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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%B8%E8%96%AB私だったら、日本、中国、南北朝鮮の順番に言う。北朝鮮にも行っており、在日の影響を受けていると感じる部分がある。中丸氏の世界情報は参考になるが、日本の歴史については、考え方が違う。今で言う「元祖キャスター」「インタビュアー」で、テレビ番組(現在のテレビ東京。日本経済新聞系列。)で、世界に指導者(政治家・経営者)とインタビューしている。テレビ開局初期の方が、現在よりも国際的
くろごませんべいですこんにちはお久しぶりですみなのモノ息災であったかの吾が輩は用事が立て込んではおるが、来年は落ち着くであろうかと長らくお待たせしました今後の記事投稿は遺伝子と環境の内容や歌の表現力、道路交通法改正、歴史人物の謎の考察等、節約ジャンル、投資ジャンルの予定ですがしばらくはまだ毎日の連続投稿できませんそろそろ年末年始に向けて特別なご馳走を作るとか、普通通りだけどお皿だけは引き出物で頂いて仕舞って使わない正月用食器をカッコつけて親族の前に出す等のシーズンですねお正月202
加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか(中公新書)Amazon(アマゾン)古代の日本には元々の土着の民族もいたのでしょうが、朝鮮半島から時期ごとに日本に集団移住してきた人たちがいて、元の故郷との繋がりをそれなりに保っていたと思われます。なので西日本に(大和朝廷とは一線を画して)親朝鮮的な豪族がいたり、南朝鮮に親日本的な小国家があったり、朝鮮半島の紛争に大和朝廷が援軍を送って介入しても不思議ではありません。百済が滅亡した時も王族を始め多くの人々が日本に逃れて来まし
ちくま新書『渡来人とは誰か〜海を行き交う考古学』高田貫太著を読み始めました。この本を手に取ったのは、渡来人というワードに惹かれたからです。渡来人、あるいは帰化人。古代、多くの外国人が倭国へやってきて、氏(うじ)や姓(かばね)を与えられ、ヤマト王権を支えました。京都の太秦映画村の太秦(うずまさ)は、そもそもが飛鳥の時代に活躍した秦(はた)一族の拠点だった土地です。聖徳太子(厩戸皇子)の知恵袋たる秦河勝(はたのかわかつ)は渡来氏族の代表例と言えるでしょう。「日出る処の
西方からの渡来人は日本人の信仰に従うことになりました【申命記】2025/11/22高校生のブログ難しい話ですが頑張って勉強してください。ーーー申命記ーーー田中英道「今こそ日本人の道徳が何かを知るべきだ」日本国史学会第100回連続講演会代表挨拶令和6年1月13日日本経済大学(2024/01/13)https://m.youtube.com/watch?v=X8mtDD3PU2s西方からの渡来人(一言でユダヤ人)は日本をシオン(神の国)として自分たちの
みなさんおはようございます~(^_^)生野御幸森天神社です御幸森天神宮のある地域は古くから猪飼野(いかいの)と呼ばれ、猪甘津(いかいのつ)と呼ばれる古代の港があったことに由来する猪甘部は朝廷への貢物として豚を飼育する役を司っていたまた付近は百済野と呼ばれ百済からの渡来人が多く住んでいた仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされる狛犬さんは岡崎型の初期祭神は仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命です扁
ネトウヨと呼ばれる人達にはいろんなタイプがいます。ただの保守寄りの中道右派くらいの人が多い反面、なんというか感情的というか話が通じないような人もいる。こういう人達こそ「ネトウヨ」と呼んで欲しいような人達。ネトウヨの一部には韓国嫌いが高じて日本の文化の中のそれなりに大きな部分が朝鮮半島経由でやってきた事まで否定してしまう人までいる。いくらなんでも無茶苦茶です。今回は日本語は朝鮮半島からやってきたという話をしてみようと思います。・・・・・日本語のルーツについて。日
https://youtu.be/iaWULErNEmo?si=Tp34do3bvpbkTjzj-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be『空白の150年!古代の日本に何があった?YouTubeから転載!』https://youtu.be/jZuzf1M1HeM?si=eyaeUju_OcygdBAt-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を
今年の5月にトーハクで「古代DNAー日本人のきた道ー」という特別展を見学して以来日本人の起源が気になるオヤジ・・・・・🐼思いの外、縄文系DNAが少ないというのでその後、渡来人関係の書籍を数冊読みました。そして今回とても勉強になったのが高田貫太さん(日朝関係史の考古学者)の「渡来人とは誰か」という著書です。↑トーハク特別展で知った「縄文系DNAは現在の日本人の20%以下で残りは中国や朝鮮半島経由。」との説が考古学の視点と符合しそうな気がする。🤔4~5
天上の虹は里中満智子が30年を費やした大作。全12巻。現在二回目を読んでいる。二回目はノートをとりながらじっくり読んでいる。登場人物が多いが丁寧に読むとまるでドラマを見ているような感覚になる。大化の改新の時代は教科書で習った程度だがマンガで詳しく知ると本当に興味深い。日本国家の成立期、一体何があったのか。これ以降の時代と違って文字の資料が少なく従って研究もしにくいためか、謎だらけ。もっと多くの研究者が探究してくれたらと思う。この時代は朝鮮半島との関わりが非常に強い。
🌕第8章火の再生―燈護(ひもり)の社に宿る誓い⸻Ⅰ.燈護の火由良川の流れが、夕暮れの空を映して黄金に染まっていた。ここは、舞鶴にほど近い、今の京都府綾部市広瀬町。山と川が抱き合うこの盆地は、遠き弓月の民が倭の地に初めて腰を下ろした場所と伝わる。川のほとりの丘に、小さな社があった。人々はそれを「燈護(ひもり)の社」と呼んだ。火を灯し、民を護るという祈りがその名に込められている。大陸より渡り、この地に根を下ろした弓月の民は、その社に火を掲げ、祖の魂を慰め、倭の神々に祈りを
2023年02月09日以下は今しがた発見した石平太郎さんのツイートからである。@liyonyon何を言っているのかこの人、日本人は遠い昔から渡来人を積極的に受け入れて彼らとの共生社会を作ってきた。秦氏へ日本人の「偏見」があったのか、鑑真和上への日本人の「偏見」があったのか。隠元さんへの日本人の「偏見」があったのか。歴史を勉強しようよ!#Yahooニュースhttps://pbs.twimg.com/card_img/1623074124460625927/6RqXQleT?form
今日はお天気も良く高祖神社(福岡県糸島市高祖1578)に参拝してきました。この神社は高祖山(416m)の麓にあります。この山には古代には怡土城があり中世には高祖城がありました。祭神は彦火火出見尊(ヒコホホデミ=山幸彦)で初代天皇である神武の祖父?にあたり、代々の天皇は髙祖神と称されるようになったそうです。一説によるとこの高祖山は天孫降臨の地ともされ、近くには日向峠もあります。ひょっとすると神武東征は日向(宮崎県)でなくこの地から始まったのかも知れません。また、中世の高祖城城主である原田氏は
出雲の龍蛇神(りゅうじゃしん)とは|夢我一全前回の記事で少し触れた「龍蛇神(信仰)」ですが、この呼び名自体、いくつもの意味を持っています。前回の記事もう一度、ざっくりと説明すると「龍蛇神」は、蛇(へび)を表し、この蛇は、出雲では素戔嗚尊が代表するように朝鮮半島からの渡来人。つまり海を渡って来…note.com
祖先の旅#8第7章海を渡る民Ⅰ.夜明けの出航東の空がわずかに白み始めた頃、弓月の人々は海岸に集まっていた。霧の奥に並ぶのは、新羅の造船工が仕立てた頑丈な船と、弓月の技師が補強した鉄の留め具荷には――鍛冶の道具、灌漑の設計図、そして誇りを失わぬためのわずかな鉄。誰もが震えていた。寒さだけが理由ではない。だが、弓月君は振り返らなかった。「ここは終わりの地ではなく、旅の途中であっただけだ」波の音が答える。水平線の向こうには、まだ見ぬ未来が広がっている。「祖父よ。
「多胡一族」が羊神社を創建していた・・・・・・・・・・・・❖・・・・・・・・・・・・「給羊」とある多胡碑を知ったからには伝説の多い「羊太夫」を祀るという[羊神社]を承知&参詣せねば当シリーズは先に進めそうもないかねてよりレアな「狛羊が鎮座する神社」として参詣の機会を探っていた筆者シニア改めて「給羊」を念頭に入れつつ狛羊に会いに参詣することに****************
◎古今東西、様々な「体術」「相撲のうつりかわり」(滝沢寿雄著)を読んだ。世界各地には、古くからその地域独特の相撲やレスリングがある。相撲とレスリングの違いは何か?細かく調べた訳ではないので断言は出来ないのだが、・・・裸体に近い形で戦うか、着衣で戦うかは別として、相撲は「投げ捨て」の闘技で、レスリングは「投げ倒した後に抑え込む」闘技であるように思う。著者は「柔術諸流の創始と近代相撲の発生とはほぼ同じ時期(およそ300年前)である」と云い、「近代相撲も柔術も古式の相撲から生
『祖先の旅特別編Ⅱ:データから読み解く弓月の記憶』2025年。一つの科学論文が発表された。それは「弓月」という言葉を一度も使っていない。だが、そのデータを読み解くうちに、ひとつの確信が芽生えた——**「これは、あの旅の続きを示している」**と。ストロンチウム同位体、DNAハプログループ、出土地点。一見冷たい数字と地名の羅列の中に、確かに人々の足跡と決断の痕跡があった。それは、イリ盆地から河西回廊、そして新羅を経て倭国へと至る技術者たちの軌跡——弓月の記憶が、
天孫氏は火の一族〈134〉鴨氏の姫か|追跡アマミキヨ琉球第二尚氏王朝の頃、沖縄本島那覇の天久に機織りで生計を立てる「伝説の神女」がいたという。この神女について語り部は驚くべき見方をしていた。「その人は、古代...mintun.exblog.jp先日『追跡アマミキヨ』さんのブログを読んでいたら、鴨氏について面白いことが書いてあったのでここで紹介したいと思う。以下、ブログより引用させて頂きました。第二尚氏王朝の頃、沖縄本島那覇の天久に機織りで生計を立てる【伝説の
東福門院和子(徳川和子)は渡来人ですか?いいえ、東福門院和子(本名:徳川和子、1607-1678)は渡来人ではありません。以下でその理由を簡単に説明します。背景と出自東福門院和子とは:江戸時代初期の女性で、後水尾天皇の皇后(中宮)として知られます。徳川秀忠(2代将軍)の五女として生まれ、徳川家康の孫にあたります。14歳で入内し、明正天皇の生母となりました。女院号「東福門院」は、引退後の称号です。徳川幕府の朝廷政策により、将軍家と天皇家を結びつける政治的役割を果たしました。渡来人の定義:渡来人
徐福が日本に渡来した正確な記述は、日本に残っていませんが中国では、司馬遷の史記に記述があります。童子童女から、あらゆる技術を持った技術者集団が数千人が渡ったと言う伝えがあります。この第一陣が紀元前に日本に渡来してきました。これが、1回目の天孫降臨です。徐福は、始皇帝の同族とも言われ贏(えい)と言う名を持っていました始皇帝は、名を嬴政(えいせい)と言いますから、縁戚であったと思われます。徐福伝説の地は、日本各地にあり九州から、丹後、日向、高知、熊野や、東日本にありま
祖先の旅特別編:DNAと考古学が語る弓月の軌跡「モンゴルBBS遺跡出土O2a2b1a2a系Y染色体の考察―弓月系渡来説との遺伝的整合性」(英題:GeneticContinuityoftheO2a2b1a2aY-HaplogroupfromtheIliBasintoJapan:AHypothesisLinkingtheBBSFortressFindingsandtheYuzukiMigrationNarrative)①はじめに―
🏯第6章大陸との決別Ⅰ.不安の大地新羅の地に根を下ろして十余年。弓月の人々は宿舎を建て、川を引き、田を整え、ようやく人らしい暮らしを取り戻していた。赤土を踏み固めて築いた堤は今も健在で、春には麦が風に揺れ、秋には黄金の稲穂が垂れる。だが、心の安らぎは一度も訪れなかった。北からは高句麗の影が忍び寄り、王都では権力争いが絶えない。税は重く、穀物の半ばは上納され、残りを皆で分け合って日々を繋いでいた。風はまだ冷たく、戦火の匂いが遠くから運ばれてくる。>「我らの技は、いつまで人
「多胡郡・総鎮守」の社号標・・・・・・・・・・・・❖・・・・・・・・・・・・辛科神社・からしなじんじゃ群馬県高崎市吉井町神保435❖創建大宝年間(701-703年)❖祭神速須佐之男命・五十猛命(スサノオの子神)(さすがに、ご祭神は韓半島系ですね)❖本地文殊菩薩❖旧社格郷社❖高崎市指定史跡(昭和46年指定)・・・(^ω^)・・・・・(^ω^)・・・・・(^ω^)・・・前ブログの多胡碑の
第3章・「万里の長城の民」(張掖→酒泉→敦煌→河西回廊)張掖の宿舎に到着した弓月の一行。町外れの現場宿舎は高い土塀に囲まれ、門には漢の兵士が立ち、出入りは厳しく監視されていた。「ここから先は許可証がないと出られません。」門番の兵士が淡々と告げる。宿舎の中には整然と並ぶ家族用の住居、資材置き場、作業場、兵糧庫。男たちは現場へ、女や子どもは宿舎の仕事や食事の準備に回される。すべてが軍の管理下にあり、外部との接触は禁止されていた。「これは最高軍事機密の工事だ。漏洩は許さ
江戸時代に御法度だったのはよく聞くけれど…昔の日本で「肉食」が《1200年もの間》禁止されていた"実は合理的な理由"江戸時代に御法度だったのはよく聞くけれど…昔の日本で「肉食」が《1200年もの間》禁止されていた"実は合理的な理由"日本に牛肉を食べる文化が伝わった時期には諸説ありますが、4世紀末から5世紀頃(古墳時代)だとする説が有力です。この頃、朝鮮半島からの渡来人が牛を日本に連れてきた際、牛肉を食べる習慣も持ち込んだと考えら…toyokeizai.net
新説:弓月君と120県の民は、万里の長城建設の技術者集団だった!これまで、祖先の旅をDNA🧬から湧き出す勢いに任せて創作と投稿をしてきました。祖先の故郷のことや大移動を決断する理由などについての見直しと修正をしているところです。元々、弓月君について研究していたわけではないため少ない情報の点と点(私のY染色体ハプログループとイリ・カザフ人、イリ盆地と弓月君の渡来の記録)を線でつないで物語を創作してしまいました。イリ盆地を出て長安まで移動するところを描く際に途方もない距離を2万人
(高崎市文化財情報-高崎市公式HP)・・・・・・・・・・・・❖・・・・・・・・・・・・武蔵国在住のシニアにとって2025夏は体温超の酷暑の連続フリー外出は自粛と決めたしからばと暇人は多々あるホームワークの中からなんとなく見つけ出していたのが古きジャパンの歴史楽して学べる「記紀チョイ齧り」であった&今9月辿り着き片足を入れ始めたのが「東国の古代史」中でも群馬県「上毛野国→上野国」界隈の話題だ
行きました丹波焼は、850年前から始まった古窯です👏山間の静かな地に丹波焼立杭の郷がありました。←窯元横丁に入りました。各ブースに作家さんの作品が並んでいますそうそう、我が家にあったのも、こんな感じでした。母が立杭焼きを好きだったので、懐かしかったです登り窯も見学できました。数日かけて焼いていくそうです~薪での火入れは、電気窯業では出ない味わいがあるそうです。日本六古窯とは、日本古来の陶磁器窯のうち、淘汰されず中世から現代まで生産が続く瀬戸、越前、常滑、信楽、丹波、備前の六古窯です。
第2章:漢帝国の兵士となる私のY染色体が語る物語は、ついに戦場へとたどり着いた。モンゴル南部、ゴビ砂漠の乾いた大地に築かれた漢帝国の前線要塞――バヤンボラク遺跡。ここで見つかった20人以上の兵士たちの骨から、私と同じY染色体ハプログループO2a2b1a2a(F114)が検出された。紀元前2世紀後半、漢帝国の武帝は北方の匈奴に対して攻勢を強め、万里の長城の外側に多数の要塞を築いた。紀元前104年に築かれたこの要塞は、漢と匈奴の抗争の最前線であり、ここで私と同じY染色体ハプ