着替えなどの荷物を持って一人で電車で行けていたのですが、夫に付き添ってもらうようになり、遂には、電車移動も大変になり、今回からは夫に車で連れていってもらいました。車から降りて、少し歩いて、病院に到着すると、やっぱり咳が止まらなくて。。。落ち着くまで診察を待ってもらう事に。ほんと、少し歩いただけなのに息切れと咳と発作で嫌になるわ
病気が発覚し、手術をして再発予防の抗がん剤治療をし、経過観察をしていたのが今から約2年前。2年前、私はステージ4のガン患者になった。しかも、多発肺転移。肺にたくさんの小さな癌細胞が散りばめられた状態でした。個数も数えられない程のガン細胞たち。それらをやっつけるべく、抗がん剤治療を開始し、効かなくなると次の抗がん剤、また効かなくなったら次の抗がん剤と、4パターン試したけど、私の肺に居座ったガン細胞たちは、勢いを強め、増えていった。大きな病院では、標準治療を
共に動物が旅立つ時に「苦しいんじゃないのか」「怖いんじゃないのか」「何かしてあげた方がいいのか」って考えたりしない?ぼくはそう思っていろいろやってた。動物の体って旅立つ時は枯れるようになって安らかに眠るように旅立てるようになってる。終末期になると食べられなくなり飲めなくなり体が動かなくなって呼吸がゆっく
4月15日(水)昨日、膵臓癌告知後一年を迎えて改めて思ったこと。すぐに死んでしまうかもしれないと思っていた私に、生きるとは何か。人生とは何かを考えさせられる時間を与えられたことが一番大きい。膵臓癌を告知された方で残りの時間が少なくて、家族との思い出作りも出来ずに亡くなられてしまった方もいる。どんなに無念だったことか。そのてん、私はまだ時間が残されている。アブラキサン、ゲムシタビンをしている時はこの抗がん剤がずっと続くものだと私は信じている所があった。でも薬剤耐性がついてしまった。主治医も
帰って来て夕ご飯の後、母はご飯を食べれないから食べてない。点滴を明日してもらうとのこと。私は言うのを少し戸惑ったけど伝えたいことを今言わなければと伝えたことがある。それはお母さんの子供で産まれたことが大当たりだった。大当たりのくじを引いたと。来世もまたお母さんとお父さんの子供で産まれたいし、そうさせてとお願い。そして今まで本当にありがとうと伝えた。これを言うことで、お別れが近いと母に思わせるんじゃないかと少し戸惑ったけど、伝えたいと思ったからちゃんと伝えた。母は笑顔で頷いていた。
訪問看護の人が来て、すぐに吐血の事を伝えた。訪問看護の人はそうですね。これからはさらに吐く事が多くなるかもと小さい声で私に知らせてくれた。そして今後は下からも可能性があるので汚れても良いようにと母の枕元とお尻周りに防水シートを用意。母は身体の痛み、吐血、トイレに1時間起きに行ってたから全然眠れてなかった。ご飯も食べれていないから体力も限界だったと思う。そんな状況なのに母は私に休んでと何回も言った。私も眠れなかったし正直2日間ちゃんとした睡眠がとれてないからしんどかったけど平気だよと伝え
私の知る限りコメント数『ピカ一』サンフランシスコさんのblogです。元気をもらえましたので紹介します。我がブログファンの中には闘病中の方が沢山おられます。アイアンマン稲田弘さんからのメッセージです。・諦めない心を持ってほしい・チャレンジすることを恐れないでほしい・夢を持ち続けてほしい『やれば出来る!93歳過酷なアイアンマンレースに挑戦し続ける男』アイアンマンレース史上最も偉大な挑戦者の一人世界最高齢完走者としてギネス世界記録を持つ稲田弘さん佐原(千葉県)倉敷
こんばんは*眠剤飲んで消灯モードにしてます。追加の眠剤は効果出るでしょうか。効果なかったら、頓服でもう1錠飲めるからもらいに行きます。さて、今何kgなのか不明ですが、今の足🦵太腿を指輪っかしてみたいです。何kgになったら、掴めるのかな。指と指がとどかない悔しさ。もっと骨になりたい。浮き出た骨は自己肯定感を高めてくれます。頑張った証が目視出来る。触れられる。努力が実った、達成感。他者からしたら、ただの気持ち悪い骸骨にしか見えないと思いますが私にとっては大切なモノ
退院して3週間経ち新たにお世話になる訪看、リハ、ヘルパーさんの研修も終わりつつありますお世話になる時は「笑顔」で!を心がけています注意する事は注意して基本、会話を楽しんでいます昨日、福岡から兄夫婦がお見舞いに来てくれました正直なところ、疲れます障害を持った人と接することがほぼ、無い人たちですから「どうしていいかわからない」という気持ちが伝わってきます話をするのも、私が視線入力を使っての会話なので、時間もかかるし内容がちゃんと伝わらない離れて
先週はみなとみらいの放射線学会総会に参加してました。自分の発表は、動注の即効性の効果について、です。癌性症状の緩和を実感する時間がカテ後翌日が最も多く、僕の101例の臨床経験では、やはり動注は即効性だったが結論でした。が、まあ、放射線科の学会は画像が中心なので、臨床や抗がん剤のこういった話はあまり受けが悪くて、5月のIVR学会ではもう少しウケてほしい。でも、関東の親友先輩先生が、やっぱり関の治療は面白くて臨床効果も高いな、俺も真似してみようかなあと言ってくれたのはちょい嬉しか
数か月前寝る間も惜しみ自分の脳内を全部注いだ終末期ケア専門士の資格勉強以前働いていた緩和ケア病棟のことが忘れられず看護師としても一人の性教育講師としても「生きる」をもう一度科学的に学びなおしたいという思いでした。終末期ケア専門士についての以前の記事はこちら試験はすごく不安が多きく手ごたえもあまりない。結果発表まですごく怖い日々でしたが11月に無事合格通知!!歓喜溢れるリールはこちら⇩https://www.instagra
久しぶりのブログ投稿。見にきてくれてた人ありがとうございます。感謝です。相変わらず毎日お母さんのこと思い出していろんなこと考えて後悔したり悲しくなったりお母さんに会いたくなったりお母さんが生き返る夢ばかりみたりそんな日々を過ごしている。緩和ケアって世間一般のイメージでいうと痛みを和らげてくれてさいごは眠るように安らかに亡くなっていくて考えられてると思う。ドラマで出てくる癌終末期の人も、さいごは眠ってばかりでそのまま息を引き取るというシーンも多く、わたしのお母さん
12月19日金曜日2回目の化学療法パクリタキセルとアバスチン投与する抗がん剤の量は通常の30%トータル1時間半程で、点滴をしながら温熱療法(ハイパーサーミア)をします。ハイパーサーミアは患部を中心に一対の電極盤で身体を挟んで、電極間に高周波を流すことで熱を発生させて患部の温度を上昇させる仕組み。温熱療法は7回目。最初のうちは痛くて痛くて、なかなか出力が上げられず500〜600Wくらいだったのですが、毎回汗は大量にかきながら、徐々に出力を上げられるようになり、今回
今日は医師サイトに掲載されていた腫瘍内科医の高見澤先生の記事を抜粋してご紹介。ーーーーーーーーーーーーーーーーーその治療は何のため?誰のため?腫瘍内科医・緩和ケア医が考える「引き算の医療」腫瘍内科医として、そして緩和ケア医として、日常診療の中で強く意識し、実践している「引き算の医療」についてご紹介したいと思います。その治療は何のため?重症であっても、高齢であっても、「まだやれることがある」「徹底的に最期まで病と闘うべきだ」と、死の直前まで侵襲の大きな
動物の緩和ケアは終末期にならなくてもやる。治療中でもやるので緩和ケアを終末期にやると勘違いしている人が多い。「終末期になって緩和ケアに切り替えるタイミングを知りたいです」とか「終末期のいつ緩和ケアをするのか?」と言った質問をもらうんだけど終末期になっておこなうのはターミナルケア(終末期医療)で緩和ケアじゃーないんよ。
リビングに布団を敷いて私は久しぶりに母と一緒に寝た。父と3人で一緒に寝るつもりだったけど、母が「今日はお父さんは自分の寝室で久しぶりにゆっくり寝て」と言ったので2人で寝ることに。母は歩いてトイレには行けるけど転倒防止のための付き添いがいる、そして腹水のせいで起き上がるのに助けがいる。私は長時間のフライトで疲れていたけど、母のために手助けがしたかったし、残り少ない限られた時間かもしれないと思ったので、これぐらいの手助けは全然苦ではなかった。母はおしっこがあまりでてないことを不安に思ってい
実家に到着してすぐにお風呂に入った。真っ先に母の元に行きたかったけど免疫力が落ちている母のため、飛行機や空港に長時間いた私は少しでも清潔に、そして変な菌を家にできるだけ入れたくなかったからまずお風呂に。そしてやっと母のいるリビングに行きベッドの上で小さくなった母がスヤスヤ眠っているのを見て涙が自然と出てきた。母はもともと太っている人ではないけど50キロぐらいあった体重はきっと40キロはきっていたと思う。少しして起きた母は笑顔をみせてくれた。私は涙を見せたくなかったけど、また泣いてしまっ