ブログ記事956件
『渡来人』第7回<古墳時代の渡来人>年代的には3世紀の前半に前方後円墳がつくられ始め、3世紀中頃に箸墓古墳がつくられる。大体、このころを古墳時代の始めとしている。646年に実効性は疑われているが薄葬令が出され、このころから大型の前方後円墳がつくられなくなり、707年に文武天皇が火葬され、この八角墳を最後に古墳がつくられなくなる。次の飛鳥時代は、蘇我氏が飛鳥の地で政治を主導的におこなった時期がその始めとみられるので、7世紀は中頃まで古墳時代と飛鳥時代が重複します。すなわち
『渡来人』第4回<稲作を伝えた渡来人>●概略水稲の本格的な開始は、水田遺構が発見されている縄文時代晩期の紀元前(BC)10~9世紀の九州北部が最初とされる。我々の食するジャポニカ米の祖先は、日本列島の現生種ではなく大陸側から伝来したと考えられる。長江下流域の遺跡などにおける考古学的発見に根拠を求めている。「日本列島における稲作は、弥生時代に始まった」というのが、ついこの前までの歴史学の定説だった。しかし、2003年、国立民族歴史博物館の研究グループが、水田稲作(水稲)は従来
『渡来人』第8回<日本人の成立>今、「旧石器時代」が熱い。少し前まで、邪馬台国の弥生時代や三内丸山遺跡の縄文時代が注目されていましたが、この最近「われわれ日本人はどこから来たのか?」それを教えてくれる旧石器時代が注目されています。<日本人の成立>●1991年埴原和郎が混血説―「二重構造モデル」を提唱。後期旧石器時代から縄文時代までの間、どのように現在の日本列島人になっていったのかについて現在最も支持されているのが混血説の「二重構造モデル」である。埴原和郎は、現代
『渡来人』第5回<鉄・青銅を伝えた渡来人>かつては、弥生時代は「弥生土器」が判断基準であり、その開始は紀元前300年頃といわれていた。そして水田稲作と青銅器・鉄器が、ほぼ同時に伝来した、といわれてきた。その後、基準が「水田稲作の開始」に変わり、さらに、弥生時代の開始が紀元前10世紀(紀元前8世紀とも)と遡(さかのぼ)ったのである。2003年(平成15)、国立歴史民俗博物館の研究チームが水田稲作開始期の土器に付着していたススなどを炭素14年代測定した結果、紀元前10世紀の可能性