ブログ記事3,575件
先日、ある女性(仮名ユリさん)の祓いを手がけた時のこと...ユリさんは、神仏大好きっこ視えない世界の色んな事に興味があり、全国各地を旅歩いていますこういう方が、ここ数年爆増しましたね~コロナが早く根絶するといいのになぁ...そんなユリさん...大量の未成仏霊に憑りつかれてる?!しかもその未成仏霊達は、因縁まみれで魔物化し真っ暗で巨大な霊団になっているのですこえー普通に生きていて、これほどの霊団に憑りつかれることはまずありませ
これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地図を掲載します。今回紹介するのは「大嶺炭田(海軍煉炭製造所採炭部)」ですので、山口県全域の地図で場所を確認します。では簡単に概略を書いていきます。大嶺炭田は、現在の美祢市西部の大嶺町から豊田前町に至る東西10㎞、南北12㎞に及ぶ広大な炭田で、明治10年(1877年)ごろに発見されたと言われています。(諸説あり)大嶺炭田で採掘される石炭は燃焼時に煙や臭いがほとんど出ない炭化が
沖縄市山内(やまうち)の山内公民館の正面に鳥居のある拝所があります。そこは山内大明神と呼ばれる拝所で山内集落の祖となった山内昌信(やまうちしょうしん)という人物が祀られています。鳥居をくぐるとコンクリートの拝所があります。拝所はアルミ製の扉で閉じられています。扉の奥に山内大明神と銘がある石碑がありました。これらの建物は以前の建物が老朽化した為に1991年に改築した事が書かれています。山内大明神の左側に火の神があります。この火の神は別の場所から移動されてきたとの事です。山内大明神の
おごめ~ん、大分のtakatch親方です(`・ω・´)ゞ岡城天然温泉月のしずく温泉入浴後、かねてから訪問したかった戦跡へ。▽📝大分県竹田市の温泉「月のしずく」記事→https://ameblo.jp/takatch/entry-12564815401.html▽Cf:岡城天然温泉月のしずく@大分県竹田市動画→https://youtu.be/BQW37OOkqS0☆「殉空之碑(B29墜落の地)」▽大分県竹田市「殉空の碑」動画→https://youtu.be/sy8k1O7
おはようございます☂️🌧今日は江差追分江差地区主催のかもめ島と追分会館の石碑の清掃がありました✨あいにくの雨風と強風の中参加者は少なかったけどなんとか無事に終え帰宅しました🏠目の前にもありながらかもめ島は久しぶり😋下の青坂先生の銅像は傘をかぶっていてとてもチャーミングでした✨紫世会からは昨年も参加してくれたうるうちゃんと😋身体も冷え冷えになり参加された方々も風邪をひかないことだけ願います✨お疲れ様でした✨またSTVラジオ『香澄の江差恋唄』は今日、18時
宇部市東岐波の前田集会所に「焼夷弾投下被災地」の標柱が立てられています。東岐波地区は宇部市東部の海岸線付近となります。大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)、宇部市は4月26日から8月5日まで計8回に亘って、延べ280機の米軍機による空襲を受けました。「宇部市勢要覧」によるとこの間の人的被害は、死亡者254人、負傷者557人、行方不明者68人、罹災人員2万5,424人とされていますが、特に被害が大きかったのが7月2日の3回目の空襲でした。7月2日未明に東部市街地の大部分および西
こんにちは。今日は以前から気になっていた愛知県あま市(旧甚目寺町)の晴明塚と小町塚をご紹介します。午前中から35度を超える中、頭からタオルをかぶり散策開始です。現在は住宅地になっているので田んぼの横に停めて歩きます。周辺は、大きなお屋敷や古いお家もポツポツあるのでその昔は、田畑か漁村の中の集落で新居屋郷といったそうです。発見!住宅地の中にポツリと。説明書きも立札も何もありませんが石碑の裏に何やら書いてあります。凄く読みにくいのですが、晴明が東下り
ハンチャの学校に、コロナの石碑が建てられた。パンデミック中に亡くなった学校関係者の方々の名前が刻まれている。ハンチャに学校へ行った時に、どこにあるんか教えてもらって見たけど。な、なんかショックやったわ。私の中では、数人やと思っていたけど。10人のお名前が刻まれていて。思わずハンチャに…こんなに?!と言うたぐらい。さらによく見たら、管理人さんのお名前があり、ハンチャに…あの管理人さんも?見かけないから退職されたと思ってたのに…と、再びショックを受けてしまった。ハンチャが私に…私はこれ
福岡市内で、気になるものがいろいろあるんですが、その一つが「猿田彦大神」と刻まれた石碑。東京の街中では見かけることがなかったのですが、福岡市内を歩いていると、よく見かけるんですよね。そんな気になる「猿田彦大神」をちょいと、紹介しますね。高宮通りの平尾北交差点から、山荘通りに抜ける道路があるんですが、その道路沿いの敷地に、「猿田彦大神」の石碑があります。お供えがありますので、きちんと管理されているようですね。で、この「猿田彦大神」があるのは、こんな場所。駐車場
平安時代中期の「枕草子」(清少納言)、鎌倉時代後期の「徒然草」(吉田兼好)と共に日本三大随筆にあげられているのが「方丈記」。方丈記は、鎌倉時代初めに鴨長明が今の伏見区日野の山中の庵(いおり)にこもり執筆し、今から800年程前の1212年(延暦2年)に完成したとされる。この方丈庵は下鴨神社の摂社・河合神社に復元されているが、かねてから気にかけていた方丈庵の跡を求め日野の山中に入った。□方丈庵跡へのコース当日午前中の明智光秀の胴塚と小栗栖の明智薮のウォークを終え、地下鉄東西線の石田駅前のファ
不動山大学院(愛知県名古屋市天白区)『ふどうさんだいがくいん』と読む不動山大学院は、通称『八事のお不動さん』『八事の大学さん』と呼ばれ、地域の方に親しまれているようですまた、真言宗醍醐派の寺院であり、御本尊は『大青面金剛(庚申さま)』のようです▼寺院入口▼▼山門▼▼寺号標▼▼三猿額▼▲五七桐紋▲▲札所碑▲五七桐紋は、戦国の三英傑豊臣秀吉公の家紋であり、豊臣姓を名乗るようになったとき、当時の天皇から与えられた
秋吉台は美祢市中・東部に広がる日本最大級のカルスト台地です。現在は国定公園となっていますが、明治時代から大東亜戦争終戦の昭和20年8月まで、旧日本陸軍が戦闘訓練の演習場として利用していました。ではまずは歴史から。陸軍が秋吉台上を使用し始めたのは明治18年(1885年)と言われています。最初に広島野戦砲兵隊が、明治22年(1889年)には下関要塞砲兵連隊が実弾射撃場として使用し、明治32年(1899年)ごろから山口歩兵第42連隊が戦闘訓練の演習を開始しました。明治42年(1909年)
公園として整備され、観光客で賑わう金沢城公園。実は、金沢城公園は整備されてまだ20年ほどしか経っていない。というのも、この金沢城公園、以前は金沢大学のキャンパスだったのである。金沢城公園にある石碑。「金沢大学誕生の地」と記されている。城郭全域を大学のキャンパスにするのは大変珍しく、金沢大学以外ではドイツのハイデルベルク大学ぐらいであったそうだ。そもそも、金沢城公園は時代とともに宗教・政治・軍事・学術の拠点として移り変わってきた歴史を持つ。幕藩体制が終わりを告げ、明治に入ると、金沢城跡には
こんにちは〜しっかし暑いですね〜九州地方の甚大な被害をTV見ると胸が痛みます自然が相手だけに、どうにもできないのともどかしくなりますが、これ以上被害が拡大しない事を願うばかりです何だか毎日気が乗らなくて、やらなきゃならない事はやってるのですが、ブログ更新までは至らず…夜中、気管支炎で息苦しくなり、朝5時に目が覚めちゃうし、これを機に痩せられればいいのだが、食欲は減退せず…先日、息子が入院した時、学校では3年生の一大イベント❣️本庄かるた石碑巡りがあったのですクラスで一番楽しみにして