ブログ記事850件
賀茂氏の出自当資料(前回)のこのくだりは、山城賀茂族に限らず、全国に点在する賀茂氏の痕跡理由を、明確に解き明かしてくれている。そしてここでは、今一つ重要な証明も為されているのだ。それは、その時代に鉄工技術を持った人々は、渡来人以外にはあり得ない・・ということである。記紀にて示されるように、神武と共に東征した彼らは、もともと筑紫の日向の地にいた。これらの示唆するところは、天皇家と賀茂氏の祖の、同時期の渡来である。既述したように、史記に記された「徐福伝説」「振男女三千人を遣わし、之
新羅、百済、高句麗からの渡来人の年表とゆかりの地名を引用した。◯渡来人関係の記録を年表でみる(参考)「新編日本史図表」第一学習社4C中ごろ王仁(わに)、阿知使主(あちのおみ)ら渡来404倭軍、高句麗に敗北4C中~5Cごろ朝鮮半島の戦乱で渡来人が増加513百済より「五経博士」渡来540渡来人の戸籍を編む577百済から造仏・造寺工が渡来608新羅人が多く渡来609肥後国に80人の百済人漂着610高句麗から曇徴(どんちょう)が渡来し、紙の製法を伝え
「日本列島の山や構造線を封印するために山の麓・山頂や構造線上に神社・寺院が置かれてきました。日本の土地の光が出ないように固められてきました。これから地底の火と水のエネルギーが流れて、日本列島が動いていきます。」本来の日本列島は、本来、山、川、湖、池など自然が光を放つ光の土地でした。しかし、魂を持つ人間が闇の経験をする魂の修行としての暗闇の環境にするために、日本列島は光が闇に変えられて闇の土地になりました。魂の修行とは、深い闇を経験することです。闇の経験とは、辛い、苦しい、悲しい、悔し
「賀茂県主族の伝説」神社に絡め、既に「秦氏」と「賀茂氏」について述べたのだが、これはほんの序章でしかなかった。ここからは、その何たるかをもう少し深く掘り下げて見たいと思う。まず「賀茂氏」の渡来時期について考察する。但し、「賀茂氏」この氏族は果たして渡来人なのかという問題がある。何故なら「記紀」のどこにも、賀茂氏族の渡来を示唆する記事は見当たらないからである。秦氏族とはここが大きく異なる点だ。先に、我が国の王(倭王・天皇家)の祖は、徐福ではないか、記紀神話はその象徴では・・
『二人の月読の内緒話』日本の太陽神『天照大御神』が最高神とされたのは、明治時代のことであるらしい。『天照大御神の内緒話』『天照大御神(アマテラスオオミカミ)』神々の国「高天原(た…ameblo.jp↑のつづき。日本の月神は、渡来人である『月読』に消されてしまった。『月読』は「月弓」とも書かれることがある。つまり、元々は『弓月国』の民であったはずだ。かつて、天王山脈の北側、現在のカザフスタンとウイグルの間に『弓月(クンユエ)』という国が存在したという。その付近には、なんと『ヤマトゥ』
最新のゲノム分析によると、関西圏から四国圏に広がる京阪式アクセントとその亜種の方言話者が渡来人と考えられ、その他の地域の人々は縄文人の特徴を引き継いでいる。そして、弥生時代の弥生人は考古学的には縄文系と渡来系に分けられるが、ゲノム的には明確には区別できず、また、ある遺跡では共存していた。通婚が考えられ、現在の部落差別より近い関係にあったと想像出来る。すなわち、縄文人も渡来人もゲノム的には明らかな相違は無く、言語も方言レベルの相違しかない日本語を話していた可能性が大きい。関西圏は飛鳥時代から
現代の日本人約3200人分のゲノム全遺伝子情報の分析から日本人の祖先は三つの系統に分類される可能性が高いことが分かる昨日の毎日新聞より縄文系・関西系・東北系従来は縄文系と弥生系の二系統弥生系は弥生時代に大陸からの渡来関西系とは関西に多く古代中華の黄河周辺にいた漢民族に近い東北系は東北に多く様々な要素が混ざっていて詳しい由来が分からない、そうだ沖縄・宮古島の古代日本人や4~5世紀の朝鮮人に近い、らしい蝦夷エミシと呼ばれる謎の人々もののけ姫か特に古代では移住は民族
ヤフー知恵袋に『遣唐使などがありましたが、唐(トウ)という字を「から」と読みますよね。どういう経緯で、こういう読みになったのか疑問です。』と言う質問があった。例えば、・唐芋(からいも、薩摩芋(さつまいも)、またはトウイモとも呼ばれ、熱帯アメリカの原産で日本には17世紀に伝わった)・唐揚げ(からあげ、江戸時代初期に中国から伝わった普茶料理にあった)・唐衣(からごろも・からぎぬ、万葉集にも出てくる唐の衣装や平安時代の十二単の上衣)・唐傘(からかさ、洋傘に対する和傘の総称。唐より舶来したもの
最新報告「参考:①日本人のルーツ3集団小竹貝塚(富山)など6遺跡で人骨ゲノム解析」を見ると、日本人のルーツに三重構造モデルを提案し、従来の二種構造モデルを発展させている。しかしながら、「参考:②ゲノムが明かす日本人のルーツ」で明らかにされたように関西から四国の人が渡来系のゲノムを持ち、周辺の人々は縄文時代からの在来系のゲノムであったことと整合性が悪い。さらに、「参考:③-1と③-2稲作を伝えた渡来系弥生人は東南アジアから揚子江中下流域が起源」の結果が反映されていない。すなわち
百済からの渡来人は従来からのヤマト政権と同族で、日本列島に到着すると直ぐに、政権側として振舞った。これに対し、新羅からの渡来人は東国を開拓しながら武士として心身を鍛錬し、平安末期ころから政権に進出し、ついに鎌倉幕府からの徳川幕府までの武家政権を樹立した。参考①山口、郷土のあゆみ(参考)平安時代から鎌倉時代にかけては、地方の武士団が台頭し、周防国では朝鮮半島の百済(くだら)の王族を祖と称する大内氏、長門国では厚東氏が、確固たる地位を確立していきました。室町時代に入ると、大内氏が、24代
前回、私たちの周りに残る地名から、シュメールの痕跡を見つけてみよう…というブログを書きましたが…『シュメールの痕跡はあちこちに…』TOLANDVLOGさんの長い長いペトログリフの考察シリーズがついに最終回を迎えました!面白すぎた~~っ!私は、このペトログリフシリーズのおかげで、古代日本…ameblo.jp今回は、「私自身の中にあるシュメールの痕跡」を探っていこう…と思いましたチョーナガイデスキーワードは「キ」「ケ」ナニ?以前も上記のブログに書きましたが、私は高校生の時、歴史好きの祖
渡来系氏族、秦氏は朝鮮半島の任那から渡来してきたことは、史実として認められているところであるが、ルーツは中国、朝鮮の何処かであろと通説では考えられていた。しかし、男性のY染色体のD2系統に着目すると日本人は元々、アジアを飛び越えて地中海、中東の人々に近い。縄文時代以前からユーラシア大陸の北のモンゴル経由、南回りで日本に渡来し、またはD系統以外の民族に駆逐され、中国大陸や朝鮮半島の他の民族と混血・定住することはほとんど無かった。弥生時代、O2b系統のY染色体を持った渡来系弥生人が西日本を中心に定
日本の縄文人と渡来人の違いは方言のアクセントの違いにしか過ぎなかった!(Wikiより)参考縄文人の痕跡を現代人に探るゲノム科学で迫る先史時代日経サイエンス(2023年12月24日、参考)かつて日本列島の縄文文化を支えた縄文人の遺伝子は今どこにあるのか。現在の日本人集団は、縄文人の子孫と大陸からの渡来人の混血で生まれた。東京大学の渡部裕介特任助教と大橋順教授らは、日本の現代人ゲノムから縄文人に由来するとみられる変異を特定した。ゲノム上に散らばる"縄文人由来変異"の保有率を手がかりに、
奈良国立文化財研究所(奈文研)飛鳥資料館で購入した『蘇我三代』における興味深い内容を以下のとおり記す。・蘇我氏が歴史の舞台に登場してくるのはずいぶん時代がくだってからで、同じ飛鳥の大貴族といっても、物部氏や大伴氏などのように、神話・伝説の時代から様々な場面にエピソードを残し、連綿とした系譜を誇る諸豪族とは異なる。・蘇我氏の起源について、①それまで目立たなかった日本在来の一族が次第に力を蓄え、飛鳥時代の直前になって政治の表舞台に躍り出たという見方と、②朝鮮半島から日本にやってきた渡来人