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拙ブログで以前記事にした、石川県金沢市の地代隧道。正直、覚えている方もほとんどおられない記事だと思う。しかし、これに食いついてくださった方がいた。ここを準地元とするブロ友のMEINDLさんがその人。いや、隧道もさることながら、その西側坑口そばに建立されている石碑にいたく興味を持ってくださって、というのが正確なところ。わたくしの記事投下以来三年余、お忙しい中様々な調査をされたその成果を先日記事にしてくださったのでぜひご紹介したいのだが、まず先に『地代隧道(石川県金沢市地代町~福畠町
秋吉台は美祢市中・東部に広がる日本最大級のカルスト台地です。現在は国定公園となっていますが、明治時代から大東亜戦争終戦の昭和20年8月まで、旧日本陸軍が戦闘訓練の演習場として利用していました。ではまずは歴史から。陸軍が秋吉台上を使用し始めたのは明治18年(1885年)と言われています。最初に広島野戦砲兵隊が、明治22年(1889年)には下関要塞砲兵連隊が実弾射撃場として使用し、明治32年(1899年)ごろから山口歩兵第42連隊が戦闘訓練の演習を開始しました。明治42年(1909年)
宇部市東岐波の前田集会所に「焼夷弾投下被災地」の標柱が立てられています。東岐波地区は宇部市東部の海岸線付近となります。大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)、宇部市は4月26日から8月5日まで計8回に亘って、延べ280機の米軍機による空襲を受けました。「宇部市勢要覧」によるとこの間の人的被害は、死亡者254人、負傷者557人、行方不明者68人、罹災人員2万5,424人とされていますが、特に被害が大きかったのが7月2日の3回目の空襲でした。7月2日未明に東部市街地の大部分および西
先日、ある女性(仮名ユリさん)の祓いを手がけた時のこと...ユリさんは、神仏大好きっこ視えない世界の色んな事に興味があり、全国各地を旅歩いていますこういう方が、ここ数年爆増しましたね~コロナが早く根絶するといいのになぁ...そんなユリさん...大量の未成仏霊に憑りつかれてる?!しかもその未成仏霊達は、因縁まみれで魔物化し真っ暗で巨大な霊団になっているのですこえー普通に生きていて、これほどの霊団に憑りつかれることはまずありませ
今日は演習場区域内に残る境界標柱を紹介します。青字の「標柱〇号」が境界標柱です。探索の結果、4本確認しています。4本の標柱はいずれも山頂付近に設置されています。「境界標柱」と書きましたが、上記地図での演習場境界線に沿って置かれているわけではないようですので、設置の規則性はよく分かりません。まずは、廠舎南側の榧ヶ葉山(かやがはやま)の山頂付近にある2本を見ていきます。なおこの山は登山道が整備されていませんので、登山慣れされた方以外は立ち入らない方がよいかと思われます。山頂
2016年5月2日、石川県シバキまわしツアー2日目。この日のネタで記事にしているのは、宮島隧道と大岩橋梁。今宵ご紹介するのは大岩橋梁の48分後に訪ねた、昨日に続いての頌徳碑物件である…ってそんなジャンルないし。実はここ、初訪問は2012年だったりするのだが、その時は暗すぎてろくに撮影できなかった。なので、ちょうどこの日の通りすがりに宿題を片付けた感じ。まずはこちら、石川県道213号仮生堅田線は地代町地内。一見面白くもなんともないボックスカルバートが登場~。場所はコチラ。
箱根湯本駅から中心街を抜けて、県道732号線を徒歩で進みます。ホテルはつはな前を通過し、西へ230m行くと道路脇に石碑があります。(2017.12.16撮影)箱根町須雲川須雲川左岸初花の滝落差30m別名/忍ヶ滝大変読み辛いですが、「初花ノ瀑夫勝五郎ノ仇討本懐祈願ノ為メ初花ガ垢離ヲ取ツタ滝トシテ傳ヘラル箱根振興會」とあります。この付近から対岸の湯坂山を望むと見えるはずですが・・・アップです。近年は、木々が茂り、殆ど見えなくなっています。木々の合間か
今回は演習廠舎を紹介します。まずは地図で場所を確認します。明治42年(1909年)、現在の美東町長登に1個大隊(数百人)が宿泊できる設備として演習廠舎が設けられ、大正3年(1914年)には増築して兵舎を完備しました。昭和20年(1945年)の終戦後、廠舎の建物は畜舎や校舎として払い下げられたり、入植者の住居として改造されたりしましたが、演習廠舎の場所には、境界標石やレンガ・コンクリートの残骸が今でも残っています。戦後米軍が撮影した空中写真に、横長の廠舎が何棟も並んでいるのが見
1日空きましたが、今日は演習場に残る給水施設を見ていきます。地図で場所を確認します。秋吉台の東側、演習場境界で言うと北部に、大きく窪んだ谷状の地形が南北に伸びている場所があり、この地形はウバーレと呼ばれています。ウバーレとは秋吉台上に数多く存在するドリーネ(すり鉢状の窪地)が2つ以上組み合わさってできた大きな窪地のことですが、この場所はとりわけ大きなウバーレで、湧水が溢れ出ていることが大きな特徴となっています。深く浸食されたことで地下水が地上に顔を覗かせているわけですが、数十メー
今週の一枚、実際は先週になるかもしれませんが、大阪府最高峰の金剛山の山頂に上った時のことです。海抜1000メートルを超えるこの地点には、寄付をした人の石碑が並んでいますが、いちばん左に「愛犬まり」というのがありました。実質的にはこの愛犬の主が寄付をしたのでしょう。けれどあえて自らの名前ではなく、愛犬の名前を石碑に刻ませるとは驚きです。何とも愛犬思いなのか、もしくは自分の名前を出したくない人のどちらかなんでしょうね。トレッキングシューズドイツの撥水・防汚の技術を使用登山靴防水ス
これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地図を掲載します。今回紹介するのは「大嶺炭田(海軍煉炭製造所採炭部)」ですので、山口県全域の地図で場所を確認します。では簡単に概略を書いていきます。大嶺炭田は、現在の美祢市西部の大嶺町から豊田前町に至る東西10㎞、南北12㎞に及ぶ広大な炭田で、明治10年(1877年)ごろに発見されたと言われています。(諸説あり)大嶺炭田で採掘される石炭は燃焼時に煙や臭いがほとんど出ない炭化が
古川神社の御朱印神社入口の石碑です。一方通行多い狭い道路から辿り着きました🚙😄こちらは末社の諏訪神社です⛩️拝殿右手の社務所にて御朱印頂けます。末社
おごめ~ん、大分のtakatch親方です(`・ω・´)ゞ岡城天然温泉月のしずく温泉入浴後、かねてから訪問したかった戦跡へ。▽📝大分県竹田市の温泉「月のしずく」記事→https://ameblo.jp/takatch/entry-12564815401.html▽Cf:岡城天然温泉月のしずく@大分県竹田市動画→https://youtu.be/BQW37OOkqS0☆「殉空之碑(B29墜落の地)」▽大分県竹田市「殉空の碑」動画→https://youtu.be/sy8k1O7
2018年4月28日さわやかウォーキングの続きです。奈良井の駅をスタートして奈良井宿で道草してましたが、中山道は、いよいよ鳥居峠に向けて山道に入っていきます。鳥居峠は、旧中山道の難所のひとつで、奈良井宿と藪原宿を結びます。峠の標高が1,197mなんだそうです。奈良井宿を抜けた中山道は、石の階段から山道に入っていきます。わっ、大勢いますね~最初は、皆さん意気込んでいます。中山道の石碑が時代を感じさせてくれます。途中に中山道鳥
2017年11月5日この日も、中山道鳥居峠を歩くさわやかウォーキングに参加しています。藪原駅をスタートし、藪原宿を抜け、鳥居峠に行く中山道を進みます。さっき、お茶とお漬物をご接待頂いた、林道が眼下に見えます。足元には、大きな朴木の落ち葉が堆積しています。朴葉の落葉を見ていると、朴葉寿司に、朴葉味噌料理が食べたくなってしまいます。空を見上げると・・・あの葉っぱが落ちてくるようです。落ち葉の絨毯を先に進みます。中山道も、あと少しで鳥居
<所在地>名護市城地内、県道名護本部線のあなだ橋付近にある。県道も避けて通る有名なヒンプンガジュマルの樹下に設置されているが、蔡温が設えた石碑は、第二次世界大戦時に破壊され、残欠は名護博物館に収蔵保管されている。現在の石碑は昭和三七年(一九六二)に再建された二代目である。<建立の目的>碑文に記されているとおり、当時、沸き起こっていたと考えられる、首里から名護への王城移転と、現在の呉我と屋部とを結ぶ水路の建設との議論について、当時三司官首席の蔡温がこれに反対する論陣を張って、その内容を明
横浜市神奈川区東神奈川にあります金蔵院に行きました。JR東神奈川駅、京急仲木戸駅の近くです。歴史を感じる山門は、柵もあって閉ざれていました。金蔵院は、玉川88ケ所霊場第3番の札所です。山門の右手、脇道から境内へ。金蔵院は、醍醐寺三宝院の始祖、勝覚僧正が開基となり、寛治元年(1087)に創建された旧神奈川宿で一番古いお寺です。徳川家より寺領10万石を拝領し、多くの末寺を擁していました。境内には、徳川家康公の「御手折梅」の梅の古木があり毎年1月、この梅の一枝をたずさ
住所標津郡標津町字伊茶仁2784TEL0153-82-3674開園期間4月29日~11月23日定休日開園期間中は無休開園時間9時~17時(入園は16時30分まで)入園料ビジターセンター内は無料。一般330円、高校生・大学生110円、中学生以下は無料標津町観光協会標津町の由来は、アイヌ語の「シ・ペッ」(大きな川)(本流)から。松浦武四郎が著した知床日誌によれば、「シベツはシベツヲの訛り、鮭有る義なり」とあり、ヲは尻の意で川口を現すが、鮭有る義に関してはわからない。伊茶仁
今から1306年前の奈良時代初めの711年(和同4)、平城京を中心に7つ〔東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海〕の官道(かんどう)が整備された。今の国道に相当する官道は、物品の輸送や兵の移動等の役割を担う駅、今で言う道の駅が置かれた。この畿内の駅の一つが「山本駅」で、筆者の住まいの隣の京田辺市にあったことを知り、その旧蹟を示す石碑に刻まれている内容をチェックした。□京田辺市と旧蹟・山本駅京田辺市は京都府南部の大阪府と奈良県との県境近く位置し、最近では北陸新幹線の京都-新大阪「南回り」
空き地の真ん中にあって四方を高いフェンスに囲まれた石碑。勝田神社から東、直線距離にして650メートルほどの米川沿いにあって、異様な雰囲気を醸し出しているこの場所は、江戸時代に鳥取藩が置いた伯耆郡の刑場跡。所在する地名から「車尾(くずも)刑場跡」と呼ばれている。犯罪抑止を目的とした見せしめにするため、伯耆街道(鳥取往来)近くに置いたのであろう。「合葬之碑」と刻まれた裏には、寄進鳥取刑務所教誨師一同明治39年3月建立平成8年10月再建と、ある。
史跡などを訪問すると、説明のための掲示や、石碑があったりします。GoogleKeepを使うとOCR(自動文字認識)で説明文が簡単にデジタル化・テキスト化することができます。GoogleKeepをスマホアプリとしてインストールしておいてください。インストールするとこんなアイコンになって表示されます。まず、スマホで説明文を写真に撮ります。例えばこんな感じです(実際は細かい字もあるので、写真は4032×3024ピクセル)。次に、スマホでGoogleKeepを立ち上げで、(1
ちょっと開きましたが、京丹波町散策の続きです府道444号線沿いにはこんな看板がありますどうやら隕石が堕ちたとこらしいですでもグラウンドには、何かあるようでもなし(^^;そう思ってたら、隕石が堕ちたとこから離れた場所に、隕石のレプリカなどがあるとこがありました場所は国道9号線から、府道444号線に入って小さな峠を越した右手です(令和2年4月11日撮影・追記)大きな石碑は農地整備した記念碑だと思いますその右手にある小さなのが曽根隕石のレプリカです大きな石碑の横に曽根隕石の解説もあり
有名な寺社はそれなりにお詣りするけれどごくごく身近な寺社…皆様、お詣りしていますか?私?地元の氏神様には初詣に行きます。↑とてもとても小さい神社で、その程度です。ごめんなさい。私、菩提寺の和尚さん御家族とも親しくさせていただいています。首都圏行脚②でご紹介した、藤沢市宮前御霊神社も近くに街の集会場があって、街に愛されている神社です。長男の街をぐぐると必ずヒットする「樋ノ口弁財天」。地
今日は大嶺炭田に置かれた捕虜収容所について書いていきます。昭和12年(1937年)、日本は中華民国との戦争に突入し、大東亜戦争終戦の昭和20年(1945年)8月15日までの長い戦時下に入りましたが、戦争が進むにつれて青壮年は戦場にとられてしまい、銃後の労働力不足は深刻なものとなっていきました。この頃の大嶺炭田では、昭和11年(1930年)に日産の傘下に入った最大手の山陽無煙炭鉱が、昭和14年(1939年)から朝鮮人労働者を受け入れ始め、昭和18年(1943年)ごろには500人に膨れ上
久しぶりの更新いろいろと仕事をしたり、文化財めぐりをしたりしているうちになかなか更新できず…、久しぶりの投稿になります。今回は、以下のツイートから、石碑の文字を読みやすくする方法をご紹介します。処理して単純に出力しただけだけど、結構読める。ただ、もっと読みやすくなる処理があるらしいんだけど、どうしたら良いんだろう?pic.twitter.com/eBjLKFucq5—半兵衛歳三(@Hanbei1582)January25,2021ただ、私もまだ勉強中で、他にも方法は
【鎮座地】日立市金沢町1-5神社ではなく御堂ですが、一番身近な食物神にご挨拶。御神託を受けてる知り合いに見せましたら、雲龍神が写っており、この御堂を護っているそうです。「頭から牛馬が生まれた」ことから牛や馬の神ともされ、馬頭観音様とも同一視されております。境内には沢山の石碑があります。参拝時は、先天の三種の大祓、十種大祓、謝恩詞を奏上しておりますが、三種と謝恩詞の時は号泣してしまいました。神様と同調し、神様が歓喜の涙を私に戻すからだそうです。今後も沢山の神様に喜んで頂けたら私も嬉
今日は耳鼻科の診察日!香取市にある、某耳鼻科に行ってお薬をもらってきて…ちなみに慢性副鼻腔炎と診断されていますね…(^-^;それから佐原大橋を超えて茨城県の稲敷にあるケーズデンキまで行って、電気ポットを購入!ここまで来たら…訪れて見ますか…千葉県香取市の八筋川のほとりにある石碑…はい!昭和のヒット曲、「帰ってこいよ」の歌詞が刻まれている石碑ですね!歌手の松村和子さんは北海道天塩の生まれで、苫小牧で育ち…18歳の時に歌手デビューした人です
公園として整備され、観光客で賑わう金沢城公園。実は、金沢城公園は整備されてまだ20年ほどしか経っていない。というのも、この金沢城公園、以前は金沢大学のキャンパスだったのである。金沢城公園にある石碑。「金沢大学誕生の地」と記されている。城郭全域を大学のキャンパスにするのは大変珍しく、金沢大学以外ではドイツのハイデルベルク大学ぐらいであったそうだ。そもそも、金沢城公園は時代とともに宗教・政治・軍事・学術の拠点として移り変わってきた歴史を持つ。幕藩体制が終わりを告げ、明治に入ると、金沢城跡には
平安時代中期の「枕草子」(清少納言)、鎌倉時代後期の「徒然草」(吉田兼好)と共に日本三大随筆にあげられているのが「方丈記」。方丈記は、鎌倉時代初めに鴨長明が今の伏見区日野の山中の庵(いおり)にこもり執筆し、今から800年程前の1212年(延暦2年)に完成したとされる。この方丈庵は下鴨神社の摂社・河合神社に復元されているが、かねてから気にかけていた方丈庵の跡を求め日野の山中に入った。□方丈庵跡へのコース当日午前中の明智光秀の胴塚と小栗栖の明智薮のウォークを終え、地下鉄東西線の石田駅前のファ
不動山大学院(愛知県名古屋市天白区)『ふどうさんだいがくいん』と読む不動山大学院は、通称『八事のお不動さん』『八事の大学さん』と呼ばれ、地域の方に親しまれているようですまた、真言宗醍醐派の寺院であり、御本尊は『大青面金剛(庚申さま)』のようです▼寺院入口▼▼山門▼▼寺号標▼▼三猿額▼▲五七桐紋▲▲札所碑▲五七桐紋は、戦国の三英傑豊臣秀吉公の家紋であり、豊臣姓を名乗るようになったとき、当時の天皇から与えられた