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2022年12月7日、商談で出向いた先でたまたま見つけた石碑をご紹介。これも同じ日のこと。普通に歩いてきて…これは振り返った景。わかるだろうか、左端。コミュニティセンターらしき建物の前に、ひっそりと…なんかある。場所はこちら。どんなもんかと見てみたら…なにぃ?「俳優紀念」だとぅ?想像もしなかった字面にびっくり。なんだこれ。斜めに配した文字がまたトリッキーな。特に碑文はないようで、ひたすら人名の羅列だ。大きく三名の氏名、その下に世話
前回からの続きです佐牙神社から次に行ったのは、京田辺市にある同志社大学田辺キャンパス嫁さんがこちらで試験(学校じゃないですよ、資格の試験)を受けてたので迎えに来ましたこんな時でもないと大学なんて畏れ多くて入れない(^^;正門入って、真っ直ぐ行くと、こんな案内板があります階段を登っていくと駒札と解説板こちらは筒城宮の伝承地筒城宮は、継体天皇が河内の樟葉宮に次いで宮を遷されたというとこだそうです考古学的には、筒城宮址の位置はまだ不明なんだということですそこには数々の石碑がありま
今回から7月6日のこととなりますたぶんこの日の散策で巡ったこと書いてたら来年になるんじゃないかと⁉(^^;どうも記事が現実時間に追い付かない(;^_^Aたぶん記事の量的には来年春の分くらいまであるので、季節感は損なわれてくる(充分損なわれているでしょうが)と思いますが、それを踏まえ楽しんで貰えれば幸いです( ̄∇ ̄*)ゞ今回から伏見区散策となりますが、他府県の方が伏見と言えばすぐ思い浮かばれるのは伏見稲荷じゃないかと思います伏見稲荷は伏見区で一番北(上)になります(かなり東福寺寄り)
地下鉄5号線「北新桥」駅で降りて、北上。方家胡同に入る。方家胡同小学を経由。平屋一帯にある小学校いいなあ。私の目的は「门联」で、64号にあるはずなので行ったのだが、なくなっていた。方家胡同はと言えば46号に飲食店がいくつかある。向かいは猫カフェ。北上。つきあたりに「福」。どんどん北上。着いた!孔庙。30元。博物馆通票で無料。中の詳細は2021年の記事へ。2年前に書かなかったことを今日は書く。触奸柏触奸柏位于北京孔庙大成殿的月台右前方,据说其
6kmランした後に、布引の滝を見に登りました。ランの後のお気に入りのコースです✨王子公園から向かい、車道を登るんだけど…かぉなり急な坂です💦「おんたき」の石碑道中に布引の滝を詠んだ和歌の石碑が建っています。明治時代の初期に36首の石碑を建てたけど、現在は26首らしいです。16首を見付けたので、こちらに掲載します。源経信白雲とよそに見つれど足曳きの山もとどろに落ちつる滝津瀬遠くから見たら白雲だと思っていたが、近づくと大きな音で轟き落ちる滝でした。こちら⬇️は和歌の石碑
下関市菊川町の【松崎少佐散華の地】をレポートします。まずは下関市中部の地図を掲載します。松崎真一少佐は福岡県前原市出身で、旧制糸島中学校を出たあと陸軍士官学校を卒業。飛行隊に所属し、1945年(昭和20年)7月下旬に陸軍小月飛行場(現在の海上自衛隊小月基地)に駐屯しました。(飛行第4戦隊配属と思われます)昭和20年7月28日、米軍機を迎撃すべく四式戦闘機「疾風」で飛び立ちましたが撃墜され、24歳で戦死しました。小月飛行場に駐屯した陸軍飛行第4戦隊については以下の記事を参考にし
5回に亘ってお送りした大嶺炭田のレポートも本日で終了です。今日は美祢市歴史民俗資料館に収蔵される海軍時代の遺構を見ていきます。美祢市街地にある資料館にやってきました(・∀・)炭鉱関係以外にも伊佐の薬売りや化石の展示などがあります。大嶺炭田コーナー。坑道を模した入口を入っていきます。炭鉱で使用された道具がたくさん展示されています。そしてココに来たお目当ての一つ目はコレ。海軍煉炭です。2つとも海軍マーク入りです。大正6年(1917年)6月造(6-6の刻字)
加賀百万石の城下町・金沢。歴史と伝統が息づくこの街を散策すると、思いがけず遺構や石碑を見つけることがある。今回は金沢市立中央小学校の裏にひっそりと佇む「屋漏堂」と刻まれた石碑について紹介したい。「屋漏堂」小学校の裏、鞍月用水が美しい流れを見せる場所にひっそりと佇んでいる。目立たないが、しっかりと案内板は建てられているため、その歴史を偲ぶことができる。この屋漏堂がある場所は、加賀八家のうちの一家である村井家の上屋敷があったところである。江戸時代の延宝年間頃(1673-1681)に千石
今日は大嶺炭田に置かれた捕虜収容所について書いていきます。昭和12年(1937年)、日本は中華民国との戦争に突入し、大東亜戦争終戦の昭和20年(1945年)8月15日までの長い戦時下に入りましたが、戦争が進むにつれて青壮年は戦場にとられてしまい、銃後の労働力不足は深刻なものとなっていきました。この頃の大嶺炭田では、昭和11年(1930年)に日産の傘下に入った最大手の山陽無煙炭鉱が、昭和14年(1939年)から朝鮮人労働者を受け入れ始め、昭和18年(1943年)ごろには500人に膨れ上
『サンスクリット語と古代日本の内緒話』『サンスクリット語』。古代インドや、その周辺諸国の言語。漢字圏の国では『梵語』とも呼ばれる。紀元前1500年頃に編纂された古代インド最古の聖典『リグ・ヴェーダ…ameblo.jp↑のつづき。さて、古代インドの『サンスクリット語』は、沖縄にも身を潜めているようだ。首里城の「首里(しゅり)」の語源が、サンスクリット語の「スリ(聖なる)」だという説や、「シーサー」は「獅子」であり、サンスクリット語では「シンハー(ライオン)」が語源だという説がある。沖縄
小幡緑地の東園でここ2、3年のうちに人が2人は自殺している・・・・という噂を東園のすぐ近くに住んでいる方に聞きました。東園の存在は、前に一度地図で見て知っていましたが、すっかり忘れていました。そもそも、愛知県守山区にある小幡緑地公園は、3箇所に点在している公園なのです。本園、西園、東園と住宅地などを隔てて3つに分かれていますが、どれも小幡緑地なのです。私は本園にはよく行きます。犬の散歩や気分転換など駐車場があるので行きやすいし広いのでなんだかんだ運動できます。しかし、そんな小幡緑地に
先日、ある女性(仮名ユリさん)の祓いを手がけた時のこと...ユリさんは、神仏大好きっこ視えない世界の色んな事に興味があり、全国各地を旅歩いていますこういう方が、ここ数年爆増しましたね~コロナが早く根絶するといいのになぁ...そんなユリさん...大量の未成仏霊に憑りつかれてる?!しかもその未成仏霊達は、因縁まみれで魔物化し真っ暗で巨大な霊団になっているのですこえー普通に生きていて、これほどの霊団に憑りつかれることはまずありませ
今回は演習廠舎を紹介します。まずは地図で場所を確認します。明治42年(1909年)、現在の美東町長登に1個大隊(数百人)が宿泊できる設備として演習廠舎が設けられ、大正3年(1914年)には増築して兵舎を完備しました。昭和20年(1945年)の終戦後、廠舎の建物は畜舎や校舎として払い下げられたり、入植者の住居として改造されたりしましたが、演習廠舎の場所には、境界標石やレンガ・コンクリートの残骸が今でも残っています。戦後米軍が撮影した空中写真に、横長の廠舎が何棟も並んでいるのが見
===============-追記-今回錫山自然遊歩道として紹介している区間ですが、鹿児島市が公開している最新の情報だと遊歩道区間から外されています。しかし当ブログでは錫山自然遊歩道の一部として扱います。ご了承ください。(謎に全長も9.8kmに変更されています)===============お久しぶりな男、蕨です。今回は県道19号もとい旧県道276号線もとい上床林道の車道としての旧道を探索しました。写真が多いのでパートを二つに分けています。パート②はこちら→野頭の旧道②
【20年8月2日探索・9月20日公開】現在地はここ(航空写真)建物の裏にはウインチと思われるものが置いてあった。山神社の前にはこんな石碑も建立されていた。「偲ぶ」という題で、昭和4年(1929)に小串鉱山が操業開始してから昭和46年(1971)の閉山までの人々の想いなど、もちろん昭和12年(1937)に起きた245名もの犠牲者が出た地すべりの犠牲者への鎮魂も含めて刻まれていた。この石碑の建立は平成10年(1998)9月なので、閉山後27年も経ってからの事だ。
秋吉台は美祢市中・東部に広がる日本最大級のカルスト台地です。現在は国定公園となっていますが、明治時代から大東亜戦争終戦の昭和20年8月まで、旧日本陸軍が戦闘訓練の演習場として利用していました。ではまずは歴史から。陸軍が秋吉台上を使用し始めたのは明治18年(1885年)と言われています。最初に広島野戦砲兵隊が、明治22年(1889年)には下関要塞砲兵連隊が実弾射撃場として使用し、明治32年(1899年)ごろから山口歩兵第42連隊が戦闘訓練の演習を開始しました。明治42年(1909年)
これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地図を掲載します。今回紹介するのは「大嶺炭田(海軍煉炭製造所採炭部)」ですので、山口県全域の地図で場所を確認します。では簡単に概略を書いていきます。大嶺炭田は、現在の美祢市西部の大嶺町から豊田前町に至る東西10㎞、南北12㎞に及ぶ広大な炭田で、明治10年(1877年)ごろに発見されたと言われています。(諸説あり)大嶺炭田で採掘される石炭は燃焼時に煙や臭いがほとんど出ない炭化が
今日から大嶺炭田の遺構を紹介していきます。なお炭鉱の概略については前回の記事をご覧ください。美祢市大嶺町の麦川地区に置かれている海軍マーク入りキーストンを紹介します。美祢市街地から西に国道435号線→県道38号線を車で走ると、道沿い右手側にM字型のモニュメントが見えてきます。隣に駐在所と郵便局が並んでいますので分かりやすいかと思います。正面から。中央に付いているのが海軍マーク入りキーストンです。キーストン(キーストーン)とは、石やレンガでアーチ型に組み立てた場合のアーチの
大嶺炭田2つ目の遺構紹介は【荒川水平坑】です。日清戦争以後、軍艦燃料の自給化を図るべく練炭の研究を進めていた海軍省は、明治37年(1904年)2月の日露戦争勃発によって急きょ大嶺炭田の長門無煙株式会社を買収、翌年4月には、徳山に練炭製造所(海軍燃料廠)と大嶺炭田に採炭部を置くことを決定しました。詳細は一昨日の【概略】をご覧下さい。『山口県の戦争遺跡52~大嶺炭田(海軍練炭製造所採炭部)(美祢市)【概略】』これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていき
美祢市秋芳町秋吉にある忠魂碑を紹介します。なお本ブログでは忠魂碑を戦争遺跡のカテゴリーから外していますが、ここの忠魂碑は砲身を使った特殊な形をしていますので取り上げることにしました。忠魂碑は、秋吉中学校や自住禅寺の背後にある丘陵地、通称「岡山」(標高137m)の山頂に立っています。山頂へは忠魂碑参道を通って上がります。この標柱は戦後に秋吉遺族会によって設けられました。到着です。忠魂碑の左側に秋吉村(当時)の戦病死者の墓標があります。また前面にはコンクリート製のベンチがい
長野県の中央に修那羅峠と呼ばれる険しい峠道があります。東筑摩郡筑北村と小県郡青木村を結ぶ険しい山道に、地元の方がショナラ様と呼ぶ「修那羅山安宮神社」があります。この神社は別名「オートバイ神社」と呼ばれています。杉の木立の間を歩いて神社に向かいます。真冬だけどそんなに寒くない晴天の師走。冬枯れの木立から日差しがこぼれてきます。
白岩山賢居院(愛知県新城市)『けんきょいん』と読む賢居院は、臨済宗南禅寺派の寺院であり、参道入口から100mほどで、鳳来寺境内入口(石段道)があります▼石燈籠▼▼寺院入口▼▼石碑▼▼石燈籠▼▼境内▼▲▼参道▲▼▼▲参道▼▲▲地蔵尊▲▲石碑▲▼地蔵尊と手水鉢▼▲本堂▲▼石燈籠▼▼扁額▼▼本堂正面▼▲書院入口▲▲吊
公園として整備され、観光客で賑わう金沢城公園。実は、金沢城公園は整備されてまだ20年ほどしか経っていない。というのも、この金沢城公園、以前は金沢大学のキャンパスだったのである。金沢城公園にある石碑。「金沢大学誕生の地」と記されている。城郭全域を大学のキャンパスにするのは大変珍しく、金沢大学以外ではドイツのハイデルベルク大学ぐらいであったそうだ。そもそも、金沢城公園は時代とともに宗教・政治・軍事・学術の拠点として移り変わってきた歴史を持つ。幕藩体制が終わりを告げ、明治に入ると、金沢城跡には
空の青さは秋に似てるけど実は5月の連休も終わった時分の5月8日月曜日♪…てか、今や京都は、すっかり底冷えの冬…❄️(((ω-、)))ブルブル…(≧∀≦*;)ゞ書きかけで放置してた記事前回のつづき♪『宇治橋通りと茶話♪閑話♪(かんばやし×3)【宇治川~宇治橋通~上林記念館♪】』空の青さは秋に似てるけど実は5月の連休も終わった時分の5月8日月曜日♪(≧∀≦*;)ゞ書きかけで放置してた記事宇治川♪相変わらずの濁流…(((≧∀≦;)今…ameblo.jp…てか、前
不動山大学院(愛知県名古屋市天白区)『ふどうさんだいがくいん』と読む不動山大学院は、通称『八事のお不動さん』『八事の大学さん』と呼ばれ、地域の方に親しまれているようですまた、真言宗醍醐派の寺院であり、御本尊は『大青面金剛(庚申さま)』のようです▼寺院入口▼▼山門▼▼寺号標▼▼三猿額▼▲五七桐紋▲▲札所碑▲五七桐紋は、戦国の三英傑豊臣秀吉公の家紋であり、豊臣姓を名乗るようになったとき、当時の天皇から与えられた
平安時代中期の「枕草子」(清少納言)、鎌倉時代後期の「徒然草」(吉田兼好)と共に日本三大随筆にあげられているのが「方丈記」。方丈記は、鎌倉時代初めに鴨長明が今の伏見区日野の山中の庵(いおり)にこもり執筆し、今から800年程前の1212年(延暦2年)に完成したとされる。この方丈庵は下鴨神社の摂社・河合神社に復元されているが、かねてから気にかけていた方丈庵の跡を求め日野の山中に入った。□方丈庵跡へのコース当日午前中の明智光秀の胴塚と小栗栖の明智薮のウォークを終え、地下鉄東西線の石田駅前のファ
2018年4月28日さわやかウォーキングの続きです。奈良井の駅をスタートして奈良井宿で道草してましたが、中山道は、いよいよ鳥居峠に向けて山道に入っていきます。鳥居峠は、旧中山道の難所のひとつで、奈良井宿と藪原宿を結びます。峠の標高が1,197mなんだそうです。奈良井宿を抜けた中山道は、石の階段から山道に入っていきます。わっ、大勢いますね~最初は、皆さん意気込んでいます。中山道の石碑が時代を感じさせてくれます。途中に中山道鳥
あー30年生きたな俺!「チベットのモーツァルト」著者中沢新一の書評だす。チベットのモーツァルト(1984年)Amazonどうも裏神主です。早速の粗評をひとつ。30年ぶりに再読古い本ですが「チベットのモーツァルト」著者中沢新一さんの本の紹介。本書は有名なので読んでいる人も多いかな?ワタシは初版を30年前くらい前にナナメに読んだけだったし、内容もスカッと忘れてるし、家の中探したけど本も見あたらないしということで、再度中通書店で買い求めて読んでみたら、「あー30年生き
「のど自慢」観覧後、美濃市へ「うだつ」って、「卯建」って書くんですねとても立派ですね!機会があったらよく見てみたいですせっかく岐阜に来たので、GOROちゃんの故郷の美濃に行くことにしました電車の発車時刻まで時間があったので、駅近くの喫茶店に入りました苺のワッフル、美味しかった~美濃市に到着、旧名鉄美濃駅へ🚋GOROちゃん、美濃に寄られたんですね3/6のインスタに同じようなアングルの写メが!私が来た時にはすでにお帰りになった後だっ
「春日部市クレヨンブログ」です6テレ東「出没!アド街ック天国」で放送された日光街道の宿場町としての名残りを紹介します店蔵の前にある「道しるべ」です今でいう標識ですね左側が西南いつき右側が東江戸と書いてあります