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『渡来人』第6回<弥生人はどこから?>現代日本人のルーツをめぐっては後期旧石器時代に日本列島に住み着いた縄文人と、朝鮮半島から稲作を携えて渡来した弥生時代の渡来人が混ざって成立したとする「二重構造モデル」が定説となっている。最近の説として、弥生時代には三系統の弥生人がいたといわれている。①在来系(縄文系)弥生人:縄文人の血を引く弥生人。アワ・キビ栽培、石器や土偶など縄文時代の特有の文化を引き継いでいた。弥生時代に消滅していった。②渡来系弥生人:当時、大陸から渡来して来た弥生人
『渡来人』第9回<飛鳥時代の渡来人>飛鳥時代は、蘇我氏が飛鳥の地で政治を主導的におこなった時期がその始めとみとめられるので、7世紀初頭がその始まりと考えられます。646年に実効性は疑われているが薄葬令が出され、このころから大型の前方後円墳がつくられなくなった。707年に文武天皇が火葬され、この八角墳を最後に古墳がつくられなくなる。また、飛鳥時代の成立区分が明確ではなく、ここでは蘇我政権が確立された7世紀初頭とします。すなわち、古墳時代は3世紀中頃~7世紀中頃で、飛鳥時代は7世紀初
先日、わたしが書いた記事「沖縄王族の青い目の子」に対して、りまりまさんから面白いコメントを貰った。碧眼、青人、あおひと、おおひとワタシ、伊豆の大仁にもかつて碧眼の人がいたと感じております。かつて御簾越しでしか面会できなかった特定の人の中にも碧眼の人物がいたと…伊豆の大仁にもかつて碧眼の人がいた⁉︎この箇所を読んだ時に、センサーが反応したのね。伊豆大仁──あそこって「金山」あったよね?ふと思い出した。あった、あった。大仁金山跡って、聞いた事が
武田惣角は、当初、自身の流儀をヤマト流と呼称していた。(この件については、以前、「最後の合気論第一部」の中でも言及した)惣角がヤマト流からダイトウ流に呼称変更した理由は、・・・「大東と書いてヤマトとは読まないから、ダイトウ流に変更した方が良い」と云う弟子のアドバイスに従ったからだと云われている。私自身も、なぜ「大東流」と書いて「ヤマト流」と読ませていたのか、長年、不思議だったのだが、最近、偶然読んだ本の中にそのヒントがあった。『記・紀』には「東漢氏(やまとのあやうじ)」と云う渡来
今なお続く神奈備様式の[金鑽神社]拝殿(左)&中門(右)中門奥には本殿なく御室山(神体山)を拝む・・・・・・・・❖・・・・・・・・日本列島の国家形成は渡来人なくして語れないひょっとしてその渡来人の末裔は≒多くの現代日本人かと近年古代DNA研究が語るそういった遠く古代の記録が存在しない頃から渡来人の面々は日本列島に移住&彼らはいかにして神社に関わ