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ワクワク…と胸が高鳴っていました。天之御中主さまと瀬織津姫さまに会いに行けるなんて(^.^)元気にこうやってお参りできる。なんて私は幸せものなんだろぅ(^.^)どんな素敵な神社さんかな♪ホームページを見てみたら『金剛山鎮守』『楠木家氏神』とあります。へ~!さすがアメノミナカヌシ様!すごそう\(^-^)/天水分豊浦神社を出て、さっそくカーナビを入れます。が……うちのは少し古いので、手元のスマホでもGoogleマップで行き先登録。2重の厳重体制で向かいます!(笑)
昨夜遅くに、貸し切り風呂を予約して入りました😃2000円…最高に良かった😉飲料水も地下水で嬉しい😃✨朝にも大浴場に入りましたが、ここの風呂は良いわ~👍館内の温度が低めなんで湯冷めしないように注意だが、今まで入った温泉の中でもBEST4に入るな🙆(有馬の金泉、山中すずや今日楼の赤湯+黒湯、富山金太郎温泉の食塩泉と硫黄泉混合)あと、掛け軸が凝ってる…この書は90歳以上の方らしいが、上手いねぇ~😵僕らの部屋には、大楠公楠木正成の遺言…?楠木正成は、源平藤橘橘氏の傍流で、平
やっと春が!福寿草が!四条畷神社から30分ぐらいで飯森山の楠木正行公像まで登れるという…。かつて東麓の楠寺までは行ったのだが…。画像はお借りしました飯森山の西の麓、四条畷神社。あの桜井の駅で、父正成と別離の涙にくれた嫡子・正行を祀っている。広く静寂、おごそかな境内。境内はかなりの高台にて大阪平野を一望。桜井の駅にて哀しく父と別れた正行は当時11歳ぐらいか。その有名な別れの場面の石像がここの境内にも。父の湊川での戦死以
江戸幕府が広めた「朱子学」で、商業は卑しいという思想が広まったんだ、という言い方は、間違いです。なにも「朱子学」の本に書いてあるから、商業が卑しいという考えが広まったわけではありません。逆です。農業は商業より尊い、国の根幹は農(第一次産業)であり、工(第二次産業)や商(第三次産業)はそれより価値が低い、という思想は、古代中国から連綿とあって、それが「儒教」の教えの根本なんです。その儒教のエッセンスを過激化したのが「朱子学」ですから、「士農工商」という概念(身分制度ではないが、国民はだいた
「MicrosoftAICopilot」様よりシェアさせていただきます。ありがとうございます。感謝です。竹中平蔵氏(本名:李平蔵)は、韓国系の出自を持つ日本の政治家で、内閣府特命担当大臣や総務大臣、郵政民営化担当大臣などの要職を歴任しました。彼の政策と行動は、日本の政治・経済に大きな影響を与えてきました。#Copilot回答を生成しています…韓国は外国人労働者の受け入れを拡大しており、留学生に対して5年間働くことで永住権を得る道を提供しています。この政
「賤ケ岳の戦いのとき、秀吉は美濃大垣から短時間で近江に移動して、柴田勝家の陣形を崩しして勝利した、って聞いたけど。根っからの武士の家柄出身の柴田勝家が、農民上がりの秀吉の戦術を見破れずに負けるって、どうしてそうなるの?」さて、どうでしょう。人間の資質というか思考パターンを「武士」と「農民」に分けるのが、そもそも違うと思うんですよ。武士ってのは、もともと農場経営者が自衛のために武装したものです。武士の根本的エトスは「一所懸命」、つまり、たった一つの領地を命懸けで守る、というものです。正統
群馬県館林市に鎮座する楠木神社の氏子様で、大楠公の家臣の御末裔にあたられる半田晶様とその同志の皆様のお招きを賜り、正式参拝と大楠公所持の刀剣を始めとした現存する宝物を特別に拝観させて頂いた。当地に伝わる伝承のみならず、当時南朝方に与した富士浅間神社宮司・三浦越中守義勝の叔父・富士又八郎義照が記した日記「宮下文書」の「富士秘密日記」によると、湊川の戦いで大楠公が殉節した後、その首級を敵に渡すまいと、家臣団7名らは戦死した宇佐美正安の首級を正成の首として敵に渡し、正成の首級は塩漬けにし、富士浅間神
ゆきこです私は個人セッションで、おひとりおひとりの守護神様のメッセージをお伝えしておりますあなたの幸せをサポートし、幸せな人生に導きます♡本当の自分に気づく!神さまセッション神さまセッションをしている理由(くわしくはこちら)神社仏閣めぐり、旅の写真を掲載しています最近参拝した神社仏閣についてはインスタからどうぞ【岡山・神戸・西宮えびすの旅】⒈最上稲荷と岡山の神社・神戸三社めぐり・西宮えびす・住吉大社に行ってきました⒉荒熊稲荷さんと1年ぶりのお礼参り「
産みの母舟木一夫が父・上田栄吉、母・雅子の長男として愛知県一宮市萩原町串作で生まれたのは、1944(昭和19)年12月12日(火)。5日前の7日には紀伊半島南東沖を震源地とするM7.9の東南海地震が発生し1223人の死者・行方不明者が出たが、当時は暗いニュースだとして詳細は報じられなかった。また、13日には米軍のB29爆撃機90機が名古屋市千種区の三菱発動機大幸工場(三菱重工名古屋工場を経て跡地にナゴヤドーム)を空襲、破壊している。近くでそんな大きな出来事があった、まさに“戦時中”での誕生だ
楠木正成を代表とする「悪党」とは何か、彼等はなぜ後醍醐天皇のために最後まで戦ったのか、って話をします。「悪党」とは、鎌倉幕府から認められた御家人ではない、「武士とは認められていない」非正規武士のことです。悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」です。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。
戦後生まれの日本人には意外と知られていないので、あえて言おう。大東亜戦争末期の天号作戦中、沖縄に来攻する連合国軍へ日本海軍が特攻攻撃を実施したが、この作戦名は「菊水作戦」であり、その名は当然ながら、楠木正成の旗印に描かれた紋「菊水」に由来する。戦艦大和出撃も、神風特攻隊を始めとした特攻作戦も「菊水作戦」だ。所説あるが、戦艦大和の煙突部に、菊水紋が描かれ、正成の旗印「非理法権天旗」がはためいていたともいわれる。菊水作戦は、第一号~第十号まで行われた。昭和20年4月
「忠孝の鑑」「もののふの鑑」と古来より崇められた楠木正成なれど、その生涯はわからないことが多く、逸話、伝承における姿が強く残って今に至っている感じだ。父の名は正遠ということだがこれもはっきりしないという。正成生誕の地は千早赤坂の地ということで祀られているが、これもはっきりはしていないという。幼き頃、正成はこの地あたりにあった生家で育ち、後に正成の菩提寺となる観心寺へ、僧・龍覚のもとへ基礎的な教養を学びに通ったという。▼観心寺の楠公学問所中院さらに後年、正成こと多聞丸は、8㌔ほど
2023・5月訪問神戸元町の山手側。最寄り駅は県庁前の住宅街という立地。駐車場はないので近くのコインPへ。以前は須磨で営業されてたそうですが去年こちらに移転とのこと。派手に宣伝してないので県庁関係以外は目的客が主流でしょうか。蕎麦だけなら断る事あるかもよ?というアピールに少し腰が引ける。カウンター8席のみという。蕎麦屋としては珍しいスタイル。蕎麦前前提での設計なのかも。昼の閉店ぎりぎりだったのでカウンターには先客の残骸が。バイト?の女の子の動きが緩慢で塩対応な
最近、肌がくすんでいるように思うのよね~という方、そうでない方、ポチッと、応援お願いいたします。スピリチュアルブログランキングへにほんブログ村有難うございます。マイナスエネルギーが溜まって来ると、肌がくすんできます。何かしらの浄化をなさってみては如何でしょうか。元の肌の色に戻って来ると思います。ささっ、本文を読んでくださいませ。「これだけを手に入れたら、私は幸せになる」と信じている方。手に入らないと思います。人が幸せになる為には、「あれも」「これも」が必要です。たった一つ
皆さまわしのブログにアクセスしてくれてありがとうございます。そして、『フォロー』や『いいね』をしてくれる心優しき方々、本当にありがとうございます。本日は、雪組の朝美絢さん主演の『ほんもの魔法使』の初日じゃな。無事に初日が迎えることが出来てなによりじゃあ縣さん演じるモプシーもスチールで観る限り可愛らしい感じじゃあな。観劇される方々は感染対策と会話は控えて是非とも楽しんでのぉー。さて、本日は昨日書こうと思っていた月組公演の『桜嵐記』の登場人物である高師直について書きた
書き始めると、何故か程なくして眠くなってしまい、遅々として進まなかった難産記事、それが…西国三十三所観音霊場第五番札所葛井寺(ふじいでら)神亀2(725)年、聖武天皇の勅願により大伽藍を建立、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺とも)と名付けられ、行基が十一面千手千眼観世音菩薩像の開眼法要を務めたのが始まり。境内の調査により、元々は河内に勢力を持っていた百済王族の子孫、葛井氏の氏寺であったとも言われています。まあ、それはいいとして(よくはないやろ)、石写
洋の東西の偉人、賢人たちの「名言」をご紹介します。人の一生には悩みがつきものです。私たちはしくじり、恥をかき、苦悩する。心を惑わせ、傷つけるのが人の言葉なら、励ましを与え、明日を生きる理由を与えるのもまた、人の言葉なのである。◎充実した人生を送るためにその1鎌倉幕府打倒に貢献した足りる事を知って及ばぬ事を思うな。楠木正成{くすのきまさしげ}(鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将)◎充実した人生を送るためにその2
2日目は9:30出発時間が充分あるので7:30頃散歩に出ました白い建物は昨夜登った展望台ここからは東京駅がよく見えますまっすぐ前を見ると皇居方面振り返ると東京駅和田倉噴水公園天皇皇后陛下のご成婚を記念して、昭和36年に作られました。皇太子殿下のご成婚の際、大噴水が作られ、パレスホテル直営のレストランや、無料の休憩スペースもあります。高さ6mに
朝日新聞小説「人よ、花よ、」第三章「桜井の別れ」(3)92(11/17)~138(1/4)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりレビュー一覧連載前情報1前半1後半2345678910感想父楠木正成の、湊川での戦いが多聞丸の口から語られる。一章の「英傑の子」と同様かなりのボリュームだが、辛抱強く読んで行くと、父と子が交わした最後の数日の濃密さが胸を打つ。父自体が、尊氏に対して悪い感情を持っていなかった事が、多聞丸にも影響を与えていた。多聞丸が延々と考えてい
チケットがとれてからずーと、待っていたNHKホールでの林部智史さんのコンサート行って来ました。私をフォローしてくださる皆様覗いてくださる皆様こんにちは今回は林部さんのコンサートから書かせて書かせてください。前にも書かせて貰ったと、思いますが、小倉智昭さんの番組で林部さんを紹介して頂き、初めて歌声を聞かせて貰い感動したのが、始まりです。小倉さんはとっても、自分に対し正直でお話しを聞いていて好感が、持てました。小倉さんも、元気な姿
南朝と楠木正成ゆかりの観心寺金澤成保大阪・南河内の真言宗の古刹・観心寺を訪れた。皇室が分裂し武家も合い争った南北朝時代、観心寺は南朝の仮御所となり、その武将・楠木正成により伽藍の整備がおこなわれた。境内には、足利軍に敗れて無念の中亡くなった後村上天皇の御陵と楠木正成の墓所が祀られている。壮麗な金堂は国宝で、穏やかで女性らしさが魅力の如意輪観音菩薩が安置されている。4月17日と18日に、年に一度だけご開帳される秘仏で、また訪れてお会いしたいと仏前にお願いした。忠君・知将の楠
4月17日(月)この日は東北の「中尊寺」に日帰り旅行を申し込みしました。が、満席でOUTでも近くでイベントが2つ開催されてて旅行に行かなく良かった・・イベントその①法界寺「三木合戦絵解き」三木から河内長野に移動イベントその②観心寺、御本尊御開帳子どもも成人して自分の時間が出来た十数年前から彼方此方に秘仏拝観に本を買って下調べです。このお姿を見てみたいと思い10年が過ぎ去りました。確か・・1度見過ごしてて
続いて津浪神楽団さん大楠公ですストーリーはとても切ないんですよねですが立合いのシーンは文字通り火花散る迫力の舞が見ものです楠木正成(くすのきまさしげ)は弟の正季(まさすえ)とともに後醍醐天皇に忠誠を誓い兵庫において足利の大軍を戦うことを決意します出陣の際、桜井に息子の正行(まさつら)を呼び寄せ河内に帰らせようとしますが正行は聞き入れません正成は説得し、宝刀を授けて故郷へ帰らせますその後、
(西条市丹原町古田地区の徳田小学校前に贈正四位・得能備後守通綱と土居備中守通増の供養塔)皆さまは、土居・得能氏の名前を聞いたことがありますか?南北朝時代に後醍醐天皇に仕えて粉骨砕身の働きわを成したことで名高い楠木正成と同じく、忠臣として知られていた伊予出身の武将の名前です。皇国史観の下に義務教育を受けられた戦前生まれの方は知っていたのですが、敗戦により占領軍主導で進められた戦後教育ではほとんど教えられなくなり、ほぼ全くと言って良いほど知られなくなりました。しかしながら、少なくとも愛媛県民
今回は大楠公・楠木正成の「凄み」が十二分に発揮された回でした。思えば、楠木正成と言えば戦前の皇国史観で散々にその本質を歪められた一面がありました。「忠臣」という側面ばかりが強調され、その戦術家としての見事な軍略の天才ぶりが伝わらない。今回はフィクションも交えながら、その軍神の凄まじさ、そして新たな一面に着目した彼の凄みが十二分に発揮されています。やはりこれは南北朝のラスボス足利尊氏を倒せるのは大楠公のみという当時の人の考えを体現しているのでしょう。実際、本作を見たら、「彼なら倒せる!」と思
「勤王」楠木正成をまつる湊川神社金澤成保神戸で初詣にいくとしたら、三宮の生田神社についで湊川神社(生田神社は、三ヶ日の参拝客数150万人、湊川神社は90万人)。JR神戸駅や高速神戸駅からも近い。主祭神は楠木正成で、後醍醐天皇の勅命を受け軍をおこして鎌倉幕府を崩壊にみちびき、その後足利尊氏と戦って敗れ、湊川の地で自刃した。不世出の猛将、戦術家、「軍神の化身」として名高い。境内には、正成の墓と正成一党が自刃した殉節地がまもられている。その墓は、この地の人々によりまもら
上皇后陛下のご実家・正田家は日清製粉ですが、その正田家の御本家筋にあたられるのが館林の正田醤油さん。楠木神社の正式参拝の後、正田家旧母屋へ立ち寄りました。戦時中の上皇后(当時は正田美智子さん)が疎開されていたのも館林との事で、正田家のルーツだからなのでしょう。南北朝期の館林は新田領でしたので南朝方。新田義貞の戦死後は、その愛妾・勾当内侍が館林に匿われていたとも伝わります。現在の皇室と南朝との深い関わりは嬉しい事。楠木神社の氏子で楠木正成の家臣のお一人として、敵方から守る為正成の首級を
皮膚科の帰り、四條畷まで足をのばしました。めちゃ、坂な階段⋯を諦めて車道にまわりましたがこっちも急激な坂。階段よりましか😓手水は綺麗なボールが浮いてました。本殿。楠木正成が祭られてます。楠木正成の奥様が祭らてます。正成が子供に諭してます。奥様が子供に諭している像も反対側にありました。ちなみに山に登り願い事祈願できるらしいです。駅に帰る途中にサンタ?がいたるとこにいました。御朱印。書置きですが青空御朱印。七幸めぐりみたいなありましてバインダーですが買っちゃいました。これな
『逃げ若』は今回で京都編が終了することになります。京都編はまさに南北朝武将オールスター大集合!で非常に濃密で楽しめました。相変わらずの「怪物」ぶりを遺憾なく発揮する史実の尊氏もこれくらい意味不明だからセーフし、それ以外の内面だけでなく、顔まで真っ黒の判官殿、颯爽とした好漢でありながら「?」で分かっていない疑惑の新田義貞、そして大楠公とみんなキャラが立っているから本当に楽しかったです。もちろん時行くんらにとってはビターエンドでもあったのですが、それでも大きな成長があり、物語上でも意味があり
当山陽地方もやっと昨日、統計開始以来もっとも遅い梅雨に入りました。元徳3年(1331)7月後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕計画(元弘の変)が失敗に終わると天皇は都を脱出して8月27日に笠置山へ脱出される。鎌倉幕府の六波羅探題勢は3万騎(?)で攻める天皇方は3,000騎で天険の地を活かしてよく防戦したが、9月28日暴風雨の中落城した。天皇には、9月13日に備後国桜山四郎入道滋俊が備後・吉備津宮で旗揚げし近隣を打ち従えてつつあるとの朗報がもたらされていた。しかし、桜山滋俊のもとには、笠置山