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探索日2010/03/20中国電力三隅発電所建設にともなう経路変更切り替えは1992年岡見駅寄り部分は、三隅発電所への専用線として現役三保三隅駅方新旧線分岐点左は現在線耳峠トンネル三保三隅駅方口旧線は右へカーブし、海岸沿いを進んでいた埋め立てられ、海岸は消えているむこうの煙突のある場所が三隅発電所奥へ続く廃線跡右の更地は新線切り替え前は海やった防波堤沿いを走る旧線跡波除板が、そこに海があった証未舗装の生活道路となっている旧線跡路盤が残る距離標
豆撒き神事に行った帰り、折角なので旧生駒トンネルの西側の廃線跡等を巡ってみました。石切参道商店街の入り口です。この歓迎の看板の後ろに朽ちた階段があります。かつてこの上には近鉄奈良線の旧石切駅がありました。新生駒トンネル開通まではここから石切駅傍の道路付近を通り、孔舎衙坂駅を経て旧生駒トンネルに至りました。旧石切駅をすぐ東側の現在線の橋梁取付部です。石組みの上にコンクリートで嵩上げしています。石切駅傍の道路を経て、登坂を上がると孔舎衙坂駅跡及び旧生駒トンネルの坑口が見えてきます
2021年9月27日、初の長州遠征の3日目・最終日。この日のネタで記事にしているのは、山口県●●局のトンネルと夕方のメインターゲット、釣上隧道。今宵ご紹介するのは、●●局のトンネルから約50分後、お昼前に訪ねた物件。意外な(ってわたくしが知らんかっただけだが)大物だった。まずはこれ。現在地はこちら。高欄の残念改修はいただけないが、キモはこちら、ボウストリングトラス。そして、重厚な石積み橋脚。一見して古い橋だ。手前に写って
取材してから3年近く、この日のネタは全部お蔵入りしていた(^-^;というのも、構成上、最初にくるべき物件があまりにも冴えないから。ぶっちゃけ最後の10枚程の写真以外はほとんど面白みがないと思われる(^-^;今回は一応最初の見どころな物件までを取り上げる。そして、つい先日追加取材した、それの衝撃的な現在の姿も、、、さて、ここは大網白里市小中(こなか)にある小中池公園。奥に見えるのは小中池という溜池のダム。この公園、ちょっと長めのローラー滑り台もあって休日はそれなりに賑わっている。
5月4日夕張支線廃線跡探訪の第2回目です。清水沢駅の手前にある踏切跡から清水沢駅跡構内を望むと、かつての広かったであろう構内を偲ぶことができました。鹿ノ谷-清水沢清水沢駅は三菱大夕張炭鉱・南大夕張炭鉱から石炭を運び出す三菱石炭鉱業大夕張鉄道線と北炭清水沢炭鉱専用側線が接続し多くの側線を有した駅でした。夕張に向かって右側に駅舎がありましたが、2022年11月に解体されてしまいました。その駅舎に接して大夕張鉄道の単式ホーム1面1線があり、4本の留置線を挟んで夕張線用の島式ホーム1面2線が長い
高屋川橋梁は、京都府船井郡京丹波町下山にある山陰本線の新旧橋梁である。いわゆる橋梁の付け替え工事に伴う路線の移動であり、ほぼ平行して、短い区間であるが新旧路線が存在する。とはいうものの、旧路線は橋脚しか残っていないとのことであるが。場所であるが、山陰本線の下山駅から京都市方向へ500m程度戻ったところにある。その下山駅であるが、山陰本線開業時の駅ではないが、懇願駅として大正14年に開業している。その懇願が建設に結びついた理由であるが、旧高屋川橋梁の建設に伴って、町民一丸となって協力した為の「ご
九州鉄道・海老津赤レンガアーチ(きゅうしゅうてつどうえびつあかれんがあーち)福岡県遠賀郡岡垣町大字海老津橋幅:4.60m径間:5.40m拱矢:2.70m架設:1890年(明治23年)型式:壁石:イギリス積みアーチ部:4段小口積み笠石有り指定:岡垣町指定文化財2006年(平成18年)4月指定「九州鉄道・海老津赤レンガアーチ」にはかなり以前から行きたかったのですが、なかなか縁がありませんでした。大分県中津市での忘年会の次の日、この際にと岡垣町まで出かけました。か
【22年7月24日探索・10月4日公開】現在地はこの辺日光鋼索鉄道の路線内にあった唯一の橋梁だ。そのサイドビューなんだが、かなり草臥れている感じだ。この部分はRCアーチだ。橋脚も何本かある。廃止後50年余りが過ぎ、かなり劣化が進んでいる。次回訪問時には崩れてしまっているかもしれない。路盤に復帰した。これは馬返方向に振り返った画像になるが、ちょうどこのあたりが中間地点、そう、行き違い箇所なのであった。階段部分を進んで行く。右側の鉄製カバーの中には何
2024年8月1日に敢行した「そうだ、七宗行こうツアー」。この日のネタで記事にしているのは、花車尾谷の隧道訪問記と南天の滝。本日ご紹介するのは、帰りがけに立ち寄ったこの日の最終物件。まあ、事前にマークしていた物件で帰りの道すがらにあるのに寄っただけだったんだが、うん!好きな感じ。現在地はこちら。お名前は、川小牧橋。ちなみにちょっとでもサイドを窺えるのはここだけだったと思う。写真見にくいが三径間のコンクリート桁橋のようだ。こちら河
↑↑↑どれかクリックしていただけると元気が出ますw!(^^)!2024年8月22日(木)の記録です。日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道は、かつて新潟県北蒲原郡赤谷村内にあった専用鉄道で、日鉄鉱業赤谷鉄山から産出される鉄鉱石を運搬するために国鉄赤谷線東赤谷駅~赤谷鉄山間に敷設されていた。昨日お伝えしたシェッドについても触れておきましょう~赤谷鉱山の専用鉄道も冬期の11月から翌年の4月までは積雪や雪崩のために不通となり、鉄鉱石
【24年8月3日探索・12月30日公開】現在地はこの辺埼玉県秩父市荒川上田野この記事の続きになる。藪で見えにくいが私は錦沢に架かる錦沢橋(昭和57年竣工)から秩父鉄道の錦沢橋梁を見ている。橋梁のガーダーには1928(昭和3年)の銘板があった。この区間は昭和5年(1930)3月に開業しているので開業時からの橋梁という事になる。道路橋を渡ったところから線路方向に道があり、第4種踏切が見えた。ここも軽トラなら通行できそうな気もするが、普通はやめた方が
5月4日土曜日夕張支線廃線跡探訪の第3回です。前回ご紹介した第6幌加別川橋梁から見えていたトンネルからスタートです。たくさんの方が訪れているようで、踏み跡を辿って行くとトンネルの坑口近くまで難なく辿り着くことが出来ました。旧線側のトンネルにはさすがにレールは残っていませんが、トンネル内の道床は今でも分かる状態です。夕張側の坑口も近くまで行くことが出来ました。清水沢-鹿ノ谷稚南部トンネル続いては夕張鉄道の若菜駅跡にやって来ました。1926年に夕張鉄道線の開業に伴い開業した駅で、
【22年7月24日探索・10月18日公開】現在地はこの辺(中心地点)先ほど見上げた橋台と思しき構造物の上側に来た。その位置関係から言っても日光鋼索鉄道(ケーブルカー)の大谷川橋梁、下側の橋台という事で間違いなさそうだ。他にもこんなコンクリート遺構があり・・・ゆるやかな下り勾配になった。この辺がかつてのケーブルカーの馬返駅であったと思われ、この付近には軌道線乗り換え通路としての階段があったはずの場所だ。そんな場所でいくつか見つけたのは・・・
北海道と青森県の間に挟まれた津軽海峡。そこは、日本海と太平洋を抜けるための航路として、地政学上も大変重要な地域だということはあきらかです。また、北海道と青森県を連絡するためには、津軽海峡を横断する事が必須条件でした。明治時代から昭和の敗戦までの期間は、津軽海峡は軍略上もとても重要な地域でした。そこで、日本政府は津軽海峡を防衛するためにも、函館要塞を明治30年代に本格的に建設しています。その後は、北海道側だけでなく、青森県側の津軽要塞の建設も進めて行っています。日露戦争時のバルチック艦隊が
こんにちは。今回は群馬県の村道探索です。では早速。長野県・群馬県にまたがる有名な山浅間山そしてその周辺に高峰山という山があります。今回はその山へ長野側から行ってみました。この山へ行くのには長野側からは一本の道しかありません。その道はチェリーパークラインというそうです。この道は国道18号長野側から行く場合小諸の坂の上小学校周辺坂の上南信号を左に行き直進です。最初は町中の1.5車線の道が続きます。高速道路高架下↓そして山へ近づくと2車線になります。しかし、そのかわりに
【19年12月1日探索・20年8月15日公開】現在地はここ神奈川県中郡二宮町山西国道1号線を走行中、この橋の親柱が気になり停車した。梅沢川に架かる吾妻橋だ。親柱には竣功情報があった。昭和11年3月竣功、なんと戦前製だ。下り線側の親橋と、その先の相模湾を撮っておこう。さて、下を覗いてみよう。梅沢川に架かっているようだが、川は見えない。暗渠になっているようだ。何か壊れかけの建物がやたら目に入るな。橋のサイドビューを撮影するため
世界かんがい施設遺産である小田井用水。それは、紀の川に沿った河岸段丘の高台に沿って配置されている。当然、紀の川に流れ込む小規模河川が何本かある。小田井用水は、それらをあの手、この手で横断していた。小田井用水が越えなければならない河川の一つに、紀の川の支流である穴伏川を超える龍之渡井(たつのとい)があった。明治41年の地図と現在の地形を比べてみる。小田井用水の流れや国道出来たところが違うが、地形は大きく変わっていない。龍之渡井(たつのとい)は、江戸時代から大正8年まで、木製橋とし
毎度ご訪問ありがとうございます念願だった上越線【土樽】に初下車しました前回の旧信越本線【横川-軽井沢】2度目の徒歩記(6時間越え....)は、旧中山道・峠道につき、旧道18号沿いの廃線跡や橋梁跡のような鉄分はほぼゼロでした🙇今回は下車して、深雪ホームでE129系をお見送り駅から離れると橋梁を走る貨物列車と遭遇いつもは車窓越しの魚沼川を間近で眺めそして初めて雪国の雪道を初体験この年(いいオッサン)になってですが...初めて上越線に乗車したのは昨年11月紅葉見頃『
12/16は京成線中川橋梁で撮影した。京急車も京成線や北総線~成田スカイアクセス線へも乗入れている。1256H特急三崎口行1725F1364H特急三崎口行1731F2024.12.16
橋梁には、必ず橋の名前である『橋名』が刻まれています。親柱の石材に、直接掘り込まれたり、橋名板と呼ばれる、板状の”銘板”に文字が書かれたものを取り付けたりと、いろいろなタイプに分かれます。橋名が記されていない橋はいままで見たことがありません。それだけ、橋には重要なアイテムだといえそうです。その橋名を記されだした時期ですが、調べてみてもよくわかりませんでした。ただ、明治以降に写真が撮影された橋梁については、見受けられます。おそらく、明治より前から主要な橋には記されてはいたのでしょう
八田原ダムは広島県世羅郡にある、多目的の重力式ダムである。そのダムが出来るために、住民55家が移動している。そして、JR西日本福塩線も付け替えられて、ダムを大きく迂回するルートになっている。その付け替えられた旧線がハイキングコースになっていると、ご当地廃線マニアの方から情報を得た。ダム湖に沈んだ廃線跡は、大井川鉄道井川線以来である。楽しみで、前夜はよく寝られたかったですね。到着したのは、福塩線の河佐駅。福山駅と三次駅を結ぶ途中である。学校のツレが福山に住んでたのだが、このへんの土地勘が
こんにちは、吉田です今回は橋の手すりについて書いていきます!私達が普段、橋の手すりと呼んでいる(?)ものには正式な名前があることをご存知でしたか??上の画像が橋だとして、、、、、、外側の黒い手すりと内側の茶色の手すりで名前が違います!一般に、外側が高欄(こうらん)内側が防護柵(ぼうごさく)と呼ばれています。高欄と防護柵は、景観をよくするために地域によって決められた色に統一されてきているようです。今回の橋で適用される
こんにちは、吉田です久しぶりの投稿になります。2月の作業ですが...やっと載せることができました御船橋の工事も終わりに近づいてきました!今回は橋面の舗装工事についての内容です。舗装は”橋面の仕上げ”となる工事です。アスファルトの舗装は毎日歩いていても、普段意識することは少ないかもしれません実は、同じ「舗装」と言っても、橋面の舗装と、普通の道路の舗装では、管理基準や仕様が異なっていますまた、橋の舗装は、舗装をする前に「橋面防水」を行う必要
2019年4月29日、平成最後の遊撃@紀伊半島3日目最終日。この日のネタで記事にしているのは、新和歌浦第二隧道、一軒屋橋横のワーレントラス管橋、犬鳴隧道。今宵紹介するのは、犬鳴隧道を目指しているときに見つけて急停止…しそうになった(笑)物件。どうせ同じ道を戻ってくるので帰りにしよう、ということで犬鳴隧道訪問後、この県道路肩に無理くり停車。場所はコチラ。ここがどうした?って感じだと思うが、後ろのガードレールが切れているところに注目。その奥に…橋
どうも、わらびです。最近やっと身の回りが落ち着いてきました。夏の暑さも落ち着きを見せ…見せ…?外に出やすい季節になり始めていますネ。というわけで(?)今回は鹿児島市南部の谷山地区を流れる二級河川、永田川の下流域に存在する旧河道群を一気に探索していきます。そこそこ長いので複数パートに分かれての投稿になります。===↓他の関連探索はこちら===・永田川旧河道群②皇徳寺地区(永田川旧河道連続探索パート②)・永田川旧河道群③山之園地区(永田川旧河道連続探索パート③)・永田川旧河道
※iPhone12撮影1.奥澤橋梁【軍畑駅】〒198-0172東京都青梅市沢井1丁目267〒198-0172東京都青梅市沢井1丁目267goo.gl駅から5分くらいで到着できます。住宅地の隙間を縫う形となりますので、敷地に入らないようにしましょう。2.沢井駅跨線橋青梅より沢井駅·〒198-0172東京都青梅市沢井2丁目★★★★☆·駅goo.gl跨線橋を渡る人通りは少なめです。柵の低いところから撮るといい感じです。3.沢井駅跨線橋青梅より場所は2と
昨日は、祈るような気持ちで見ていたが、どうやら本格的氾濫は免れたようで、よかった、熊野川。8年前の惨事の再来には至らず、ホッと安心。そんな昨日、繰り返し流れていたのが、熊野大橋からのライヴ映像。ふと思い立って、熊野大橋を記事にしておこうかと。和歌山/三重県境を分ける紀伊半島の大河、熊野川。大動脈である国道42号は今や並行する新熊野大橋でこの橋を渡っているが、かつてその役目を一手に担っていたのが、熊野大橋。今のところまだ国道指定されているようだが、現在は南行き(三重
桂離宮の土橋寛永二年(1662年)頃までに現在の形ができあがった桂離宮。その成り立ちは、八条宮家の別荘であった。明治14年に八条宮家が絶えた事で、その後は宮内省の管轄として維持管理されている。明治42年の桂離宮周辺の地図と、現在を比較したみた。池があるくらいは判別できるが、似て非なるものの様だ。明治時代は桂離宮が一般公開されていなかったのかもしれない。おそらく地図屋さんが、聞き取り調査で”おおよそ”のイメージで書いたのだろうか。桂離宮には、土橋(どばし)と呼ばれる橋梁が5本
こんにちは、吉田です床版のコンクリートの養生が終わったので次は地覆のコンクリートです(床版・地覆についてはこちらを参照)まずは、コンクリートの型枠の設置です。通り(まっすぐに立っているか)を確認しながら組み立てていきます。高欄と防護柵のアンカーボルトを設置しています。(↑穴を開けた固定用の板(テンプレート)にボルトを差し込みその板を固定することでボルトがずれないようにしています。)完成した型枠は、事前に大きさやかぶり(型枠と鉄筋とのキョリ)を計測し、
色とりどりのアーチ橋を楽しむ方法について、お話しします。旭橋(北海道旭川市)しゃあっ橋解説の時間だああぁぁぁっぁぁぁあああ!!!皆さんお待ちかねの「日本いい橋探訪シリーズ」、第2回はアーチ橋についてです。大三島橋(愛媛県今治市)アーチ橋の何よりの良さといえば、やはり、素人目でも理解るその構造的美しさ。丹念に削られた素材が組み合わされ、宙を舞い弧を描き、不思