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横浜市役所新庁舎建設にあたり発掘調査をした際に発見された遺構のいくつかが市庁舎の周りにてんじされています。今回は市庁舎2階の売場のようすと遺構を紹介します。一階入口2階の横浜みやげの売り場花博に向けて現在開催中のガーデンネックレス横浜のPRコーナー今回まわった遺構を紹介横浜銀行集会所建物基礎大岡川石積み護岸航路標識管理所煉瓦造導水管航路標識管理所倉庫基礎市庁舎の外から見たランドマークタワー
昔は、大分空港で買い占めしてましたが今は売ってもいないようで、その後、淡路島で売っている(通販)店、発見、、が、今はずーーーと品切れ中で新たな店を発掘調査見っけましたっ食べ方には拘りがこの方法以外で食べてはおいしくないまずは、ぬるま湯で戻す直火で焼くので↓コンロの熱センサーだまし装置このエンガワ残しで2つに割くのが難しいエンガワが残るのは少数↑↓めっちゃ
日本のボンペイと呼ばれる越前国の戦国大名:朝倉氏が103年支配した城下町は約400年土の中に埋もれていたが、昭和42年からスタートした発掘調査で、屋敷や街並み、通路に至るまで、ほぼ完全な姿で発見された福井県「一乗谷朝倉氏遺跡」復原町並を見ると韓流ドラマの時代劇そっくりで、この遺跡に辿り着く道中にも麻の産地が多く朝鮮半島からの影響が多かった歴史も知ることが出来た🥰日本史が好きなのに、朝倉氏について深く知らず、朝倉氏の家紋と夫実家の家紋が似ているので、それを調べる為にも売
①平安時代の僧侶ら魚食べていた?奈良・海龍王寺の井戸跡から骨出土奈文研の調査で発見https://www.sankei.com/article/20260317-FVNUE2SUIBLGTHYNOWENI2HF3Y/平安時代の僧侶ら魚食べていた?奈良・海龍王寺の井戸跡から骨出土奈文研の調査で発見海龍王寺(奈良市)の旧境内から奈良文化財研究所(同市)の発掘調査により平安時代の井戸跡が出土し、その埋土から魚類などの骨が見つかった。当時の寺域内で消費された…www.sanke
倉敷市街地の北郊にある菅生〈すごう〉小学校の裏山は旧石器が散布する場所として知られていましたが、ここに山陽自動車道の倉敷インターチェンジが計画されたことから、昭和60~62(1985~87)年に発掘調査を行いました。その結果、旧石器~鎌倉時代の人々の営みのあとが見つかりましたが、特に川や谷からまとまって出土した5世紀の朝鮮半島系土器や、山裾で銅印や陶硯〈とうけん〉と一緒に見つかった8~9世紀の建物群は注目を集めました。かつては「阿智潟」と呼ばれる海が間近に迫り、備中国府が置かれた総社平野へ通じ
本日TAGRIGHTの4曲入りデジタルEPがリリースされた今からダウンロードしたり音源購入したり頑張るぞ!!なんかね、これから怒涛の供給があるってホリプロからお知らせあったからもうワクワクでしかない!佐賀福岡旅行の続き櫛田神社を後にして地下鉄を乗り継いで赤坂へそこから舞鶴公園の中にある福岡城へお堀が美しい発掘調査、すごいなこんな石垣がたくさん!お城があるわけでは無いが石垣が美しいとても几帳面だこれで86城目残り14城
車は無事動いています🚙『奈良旅「悲惨な事態になってました」』天武持統天皇陵へ向かった時のこと最近は車のナビでなくGoogleマップにてもっぱら移動です🚙しかし最短距離や最短時間で向かってくれるため住宅街や細い道を通る指…ameblo.jp先ほど時間を費やしてしまったにも関わらずまだ9:00頃ですので時間の関係ない高松塚古墳へこちらも駐車場へ向かう道が狭い先ほどのことがあるので先発隊を行かせて大丈夫か様子をみますオッケー👌サインが出たのですが駐車場も狭いですよ🅿️ここには高松
「ミケーネ文明とは何か?」と質問されて、分かりやすく答えられる人は数少ないのではないでしょうか。僕自身もこの周藤芳幸著「ミケーネ文明」を読むまではミケーネ文明の明確なイメージを持っていませんでしたし、読んだ後でもそれがすっきりと解決できたわけではありません。しかし全体的な歴史の流れは、ずいぶんと把握できたような気がします。そもそもミケーネ文明が分かりにくい、もしくは馴染みを持てないのは、いわゆる古典ギリシャ時代との歴史的な、あるいは文化的な連続性を認識しにくいからではないかと考えられます。これ
築地市場跡地(おぐり撮影)(中央区HPより)4月17日の築地等都市基盤対策特別委員会で築地市場跡地の浴恩園遺跡の本格的な発掘調査と視察および保存・活用計画の策定と実施に関する請願(請願第十号)の審査が行われましたこの請願は、3月25日に受理され、本特別委員会に付託されたものです紹介議員を代表して奥村あきこ議員が趣旨説明、請願者の補足説明があり、それぞれ質疑のあと、理事者への質疑が行われました自民党の委員から、「ただちに採決することを求める」と発言があり、中央区議会
*松之木古墳久しぶり古墳巡りをしました〜♪"群馬の水郷公園駐車場"すぐ近くにあります谷田川を超えるとすぐの所遠くに見えるのは利根川の土手その手前田んぼの中にちょこっとこんもりと見えるところが古墳です*2026・4/12に行きました松の木が目印こんもりと見えた緑は囲いでしたね松之木古墳は6世紀後半築造の円墳でS、38年の発掘調査ではわずか埴輪が発見されたという実は7年前一度来たことがありますその頃からほとんど変わりなく…松の木がちゃんと手入れされていまし
大村純忠というと、キリシタン大名である一方、1563年に領内の寺社を破壊した人物として知られてしまっています。その中で破壊を免れたのが「宝生寺」でした。創建時期はわかりませんが、14世紀末には存在が確認できる記録が残っている、歴史ある寺院でした。そして純忠は、この宝生寺を残してキリシタンの司祭館に転用し、加えてそこに礼拝堂やノビシャド(修道士の修練場)、語学校が建設されました。純忠自身も三城城から近いこの教会にしばしば足を運び、1587年に坂口館で亡くなった際には、遺体を宝生寺の土地に
指月城跡で出土した高層建造物のものとみられる地下式礎石=京都市伏見区豊臣秀吉が京都・伏見に最初に築いた指月(しげつ)城=京都市伏見区=の天守台想定地近くで、令和6年末から7年始めにかけて発掘調査を行ったところ、指月城跡として初の本格的な建物遺構が出土しました。高層建築とみられ、筆者が現役記者だった昨年6月に紙面で報じたところですが、今回はその番外編ともいえるエピソードを紹介します。■秀吉の指月城跡から出たてホヤホヤの金箔瓦伏見城は、秀吉が甥の秀次に関白職を譲った
岐阜お城研究会のイベント「〜岐阜城はこれからどうなる?〜最新研究とこれからの整備を市長が語る」参加しました。副代表の柴橋正直さん(岐阜市長)代表の柴田正義さんの講演がありました。柴橋正直さんからは、岐阜城発掘調査とこれからの岐阜城の整備計画のお話しがありました。柴田正義さんからは、城郭整備の歴史と価値、海外での事例、岐阜城の歴史的価値についてのお話しがありました。この会が設立されて13年になるそうです。この間に岐阜城の発掘調査と整備が進みました。歴史的な価値も高められ、広めら
新稿磐井の叛乱原田大六著者は沖ノ島宗像神社沖津宮の祭祀遺跡の発掘調査にかかわられた方ので関心を寄せている。目次を見て気になるところを拾い、むすびを見た。p371に『帝紀』改編の手が伸びてとある。ここは、わたしも同感。根拠はない。わたしも、同じようなことがあった・・他にも死を免れた人がいたと思い出していた。最近読んだが、誰のことか忘れた。記憶力が悲しい。磐井の乱の謎関裕二目次を見て気になるところを拾い終わりに
近ごろ金の価格が高騰しているようですが、金色に輝く装身具は今も昔も人々のあこがれの品でした。日本では、古墳時代の中ごろ(5世紀)に朝鮮半島から金色の冠や首飾り、耳飾り、帯、履などを身に着ける装いが伝わります。このうち、銀や銅に金メッキを施した空玉〈うつろだま〉の首飾りは、はじめ河内(大阪府)や大和(奈良県)に暮らす渡来系の人たちの間で用いられていましたが、古墳時代の終わりごろ(6世紀)になると奈良県藤ノ木古墳の被葬者のような有力者にも広まります。それとともに、メノウやコハク、水晶などで作った石
ALEGEND伝説2025年4月11日公開「カンフー・ヨガ」など、究極のアクションを創造するジャッキー・チェン&スタンリー・トン監督によるコンビ10作目。「ジャッキー50周年記念プロジェクト第2弾」として製作された。古代の謎を追う考古学者が2000年の時を越えて繰り広げる壮大な冒険の数々と、不滅の愛を描く。あらすじ新疆ウイグル自治区にある氷河近くの遺跡で発掘調査を行っていた考古学者ファン教授は、ある夢を見る。それは、教授が前漢の武将、霍去病の部下、趙戦となり騎馬隊を率いて匈奴と激し
南蛮BVNGO交流館府内城を後にして歴史まちづくりカードをもとめ大友宗麟について学べる施設知識を深めにレッツゴー!普段は月曜定休日だけどなんと月初の月曜日だけ開いてるそうでなんだかとってもラッキーです❗人の良さそうな職員さんが付きっきりで説明してくれてとっても充実した見学になりました。華南三彩という陶器がとってもキレイ✨大友氏の屋敷跡を発掘調査中で2030年に復元完成予定だそうです。未来が楽しみな史跡です。↓つぎのページ『木立をぬけてゆすはらへ』柞原
古代の天皇陵や古墳を巡っていると、「治定(じてい)」という言葉に出会う。これは、陵墓を理解するうえで欠かせない概念。■治定とは「この古墳を、誰の陵墓と定めるか」という決定のこと。宮内庁が、歴史資料や伝承をもとに“治定”を行う。■なぜ治定が必要なのか古代の記録は不完全で、誰の墓か分からない古墳が多い。・伝承・地名・古文書・考古学的知見これらを総合して「この方の陵墓とする」と決める。■ただし、治定=確定ではない治定は“公
細川光尚の側室で、綱利並びに新田藩主である弟の利重の生母である「清高院」は宝永7年3月29日逝去、行年90歳であった。そのお墓が東京の池上本門寺にある。かってこのお墓が解体されて、種々の調査が行われた。当然のことながら詳しい報告書が作られている。石室もあばかれて、ひざを折って横たわる清高院の遺骸までもがあからさまになった。明治の日本人女性の杉本鉞子(えつこ)は、結婚とともに渡米したが、彼の国で夫と死別している。そんな中で「日本武士」のありようを「武士の娘」という題名で英文で紹介し、
石神遺跡2025.12.24クリスマスイブに一人さびしく?明日香村を散策していたこの日、石上遺跡のエリアで発掘調査をしているのを見つけ、撮りました。石神遺跡は、水落遺跡に隣接する遺跡で、使節をもてなす迎賓館的な施設があったとされているエリアです。何か発見があるといいなァ、等と思いつつその場を離れました。※※※今日のもう1枚2026.3.7それから約3ヶ月後、飛鳥藤原第220次調査の成果として、現地説明会が開催されました。前年の調査区
岡山市の西端を流れる足守川西岸の山裾で、前池内遺跡という弥生時代の集落跡(「不思議な焼失住居」をご覧ください)を調査しているときのことです。竪穴住居を探して地面を掘り下げていると、土の中から径2~3㎝ほどの棒のような焼物がいくつかコロコロと転び出ました。土鍋の足かと思い気にも留めませんでしたが、調査事務所に持ち帰って水洗いしてみると、棒の端に目や口が刻まれていて、その横には耳らしきものもつまみ出されています。これだけ見るとカワウソ?のようですが、一緒に出土した棒状の足はけっこう長く、復元すると
古都の空からごきげんよう愛犬家ゲイことMA⭐CHARUです。イイねやフォローありがとうございます。フォロー様優先にて前日のイイねより訪問&イイね返しさせて頂いております。やりすぎ都市伝説2026春2時間半SP前半見終わったけれどむっちゃ近所が話題になってて驚き無いものが多い理由に遺跡etc...歴史が多いので大きな工事をするのが困難なのも理由と言ってたけど確かに近所にイオンモールができるよーと15年前
古代東アジアの歴史をめぐる新たな発見が注目を集めている。韓国中部にある百済の王都跡から出土したよろいが、日本の遺跡で見つかったものと極めてよく似ていることが分かり、古代日本と百済の関係を示す重要な手がかりになる可能性が浮上している。今回よろいが見つかったのは、韓国・忠清南道の扶余官北里遺跡。ここは古代国家・百済の王宮があったとされる遺跡で、発掘調査の中で鉄製のよろいの破片が出土した。研究者による分析の結果、その構造や加工方法が、日本の飛鳥寺周辺から出土したよろいと非常によく似ていることが判明し
1972年のお話です!びっくりの発見でした!(^^)!高松塚古墳で極彩色壁画が発見されたのが今日なんだそうです。まずは・・・高松塚古墳なんですが!!7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳と呼ばれるもので、直径23m、18m、高さ5mの二段式の円墳なんだそうです。盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期のものと推定されていましたが、2005年の発掘調査によって、藤原京期(694年~710年)の間と確定されました。残念ながら被葬者は特定されておりません。1.天
令和6年12月7日(土)奈良県の河合町にある川合大塚山古墳で古墳の整備事業に伴う発掘調査の現場見学があったので行ってきた。川合大塚山古墳は、5世紀の後半頃に築造された全長197mの前方後円墳で、周辺の古墳8基と併せて、大塚山古墳群を構成しており、古墳群の中でも最大の古墳である。今年度は、後円部の北側(第1トレンチ)と前方部の西側(第2トレンチ)に調査区が設けられており、第1トレンチは、墳丘に近い側から、南区、中区、北区が設定されている。【第1トレンチ】
現在パッタナム遺跡の出土品と解説を展示している博物館。遺跡の発掘は休止中で、出土品の発掘後研究調査を進めている。この棟の中に、関連史料や発掘調査報告を収蔵して閲覧できる図書室、研究者の作業室も在る。始めに小会議室でパッタナム遺跡と発掘調査の概要を紹介するヴィデオが見られる。その後、壁に沿って解説図が並んでいるのを見て周る。発掘の様子これはムジリスパピルスと呼ばれる2世紀のアレクサンドリアの出資者とムジリスからの商人の間で結ばれた契約書。細かい取引き内容や違約処理を規定している。2
諏訪神社が十万坪あった頃の跡地の地名のひとつ、向神山。しまむら豊四季店の西に、向神山遺跡があると、柏市発掘調査報告書で知りました。縄文時代の土器、石器が出てきたそうです。遠くに見える赤い看板が、しまむら。この道はしまむらの北側です。振り向いて、続く道を見ます。県道柏流山線と並行した道。風情があって、好きです。この右側一帯が向神山遺跡。今は、駐車場、住宅、畑、があります。出土したのは、大規模な集落ではなく、散漫な遺構だそう。のちに、諏訪神社の地に選
火葬場では、荼毘〈だび〉に付した遺体から拾骨するにあたって「足から頭へ順に骨を拾う、「のどぼとけ」は必ず骨壺に納める」といった説明を受けますが、こうした作法?はいつから始まったのでしょうか。岡山県北部の奥津町(現鏡野町)でダムの建設予定地を調査しているとき、河原石の間に埋もれていた奈良時代(8世紀)のうつわが見つかりました。中には焼けた骨がつまっていることから火葬墓と思われます。灰色をしたこのうつわは、供物を仏前に捧げる鉢の形をしていて、仏教と関わりのある人物を葬ったのかもしれません。火葬
現在の「新風館」近くで出土した室町時代の池の跡=京都市中京区千年の都、平安京とその周辺には数多くの庭園が生まれ、多くの庭園が消えていきました。そして近年の発掘調査では往時の姿をとどめた遺構も出土しています。現在、京都市考古資料館(上京区)で開催中の特別展「みやこの庭園~発掘と整備から知るすがた」は、調査して地中から現れた庭園遺構の写真とともに、一緒に出土した遺物の展示を通して往時の姿、庭にかけた当時の人たちの思いを蘇られてくれる企画になっています。
東院南方遺跡(平城第678次調査)2026.2.24東院南方遺跡は、平城宮の東に張り出し部・東院地区の南に位置します。奈良時代の条里制の区画でいうと、「平城京左京二条二坊三·四·五·六坪」にあたります。ここは藤原麻呂(695~737年)の邸宅や、「梨原宮(なしはらのみや)」の場所とする説があるとのことです。藤原麻呂は、藤原不比等の息子「藤原四兄弟(智麻呂、房前、宇合、麻呂)」の末弟です。梨原宮は、「続日本紀」に登場する離宮で、『続日本紀』に記述があるそうです。天平勝宝元