ブログ記事379件
【問題】戦国時代にも活躍した主に刀傷の治療を専門とする外科医を、次のうち何と呼んだか?【選択肢】冶適医金創医順鋳医鉄通医【正解】金創医【解説】刀や槍など金属製武器による傷を治療する外科医を金創医といった。南北朝期に現れたとされ、需要の増した戦国期には大名お抱え医師も増え、多くの流派が生まれた。
【問題】キリシタン武将・内藤如安の諱(実名)は、次のうちどれか?【選択肢】嗣治成幸慶興忠俊【正解】忠俊【解説】足利義昭や小西行長に仕えた内藤如安は、諱を忠俊といった。キリスト教に傾倒し、永禄8(1565)に京で洗礼を受けた後は、ジョアン(如安)と称した。
【問題】牧野久仲は、次のうちどの家の出身か?【選択肢】中野家楯岡家金上家草野家【正解】中野家【解説】牧野久仲は伊達氏家臣・中野宗時の次男として生まれた。牧野氏の養子となって同家を嗣いだが、伊達輝宗の代に宗時が起こした謀反に加担し、流浪の身となった。
【問題】【日本城郭検定1級】小西行長の家臣で、キリシタンであった内藤ジョアン(内藤如安)ゆかりの城として有名な丹波の山城はどれか?【選択肢】本郷城西福城八木城植生城【正解】八木城【解説】内藤ジョアン(如安)は、八木城に生まれ、永禄7年(1564)頃、都の南蛮寺にて宣教師ルイス・フロイスより洗礼を受けた。熱心なキリシタンとして知られ、また茶人としても名高い。天正13年(1585)頃に小西行長に仕えた後浪人し、慶長18年(1613)、徳永家康のキリシタン追放令により、翌年、
【問題】永禄4年の森部の戦いとは、次のうちどの勢力同士の戦いか?【選択肢】織田軍vs.斎藤軍武田軍vs.小笠原軍龍造寺軍vs.大村軍伊達軍vs.大内軍【正解】織田軍vs.斎藤軍【解説】永禄4年(1561)、織田信長は斎藤義龍が急逝すると即座に出兵した。森部村(岐阜県安八町)へ進出した信長は斎藤龍興の軍と戦い、これを破った(森部の戦い)。
【問題】聚光院(京都市北区)の説明として“間違っているもの”は、次のうちどれか?【選択肢】長宗我部盛親が寺子屋を営んだ狩野派が障壁画を描いた千利休の墓がある三好義継によって創建された【正解】長宗我部盛親が寺子屋を営んだ【解説】聚光院は大徳寺の塔頭で、三好義継によって創建された。狩野永徳らが障壁画を手掛けたほか、利休をはじめとする千家歴代の墓があることでも知られる。
【問題】増田長盛の命で郡山城の留守を守った渡辺了は、関ヶ原の敗戦後、城の接収に来た東軍にどのように対応したか?【選択肢】主命以外で開城はできないと拒否した東軍到着直前に放火し熊野路へ逃れた頭を丸めて開城し城下の寺で自刃した代わりに自分を城主にしろと交渉した【正解】主命以外で開城はできないと拒否した【解説】渡辺了(さとる)は関ヶ原当時増田長盛の家臣で、大和郡山城の留守を守っていた。西軍敗戦後に東軍が城の接収に来たが、主命がないと拒絶し蟄居中の長盛が書状を書くまで開城しなかっ
【問題】小西行長の父・小西隆佐は、次のうちどこの商人であったか?【選択肢】博多津島堺小田原【正解】堺【解説】小西隆佐は堺の豪商(薬種問屋)であった。豊臣秀吉にその財務的な手腕を評価され、豊臣氏の蔵入地の代官や堺の奉行職に任命されるなど重用された。
【問題】大和郡山城の石垣に関してよく知られるものは、次のうちどれか?【選択肢】金魚石さかさ地蔵土鈴積み宰相堤【正解】さかさ地蔵【解説】大和郡山城の築城の際には、石材不足から石垣に石碑や墓石、平城京の礎石まで転用された。中でも天地を逆にして埋められた石地蔵は「さかさ地蔵」として著名である。
【問題】≪難問≫滝川一益の孫・一積は、ある家との関係が非常に深かったが、それは次のうちどの家か?【選択肢】立花家上杉家島津家真田家【正解】真田家【解説】滝川一積(かずあつ)は江戸初期まで常に徳川方として行動するも、真田昌幸の五女を妻とし真田信繁の娘を養育するなど、子の代になっても真田家の女性を丁重に迎えた。
【問題】≪難問≫村山慶綱とは、次のうちどの大名家の家臣か?【選択肢】三好家島津家尼子家上杉家六角家南部家【正解】上杉家【解説】村山慶綱は上杉家に仕えた武将である。景勝の代には黒滝城など、越後内外の重要拠点を任されている。御館の乱では景勝方に付いてその勝利に貢献した。
【問題】大友宗麟の家臣・佐伯惟教は、一時宗麟と不和になって他家に仕えたことがあるが、それは次のうちどの家か?【選択肢】宇喜多氏西園寺氏伊集院氏龍造寺氏【正解】西園寺氏【解説】佐伯惟教は、宗麟の家督相続にも貢献した重臣であったが、一時期宗麟と不和になり、伊予の西園寺公広のもとに身を寄せていた。永禄12年(1569)になって帰参している。
【問題】饗庭局(あえばのつぼね)とは次のうち誰の侍女として知られるか?【選択肢】濃姫小松姫淀殿春日局【正解】淀殿【解説】饗庭局とは、浅井氏に連なる両親の間に生まれ、茶々(後の淀殿)の乳母・侍女を務めた。大津城の戦いや方広寺鐘銘事件では使者としての任務も果たした。
【問題】後藤又兵衛の諱(実名)として一般的に知られているものは、次のうちどれか?【選択肢】基次忠善冬信隆明【正解】基次【解説】後藤又兵衛の諱は一般的には「基次」がよく知られる。他に、「正親」や「年房」など複数の名が伝わるが、確かな資料に乏しく詳しいことは分かっていない。
【問題】八流の戦いの説明として、正しいものは次のうちどれか?【選択肢】津軽為信vs.安東愛季上杉謙信vs.椎名康胤長宗我部元親vs.安芸国虎龍造寺隆信vs.大村純忠【正解】長宗我部元親vs.安芸国虎【解説】八流(やながれ)の戦いとは、長宗我部元親と安芸国虎の戦いである。国虎の土佐国安芸郡へ侵攻した元親は軍を二手に分け、八流山で迎撃する安芸軍を破った。
【問題】大宮吉行という武将に伝わる話とは、次のうちどれか?【選択肢】信長の養子になりたいと直訴した秀吉に生涯唯一の戦傷を負わせた家康に妻を取られ金銭を要求した【正解】秀吉に生涯唯一の戦傷を負わせた【解説】大宮大之丞吉行は、信長家臣時代の秀吉が伊勢阿坂城を攻めた際、籠城側として戦った。弓の名手であった吉行は秀吉を狙って弓を引き、秀吉の生涯で唯一の戦傷を負わせたという。
【問題】主に中世以降、馬や牛の売買・仲介をする者を、次のうち何と呼んだか?【選択肢】馬喰馬掻馬湛馬捺【正解】馬喰【解説】牛馬の売買や仲介をする者を馬喰(ばくろう)と呼んだ。博労・伯楽などとも書く。牛馬の良否を見分けたり、牛馬の病気を治す者を意味することもある。
【問題】北条家臣・遠山綱景は、次のうちどの集団の筆頭であったか?【選択肢】小机衆津久井衆江戸衆伊豆衆【正解】江戸衆【解説】綱景は遠山直景の子で、北条氏綱から偏諱を賜り綱景を称した。氏康の代には、江戸城(東京都千代田区)代として江戸衆筆頭に名を連ねる最有力の重臣であった。
【問題】武田元明は、次のうちどの戦いの直後に殺害されたか?【選択肢】山崎の戦い賤ヶ岳の戦い長久手の戦い根白坂の戦い【正解】山崎の戦い【解説】武田元明は元若狭の大名で、本能寺の変を機に明智光秀に与して軍事行動を起こした。しかし、光秀が山崎の戦いで敗死すると丹羽長秀によって謀殺された。
【問題】進士賢光という人物が実行したこととして知られるのは、次のうちどれか?【選択肢】樺太へ出兵し自領にしようとした武田家の家宝を盗み出そうとした宴席で三好長慶を殺害しようとした江戸に地下都市を構築しようとした【正解】宴席で三好長慶を殺害しようとした【解説】進士賢光は室町幕府の奉公衆で、京の伊勢貞孝邸での宴席で三好長慶を殺害しようと斬り付けたが果たせず、その場で自害した。足利義輝の指示だったともいわれる。
【問題】公家出身の日野輝資の通称として正しいものは、次のうちどれか?【選択肢】唯楽唯興唯俗唯心【正解】唯心【解説】日野輝資(てるすけ)は、公家の出で慶長7年(1602)朝廷への出仕を止められ出奔、同12年に出家して唯心(ゆいしん)院と号した。日野唯心の通称で知られる。
【問題】≪難問≫石見小笠原氏の小笠原長旌は、一時ある家から養子を迎えようとしたが、それは次のうちどの家か?【選択肢】周布家三吉家隠岐家平賀家福屋家吉川家【正解】吉川家【解説】石見小笠原氏の長旌(ながはた、ながあき)は生来病弱であったとされ、家中では吉川家から経言(後の広家)を迎える動きが出たが、毛利輝元の反対によって阻止された。
【問題】渡瀬繁詮は、次のうちどの事件に連座して切腹したか?【選択肢】方広寺鐘銘事件サン=フェリペ号事件名胡桃城事件豊臣秀次切腹事件【正解】豊臣秀次切腹事件【解説】渡瀬繁詮(わたらせしげあき)は、由良成繁の子で豊臣秀吉に仕え、小田原攻めに参加した。その後秀次付となるが、秀次事件に連座して改易、切腹を命じられた。
【問題】≪難問≫文禄期には豊後竹田へ移ったという佐曽利氏とは、次のうちどこの国衆か?【選択肢】石見国越前国摂津国伊勢国【正解】摂津国【解説】佐曽利(さそり)氏は、摂津国川辺郡(兵庫県宝塚市)を地盤とした国衆である。中川清秀に服属し、文禄期に中川氏が豊後竹田へ移封となった際にはこれに従った。
【問題】豊臣家臣・加藤光泰の墓所は、次のうちどこにあるか?【選択肢】今宮戎神社築地本願寺甲斐善光寺鶴岡八幡宮【正解】甲斐善光寺【解説】加藤光泰は2年半という短期間ではあるが甲斐国を治めていた時期があり、文禄2年(1593)に病死した後、甲斐善光寺に葬られた。墓は甲府市の文化財に指定されている。
【問題】≪難問≫蕨城(埼玉県蕨市)主であった渋川義基が戦死したのは、次のうちどの合戦でのことか?【選択肢】沼尻の合戦神流川の戦い三増峠の戦い河越夜戦三船山合戦【正解】三船山合戦【解説】蕨城は南北朝時代に渋川義行によって築かれたとされる。永禄10年(1567)、時の城主であった渋川義基は、北条方として三船山合戦に参戦し、戦死した。
【問題】【日本城郭検定2級】江戸幕府は武家諸法度で城は修復以外の新たな工事は禁止としたが例外もあった。立藩のため一旦廃城となった城を、大規模に改修して再興した城はどれか?【選択肢】松前城佐倉城福岡城丸亀城【正解】丸亀城【解説】生駒氏のお家騒動の後、寛永18年(1641)に山崎家治が入り丸亀藩を立藩した。その後、大規模な城の改修が行われている。問題・解説文提供:「日本城郭検定」
【問題】水戸城(茨城県水戸市)の堀の役割を果たした湖とは、次のうちどれか?【選択肢】阿漕ヶ浦涸沼霞ヶ浦千波湖【正解】千波湖【解説】水戸城は北を那珂川、南を千波湖に挟まれた天然の要害であった。当時の千波湖は、現在の水戸駅の南東方向まで広がり、3倍ほどの大きさがあったとされる。
【問題】≪難問≫別所氏家臣・三宅治忠が行なったこととして正しいものは、次のうちどれか?【選択肢】播磨三木城を築城した赤松政秀を毒殺した家島諸島を発見した別所長治を介錯した【正解】別所長治を介錯した【解説】三宅治忠は別所氏の家臣で、羽柴秀吉による加古川評定にも名代として出席している。三木城の戦いでは主君・長治とともに籠城し、最期は長治を介錯した上で切腹して果てた。
【問題】≪難問≫永禄12年の武田氏の侵攻に伴い、北条家臣・垪和氏続が在番し、城主に任じられた城とは次のうちどれか?【選択肢】興国寺城滝山城沼田城韮山城【正解】興国寺城【解説】永禄12年(1569)1月、武田氏の駿河侵攻に備えて興国寺城に派遣された垪和(はが)氏続は、同年8月に同城の城主に任じられ、武田氏からの攻撃をよく凌いだ。