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[十勝地区]十勝太トーチカ北海道十勝郡浦幌町十勝太浦幌十勝川の河口、少し北十勝太トーチカと山砲陣地がある。1948/07/23(昭23)USAR329-61(国土地理院)銃眼、出入口共に土砂に埋もれているが、銃眼は北側(釧路側)に付いている。銃眼からみた景色(釧路方向)十勝太トーチカと浦幌十勝川の間の海岸段丘は、それなりに標高が高く、ここに山砲陣地があったらしい。人為的につくられた幾つかの窪み、塹壕の痕跡がある。(十勝川方向)
[航空総軍]屯鶴峯地下司令部壕(戦闘指令所)②奈良県香芝市穴虫大阪と奈良の県境に近い屯鶴峯(どんづるぼう)。この奇岩群から程近い南北の小さな尾根の裾、東側と西側に地下壕が格子状に張り巡らされている。本土決戦を目前にして、昭和20年4月に全国の陸軍航空部隊を統一指揮するための航空総軍が編成された。その司令部諸施設として、屯鶴峯近くの山中に同年6月〜8月の2ヶ月間で掘られた、とされる。だが8月15日の敗戦(停戦)により、地下壕は未完成のまま放置された。NPO法人屯鶴峯地下壕
楚辺のトーチカ沖縄本島(読谷村楚辺1922付近)読谷村楚辺の吉川原海岸の岸壁。ここにトーチカ(洞窟式陣地)がある。読谷村都屋に駐留していた陸軍第32軍第24師団歩兵第22聯隊聯隊砲中隊第3小隊が、1944年(昭和19年)8月以降に構築したもの、とされる。陸軍第32軍司令部による当初の計画では、第9師団を中心に沖縄防衛計画を固め、第24師団を沖縄北飛行場(読谷)と沖縄中飛行場(嘉手納)及び海岸防衛に充てていた。だが第9師団は1944年(昭和19年)1
大本営陸軍部の地下壕東京・市ケ谷の防衛省(市ヶ谷台)のA棟庁舎玄関前の儀仗場。ここに面する雑木林(かつては日本庭園)の地下に掘られたのが大本営陸軍部地下壕。現在の防衛省図:大本営陸軍部は建屋は縮小改悪され「記念館」として移設され、跡地には庁舎A棟が建つ。大本営陸軍部の地下壕は、建設開始は真珠湾攻撃(太平洋戦争の開戦)の4カ月前の1941年(昭和16年)8月。翌年12月に完成した。この地下壕の造られた理由、掘削方法もはっきりは分かっていない。<地下壕が3本並列に掘ら
[陸軍第73師団](本土決戦)二川のトーチカ愛知県豊橋市二川太平洋戦争の戦況が著しく悪化した1944年(昭和19年)夏以降、連合軍による本土上陸作戦に備えて、予想される地域に本土決戦用の防御陣地を構築した。静岡県は浜名湖西岸から愛知県の渥美半島伊良湖岬にかけての遠州灘も、本土上陸作戦が予想されていた場所だった。1944年(昭和19年)7月に新設された日本陸軍第13方面軍第73師団によって、豊橋市一帯には多くの防御陣地がつくられた。具体的には、海岸沿いの丘陵地帯に
三方原飛行場の掩体壕?静岡県浜松市北区豊岡町ぱっと見、小さい有蓋掩体壕。他ではみたことがない半球体。コンクリートは薄く、戦闘機はギリギリ入るかどうか、な感じ。三方原爆撃場の敷地内にあることから、爆撃目標用のトーチカ(兼待避壕)かもしれない。
三瓶原陸軍演習場:東の原監的所島根県太田市三瓶町志学1892年(明治25年)9月、第5師団の大砲射撃場として三瓶原陸軍演習場が開設された。場所は三瓶山の北西の裾野。敷地は拡大していくが演習の合間には放牧が許可された、とか(今のある牧場が該当)。現存する監的所は2つ。1つめの東の原監的所は三瓶山の北東(東の原)、三瓶山観光リフトの東の原駐車場に近い牧場にある。出入口の高さは低い。メモを執ったり小物を置くのに最適な台付き覘視孔の前に雑草が
飛行第111戦隊第2中隊長檜與平少佐昭和20年明野飛行場※仕様は想定Kit:Madewithtwoinone.1/72ハセガワ(00131-A1)×AML72033Requestedwork,FinishedproductsbyProfessionalmodels.大ちゃんのmyPickAmazon(アマゾン)中島戦闘機設計者の回想-戦闘機から「剣」へ──航空技術の闘い(光人社NF文庫)530〜5,156円名門・中島飛行機で、隼、疾風、
中城湾臨時要塞の伊計島砲台沖縄本島、うるま市備砲:88式7センチ高射砲×4門(4基)中城湾要塞重砲兵聯隊第3中隊勝連半島の先端近く、ホワイトビーチを見下ろす丘陵(平敷屋配水池の奥)にある。昭和16年(1941年)7月、中城湾臨時要塞建設が下令。即時着工、同年11月に竣工したようだ。昭和19年9月、中城湾要塞重砲兵聯隊第3中隊=石部隊は、備砲と共に、(那覇)小禄48.2高地に転出する。沖縄戦で上陸した米軍が当地に到着した時は、守備隊もおらず早々に無血占領された。
八戸要塞(通称):島守地区①監視哨?(トーチカ)出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)八戸市の旧南郷村島守地区、県道138号線「鷹の巣展望台」の一帯には、塹壕とトーチカ、火薬庫などが現存している。とはいえ、この138号線の道路工事と開墾など
松代大本営(舞鶴山地下壕)長野市松代町西条3511松代大本営は大日本帝国陸軍において計画・推進されたもので、太平洋戦争末期、皇居・大本営・政府中枢機能移転のために長野県長野市松代地区などの3山(象山=イ、舞鶴山=ロ、皆神山=ハ)を中心に掘られた地下壕群を指す。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。陸軍は昭和19年4月より本土決戦態勢に入る。特に「東京から大本営および政府機関を地方(松代)に移さなければ、本土決戦は行えない」との立場を貫く中堅将校たちは地方への大本営の建設を推進した。中堅
[網走地区/網走港]帽子岩トーチカ北海道網走市網走市台町2丁目付近網走港から内陸を見ると崖のような台地(地名は台町)があり、ここの崖の中腹にトーチカがある。雪中行軍はつらいので、とある春の終わりに行ってみた。現地調査に行かれた方のブログが参考になりました!網走歴史の会・トーチカ調査報告トーチカ調査報告・台町シーサイドハウス下okhotsk.vis.ne.jpこのトーチカ、平屋造(1階建て)らしい。観測室や伝声管のような類いのものはない、とのこと。
[勇払平野/鵡川]③鵡川河口トーチカ勇払平野/鵡川*鵡川河口トーチカこの地域で最も重要な場所。トーチカは全部で3基あった。今は1基しか現存していないが、これも柱というか壁が折れてしまった。写真のトーチカ(現存)の備砲は1式機動47ミリ砲消滅した2基の備砲は消滅(1)が92式重機関銃、消滅(2)が92式重機関銃×2内部は海砂の流入もあり、よくわからない。正面の屋根にある突起物。観測所といわれている。鵡川河口はすぐ太平洋
福山市の緑町公園とエブリイ緑町店などが建ち並ぶココローズの辺りは、昔、旧日本陸軍の歩兵連隊「福山兵営」でした。現在も一部がそのまま残っています。その後、広島大学福山分校として使用されていた期間もあります。福山情報はこちらにほんブログ村
八戸要塞(通称):是川地区③観測所出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)*観測所(兼指揮所?)是川地区の標高が一番高い(150メートルくらい)ところにある。是川地区と天狗沢地区にそれぞれ15K砲台が設置されている。山の所有者様によれ
[下関要塞/昭和期]吉見穹窖砲台山口県下関市吉見の吉見港から北北西に約2.5キロの山麓。ここに吉見穹窖砲台(洞窟砲台)が構築された。戦況が著しく悪化、本土決戦が現実的になった昭和20年2月以降、下関要塞守備隊は再配備計画に基づき、砲の新設・移設作業にとりかかった。具体的には角島砲台に配備されていたラ式15センチ加農砲4門のうち、2門が「対上陸戦」に備えて山口県本土の杖坂山(→吉見)、残る2門が玄海島(→大休庵)に移設。昭和20年2月下旬のキ号演習(砲台移設)当初、垂水峠ではなく
[由良要塞](友ヶ島)第2砲台①友ヶ島第ニ砲台起工/竣工:明治27年8月/明治31年4月備砲:加式28口径27cm加農砲×4門(砲座4)除籍:昭和10年3月(全て)→12cm速射加農砲×2門設置首線:80度目的:由良瀬戸(友ヶ島水道)の防御、通過せんとする敵艦を妨過す友ヶ島は紀淡海峡の中央部にあり、加太に近い地ノ島と由良に近い沖ノ島から成る(友ヶ島は総称)。由良に近い沖ノ島は大型船舶の航行が容易なため、沖ノ島に陸海軍の諸施設が建設された。第2砲台は第1砲台の右
八戸要塞(通称):是川地区②待避壕?出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)*待避壕?①同じものが島守地区にもあり、ここと同じく至近距離に防御陣地がある。考えられる用途としては待避壕、一時的利用の砲具入れなどの倉庫など多目的壕と思われ
[大慈山中之院]軍人墓地知県知多郡南知多町山海字土間53案内板『ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちです。緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、船で野間沖に待機していた巡洋艦、駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でしたが、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。軍人像そのものはめいめいの遺族が戦没者の一
[網走地区/網走港]鱒浦トーチカと防空陣地北海道網走市網走市鱒浦殆ど資料がない鱒浦トーチカ。「台町しおさい公園下のトーチカ」を探索した網走歴史の会・トーチカ調査報告に、あるくらい。今回も参考にいたしました!ありがとうございます。トーチカ調査報告・鱒浦okhotsk.vis.ne.jp網走歴史の会・トーチカ調査報告に書かれているようにJR鱒浦駅から南へ約200mの地点にある。ちなみ丘の上ではなく中腹。鱒浦トーチカにはこの廃墟(工場)の建物の手前から横をまわるよう
[南大東島守備隊]西港の陣地壕(金比羅宮洞)沖縄県南大東村池之沢南大東島の主要港として整備されているのが西港。西港に隣接して「旧西港ボイラー小屋」がある。大正13年(1924年)頃に建てられたようで、台風時に船舶を陸地に引き揚げておくための施設の原動力室だった。珊瑚石灰岩を乱積にして壁体を築造している。2000年12月に登録有形文化財(建造物)に登録された。この建物、よく見るとコンクリート部分が擬装(モコモコの施工)されている。モコモコや鱗状の加工を施すと、コンクリートの
[由良要塞](由良/淡路)成山第1砲台兵庫県洲本市由良町由良出典:「現代本邦築城史」第二部第四巻由良要塞築城史(陸軍築城部)(赤は廃止/青は終戦時現役/黒は設置予定)由良地区の由良の対岸、南北(約6.4キロ/砂州は約3キロ)に延びる成ヶ島。北の成山(標高52m)と南の高崎(標高23m)はもともと陸繋島であり、江戸時代初期までこれらは砂州で淡路島と繋がり、砂州の中間付近が湾口だった。北の成山と由良を新川口、南の高崎と由良を今川口と呼ばれている。成ヶ島は中世から近
大東亜戦争について、私は深く洗脳されていました目覚める前は、日本とアメリカが戦った戦争だと思っていました。ところが目覚めて分かったことは、グローバリスト勢力は世界中で繋がって一緒に大規模な悪事を働いているどの国の政府もグローバリストの操り人形で、自国民を騙してグローバリスト政策を推し進めている例えそれがワクワクによる自国民の大量虐殺であってもこれは今に始まったことではなく、特に日本の場合は明治維新以降、戊辰戦争のような虐殺が、偽日本人政府により一貫して行われて来たこれを踏まえて大
[南大東島守備隊]陸軍本部壕(山下洞)沖縄県南大東村新東島の北東部、東は長幕断崖の内側が迫っているが、その山麓(標高約10メートル)に縦穴状のドリーネ(落込穴)があり、大東島守備隊(歩兵第36連隊)の本部はここの自然洞穴(鍾乳洞)を利用している。出典:沖縄の戦争遺跡、P.296より抜粋・加工『大東島戦時日誌』によれば、在所集落の西外れの具志堅洞の自然洞穴(鍾乳洞)を利用していたが、同年4月8日には「軍旗」を島の新東地区の通称・山下洞に移動させ、ここを核に一帯を秋葉
こんばんは。愛知テレビ系列で放送されている「大人の秘密基地」と言う番組が最近YouTubeに上がっていて最近、贔屓にして見ているのですが、人に趣味ってのは見ていて楽しいですよね、バイクのレストアとか憧れますね、バイクや車を弄ってみたいと言う好奇心があるのですが実行する行動力が私にはない・・・・・日本陸軍二式軽戦車ケト要目全長4.10m全幅2.12m全高1.82m重量7.2t速度50km/h行動距
[南大東島守備隊]塩屋海岸の水際陣地沖縄県南大東村池之沢塩屋海岸の「塩屋プール」の真上にトーチカが2基?あり、周辺には多くの塹壕がある。トーチカ①海面からの高さは10メートルサンゴ礁石灰岩(古大東石灰岩)に幅2.5m×長さ3mの切れ込みをつくったトーチカ。戦時中は銃眼の上のコンクリートの形状から屋根はあったと思われる。備砲は25ミリ機関砲とされる。屋根が落ちて瓦礫などで砲室が埋まってしまったようだ。上から砲室を見る銃眼の先、切
日本陸軍階級章解説(戦争史の研究、世界平和のためにお使い下さい)二等兵一等兵上等兵兵長伍長軍曹曹長准尉少尉中尉大尉少佐中佐大佐少将
[南大東島守備隊]バリバリ岩の陣地壕沖縄県南大東村北369北港付近のバリバリ岩陣地跡は、岩陰を利用し石積で部屋状に設けた部分がある。海岸から200メートル程しか離れておらず、水際陣地と連携した棲息壕的な機能をもつもの、と思われる大東諸島(南・北・沖大東島)は、もともとはニューギニア沖で生まれた島とされている。そこからフィリピン海プレートに乗り、なんと4,800万年かけて3,000キロ以上移動して、現在のところに来たそうだ。南大東島は今でも1年に7センチのスピードで
今回は搭乗員軍装コレクションの中から「飛行眼鏡」をご紹介します。飛行眼鏡と言えば航空隊搭乗員の三種の神器の一つですね。上の画像は山本製の飛行眼鏡です。山本製の山本とは、現在の「山本光学株式会社」さんのことです。現在ではSWANSというブランドを展開され、様々なジャンルで愛用されているサングラス&ゴーグルのメーカーです。皆さんの中でも愛用されている方が沢山おられると思います。山本製作所について航空隊搭乗員、三種の神器のひとつとも言える飛行眼鏡。通な呼び名として
[陸軍第73師団](本土決戦)抵抗拠点陣地日本陸軍は昭和19年7月、第3師団を再編成して第73師団(怒師団)を編成。浜名湖〜渥美半島地域の防衛を目的とし、本土決戦用の防御陣地の構築を行っている。出典:伊藤厚史「愛知・名古屋の戦争遺跡」p.101昭和20年2月に新設された第13方面軍に編入(師団司令部は名古屋から豊橋に移転)。防衛担当区域を浜名湖〜豊橋南方区域に縮小。6月には演習も行うも連合軍の上陸は無く終戦。愛知県(豊橋市)との県境に位置する静岡県湖西市は、第73師団(怒