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[勇払平野/鵡川]③鵡川河口トーチカ勇払平野/鵡川*鵡川河口トーチカこの地域で最も重要な場所。トーチカは全部で3基あった。今は1基しか現存していないが、これも柱というか壁が折れてしまった。写真のトーチカ(現存)の備砲は1式機動47ミリ砲消滅した2基の備砲は消滅(1)が92式重機関銃、消滅(2)が92式重機関銃×2内部は海砂の流入もあり、よくわからない。正面の屋根にある突起物。観測所といわれている。鵡川河口はすぐ太平洋
[根室地区]落石トーチカ①根室市落石西付近落石地区(落石岬)には4つのトーチカが現存するようだ。場所が明確なのは落石岬の西側の三里浜にある2つのトーチカ。残り2つはチラッと探索しただけではよくわからなかったのだ。なお、三里浜は海砂が締まっているので4WDの軽めの車なら走行できる(・∀・)1番西側にある落石トーチカ①は外浜から片道約3キロある。①の東側にある落石トーチカ②は外浜から片道約2.5キロくらいある。車で行けるのはありがたい!落石トーチカ①築
[網走地区/網走港]帽子岩トーチカ北海道網走市網走市台町2丁目付近網走港から内陸を見ると崖のような台地(地名は台町)があり、ここの崖の中腹にトーチカがある。雪中行軍はつらいので、とある春の終わりに行ってみた。現地調査に行かれた方のブログが参考になりました!網走歴史の会・トーチカ調査報告トーチカ調査報告・台町シーサイドハウス下okhotsk.vis.ne.jpこのトーチカ、平屋造(1階建て)らしい。観測室や伝声管のような類いのものはない、とのこと。
陸軍成増飛行場(高松飛行場)の掩体壕(東京都板橋区成増)(赤丸は現存する有蓋掩体壕)陸軍成増飛行場は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲(日本本土に対する初の空襲)を期に、帝都(東京)防空のための飛行場として急遽建設が計画され、1943年(昭和18年)年8月着工、同年12月に完成した。(誘導路脇の土塁の跡)滑走路は1,200×60メートルのコンクリート舗装。路面は迷彩ペイントを施された。陸軍の飛行第47部隊、第43飛行場大隊、航空廠立川分廠成増分遣整備が
[佐世保要塞]馬川演習砲台②88式海岸射撃具観測所長崎県佐世保市俵ヶ浦町出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」、抜粋・加筆*88式海岸射撃具観測所88式海岸射撃具観測所の仕様書・1〜2層の鉄筋コンクリート造。・上部掩蓋(天井)は厚さ60センチの鉄筋コンクリートか380ミリ溝形鋼、観測具室は厚さ60センチの鉄筋コンクリートか380ミリ鋼板を菅笠のように加工、を周壁にのせる。・上部掩蓋(天井)の上にアスファルト等の防水を施し、その上にコンクリートを打設
[根室地区]落石トーチカ②根室市落石西付近落石地区(落石岬)には4つのトーチカが現存するようだ。場所が明確なのは落石岬の西側の三里浜にある2つのトーチカ。残り2つはチラッと探索しただけではよくわからなかったのだ。三里浜の2つのトーチカはどちらも銃眼の筒は長い。落石トーチカ①は銃眼は2つあるが、落石トーチカ②は銃眼が1つのようだ(土砂流入で内部に侵入できないため詳細は不明)。*落石トーチカ②に行ってみる。落石トーチカ②は土砂流入で出入口が完全に塞がっているだけ
八戸要塞(通称):是川地区③観測所出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)*観測所(兼指揮所?)是川地区の標高が一番高い(150メートルくらい)ところにある。是川地区と天狗沢地区にそれぞれ15K砲台が設置されている。山の所有者様によれ
[網走地区/網走港]鱒浦トーチカと防空陣地北海道網走市網走市鱒浦殆ど資料がない鱒浦トーチカ。「台町しおさい公園下のトーチカ」を探索した網走歴史の会・トーチカ調査報告に、あるくらい。今回も参考にいたしました!ありがとうございます。トーチカ調査報告・鱒浦okhotsk.vis.ne.jp網走歴史の会・トーチカ調査報告に書かれているようにJR鱒浦駅から南へ約200mの地点にある。ちなみ丘の上ではなく中腹。鱒浦トーチカにはこの廃墟(工場)の建物の手前から横をまわるよう
[下関要塞/昭和期]吉見穹窖砲台山口県下関市吉見の吉見港から北北西に約2.5キロの山麓。ここに吉見穹窖砲台(洞窟砲台)が構築された。戦況が著しく悪化、本土決戦が現実的になった昭和20年2月以降、下関要塞守備隊は再配備計画に基づき、砲の新設・移設作業にとりかかった。具体的には角島砲台に配備されていたラ式15センチ加農砲4門のうち、2門が「対上陸戦」に備えて山口県本土の杖坂山(→吉見)、残る2門が玄海島(→大休庵)に移設。昭和20年2月下旬のキ号演習(砲台移設)当初、垂水峠ではなく
八戸要塞(通称):是川地区②待避壕?出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)*待避壕?①同じものが島守地区にもあり、ここと同じく至近距離に防御陣地がある。考えられる用途としては待避壕、一時的利用の砲具入れなどの倉庫など多目的壕と思われ
大東亜戦争について、私は深く洗脳されていました目覚める前は、日本とアメリカが戦った戦争だと思っていました。ところが目覚めて分かったことは、グローバリスト勢力は世界中で繋がって一緒に大規模な悪事を働いているどの国の政府もグローバリストの操り人形で、自国民を騙してグローバリスト政策を推し進めている例えそれがワクワクによる自国民の大量虐殺であってもこれは今に始まったことではなく、特に日本の場合は明治維新以降、戊辰戦争のような虐殺が、偽日本人政府により一貫して行われて来たこれを踏まえて大
八戸要塞(通称):島守地区①監視哨?(トーチカ)出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)八戸市の旧南郷村島守地区、県道138号線「鷹の巣展望台」の一帯には、塹壕とトーチカ、火薬庫などが現存している。とはいえ、この138号線の道路工事と開墾など
[航空総軍]屯鶴峯地下司令部壕(戦闘指令所)②奈良県香芝市穴虫大阪と奈良の県境に近い屯鶴峯(どんづるぼう)。この奇岩群から程近い南北の小さな尾根の裾、東側と西側に地下壕が格子状に張り巡らされている。本土決戦を目前にして、昭和20年4月に全国の陸軍航空部隊を統一指揮するための航空総軍が編成された。その司令部諸施設として、屯鶴峯近くの山中に同年6月〜8月の2ヶ月間で掘られた、とされる。だが8月15日の敗戦(停戦)により、地下壕は未完成のまま放置された。NPO法人屯鶴峯地下壕
12月29、30日の2日連続、21時から放送された「NHKスペシャル」を見た人は多いと思う。私は「帝銀事件」の4文字と、犯人とされた「平沢貞道」の名前ぐらいは知っているが、なぜ、ここに松本清張が出てくるのか、それが不思議で、興味を持ち、番組を録画した。結論から言うと、画家であった平沢は事件とはまったく関係がない。事件は大量毒殺。使った毒は青酸カリと言われた。生存者がいたことにも驚いたが、その1人、竹内正子さん(故人)は娘に「(平沢は)違う」と言い、語ったテープも残っていた。また、死に方が即
今回は搭乗員軍装コレクションの中から「飛行眼鏡」をご紹介します。飛行眼鏡と言えば航空隊搭乗員の三種の神器の一つですね。上の画像は山本製の飛行眼鏡です。山本製の山本とは、現在の「山本光学株式会社」さんのことです。現在ではSWANSというブランドを展開され、様々なジャンルで愛用されているサングラス&ゴーグルのメーカーです。皆さんの中でも愛用されている方が沢山おられると思います。山本製作所について航空隊搭乗員、三種の神器のひとつとも言える飛行眼鏡。通な呼び名として
楚辺のトーチカ沖縄本島(読谷村楚辺1922付近)読谷村楚辺の吉川原海岸の岸壁。ここにトーチカ(洞窟式陣地)がある。読谷村都屋に駐留していた陸軍第32軍第24師団歩兵第22聯隊聯隊砲中隊第3小隊が、1944年(昭和19年)8月以降に構築したもの、とされる。陸軍第32軍司令部による当初の計画では、第9師団を中心に沖縄防衛計画を固め、第24師団を沖縄北飛行場(読谷)と沖縄中飛行場(嘉手納)及び海岸防衛に充てていた。だが第9師団は1944年(昭和19年)1
宇都宮陸軍飛行場(清原/鐺山飛行場)の掩体壕栃木県宇都宮市宇都宮市清原地区には陸軍宇都宮飛行場(清原/鐺山飛行場)があった。付属の有蓋掩体壕は合計5基あったとのことだが、今では栃木県農業大学校の敷地内の2基のみ現存している。(栃木県農業大学校の敷地内にある倉庫)現存する2基の有蓋掩体壕はいづれも大型のもので、北側の掩体壕は幅28.1メートル×奥行き22.6メートル×高さ4.7メートル、とのこと。南側の掩体壕もほぼ同じサイズと思われる。陸軍の大型の有蓋掩体壕は、庇(前
[伊勢防備隊](答志島)平射砲台(北)三重県鳥羽市答志町亜須浜日本陸軍は昭和19年7月頃から「浜名湖西〜渥美半島〜志摩半島/伊勢」のラインに本土決戦用の防御陣地の構築を行った。一方、海軍も横須賀鎮守府伊勢防備隊(本部:相島=ミキモト真珠島)が、志摩半島〜相島(ミキモト真珠島)〜阪手島(板手島)〜答志島〜神島〜伊良湖半島先端に、3つの水平砲台(平射砲台)と7つの機銃砲台を構築している。他、志摩半島と答志島において、第4特攻戦隊(伊勢湾部隊)・第13嵐部隊・第19嵐部隊等が配置され、蛟
こんにちは。本日は、日本軍の航空眼鏡(鷲の目型航空眼鏡)をメーカー別に紹介していきたいと思います。鷲の目眼鏡にはメーカ―名の刻印が無いものもありますが、今回は特に知名度があるメーカーを選別いたしました。高島屋飯田株式会社金具に高島屋の高のマークが刻印されています。高級品として定評があった。高島屋飯田貿易店は、1916年12月に高島屋飯田株式会社として独立、現在の大阪にある高島屋が本店。画像は曇り止め用調整機構を設けた航空眼鏡。日満
[豊予要塞]鶴見崎第1砲台①兵舎跡や砲台大分県佐伯市鶴見梶寄浦字鶴御崎(ミュージアムパーク鶴御崎)起工:昭和17年3月12日竣工:昭和17年9月30日備砲:45式15センチ加農砲×4門→昭和20年に鶴見崎穹窖砲台に移設設置:標高246m任務:豊予海峡に侵入する敵潜水艦及び軽艦艇を勉めて南方に阻止することにあり鶴見崎第1砲台および鶴見崎観測所は「ミュージアムパーク鶴御崎」として公園化されている。第1砲台の砲座など雰囲気程度しか感じられないが、観測所と兵舎の基礎など残骸は現存し
前例右から2番目黄色の服を着た横田めぐみさん拡大して、李垠(りぎん)と梨本宮方子(李方子)との隠し子に横田早紀江と李(安倍)慎太郎がいる。安倍慎太郎は、生前よく「俺は朝鮮人だ」と言っていた。金正恩は、金正日と横田めぐみの子。金正日は、畑中理(金策)(日本陸軍中野学校の日本人)と金日成の妻だった金正淑の子。よって、金正日(キムジョンイル)と金正恩(キムジョウン)は、畑中理(日本人)の血🩸を引く日本人ということになる。金正日は日本人の畑中理の息子。横田めぐみは、梨本宮方子(日本の皇族
[計根別平地]熊部隊陣地中標津町の資料海軍標津第一飛行場が現在の中標津空港になる。ここは戦跡は殆ど残っていないのが現状。(戦闘指揮所は空港内だし)この資料をみると「熊部隊の塹壕・防空壕・坑道陣地」、「熊部隊経理隊の事務所土田旅館」、「熊部隊の山砲陣地」と書いてある。熊部隊とは、陸軍第7師団の歩兵第28連隊所属、3ないし4個中隊から野戦師団に戦時編成された(諸説あり)精鋭部隊。陸戦部隊が熊9207部隊、山砲部隊が熊9216部隊のようだ。資料が乏しく実態はよくわかっていな
[釧路地区]大楽毛トーチカ(新大楽毛トーチカ)釧路市大楽毛南1丁目1付近道東のトーチカは1トン爆弾に耐える重掩蓋で、コンクリートの厚さの規定は1メートルだが、湿地帯や地盤が良くない地のトーチカは工法が異なる。半完成品を工場で作成してトラックで運び、設置する場所に置いた。半完成品のトーチカの上に掩体(天井)=分厚いコンクリート板をのせた。近くに現存する新富士トーチカ、根室半島の桂木トーチカ①も同様の工法だ。大楽毛トーチカはJR根室本線の新大楽毛駅の近くの住宅街にある。変形六
硫黄島の戦いで1ヶ月近く激戦を繰り広げ、多大な犠牲者を出したアメリカ軍が硫黄島を占領した翌日3月16日、摺鉢山近くの岩山の穴から片足を失った日本の陸軍少佐が降伏のしるしのハンカチを掲げて出て来てこう言いました。「司令官はいないか。穴の中にはまだ有能な30名の青年達が残っている。彼らを日本のため、世界のために生かしてやりたい。私を殺して彼らを助けてほしい」と言いました。この少佐に引見した第五艦隊レイモンド・スプルーアンス司令官は「お前も部下達も助けてやろう」と言うと、少佐は「サンキュー」と言い
[陸軍第73師団](本土決戦)二川のトーチカ愛知県豊橋市二川太平洋戦争の戦況が著しく悪化した1944年(昭和19年)夏以降、連合軍による本土上陸作戦に備えて、予想される地域に本土決戦用の防御陣地を構築した。静岡県は浜名湖西岸から愛知県の渥美半島伊良湖岬にかけての遠州灘も、本土上陸作戦が予想されていた場所だった。1944年(昭和19年)7月に新設された日本陸軍第13方面軍第73師団によって、豊橋市一帯には多くの防御陣地がつくられた。具体的には、海岸沿いの丘陵地帯に
[釧路地区]新富士トーチカ釧路市新富士町2-1-8付近道東のトーチカは1トン爆弾に耐える重掩蓋で、コンクリートの厚さの規定は1メートル。だが湿地帯や地盤が良くない地のトーチカは、半完成品を工場で作成してトラックで運び地上に置いた。その上に掩体(天井)の分厚いコンクリート板をのせて完成させた。近くに現存する大楽毛トーチカ、根室半島の桂木トーチカ①も同様の工法だ。さて、新富士トーチカ。今、民家の一部として使用中(らしい)。こちら側からみるとトーチカっぷりがわからな
各務原陸軍飛行場の穹窖掩体壕不動山(矢熊山)の南麓の岩盤を掘り込んだ穹窖掩体壕。部分的にコンクリートで補強されている。幅19X奥行29X高さ7m。民家(廃墟)の敷地内にある。雑なつくりだ。1917年(大正6年)6月、各務原陸軍飛行場が竣工。各務原陸軍航空支廠、川崎航空機工業各務原工場、三菱重工業名古屋航空機製作所各務原格納庫などがあり、重要な飛行場に位置づけられた。戦況の悪化を鑑み、1944年(昭和19年)7月頃から飛行場の南の長
陸軍計根別第一飛行場の有蓋掩体壕群北海道野付郡別海町本別34付近1947/10/31(昭22)USAM643-180(国土地理院)竣工:昭和19年(1944年)2月28日滑走路:1,200mx100m(舗装)、1,300mx300m(転圧滑走路)?陸軍飛行第32戦隊が終戦までが展開。南千島の哨戒で一飛行第74戦隊が在籍していたとのこと。戦後、朝鮮戦争時に米軍によって修復(&滑走路を1,600mに拡張)して、アメリカ空軍不時着用飛行場として使われたこともある。現在、
[由良要塞](由良/淡路)成山第1砲台兵庫県洲本市由良町由良出典:「現代本邦築城史」第二部第四巻由良要塞築城史(陸軍築城部)(赤は廃止/青は終戦時現役/黒は設置予定)由良地区の由良の対岸、南北(約6.4キロ/砂州は約3キロ)に延びる成ヶ島。北の成山(標高52m)と南の高崎(標高23m)はもともと陸繋島であり、江戸時代初期までこれらは砂州で淡路島と繋がり、砂州の中間付近が湾口だった。北の成山と由良を新川口、南の高崎と由良を今川口と呼ばれている。成ヶ島は中世から近
日本陸軍階級章解説(戦争史の研究、世界平和のためにお使い下さい)二等兵一等兵上等兵兵長伍長軍曹曹長准尉少尉中尉大尉少佐中佐大佐少将