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この日は堀坂山(757m)に登ったので、帰りに道沿いの乙女の滝に立ち寄った。増水時の写真はここにある。新しい石碑があって驚いた。乙女の滝(右岸から)広域地図滝の位置(地理院地図)ヘアピンカーブ上の写真をアップ入口付近新しい石碑正面から
「明星」が募集した「あなたの家で舟木さんと誕生日パーティーを!」の企画。上の写真は「近代映画」の写真なので、自宅での写真はない。岡山在住の舟木さんのファンが当選し、自宅に行かれて誕生日のお祝いをされた。岡山のコンサートに行った時に、舟友の仲間たちと一緒に後楽園に行った。その時に「名勝岡山後楽園」の石碑で、皆が舟木さんと同じ格好で写真を撮ったのを思い出す。その時は、こうした写真がある事を知らず、私は写真を撮って貰わなかったが、今となっては残念でならない。その時もご一緒した舟友さん
『サンスクリット語と古代日本の内緒話』『サンスクリット語』。古代インドや、その周辺諸国の言語。漢字圏の国では『梵語』とも呼ばれる。紀元前1500年頃に編纂された古代インド最古の聖典『リグ・ヴェーダ…ameblo.jp↑のつづき。さて、古代インドの『サンスクリット語』は、沖縄にも身を潜めているようだ。首里城の「首里(しゅり)」の語源が、サンスクリット語の「スリ(聖なる)」だという説や、「シーサー」は「獅子」であり、サンスクリット語では「シンハー(ライオン)」が語源だという説がある。沖縄
法螺貝の音を聴いてきたやま山田です。(´∀`*)まずは湯殿山神社から。その独特な御神体は、撮影が禁止されておりますので。仙人沢の赤い鳥居と、撮影禁止区域手前にある石碑をパチリ。ついでに往復のバスチケットね〜。\\\\٩('ω')و////次の神頼みに向かいます。
西国三十三ヵ所の巡礼を満願したので二巡目を始める前に摂津国八十八箇所の続きをのんびりと再開中で~すそれにしても・・・11月も終わると言うのに、暖かいですね今年は今日は摂津方面に足を伸ばしたのですが紅葉がまだまだ見頃でした摂津の寺院に向かう途中に発見した小さな公園カップルがのんびりと地図を見ながら休憩していました長閑だな~ふと・・目の前に気になる石碑が見えたのでパシャリ流れの馬場跡流れの馬場跡馬場が流れた場所って事全然良く分からないのですが、
こんにちは。今日は以前から気になっていた愛知県あま市(旧甚目寺町)の晴明塚と小町塚をご紹介します。午前中から35度を超える中、頭からタオルをかぶり散策開始です。現在は住宅地になっているので田んぼの横に停めて歩きます。周辺は、大きなお屋敷や古いお家もポツポツあるのでその昔は、田畑か漁村の中の集落で新居屋郷といったそうです。発見!住宅地の中にポツリと。説明書きも立札も何もありませんが石碑の裏に何やら書いてあります。凄く読みにくいのですが、晴明が東下り
これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地図を掲載します。今回紹介するのは「大嶺炭田(海軍煉炭製造所採炭部)」ですので、山口県全域の地図で場所を確認します。では簡単に概略を書いていきます。大嶺炭田は、現在の美祢市西部の大嶺町から豊田前町に至る東西10㎞、南北12㎞に及ぶ広大な炭田で、明治10年(1877年)ごろに発見されたと言われています。(諸説あり)大嶺炭田で採掘される石炭は燃焼時に煙や臭いがほとんど出ない炭化が
ちょっと開きましたが、京丹波町散策の続きです府道444号線沿いにはこんな看板がありますどうやら隕石が堕ちたとこらしいですでもグラウンドには、何かあるようでもなし(^^;そう思ってたら、隕石が堕ちたとこから離れた場所に、隕石のレプリカなどがあるとこがありました場所は国道9号線から、府道444号線に入って小さな峠を越した右手です(令和2年4月11日撮影・追記)大きな石碑は農地整備した記念碑だと思いますその右手にある小さなのが曽根隕石のレプリカです大きな石碑の横に曽根隕石の解説もあり
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三重県津市北畠氏の霧山城つづきです。麓の城館、庭園、詰城を制圧し、地獄の登山道を進撃。そして現在は霧山城跡の南曲輪群を占拠中。これより北曲輪群へと侵攻して行きます。南曲輪群(鐘突堂)から北曲輪群方向へ下りた道を振り返る。実はこれ登って来た道と勘違いしており(木の階段とちゃうかったのに)、鐘突堂へ登って来た道とは別に北曲輪方面側に下りる道があるはずなのにのう?とモヤモヤしながら下りたわけでして・・・下りて反対側を見ると道があったワープ道であったこの先が鐘突堂の登り
越智家という氏族を考える時に思い浮かべるのは中世伊予の歴史についてです。縄文〜古墳時代くらいにかけては古すぎて遺物からどんな生活をしてたんだろう?と推察するくらいしかできませんが、奈良時代以降の歴史については、ある程度文字による資料が残っている(1級資料は少ない)ため、信憑性はともかくとして検証の度合いは増します。中世伊予において、鎌倉時代以降に北条近辺を縄張りにして地頭として台頭し、松山市道後に居館を構えて伊予半国10郡に威勢を張った河野家や、河野通宣の娘婿であった村上水軍3家のひとつであ
公園として整備され、観光客で賑わう金沢城公園。実は、金沢城公園は整備されてまだ20年ほどしか経っていない。というのも、この金沢城公園、以前は金沢大学のキャンパスだったのである。金沢城公園にある石碑。「金沢大学誕生の地」と記されている。城郭全域を大学のキャンパスにするのは大変珍しく、金沢大学以外ではドイツのハイデルベルク大学ぐらいであったそうだ。そもそも、金沢城公園は時代とともに宗教・政治・軍事・学術の拠点として移り変わってきた歴史を持つ。幕藩体制が終わりを告げ、明治に入ると、金沢城跡には
源頼朝の側室お安姫(お安御前)の守護仏が安置されている篠ノ井二ツ柳にある「作見公民館」作見公民館長野市篠ノ井二ツ柳130177号線を走っていると石碑見つけました。篠ノ井追分宿跡地バス停近くにあります。篠ノ井追分宿跡塩崎郵便局の近くです
今回から7月6日のこととなりますたぶんこの日の散策で巡ったこと書いてたら来年になるんじゃないかと⁉(^^;どうも記事が現実時間に追い付かない(;^_^Aたぶん記事の量的には来年春の分くらいまであるので、季節感は損なわれてくる(充分損なわれているでしょうが)と思いますが、それを踏まえ楽しんで貰えれば幸いです( ̄∇ ̄*)ゞ今回から伏見区散策となりますが、他府県の方が伏見と言えばすぐ思い浮かばれるのは伏見稲荷じゃないかと思います伏見稲荷は伏見区で一番北(上)になります(かなり東福寺寄り)
2018年4月28日さわやかウォーキングの続きです。奈良井の駅をスタートして奈良井宿で道草してましたが、中山道は、いよいよ鳥居峠に向けて山道に入っていきます。鳥居峠は、旧中山道の難所のひとつで、奈良井宿と藪原宿を結びます。峠の標高が1,197mなんだそうです。奈良井宿を抜けた中山道は、石の階段から山道に入っていきます。わっ、大勢いますね~最初は、皆さん意気込んでいます。中山道の石碑が時代を感じさせてくれます。途中に中山道鳥
どうも、わらびです。前回~に引き続き永田川の旧河道を探索していきますヨ。===↓他の関連探索はこちら===・永田川旧河道群①鹿倉-諸平(永田川旧河道連続探索パート①)・永田川旧河道群②皇徳寺地区(永田川旧河道連続探索パート②)・永田川旧河道群③山之園地区(永田川旧河道連続探索パート③)・永田川旧河道群④中山地区(永田川旧河道連続探索パート④)・永田川旧河道群⑥向川原地区(永田川旧河道連続探索パート⑥)・旧・大城戸橋(永田川旧河道に残る旧橋)========
2017年11月5日この日も、中山道鳥居峠を歩くさわやかウォーキングに参加しています。藪原駅をスタートし、藪原宿を抜け、鳥居峠に行く中山道を進みます。さっき、お茶とお漬物をご接待頂いた、林道が眼下に見えます。足元には、大きな朴木の落ち葉が堆積しています。朴葉の落葉を見ていると、朴葉寿司に、朴葉味噌料理が食べたくなってしまいます。空を見上げると・・・あの葉っぱが落ちてくるようです。落ち葉の絨毯を先に進みます。中山道も、あと少しで鳥居
おはようございます(*--)(*__)ペコリ寒い冬なのにこの景色を見ると夏の音楽が聞こえて来る私です(*´∀`*)ポッ海沿いのカーブを~♪夏の~クラクション~♪誰もいない海~♪二人の愛を確かめたくって~♪海岸で中井貴一が腰を震る物語~♪あ!失礼海岸で若いふたりが恋をする物語~♪しかし…………………………こちらも過疎側には進む集落です(´Д`)ハァ…あちらこちらで今は使われていないみかん運搬用のモノレール(?)を見かけました(;´・ω・`)そんな場所のそばにひと
どうも、わらびです。前回~に引き続き永田川の旧河道を探索していきますヨ。===↓他の関連探索はこちら===・永田川旧河道群①鹿倉-諸平(永田川旧河道連続探索パート①)・永田川旧河道群②皇徳寺地区(永田川旧河道連続探索パート②)・永田川旧河道群③山之園地区(永田川旧河道連続探索パート③)・永田川旧河道群⑤七村地区(永田川旧河道連続探索パート⑤)・永田川旧河道群⑥向川原地区(永田川旧河道連続探索パート⑥)・旧・大城戸橋(永田川旧河道に残る旧橋)========
時はなぜ無駄に過ぎるんだろう。1日は24時間もあるというのに。特にこの9月。臨書してない。明日から(今日からじゃないんかい!)気を引き締めたい。ここが書道ブログであることを忘れていた。コメント欄で質問されていたことに答える。問:拓本は石碑などを写し取ったものですよね。その石碑に書かれた文字が(例えば)王義之のものだというのは、どうやってわかるのですか?言い伝えですか?残されている書の字と同じだからですか?それともサインが入っているとか,それを証明するものがあるのですか?答:
どうも、わらびです。最近やっと身の回りが落ち着いてきました。夏の暑さも落ち着きを見せ…見せ…?外に出やすい季節になり始めていますネ。というわけで(?)今回は鹿児島市南部の谷山地区を流れる二級河川、永田川の下流域に存在する旧河道群を一気に探索していきます。そこそこ長いので複数パートに分かれての投稿になります。===↓他の関連探索はこちら===・永田川旧河道群②皇徳寺地区(永田川旧河道連続探索パート②)・永田川旧河道群③山之園地区(永田川旧河道連続探索パート③)・永田川旧河道
宇部市野中にある「旅順陥落記念碑」を紹介します。記念碑は野中公会堂の前、、、と言うか民家の玄関先に立っていますので、写真を撮る際に家の方を見かけたら一声かけた方がよいかと思います。記念碑に彫られている「明治三十七八年戦役」は日露戦争のこと、「旅順陥落記念」はロシアの旅順要塞を日本軍が攻め落としたことを記念するものです。これまでも何度も掲載していますが、日露戦争についての説明です。日露戦争(日露戦役、明治三十七八年戦役)】明治37年(1904年)2月から翌年9月にかけ
10/21住吉大社周辺の石碑と燈籠を巡る②byすみ博2018住吉観光ツアーの続きにて・・・薩摩誕生石の場所から移動する途中・・・何回も住吉大社に来たことがあったのにこんなものがあったとは!!(;゚Д゚)!なんと公衆電話ボックスが住吉造になっている━━━━!!Σ(゚д゚lll)・・・前からあったっけ?!・・とびっくりしつつ次に向かった先は・・・⑫長明燈文久2年に奉納、紅花や綿花を扱った山形県十日町の豪商で佐藤利兵衛家が一族を集めて組織した協業体『永寿講』が奉納
===============-追記-今回錫山自然遊歩道として紹介している区間ですが、鹿児島市が公開している最新の情報だと遊歩道区間から外されています。しかし当ブログでは錫山自然遊歩道の一部として扱います。ご了承ください。(謎に全長も9.8kmに変更されています)===============お久しぶりな男、蕨です。今回は県道19号もとい旧県道276号線もとい上床林道の車道としての旧道を探索しました。写真が多いのでパートを二つに分けています。パート②はこちら→野頭の旧道②
函館公園は明治12年(1879年)11月3日に開園した北海道最初の公園英国領事ユースデンのすすめで渡辺熊四郎らが中心になり寄付金を集め国からも補助金を得て明治11年3月工を起こし1年7ヵ月を要して完成したものその造園の由来などを記した碑篆額は太政大臣三条実美の筆で函館公園記とある裏面開築事業者として浅田清次郎常野正義渡辺熊四郎平塚時蔵平田文右衛門今井市右衛門岩船峰次郎菊池治郎右衛門新栄幸平らの名を刻む※北海道新聞社は
不動山大学院(愛知県名古屋市天白区)『ふどうさんだいがくいん』と読む不動山大学院は、通称『八事のお不動さん』『八事の大学さん』と呼ばれ、地域の方に親しまれているようですまた、真言宗醍醐派の寺院であり、御本尊は『大青面金剛(庚申さま)』のようです▼寺院入口▼▼山門▼▼寺号標▼▼三猿額▼▲五七桐紋▲▲札所碑▲五七桐紋は、戦国の三英傑豊臣秀吉公の家紋であり、豊臣姓を名乗るようになったとき、当時の天皇から与えられた
曹洞宗のお寺陽光山斬心月院境内に入って左手には延命地蔵菩薩本堂の前に石仏が並んで慰霊堂と石碑本堂には本尊の金銅釈迦如来像が安置されています。臨済宗のお寺片岡山智光院境内に入ると直ぐ左手に小さな祠があります。このお寺はもと桂昌院と号し桂昌院殿心月智光尼が開基となって寛永7年(1630)上野車坂下に創建され、元禄11年(1698)浅草新寺町へ移転して宝永2年(1705)には開基者の法
空の青さは秋に似てるけど実は5月の連休も終わった時分の5月8日月曜日♪…てか、今や京都は、すっかり底冷えの冬…❄️(((ω-、)))ブルブル…(≧∀≦*;)ゞ書きかけで放置してた記事前回のつづき♪『宇治橋通りと茶話♪閑話♪(かんばやし×3)【宇治川~宇治橋通~上林記念館♪】』空の青さは秋に似てるけど実は5月の連休も終わった時分の5月8日月曜日♪(≧∀≦*;)ゞ書きかけで放置してた記事宇治川♪相変わらずの濁流…(((≧∀≦;)今…ameblo.jp…てか、前
妻の実家の近くをウォーキングしました40分程歩きましたが、写真を撮りながら歩いたのでそんなに距離を歩いていません。でも、汗びっしょりになりました。黒田城跡とは、愛知県一宮市木曽川町にあり現存せず、黒田小学校の片隅に碑がある安土桃山時代にあった城初代土佐藩主となった山内一豊の生まれた城です。JR東海道線の脇にある。山内一豊公の生誕の地とされている。(岩倉の神明生田神社にも誕生の碑があるどちらか不明)山内家の家紋がついている大正6年(19
沖縄市山内(やまうち)の山内公民館の正面に鳥居のある拝所があります。そこは山内大明神と呼ばれる拝所で山内集落の祖となった山内昌信(やまうちしょうしん)という人物が祀られています。鳥居をくぐるとコンクリートの拝所があります。拝所はアルミ製の扉で閉じられています。扉の奥に山内大明神と銘がある石碑がありました。これらの建物は以前の建物が老朽化した為に1991年に改築した事が書かれています。山内大明神の左側に火の神があります。この火の神は別の場所から移動されてきたとの事です。山内大明神の