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昨日から無性に行きたくなって(ネットで見つけて)雨が降らなかったら行こうと決めていたので朝起きて、空を見て晴れ!!!!!ってな訳で・・・私的には少し遠出をしてみました(と言っても電車で1時間ぐらい)信太森葛葉稲荷神社(しのだのもりくずのはいなりじんじゃ)JR阪和線の快速でビューン和泉市にきたのは初めて境内も全然見えない所から真っ赤な鳥居が並んでいますこの辺りって地車庫が色々な所に有るお祭りが盛んな地域なんですね地車庫~恋しくは尋ねて来てみよ和泉なる信
おはようございます(*--)(*__)ペコリ紫雲石の裏には戦争関係の石碑が並んでいました(‐人‐)ナムナム石碑の碑文も読めるようになっていました(///ω///)こちらは防府海軍通信学校第二期生乙種飛行隊の碑です(‐人‐)ナムナム朝ドラ「エール」でも出てきた予科練の石碑も(‐人‐)ナムナム予科練に入隊したのを記念して建てられたものでした。(‐人‐)ナムナムこちらは鮎塚です(゜∇^d)!!そういえば佐波川は鮎が多かったそうですね(*´▽`*)こちらはもう使われていない
【19年11月3日探索・20年5月16日公開】群馬県甘楽郡南牧村大字小沢11年ぶりに見た昭和8年架橋・長瀞橋を見て、そこからさらに約700m、県道45号線を進んだ。現在地はここ弁天橋の手前を左に入って行く。目的地は、この先にあるはずの磐戸鉱山の跡だ。左折るといきなり坂道がキツイ。この沢沿いを進んでいく。沢の名は弁天沢という。沢の底面が特徴的なんだが、人工的に石を埋め込んでいるような造りはあまり見かけたことがない。これも砂防事業の一環であるよう
今回から7月6日のこととなりますたぶんこの日の散策で巡ったこと書いてたら来年になるんじゃないかと⁉(^^;どうも記事が現実時間に追い付かない(;^_^Aたぶん記事の量的には来年春の分くらいまであるので、季節感は損なわれてくる(充分損なわれているでしょうが)と思いますが、それを踏まえ楽しんで貰えれば幸いです( ̄∇ ̄*)ゞ今回から伏見区散策となりますが、他府県の方が伏見と言えばすぐ思い浮かばれるのは伏見稲荷じゃないかと思います伏見稲荷は伏見区で一番北(上)になります(かなり東福寺寄り)
平安時代中期の「枕草子」(清少納言)、鎌倉時代後期の「徒然草」(吉田兼好)と共に日本三大随筆にあげられているのが「方丈記」。方丈記は、鎌倉時代初めに鴨長明が今の伏見区日野の山中の庵(いおり)にこもり執筆し、今から800年程前の1212年(延暦2年)に完成したとされる。この方丈庵は下鴨神社の摂社・河合神社に復元されているが、かねてから気にかけていた方丈庵の跡を求め日野の山中に入った。□方丈庵跡へのコース当日午前中の明智光秀の胴塚と小栗栖の明智薮のウォークを終え、地下鉄東西線の石田駅前のファ
あけましておめでとうございます。昨年からのコロナ禍はひどくなる一方ですね。今年は昨年以上に外出を控えなくてはならないかな、と落ち込む想いでいる今日この頃です。もっとも、その分少しブログの方に力を割いて、まだまだ紹介せずにいる文化財たちを紹介していこうと思います。今年も昨年に引き続いて、よろしくお願いします。年末に山上碑および山上古墳のブログでも書きましたが、高崎市西部の郊外には古代から残る石碑が3基も集中しており、今に生きる私たちに古代の出来事だけでなく、政
空き地の真ん中にあって四方を高いフェンスに囲まれた石碑。勝田神社から東、直線距離にして650メートルほどの米川沿いにあって、異様な雰囲気を醸し出しているこの場所は、江戸時代に鳥取藩が置いた伯耆郡の刑場跡。所在する地名から「車尾(くずも)刑場跡」と呼ばれている。犯罪抑止を目的とした見せしめにするため、伯耆街道(鳥取往来)近くに置いたのであろう。「合葬之碑」と刻まれた裏には、寄進鳥取刑務所教誨師一同明治39年3月建立平成8年10月再建と、ある。
火器都監跡地・石碑。正読図書館(종로)정독도서관-구경기고등학교-(종로)정독도서관-구경기고등학교-서울특별시종로구화동2번지정독도서관은종로구북촌길19(화동2번...m.blog.naver.com正読図書館正読図書館|三清洞・ソウル北部(ソウル)の観光スポット春は桜の名所!三清洞にあるソウル市の公共図書館-「正読図書館」の詳細情報。地図、行き方、口コミも紹介。www.konest.com北村韓屋村韓国伝統家屋が密集!北村韓屋村をぶらり散策|
2017年11月5日この日も、中山道鳥居峠を歩くさわやかウォーキングに参加しています。藪原駅をスタートし、藪原宿を抜け、鳥居峠に行く中山道を進みます。さっき、お茶とお漬物をご接待頂いた、林道が眼下に見えます。足元には、大きな朴木の落ち葉が堆積しています。朴葉の落葉を見ていると、朴葉寿司に、朴葉味噌料理が食べたくなってしまいます。空を見上げると・・・あの葉っぱが落ちてくるようです。落ち葉の絨毯を先に進みます。中山道も、あと少しで鳥居
不動山大学院(愛知県名古屋市天白区)『ふどうさんだいがくいん』と読む不動山大学院は、通称『八事のお不動さん』『八事の大学さん』と呼ばれ、地域の方に親しまれているようですまた、真言宗醍醐派の寺院であり、御本尊は『大青面金剛(庚申さま)』のようです▼寺院入口▼▼山門▼▼寺号標▼▼三猿額▼▲五七桐紋▲▲札所碑▲五七桐紋は、戦国の三英傑豊臣秀吉公の家紋であり、豊臣姓を名乗るようになったとき、当時の天皇から与えられた
2018年4月28日さわやかウォーキングの続きです。奈良井の駅をスタートして奈良井宿で道草してましたが、中山道は、いよいよ鳥居峠に向けて山道に入っていきます。鳥居峠は、旧中山道の難所のひとつで、奈良井宿と藪原宿を結びます。峠の標高が1,197mなんだそうです。奈良井宿を抜けた中山道は、石の階段から山道に入っていきます。わっ、大勢いますね~最初は、皆さん意気込んでいます。中山道の石碑が時代を感じさせてくれます。途中に中山道鳥
エミネンスレコードクエストで「行雲流水」をやりました。マホガニーシールドを装備してブンガール浦(S)にある石碑を訪れよってやつですね。青魔道士だと装備できないので、ナイトにジョブ変更しました。マリグナスソードは取ったけど装備していなかったので、どれくらい威力があるか楽しみです。青魔道士カジャソードD156隔240命中+35アイリス+R15D143隔240青魔道士は上記の二刀流でやっています。マリグナスソードD183隔26
久しぶりの更新いろいろと仕事をしたり、文化財めぐりをしたりしているうちになかなか更新できず…、久しぶりの投稿になります。今回は、以下のツイートから、石碑の文字を読みやすくする方法をご紹介します。処理して単純に出力しただけだけど、結構読める。ただ、もっと読みやすくなる処理があるらしいんだけど、どうしたら良いんだろう?pic.twitter.com/eBjLKFucq5—半兵衛歳三(@Hanbei1582)January25,2021ただ、私もまだ勉強中で、他にも方法は
ソウルにある慶熙宮(キョンヒグン)その正門を抜け歩いていくと石碑がありましたソウル中高等学校址調べてみると・キョンヒ宮があったこの場所に1909年京城(けいじょう)中学を創建・独立後の1946年ソウル公立中高等学校になる(後に学校制度が変わり高校のみに)・1980年ソウル高が端草洞(ソチョドン)に移転・1988年キョンヒ宮再建着手・2002年キョンヒ宮一般公開そう、この場所は一時期学校だったんですね!これが校舎があった頃<出処:나무
宇部市吉見立熊(旧厚狭郡厚東村)には大東亜戦争時に陸軍の弾薬集積所が置かれていました。この地に展開した部隊は『大阪陸軍航空補給廠福岡支廠厚東出張所』で、航空機に使用する機銃弾や爆弾などの貯蔵を行いましたが、これら貯蔵品を格納したと思われる横穴式地下壕がいくつも残っています。弾薬集積所の設置が計画・着工されたのは、戦時中の昭和18年(1943年)ごろ。工事には最大3千人の徴用工や地元の学徒も動員されました。建物の建築、周辺野山の開削や横穴壕の掘開、集積所から山陽本線に繋げる鉄道引込線の
2021年12月6日。浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊前回は『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940)の「伊州藩届書」から、津藩(伊州藩)藤堂家家中の戊辰戦争浪江の戦いの様相を検討してみました(344頁)。もともとの出典は『太政官日誌』なので、そちらを確認したいなーって思って、昨日から国立国会図書館のデジタルコレクションを見ていたところ、『太政官日誌』第六十六に該当記事を発見(請求番号CZ-2-01a)!!!😆太政官日誌.慶応4年第13−14巻-国立国会図書
前回からの続き(11月12日のこと)になります革島医院の前にも石碑がありますΣ(゜Д゜)ここも壁に埋め込んである!八文字屋自笑翁邸跡住所・京都市中京区麩屋町通六角下る西側近くに解説がありました草紙屋・八文字屋についてこの地は、江戸時代前期(17世紀後半)には「麩屋町誓願寺下ル町」といい、八文字屋という本屋の店舗があったところです。当時の本屋は、典籍(てんせき)、草紙類の版元(発行者)でした。印刷(木版刷り)と製本(和綴じ)、そして、販売をも業とする出版物発行の総責任者だっ
公園として整備され、観光客で賑わう金沢城公園。実は、金沢城公園は整備されてまだ20年ほどしか経っていない。というのも、この金沢城公園、以前は金沢大学のキャンパスだったのである。金沢城公園にある石碑。「金沢大学誕生の地」と記されている。城郭全域を大学のキャンパスにするのは大変珍しく、金沢大学以外ではドイツのハイデルベルク大学ぐらいであったそうだ。そもそも、金沢城公園は時代とともに宗教・政治・軍事・学術の拠点として移り変わってきた歴史を持つ。幕藩体制が終わりを告げ、明治に入ると、金沢城跡には