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今年3月10日に、沼津市にある興国寺城跡で発掘調査現地説明会がありました。興国寺城の石垣は、江戸時代初期のものと分かりました。矢穴の跡が無いことから、石垣の年代が分かったようです。たまには興国寺城にも行って見ようと思います。『興国寺城伊勢新九郎盛時最初の城』興国寺城に行きました。愛鷹山の尾根を利用した山城。北から北曲輪、本丸、二の丸、三の丸と直線に造られ、東には清水曲輪が配置される。伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)…ameblo.jp北条五代の大河ドラマを見たいので推します。後北条
写真を追加し、加筆しています。前回の続きです。次回来るときは詳しく紹介したいです。今回は最終回で縄張りを、平成30年度の発掘調査から紹介します。登城口にある縄張図は湯浅城縄張図です。発掘調査報告書にある縄張図です。発掘調査より上が北の赤外線実測図です。赤色で加筆しています。上図①の登城口です。施錠されています。登城口上の曲輪Ⅴです。曲輪Ⅲを東側から堀切2から東側です。堀切1を南から堀切Ⅰを北側から曲輪Ⅰを南
昨日の続きです。今日は清州城の四階最上階からです。清州城最上階から名古屋城を見たところです。拡大すると見えにくいですが、第1回のものよりいいかな?4階室内の展示はこの天守にある鯱と同じ、金箔張りの鯱です。金箔張りの瓦です。外から撮影した天守4階部分です。金箔が使われています。連戦連勝の信長公にあやかり、出陣太鼓が打てます。四階からの風景に戻ります南東の名古屋方向です。名古屋市方向の解説板です。織田信雄時代の清州城です。現
勝央町黒土〈くろつち〉と美作市上相〈かみや〉の境を東西に走る道路は、江戸時代、津山藩によって整備された出雲街道にあたります。現在、その脇で発掘調査を行なっている上相遺跡では、この道路に沿うように延びる2本の切り通しが見つかりました。この切り通しの底にはいずれも細かな砂利が敷かれており、出雲街道に先立って使われた道の跡と思われます。特に、上幅9m、深さ3.5mもある南側の切り通しは、断面がV字形をした山城の堀とよく似ていて、あるいはその技術を応用してつくられたのかも知れません。山城が築かれは
温暖な気候を利用したオリーブ栽培や沖合の島々が織りなす多島美から、「日本のエーゲ海」と称される岡山県南東部の牛窓〈うしまど〉町(現瀬戸内市)。その東側に広がる塩田跡地は太陽光発電に利用されていますが、かつては錦海〈きんかい〉湾という内海でした。平成5年(1993)、この錦海湾にのぞむ丘で町道の改良工事が計画されたことから、ここに所在する長浜用本〈ながはまようもと〉遺跡の様子を確かめるために発掘調査を行いました。調査地点は斜面にあたるためか、丘の上に営まれた集落から棄てられたと思われる弥生時
名古屋城で行われた本丸内堀発掘調査を見てきました。これは名古屋城の大天守を木造で建て替えるため内堀を調査したもの。しかしこの調査でトンデモナイものが出てきたのです。それが幻と思われてきたもうひとつの小天守(もしくは隅櫓?)の礎石です。●発掘調査の場所まず今回の発掘調査の場所を確認しておきましょう。大天守の西側です。当日の資料より。今回は4つのトレンチで調査。トレンチとは簡単にいうと試掘の穴です。トレンチ部分を見てみると…おお!何やら並んでいる巨石がありますね。これが小天守の礎石と思