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大東亜戦争について、私は深く洗脳されていました目覚める前は、日本とアメリカが戦った戦争だと思っていました。ところが目覚めて分かったことは、グローバリスト勢力は世界中で繋がって一緒に大規模な悪事を働いているどの国の政府もグローバリストの操り人形で、自国民を騙してグローバリスト政策を推し進めている例えそれがワクワクによる自国民の大量虐殺であってもこれは今に始まったことではなく、特に日本の場合は明治維新以降、戊辰戦争のような虐殺が、偽日本人政府により一貫して行われて来たこれを踏まえて大
✨秋山助六郎✨秋山少佐の略歴★明治21年8月4日士官候補生として歩兵第18連隊に編入★明治21年12月27日陸軍士官学校へ入校★明治23年7月29日陸軍士官学校卒業同日第18連隊に帰隊陸軍歩兵曹長の階級に進む★明治24年3月26日任陸軍歩兵少佐尉補歩兵18連隊付★明治25年2月3日叙正8位★明治27年8月動員下令連隊旗手として日清戦役に從軍平壌海城、牛荘の戦闘に参加★明治28年6月27日凱旋★明治28年10
硫黄島の戦いで1ヶ月近く激戦を繰り広げ、多大な犠牲者を出したアメリカ軍が硫黄島を占領した翌日3月16日、摺鉢山近くの岩山の穴から片足を失った日本の陸軍少佐が降伏のしるしのハンカチを掲げて出て来てこう言いました。「司令官はいないか。穴の中にはまだ有能な30名の青年達が残っている。彼らを日本のため、世界のために生かしてやりたい。私を殺して彼らを助けてほしい」と言いました。この少佐に引見した第五艦隊レイモンド・スプルーアンス司令官は「お前も部下達も助けてやろう」と言うと、少佐は「サンキュー」と言い
こんにちは。本日は、前回に引き続き伝声管の装着した状態を陸海軍で見ていきたいと思います。海軍伝声管(受話口と送話口)海軍飛行帽前期型に装着した伝声管(受話口と送話口)待機中はこのように、受話口のホースを頭(飛行帽)に巻きつけ眼鏡バンドにはさめている搭乗員もおられました。こちらは受話口を送話口の穴に差し込んで、一緒に首にかけておられます。この場合、ホースは外しておられるようです。再現したところ。こちらは送話口の
[下関要塞/大正期]数珠山演習砲台②観測所・指揮所など起工・竣工、運用など明確な資料に乏しい竣工:大正4年10月27日?備砲:[北]28センチ榴弾砲×4門、[南]24センチ加農砲×4門(終戦時は28センチ榴弾砲×4門、7.5センチ野砲×1門が残っていたようだ)出典:国土地理院1947/10/04(昭22)USAR515-26、より抜粋・加工出典:国土地理院1975/01/07(昭50)CKU7424C147、より抜粋・加工[北]28センチ榴弾砲×4門
陸軍成増飛行場(高松飛行場)の掩体壕(東京都板橋区成増)(赤丸は現存する有蓋掩体壕)陸軍成増飛行場は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲(日本本土に対する初の空襲)を期に、帝都(東京)防空のための飛行場として急遽建設が計画され、1943年(昭和18年)年8月着工、同年12月に完成した。(誘導路脇の土塁の跡)滑走路は1,200×60メートルのコンクリート舗装。路面は迷彩ペイントを施された。陸軍の飛行第47部隊、第43飛行場大隊、航空廠立川分廠成増分遣整備が
こんばんは。本日は、鷲の目眼鏡が開発する前に使用された日本海軍初期の航空用ゴーグルをご紹介したいと思います。上段航空眼鏡甲下段航空眼鏡乙推測ですが、1921年頃に製造が開始され、1938年頃まで使用されたと考えられます。航空眼鏡甲雲母を挟んだ二重ガラス。ゴーグルのフレームは銀メッキ、その後昭和になるとフレームはアルミ製になりました。この航空眼鏡甲は外装に赤なめし革を使用。内側は毛皮で覆われています。航空眼鏡乙航空眼鏡乙は
松代大本営(舞鶴山地下壕)長野市松代町西条3511松代大本営は大日本帝国陸軍において計画・推進されたもので、太平洋戦争末期、皇居・大本営・政府中枢機能移転のために長野県長野市松代地区などの3山(象山=イ、舞鶴山=ロ、皆神山=ハ)を中心に掘られた地下壕群を指す。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。陸軍は昭和19年4月より本土決戦態勢に入る。特に「東京から大本営および政府機関を地方(松代)に移さなければ、本土決戦は行えない」との立場を貫く中堅将校たちは地方への大本営の建設を推進した。中堅
[釧路地区]電波警戒陣地釧路市桜ヶ岡8丁目4-139(釧路民放FMラジオ中継局電波塔付近)釧路市興津の海岸から内陸に入った釧路市桜岡地区の丘陵地帯には、2棟のコンクリート製の大きな建屋がある。これは陸軍の電波警戒陣地(電波警戒機を擁したレーダー基地)の施設らしい。超短波警戒機乙の受信設備?との話もあり。天井部には煙突のようなものが四角のブロック状のものが付いているが、よくみるとブロック内部の構造が異なる。雑草が深く土砂流で出入口が狭くなっているため、
[宮古島]トゥリバー浜の秘匿壕群トゥリバー浜の東側に隣接する(通称)スキラ崎、このスキラ崎の東側の付け根から先端にかけての琉球石灰岩の岩壁に、多くの特攻艇秘匿壕の坑口がある。四式肉薄攻撃艇(マルレ/○レ)を格納するためのもので確認されているだけで15ヶ所。全ての壕が東か北東方向に開口している。『パイナガマ海空すこやか公園』西端の駐車場から海岸沿いを西にあるくと、護岸にある階段から海岸に降りることが出来る。引き潮時のみ歩けるので、そのままスキラ崎に向かえばOK(・∀・)
こんにちは。本日は、日本軍の航空眼鏡(鷲の目型航空眼鏡)をメーカー別に紹介していきたいと思います。鷲の目眼鏡にはメーカ―名の刻印が無いものもありますが、今回は特に知名度があるメーカーを選別いたしました。高島屋飯田株式会社金具に高島屋の高のマークが刻印されています。高級品として定評があった。高島屋飯田貿易店は、1916年12月に高島屋飯田株式会社として独立、現在の大阪にある高島屋が本店。画像は曇り止め用調整機構を設けた航空眼鏡。日満
東京第二陸軍造兵廠荒尾製作所の大型火薬庫(熊本県荒尾市)第1工場群でつくられた火薬などは、第2工場群に運ばれて炸薬形成され、これをRC造りの火薬庫で保管した。(引用:千寿の楽しい歴史)火薬庫は、崖面につくられた「崖面設置型」と、丘陵を削ってこれを土塁代わりにし小さな平地につくられた「単独型」=ガソ、の2種類がある。いづれも部屋は本室(1室のみ)。*大型火薬庫は崖面設置型のみ。出入口は2カ所、部屋はひとつで仕切り無し。内部の屋根は蒲鉾型。シンプルな造り。
こんにちは。本日は、新作の記録盤をご紹介いたします。全てアルミ金属で製作いたしました。今回まとめて製作のご依頼をいただきました。本当にありがとうございました。それでは見ていきましょう。今回はこの4タイプの記録盤を製作いたしました。まずは①と②をご紹介いたします。長野県のH.M様の依頼品①東京都のY.K様の依頼品①埼玉県のS.I様の依頼品①このタイプの記録盤が人気のようです。細部も見ていきましょう。①バンド
[南大東島守備隊]バリバリ岩の陣地壕沖縄県南大東村北369北港付近のバリバリ岩陣地跡は、岩陰を利用し石積で部屋状に設けた部分がある。海岸から200メートル程しか離れておらず、水際陣地と連携した棲息壕的な機能をもつもの、と思われる大東諸島(南・北・沖大東島)は、もともとはニューギニア沖で生まれた島とされている。そこからフィリピン海プレートに乗り、なんと4,800万年かけて3,000キロ以上移動して、現在のところに来たそうだ。南大東島は今でも1年に7センチのスピードで
うみです♫昨日の夜は雨が結構降っていてビックリ!今日は風が強いし変なものが空中に舞っていそうな感じがしますお気を付けて、、、昨日のマドモアゼル愛先生のYouTube動画どうなったんでしょう??💉の集団訴訟について💉💉と連呼したからバンされてしまったのか??愛先生の💉や世の中に対する見方は本当に共感するばかりで今日こちらにご紹介したかったのに。。、まだまだ検閲が激しいんです
八戸要塞(通称):小峠トーチカ出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)八戸市の旧南郷村。国道340号線(登り街道)は是川地区と天狗沢地区の間を通る。陸軍は是川も天狗沢を重要な防御陣地として考えていたようで、コンクリート製トーチカや掩体などが多
[下関要塞/昭和期]大島砲台①砲座着工:昭和10年5月1日竣工:昭和11年11月20日備砲:45式改造固定15センチ加農砲×4門設置:標高148m/150.63m任務:蓋井島砲台・白島砲台・小呂島砲台と連携し、玄界灘と響灘における敵船舶の坑道妨害、我が海上航路を掩護するに在り(←現代本邦築城史より)事実上の廃止:昭和20年2月連絡網:海底ケーブルで蓋井島砲台経由で下関要塞司令部、海底ケーブルで壱岐要塞小呂島砲台と直通。福岡県宗像市神湊湊から北西6.5キロ沖合、筑前
[由良要塞](由良/淡路)成山第1砲台兵庫県洲本市由良町由良出典:「現代本邦築城史」第二部第四巻由良要塞築城史(陸軍築城部)(赤は廃止/青は終戦時現役/黒は設置予定)由良地区の由良の対岸、南北(約6.4キロ/砂州は約3キロ)に延びる成ヶ島。北の成山(標高52m)と南の高崎(標高23m)はもともと陸繋島であり、江戸時代初期までこれらは砂州で淡路島と繋がり、砂州の中間付近が湾口だった。北の成山と由良を新川口、南の高崎と由良を今川口と呼ばれている。成ヶ島は中世から近
kato@kato8501様製作の3Dプリンター製、「日野小室式自動拳銃」の実物大モデルガン(写真↑の左側)を苦労して入手しました。樹脂製なので改造とかはまったくできない安全な物です。この日野式は個人の超少量製作品なので店舗では販売していないですし、納期も3ヵ月くらいかかりました。それでも待った甲斐はありました。上の写真の右側(下側)は日本軍の14年式拳銃で㈱共栄製の実物大6連発木製輪ゴム銃です。これも良く出来ています。↑日野小室式拳銃は1904年(明治37年!!
12月29、30日の2日連続、21時から放送された「NHKスペシャル」を見た人は多いと思う。私は「帝銀事件」の4文字と、犯人とされた「平沢貞道」の名前ぐらいは知っているが、なぜ、ここに松本清張が出てくるのか、それが不思議で、興味を持ち、番組を録画した。結論から言うと、画家であった平沢は事件とはまったく関係がない。事件は大量毒殺。使った毒は青酸カリと言われた。生存者がいたことにも驚いたが、その1人、竹内正子さん(故人)は娘に「(平沢は)違う」と言い、語ったテープも残っていた。また、死に方が即
[網走地区/網走港]鱒浦トーチカと防空陣地北海道網走市網走市鱒浦殆ど資料がない鱒浦トーチカ。「台町しおさい公園下のトーチカ」を探索した網走歴史の会・トーチカ調査報告に、あるくらい。今回も参考にいたしました!ありがとうございます。トーチカ調査報告・鱒浦okhotsk.vis.ne.jp網走歴史の会・トーチカ調査報告に書かれているようにJR鱒浦駅から南へ約200mの地点にある。ちなみ丘の上ではなく中腹。鱒浦トーチカにはこの廃墟(工場)の建物の手前から横をまわるよう
こんにちは。本日は新作の日本陸軍飛行帽をご紹介いたします。こちらです。耳カバーが日本海軍の前期型飛行帽によく似ています。片耳レシーバーを装着しています。訓練前の教育事項の指示が終わり、「訓練飛行開始」により挙手の敬礼でパイロットが搭乗した2式単座戦闘機Ⅱ型甲が訓練飛行区域へと飛び立つところ。こちらの訓練学生は今回ご紹介の飛行帽を被っておられ、左耳にだけレシーバーがみえます。推測ですが、いかなる状況にも柔軟に対応
[釧路地区]大楽毛山麓トーチカ(すずらん団地トーチカ)釧路市大楽毛172-6付近すずらん団地と呼ばれる企業団地にある地区、小高い丘の山麓にあるトーチカ。釧路西知水際の一画を成す。2010年に採石関連会社が周辺の土地を購入して掘り始めたところ、発見されたという。ソーラーパネルがある一画から入ると柵が無く、途中から現れる鎖の柵沿いに進むと、小高い丘の山麓にあるトーチカに着く。てくてく、苦労せず到着。こりゃ、大きい!一周してみよう。というか、出入口
本日は、日本陸軍の電熱線航空頭巾をご紹介したいと思います。被服本廠、昭和17年製●表側・・・山羊革●裏面・・・兎毛右側の耳垂れは顎部分に当たるように長く裁断されており、丸見がつくようにタックが2本入っています。高高度用で飛行帽の中にコードが張り巡らされています。陸軍飛行帽のなかでも特に裁断が複雑でたくさんのパーツがあります。当時の資料によると、値段も当時の定額25円6銭(通常の飛行帽は10円40銭)と高価なものでした。顎部分を上手い具合に包み込むよう
こんにちは。本日は、新作の日本航空眼鏡(乙)と戦車眼鏡をご紹介いたします。当時、戦車眼鏡と海軍の初期航空眼鏡は同じものが使用されていた、何かの資料で読んだことがあります。(写真上部が航空隊で、写真下部が戦車隊です。)フレームは同じナス型をしていました。フレームはアルミニューム製。クッション部(縁回り)は、①表革②セ―ム革③ビロード布の3種類があったとのこと。昭和5年からの戦車眼鏡仕様書今回は縁回りを①表革の航空眼鏡を再現いたしま
[陸軍第73師団](本土決戦)二川のトーチカ愛知県豊橋市二川太平洋戦争の戦況が著しく悪化した1944年(昭和19年)夏以降、連合軍による本土上陸作戦に備えて、予想される地域に本土決戦用の防御陣地を構築した。静岡県は浜名湖西岸から愛知県の渥美半島伊良湖岬にかけての遠州灘も、本土上陸作戦が予想されていた場所だった。1944年(昭和19年)7月に新設された日本陸軍第13方面軍第73師団によって、豊橋市一帯には多くの防御陣地がつくられた。具体的には、海岸沿いの丘陵地帯に
今回は、変り種キットです。ひなちんの城1/35日本陸軍試製亀甲型防盾(銃鎧)です。‟JapaneseExperimentBodyArmorTortoiseshelltype”試製亀甲型防盾(銃鎧)は、昭和12年頃から、対ソ戦での、鉄条網破壊やトーチカ爆破の為の敵前近接作業用に開発された、亀の甲羅状の形態を持つ防弾鋼鈑製の防盾です。防盾を装着した後に、匍匐前身で鉄線鋏・爆雷・破壊筒を持ち、敵陣の鉄条網やトーチカに近接する為の機
日本の教科書などによる歴史などでは、1939年に、モンゴルと満州国との国境線で起きたノモンハン事変は極僅かの記述でしかないでしょう。モンゴルに進駐していたソビエト赤軍は、満州国の国境に配置されていた日本の関東軍の三倍以上の戦力を保有していました。戦車や装甲車、火砲などは近代化されたソビエト赤軍に抗うことすら難しい装備でした。しかし、日本の航空戦力は世界的にもとても優れていてソビエトのイリューシン機を圧倒する性能でした。日本陸軍は末端の兵士まで文字の読み書きが出来て意志の疎通は迅速
[勇払平野/苫小牧]①植苗トーチカ&緑ヶ丘公園トーチカ安平川(&勇払川)の西側。丘陵・山地にも縦深陣地では、植苗トーチカ(41式山砲)が現存、緑ヶ丘公園トーチカ(92式重機関銃?)がほぼ埋没しているが気配は確認はできる。安平川(&勇払川)の東岸に隣接する柏原には、山の中に柏原2号トーチカ(41式or94式山砲)が現存しているようだが、こちらは詳細がわからず行けなかった。勇払海岸〜汐見町海岸〜高砂海岸〜基町海岸には水際陣地が構築されていたが、現存するのは元町海岸トーチカ(92式重機関銃
こんばんは。日本陸軍九八式軽戦車ケニ要目全長4.11m全幅2.12m全高1.82m重量自重6.2t全備重量7.2t懸架方式シーソー式連動懸架(ケニA)独立懸架(ケニB速度50km/h(ケニA)55km/h(ケニB)行動距離300km主砲一〇〇式37mm戦車砲×1副武装九七式7.7mm車載重機関銃×1(主砲同軸)装甲砲塔正面