ブログ記事3,704件
「Oneday岩槻ブログ」ですじゅうきゅうかいめ~今回はテレ東「出没!アド街ック天国」の「さいたま岩槻百景」のコーナーと同じ場所に行って写真を撮ってみました📷岩槻の街を歩いて歩いて19件目ですけど足が痛くなってきた👣だんだん嫌になってきた街チャリがあればもっと楽に廻れたんだけどなー🚴ウジウジwおっと勝負事にタラレバは禁物よって何の勝負やねん番組で放送された歩道沿いにある「石碑」ですここもいい
「藝備碑文集上巻」には何か書かれてあるか~広島市立中央図書館より「旌忠碑」(広島東照宮)は西南戦争に従軍した広島第5師団の忠魂碑である。碑の裏に碑文がある。120年以上前のものなのでやや読みづらい。全文が「藝備碑文集上巻」に載っている。広島市立中央図書館から借りて調べた。HPには詳細は内容がある。「旌忠碑」は、216~217pにある。たまたま見つけた「長沼鷺蔵君紀功碑」(302p)。長沼鷺蔵は、広島市下柳町に作られた「東遊郭」を設置した「東栄株式会社」の社長で、広島東照宮の氏
桜川の近くにあるA高校今年も無断で?校庭の桜見物23日撮影です校門から5mくらいの場所に駐車。ちょっとだけ散ってましたが満開ですね。青空と桜いいでしょ?駐輪場は満杯教室から見えてるかな?気になる石碑発見平成8年に建てたようです。文字が・・映らない何年か前に卒業生さんが言っていたのはもしかしてこれかな?と思いました。
3月16日(土)の話です。その日は保育園の遠足で、大森海岸にあるしながわ水族館へ。無事遠足が終了して先生たちも解散後、私が急ぎ足で向かったのはここ。ケララの風モーニング(大森/インド料理)★★★☆☆3.66■軽食に特化しました。営業時間注意■予算(昼):~¥999tabelog.comずーっと行ってみたかったんだけど、大森までなかなか行けなくて。交通費も園から出るし(笑)、この機を逃す手はない。あった!インドをテーマにした素敵な絵画がたくさん飾って
昨晩の大河ドラマ「光る君へ」まひろが悲田院で疫病に苦しむ人々の看病をするシーン、見ていてつらかったですね。懸命な看護の甲斐もなく次々と命を落としていく場面は新型コロナウィルスという未知の疫病と闘った現代の私達の心にささりました。ドラマの放送が終わってネットニュースの記事を読むと実際に当時流行していた疫病は天然痘だったそうです。ドラマでは天然痘の症状ではなくインフルエンザやコロナのように高熱と呼吸器疾患で苦しんでいたようですが、それはあえて現代の私達にも共感で
東三条殿(ひがしさんじょうどの)は、平安時代の平安京左京三条三坊にあった貴族邸宅です。寝殿造りの代表例とされ、藤原良房が創設し、摂関家嫡流に伝領されました。藤原兼家(929~90)が969(安和2)年に邸宅を新造し、入内した娘たちの里邸となりました。親王の養育も行われ、里内裏(天皇の外戚邸などに一時的に設ける御所)としても用いられました。東三条殿は、東三条院・東三条院殿・東三条第とも呼ばれました。藤原兼家の時代に最大となり、兼家は「東三条殿」と呼ばれていました。東三条殿は、寛弘2(1
小樽市の忍路海岸、小樽八景の一つ。川中美幸が1985年10月21日に発売したシングル「忍路海岸わかれ雪」でおなじみの海岸・・・じゃないですね!!(少しマイナーすぎるかも・・・)日本海に突き出した忍路半島の竜ヶ岬方面。イワシが飛び跳ねていました。このイワシの大群いつまで居座るつもりなのか??小樽塩谷・桃内方面。冬の牙をむき出したような怒涛は去り鏡のような水面です。春の海です。国道5号線の旧忍路トンネル。現在、周りは立ち入り禁止になっておりトンネルは土砂で閉塞されてい
円空上人(1632-1695)江戸時代前期の修験僧であり仏師。美濃の国、今の岐阜県に生まれ30歳の頃出家し、全国を行脚し仏像を彫り続けました。円空上人が彫った、独特な形をした仏像は「円空仏」として親しまれ、その数は全国で12万体に及ぶと云われています。落石防護ネットが掛けられている、この虫食いのような洞窟のある大きな岩は、熊石村の黒岩と呼ばれ「隠れ座頭」と呼ばれる妖怪が住んでいたといわれています。岩の下には御影石の立派な石碑が建っていました。円空上人は八雲町熊石地区
先ほど"ブログ休止宣言"を出したばかりなのに、もう新記事をUPしてしまうなんて、不謹慎かな。ちょっと書きたい事があるので、特別に上げますね。1975年にリリースされたユーミン(荒井由実)の3rdアルバム"COBALTHOUR"の9曲目に"雨のステイション"という曲があります。この"ステイション"とは文字どおり"駅"の事で、JR(当時は国鉄)青梅線の"西立川駅"の事だそうです。今の西立川駅の前には国営昭和記念公園があるけど、ユーミンが"雨のステイション"を発表した頃は米軍基地だったそうで
前回記事はこちらです。錦川鉄道に初乗車♪|青春18きっぷローカル線旅!(ameblo.jp)川西駅を発車してしばらく進むとレールが分岐します。写真右側が岩徳線の線路ですしばらく進むと山陽新幹線の巨大な高架が出現しますちょうどここには新岩国駅があり、錦川鉄道も清流新岩国駅を設置しています「清流新岩国駅」は駅名としては非常に新しく、2013年までは御庄駅だったとのこと…。平野の中に伸びる単線線路の高架橋がどこか井原鉄道を連想させます。実際に錦川清流線(岩
午後1時頃ロイと東山湖を散歩今日の釣り客は30人程だったか???マーカー釣りのフライマンが5人いたが釣れたのを見たのは2人が1匹ずつのみ!!!!!ルアーマンも含めて殆ど釣れていなかった!!!!!・・・魚本当にいるの?????まだまだ綺麗なソメイヨシノは残っているが今盛りは事務所前から石碑に掛けてひっそりと咲く白い花の山桜こちらは八~九分咲きと言ったところか?????暖かくなったしそろそ
チャレンジし続けましょう。〈今日も一日お元気で365日11日〉マッターホルンの麓に、登山家たちの墓地があります。そこの石碑に「愚か者の目には、ここにいる人たちは死んだように見える」と記されています。彼らは、頂上を目指して登り、死んでいったのです。ですから、山に挑み、希望と言う橋を渡り、人生を生きたのです。死んでもなお生きる人がいるものです。田中信生著今日も一日お元気で365日
<2023年9月15日>札幌の旅で訪れた「北海道神宮」。一直線の表参道から神門をくぐると「拝殿」があります。左右対称、立派な拝殿で、東西に回廊があって神門と繋がっています。拝殿から再び神門をくぐって戻ろうとすると、大きな銅像と石碑があります。【島義勇判官銅像建立の記】という石碑でした。勇ましいポーズの大きな銅像です。この方が北海道開拓判官の「島義勇(よしたけ)」。神社のリーフレットにも大きく載っています。由緒はこの通りです。神の遣いのような方で、
城を観る今回は...(撮影2021/07/16)鳥羽山城(遠江国)〜石碑史跡鳥羽山城跡〜鳥羽山城跡のッ石碑ねッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
日曜日は江差追分会主催の江差追分に関係する石碑かもめ島3つ江差追分会館1つの掃除でした🤩朝8時集合天気は最高🤩16℃紫世会からも5名でゴシゴシと擦ってきました🤩新年度もスタートした〜って感じです🤩
厳星山円光寺の次は萬勝山興長寺に向かいました。羽尾にあります。参道。御本堂。境内の石碑、石塔など。御朱印。
桜が咲き誇る源氏山公園。僕の長年のボランティア光くんの「気になる石碑とオブジェ」のレポートです。*****************************源氏山公園の片隅に「桜」と掘られた小さな石碑があります。隣には桜の古木が枝を伸ばしています。文字が判読し辛いのですが、桜を植樹したことを記念して建立したようによみとれました。検索してみると、源氏山にある桜の石碑鎌倉の桜にまつわる歴史辿る|鎌倉|タウンニュース今年の春は段葛の開通や、桜の女王の来鎌などイベントが目白押し。
2024年4月3日。昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。浪江町川添地区の正西寺の標葉氏墓地群です。前回のブログでは4月15日付けの釘本衛雄に紀念碑の篆額(石碑の上部に書かれた題字)を早めに送ってもらいたいという内容の書状を見てみました。今回は篆額の文字を書いてもらった後の釘本衛雄宛の書状を翻刻してみたいと思います。適宜読点を付したいと思います。-----------------------------------拝啓兼而御依頼之篆額正ニ入手
2024年4月2日。昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。浪江町川添地区の正西寺の標葉氏墓地群です。今回は紀念碑の篆額(石碑の上部に書かれた題字)を記した釘本衛雄宛の書状を翻刻してみたいと思います。適宜読点を付したいと思います。-----------------------------------拝啓先日は御来浪の節は甚た失念仕候、其おり御依頼之大書別紙図面差上候間、恐縮なから大至急の事ニ願上候、文字の大きさは四寸角一ぱいなる様、御書被下度、
2024年4月1日。昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。浪江町川添地区の正西寺の標葉氏墓地群です。前回は標葉氏の重臣である熊氏の末裔、山田忠正からの書状を見てみました。山田忠正については以前のブログにも掲載しましたが、皇民団団長を務め、『改造世界』などを出版した人物です。かなり「南朝カブレ」の人物であったことがうかがえました。今日はその書状の返信です。適宜読点を付したいと思います。--------------------------------
右高尾山左真覚寺道昔の道案内を復元したものがあったので思わずまじまじと読んでしまった地図には、池の記載もあるから、昔の地図とか手に入ったら、見てみようかな。八王子市は市の歴史を書籍化している地域なので、意外と本屋さんにあるかも。
バス停は”月光原”ですが目黒区にそんな町名はありません。後日、バス停から西側の目黒本町4丁目を探索。何か他にも・・ありました。月光原小学校。バス停の他に”月光原”が付くのはこの小学校だけのようです。バス停と小学校にだけ使われているとなると都内で時々見かける古い町名⁉やはり・・「目黒本町」と住居表示が変わる前、昭和7年から41年まで現在の目黒本町3~4丁目は”月光町”でした。”月光原”と”月光町”ちょっと違うのですが、”月光町”は明治時代の小字(こ
3月9日曾屋神社で御朱印を待つ間に境内の秦野護国神社へ忠魂碑獅子吼の狛犬坂を下って鳥居から入り直します石段を上ります石垣の脇の石塔鳥居社号碑石燈籠と水盤狛犬拝殿扁額曾屋神社へ戻って御朱印いただきました御朱印
2024年3月30日。昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。浪江町川添地区の正西寺の標葉氏墓地群です。本日は標葉氏の重臣である熊氏の末裔、熊謙次郎からの書状を見てみたいと思います。適宜読点を付したいと思います。-----------------------------------(封筒表書)「双葉郡浪江町川添鈴木松五郎様」(封筒裏書)「平町仲町熊謙次郎三月七日
鶴岡駅昭和53(1978)年12月改築の駅舎で平成26(2014)年2月にリニューアルされました。市内に多く残されている明治期に建築された洋館をイメージしています。大正8(1919)年7月に開業しました。山形県第2の都市鶴岡を代表する立派な駅舎です。雪の降る街を歌碑作曲者の中田喜直がこの曲を作る際に知人の菅原喜兵衛宅のある山形県鶴岡市で見かけた降雪風景がメロディを紡いだと伝えられています。現在も毎年2月に行われる鶴岡音樂祭ではフィナーレにこの曲が歌われています。この曲は有
久しぶりに訪れました。※大島の方この日は天気がよく、海がきれいでした~唐桑半島へは名取に熊野三社を勧請した名取老女を調べている研究会のメンバーと2017年6月に訪れていた所です。紀州の熊野から唐桑半島へ数か月かけて上陸した事が室根神社縁起にあり、熊野信仰と鯨信仰は深い関係にあります。駐車場の奥に続く森を歩きます。御崎灯台灯台の手前に鯨塚があります。鯨は御崎神社の御使いの霊魚と言われ、唐桑半島の先にあ
3/16は大磯町で御朱印巡りをしました(^o^)最初に向かったのは国府本郷にある浄土宗の谷村山西長院。御本堂。御堂の天井。石碑、石像など。御朱印。
2024年3月22日。昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。前々回は鈴木松五郎宛標葉長治書状について翻刻しました。標葉長治は若松第一尋常高等小学校の校長です。今回からは標葉長治書状に付けられていた「記」を翻刻してみたいと思います。適宜読点を付けたいと思います。-----------------------------------記標葉長治識一、標葉姓ヲ名乗ル者、相馬郡福浦村大字行津ニ二戸アリ、一ハ現在ノ小生ニシテ、他ハ目下北海道
2024年3月20日。昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。前回は小丸地区の山田忠雄宛鈴木松五郎書状について翻刻しました。今回は鈴木松五郎宛標葉長治書状を翻刻してみたいと思います。適宜読点を付けたいと思います。-----------------------------------(封筒表)「雙葉郡浪江町川添鈴木松左衛門殿(ママ)御直披」(封筒裏)「會津若松第一尋常高等小學校長標葉長治
2024年3月19日。昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。前回は斎藤哲宛鈴木松五郎書状について翻刻しました。今回は山田忠雄宛鈴木松五郎書状を翻刻してみたいと思います。適宜読点を付けたいと思います。-----------------------------------先日小白(ママ)郵便局ニて御書面差上候次第、植付中候處、堤塘周囲全部植付せされば、誠ニ不丁裁、付ては追加十六本、更ニ御寄附願度所存ニ御坐候間、右貴意を得度候、委細ハ拝眉之折、萬々申上