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3月16日(土)の話です。その日は保育園の遠足で、大森海岸にあるしながわ水族館へ。無事遠足が終了して先生たちも解散後、私が急ぎ足で向かったのはここ。ケララの風モーニング(大森/インド料理)★★★☆☆3.66■軽食に特化しました。営業時間注意■予算(昼):~¥999tabelog.comずーっと行ってみたかったんだけど、大森までなかなか行けなくて。交通費も園から出るし(笑)、この機を逃す手はない。あった!インドをテーマにした素敵な絵画がたくさん飾って
私の住んでいる一番近くの児童公園、二条公園の桜が咲いていると聞き、散歩がてらに覗いてきた。公園の周りにはソメイヨシノが植えられているが、咲いている桜はこの二本のようだ。説明書きを見ると、ジュウガツザクラ(十月桜)と言って、10月~12月まで咲き、翌春の3月~4月にも咲く、年2回花を咲かせる珍しい桜と云う事。それにしても早咲きに変わりはない。この二条公園は小さいながらも春は桜、
空き地の真ん中にあって四方を高いフェンスに囲まれた石碑。勝田神社から東、直線距離にして650メートルほどの米川沿いにあって、異様な雰囲気を醸し出しているこの場所は、江戸時代に鳥取藩が置いた伯耆郡の刑場跡。所在する地名から「車尾(くずも)刑場跡」と呼ばれている。犯罪抑止を目的とした見せしめにするため、伯耆街道(鳥取往来)近くに置いたのであろう。「合葬之碑」と刻まれた裏には、寄進鳥取刑務所教誨師一同明治39年3月建立平成8年10月再建と、ある。
小樽市の忍路海岸、小樽八景の一つ。川中美幸が1985年10月21日に発売したシングル「忍路海岸わかれ雪」でおなじみの海岸・・・じゃないですね!!(少しマイナーすぎるかも・・・)日本海に突き出した忍路半島の竜ヶ岬方面。イワシが飛び跳ねていました。このイワシの大群いつまで居座るつもりなのか??小樽塩谷・桃内方面。冬の牙をむき出したような怒涛は去り鏡のような水面です。春の海です。国道5号線の旧忍路トンネル。現在、周りは立ち入り禁止になっておりトンネルは土砂で閉塞されてい
公園として整備され、観光客で賑わう金沢城公園。実は、金沢城公園は整備されてまだ20年ほどしか経っていない。というのも、この金沢城公園、以前は金沢大学のキャンパスだったのである。金沢城公園にある石碑。「金沢大学誕生の地」と記されている。城郭全域を大学のキャンパスにするのは大変珍しく、金沢大学以外ではドイツのハイデルベルク大学ぐらいであったそうだ。そもそも、金沢城公園は時代とともに宗教・政治・軍事・学術の拠点として移り変わってきた歴史を持つ。幕藩体制が終わりを告げ、明治に入ると、金沢城跡には
「Oneday岩槻ブログ」ですじゅうきゅうかいめ~今回はテレ東「出没!アド街ック天国」の「さいたま岩槻百景」のコーナーと同じ場所に行って写真を撮ってみました📷岩槻の街を歩いて歩いて19件目ですけど足が痛くなってきた👣だんだん嫌になってきた街チャリがあればもっと楽に廻れたんだけどなー🚴ウジウジwおっと勝負事にタラレバは禁物よって何の勝負やねん番組で放送された歩道沿いにある「石碑」ですここもいい
第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇が巡幸したという徳勒津宮(ところつのみや)の跡地です。和歌山平野をつらぬく紀ノ川(きのかわ)はかつて、和歌浦(わかうら)にそそいでいたといいます。ここは、旧・紀ノ川でもある和歌川(わかがわ)と大門川(だいもんがわ)との合流地点にもちかく大和朝廷の軍港まであったといわれているようです。いまでは、路地の奥にひっそりと石碑がのこるばかりですがむかしは、国の中心地でもあったようですね。紀ノ川や大門川に
おはようございます(*--)(*__)ペコリ本日も田布施町にある古墳を書いていきます。(人´з`*)♪今回は木ノ井山古墳です。(*^ー^)ノ訪問時は1996年で、またこちらの古墳が町指定文化財になる前です(゜∇^d)!!古墳の前には石碑がありました。o(*゚∀゚*)oワクワク誰の句だろう?🤔裏には木ノ井山古墳の説明がありました。.+:。ヾ(◎´∀`◎)ノ。:+.登ってみたいですがここは自重して(´~`)こちらの石は手水鉢?σ(´・ε・`*)こちらの古墳は木棺を粘土
先ほど"ブログ休止宣言"を出したばかりなのに、もう新記事をUPしてしまうなんて、不謹慎かな。ちょっと書きたい事があるので、特別に上げますね。1975年にリリースされたユーミン(荒井由実)の3rdアルバム"COBALTHOUR"の9曲目に"雨のステイション"という曲があります。この"ステイション"とは文字どおり"駅"の事で、JR(当時は国鉄)青梅線の"西立川駅"の事だそうです。今の西立川駅の前には国営昭和記念公園があるけど、ユーミンが"雨のステイション"を発表した頃は米軍基地だったそうで
東三条殿(ひがしさんじょうどの)は、平安時代の平安京左京三条三坊にあった貴族邸宅です。寝殿造りの代表例とされ、藤原良房が創設し、摂関家嫡流に伝領されました。藤原兼家(929~90)が969(安和2)年に邸宅を新造し、入内した娘たちの里邸となりました。親王の養育も行われ、里内裏(天皇の外戚邸などに一時的に設ける御所)としても用いられました。東三条殿は、東三条院・東三条院殿・東三条第とも呼ばれました。藤原兼家の時代に最大となり、兼家は「東三条殿」と呼ばれていました。東三条殿は、寛弘2(1
日曜日は江差追分会主催の江差追分に関係する石碑かもめ島3つ江差追分会館1つの掃除でした🤩朝8時集合天気は最高🤩16℃紫世会からも5名でゴシゴシと擦ってきました🤩新年度もスタートした〜って感じです🤩
円空上人(1632-1695)江戸時代前期の修験僧であり仏師。美濃の国、今の岐阜県に生まれ30歳の頃出家し、全国を行脚し仏像を彫り続けました。円空上人が彫った、独特な形をした仏像は「円空仏」として親しまれ、その数は全国で12万体に及ぶと云われています。落石防護ネットが掛けられている、この虫食いのような洞窟のある大きな岩は、熊石村の黒岩と呼ばれ「隠れ座頭」と呼ばれる妖怪が住んでいたといわれています。岩の下には御影石の立派な石碑が建っていました。円空上人は八雲町熊石地区
2018年4月28日さわやかウォーキングの続きです。奈良井の駅をスタートして奈良井宿で道草してましたが、中山道は、いよいよ鳥居峠に向けて山道に入っていきます。鳥居峠は、旧中山道の難所のひとつで、奈良井宿と藪原宿を結びます。峠の標高が1,197mなんだそうです。奈良井宿を抜けた中山道は、石の階段から山道に入っていきます。わっ、大勢いますね~最初は、皆さん意気込んでいます。中山道の石碑が時代を感じさせてくれます。途中に中山道鳥
こんにちは、vootanです。タイトル、読めませんよね、【こゆるぎのいけ】と読むそうです。仕事で東小磯に用事がありグーグルマップを調べていたら、何だか山奥の行き止まりにこの辺りでは珍しい野池らしきものが目に入ったので、ひとつ探検してみようと思った次第。仕事なのでレッドロブスター号でピャーッと出発。東海道線跨線橋上からの湘南平、テレビ塔とレストラン兼展望台が見える。目指す東小磯は政界の元勲や財界の名士が挙って邸宅や別荘を並べた名所。その名残は一見不便とも
久しぶりの更新いろいろと仕事をしたり、文化財めぐりをしたりしているうちになかなか更新できず…、久しぶりの投稿になります。今回は、以下のツイートから、石碑の文字を読みやすくする方法をご紹介します。処理して単純に出力しただけだけど、結構読める。ただ、もっと読みやすくなる処理があるらしいんだけど、どうしたら良いんだろう?pic.twitter.com/eBjLKFucq5—半兵衛歳三(@Hanbei1582)January25,2021ただ、私もまだ勉強中で、他にも方法は
不動山大学院(愛知県名古屋市天白区)『ふどうさんだいがくいん』と読む不動山大学院は、通称『八事のお不動さん』『八事の大学さん』と呼ばれ、地域の方に親しまれているようですまた、真言宗醍醐派の寺院であり、御本尊は『大青面金剛(庚申さま)』のようです▼寺院入口▼▼山門▼▼寺号標▼▼三猿額▼▲五七桐紋▲▲札所碑▲五七桐紋は、戦国の三英傑豊臣秀吉公の家紋であり、豊臣姓を名乗るようになったとき、当時の天皇から与えられた
(表)山北今帰仁城監守来歴碑記むかし、球陽の多くの間切は四分五裂し、とうとう三山が鼎の足のように三方に割拠して対立する有り様となった。全ての民は酷い苦しみに耐えられず、佐敷按司の尚巴志はあまねく正義の兵を動員し三山をただし合わせて、一つに統合した政治をもたらした。しかし、山北の諸間切の土地は地勢が険しく、人もまた勇猛であった。中山を離れること遠く、教え導くことを広めることも難しかったので、再び地勢の険しさを頼りにして戦を起こすことを警戒した。そこで第二子の尚忠を山北今帰仁城の守護とし、
前回の続きだるま屋の後、津幡駅前をそのまま真っすぐに進むと八号線の津幡バイパスの瀉端交差点があり、その交差点の手前に目的の石碑があると記憶をしていたので良く見ながら走ったのだが、見落としたのか石碑がないのである。もう一度戻り再度良く見てもやはり見当たらなく、そこへ犬連れの奥さんが来たので聞いてみたが分からないと言うのである。また探している所に若い女の子が来たので聞いてみたが、先ほどの奥さんと同じで分からないと言うのであった。石碑から、そのまま進むと加賀神社と言う所があったと記憶していたの
桜川の近くにあるA高校今年も無断で?校庭の桜見物23日撮影です校門から5mくらいの場所に駐車。ちょっとだけ散ってましたが満開ですね。青空と桜いいでしょ?駐輪場は満杯教室から見えてるかな?気になる石碑発見平成8年に建てたようです。文字が・・映らない何年か前に卒業生さんが言っていたのはもしかしてこれかな?と思いました。
午後1時頃ロイと東山湖を散歩今日の釣り客は30人程だったか???マーカー釣りのフライマンが5人いたが釣れたのを見たのは2人が1匹ずつのみ!!!!!ルアーマンも含めて殆ど釣れていなかった!!!!!・・・魚本当にいるの?????まだまだ綺麗なソメイヨシノは残っているが今盛りは事務所前から石碑に掛けてひっそりと咲く白い花の山桜こちらは八~九分咲きと言ったところか?????暖かくなったしそろそ
こんばんは!今日の山形は突然の強く雨、そして強風荒れ模様の天気で、日中の気温も14℃止まり、肌寒く生憎の休日となりましたこんなに天気の悪いGWは記憶がありませんそれでも、観光地は去年のGWより観光客が増えているようです感染拡大に繋がらないことを願いますさて、今日のやまがた春の風景です今日UPするの、は4月27日に撮影したもので、今は花は散ってしまいましたが、こんな風景があるのだと見ていただきたいと思います岩波地区のヤマブキ山形の街
おはようございます。(*--)(*__)ペコリ桜田神社の旧鎮座地の前には出雲大社三丘教会がありました。(‐人‐)パンパン参道口には大きな記念碑がありましたよ~(*´ー`*)調べてみると昭和六十年四月七日に設立百年記念碑式典が盛大に行われていましたので、その時に一緒に建立された石碑なのでしょう。(*´ー`*)石段は明治四十四年に造られていました。(´▽`*)頌徳碑がありましたよ。o(*゚∀゚*)oワクワクこちらは昭和十年に創立五十周年記念で建てられようです。(*´ー`*)で
2017年11月5日この日も、中山道鳥居峠を歩くさわやかウォーキングに参加しています。藪原駅をスタートし、藪原宿を抜け、鳥居峠に行く中山道を進みます。さっき、お茶とお漬物をご接待頂いた、林道が眼下に見えます。足元には、大きな朴木の落ち葉が堆積しています。朴葉の落葉を見ていると、朴葉寿司に、朴葉味噌料理が食べたくなってしまいます。空を見上げると・・・あの葉っぱが落ちてくるようです。落ち葉の絨毯を先に進みます。中山道も、あと少しで鳥居
昨晩の大河ドラマ「光る君へ」まひろが悲田院で疫病に苦しむ人々の看病をするシーン、見ていてつらかったですね。懸命な看護の甲斐もなく次々と命を落としていく場面は新型コロナウィルスという未知の疫病と闘った現代の私達の心にささりました。ドラマの放送が終わってネットニュースの記事を読むと実際に当時流行していた疫病は天然痘だったそうです。ドラマでは天然痘の症状ではなくインフルエンザやコロナのように高熱と呼吸器疾患で苦しんでいたようですが、それはあえて現代の私達にも共感で
「藝備碑文集上巻」には何か書かれてあるか~広島市立中央図書館より「旌忠碑」(広島東照宮)は西南戦争に従軍した広島第5師団の忠魂碑である。碑の裏に碑文がある。120年以上前のものなのでやや読みづらい。全文が「藝備碑文集上巻」に載っている。広島市立中央図書館から借りて調べた。HPには詳細は内容がある。「旌忠碑」は、216~217pにある。たまたま見つけた「長沼鷺蔵君紀功碑」(302p)。長沼鷺蔵は、広島市下柳町に作られた「東遊郭」を設置した「東栄株式会社」の社長で、広島東照宮の氏
長野県の中央に修那羅峠と呼ばれる険しい峠道があります。東筑摩郡筑北村と小県郡青木村を結ぶ険しい山道に、地元の方がショナラ様と呼ぶ「修那羅山安宮神社」があります。この神社は別名「オートバイ神社」と呼ばれています。杉の木立の間を歩いて神社に向かいます。真冬だけどそんなに寒くない晴天の師走。冬枯れの木立から日差しがこぼれてきます。
住所苫前郡羽幌町大字焼尻字東浜羽幌町観光協会苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。羽幌の由来は、アイヌ語の「ハホロペツ」(流出広大の川)または「ハボロベツ」(広大な川の流域)から。焼尻の由来は、アイヌ語の「エハンケ・シリ」(近い島)、あるいは「ヤンケ・シリ」(水揚げする島)。東浜の由来は、焼尻島の東海岸に位置することから。羽幌町役場焼尻支所の横から遊歩道があり、入口左手に碑があるので焼尻支所を目指すのがいいだろう。会津藩は、1808(文化