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僕の通った大学は1・2年の教養課程のキャンパスと3・4年の専門課程のキャンパスが別のところにあった。そんなこともあり所属していた鉄道研究会(鉄研)の活動は2年生が中核を担っていた。部室も教養キャンパスにあった。鉄研の主要行事は春秋の大学祭での鉄道模型レイアウト(16番)の展示走行と、夏の合宿だった。合宿の行き先を決めるのは2年生である。僕らが2年生のときに企画した夏合宿の行き先は、初日が身延線の富士電車区、二日目が日本車輌豊川蕨製作所、三日目が近鉄富吉検車区であった。我ながらいいバランスで選ん
久しぶりに「旧型国電の旅」を続けます。記事としては1127)の大糸線(4)↓『1127)旧型国電を訪ねる旅(4)大糸線穂高碌山美術館とともにS49年(4)』1126)の続きです。有明から歩いて穂高駅近くまでやってきました。1974(S49)年12月26日8:01230M。信濃大町7:29→8:34…ameblo.jpの続きとなります。大糸線に続いて、今回は御殿場線を訪問します。1976(S51)年10月11日(月体育の日の振替休日)撮影
ご訪問ありがとうございます。記事は憶測で書いてますので内容に誤りがありましたらコメント等でご指摘頂けると助かります。全国のJR駅が見たい時はこちら→☆第三セクター・私鉄駅が見たい時はこちら→☆皆さま、こんにちは!11月25日からほぼ毎日のように撮影の仕事が続き、(本業でビデオカメラマンをやってます)本日になり、ようやくその流れが途切れました。久しぶりのブログ更新です。年末年始もお付き合いくださいませ。今日は5年前のこの時期に訪れた宇部線から琴芝(ことしば)駅の訪
JR西日本下関総合車両所(旧幡生工場)で40年以上にわたって保管されてきた旧型国電のクモハ11117。最近になって内装作業が進み動向が注目されていましたが、2月25日に現地を訪れると車体の解体が始まっていました。25日に車両所北側の跨線橋から見たクモハ11117。解体線に移動していて、ほぼ構体だけの姿になっていました。鉄道省初の鋼製電車モハ30形の生き残りという貴重な存在でしたが、その姿は見納めになるようですもう少し近づいて確認してみました。JR山陽本線沿いの
前回まではクハ58改造のクハ79にするつもりでしたが、クハばかり増えてしまっても編成になりませんので(^^;急遽電装改造。もっとも、車体が共通ですので、配管やらランボードを追加しただけですが(^^▲実車は片町線にいたようですので、オレンジに塗装しました。塗装前から気づいていたのですが、車体が歪んで台枠垂下気味(^^;実車が戦時改造で誕生してますので、「当時の改造が緊急だったので、後年台枠に歪みが生じ…」という設定でお茶を濁しておきます💦
「私の旅スタンプ」の設置が始まったのが1980年でした。この年は「いい旅チャレンジ20000㎞」キャンペーンも始まり、さらに特定地方交通線が注目され、いわゆる「乗り潰し」が市民権を得た時代でした。専用のスタンプノートをKioskで手に入れることができ、私のスタンプ帳は13冊に達しました。昭和56年発行の改定初版のマップには約740駅とありますが、昭和59年発行の改定12版以降では約780駅に増えており、実際にマップにない駅でスタンプを見つけました。スタンプ設置駅は自然や文化、伝統工芸など
かつての飯田線の旧型国電の中でも最も有名と言っても過言ではないのが流電です。他の旧国車輌にはない流線型のクモハ52の車体が存在感を醸し出していましたよね。流電は1978年に飯田線を引退してしまっていたので、私自身が小学生になった80年代には、過去に飯田線に流電が走っていたという程度の認識でした。とはいえ、雑誌や本で見るその流麗な存在感はインパクトが有り忘れられない車輌でした。今だに手元にあるコロタン文庫国電全百科(表紙の落書きは若気の至り…)Nゲージの世界では、
甲府から出ている身延線。旧型国電の時代に訪問。学校帰ったらそのまま行ってしまい。最終的に西武多摩湖線終電に。心配した親たちから捜索願が出ていたのでした。
予約していたクモハ52(2次車)飯田線4両セットを引き取ってきました。KATOの飯田線シリーズも旧型国電はこれで最後となると感慨深いものがあります。飯田線シリーズは最初から集め、一部の電気機関車と165系と313系以外は購入しました。室内灯は、片流電までは電球色をKATOは推奨していましたが、クモハ52(1次車)からは白色を推奨していました。ゴールデンウィークに行われた「旧型国電座談会」で、関さんと宮下さんにどちらが良いのか?聞いてみると、実車は蛍光灯だったので白色だが、車内がニス塗り
その3へ続くところですが、一旦中断します。今回の飯田線の旅での「もう一つの期待」、それは44年ぶりに伊那松島を通ること、但し下車する時間はないので車内から眺めることにします。1980年の夏休み、当時高1の私は友人と連れ立って大糸線・飯田線の旧型国電を撮影に行きました。伊那松島で下車して機関区に入り、恐る恐る来意を告げました。当時の国鉄職員は「怖い人」が多かったですが、名前と住所を記入すると、こちらが拍子抜けするほどあっさり入構が許可されました。地方は割とおおらかだったの
現在は富山地方鉄道富山港線(路線の一部は経路を変更)に変わっている国鉄時代末期の富山港線の旧型国電の画像です。1985年3月ダイヤ改正で引退する直前の富山港線モハ72系(この当時の富山港線はクモハ73+クハ79が基本編成)の画像が中心です。クハ79形です。クハ79の後期の製造車両で採用された「傾斜した前面窓」などの正面デザインは、新性能車の101系や103系にも採用されました。参考画像大阪環状線の101系です。(1969年)関西本線で撮影した103系です。(1986年)ク