ブログ記事1,396件
飛行第111戦隊第2中隊長檜與平少佐昭和20年明野飛行場※仕様は想定Kit:Madewithtwoinone.1/72ハセガワ(00131-A1)×AML72033Requestedwork,FinishedproductsbyProfessionalmodels.大ちゃんのmyPickAmazon(アマゾン)中島戦闘機設計者の回想-戦闘機から「剣」へ──航空技術の闘い(光人社NF文庫)530〜5,156円名門・中島飛行機で、隼、疾風、
午前中で大阪の仕事を終え、奈良への帰路は国道25号を走行しているのですが、午後よりスキマ時間が出来てしまったので、柏原市国分より国道165号を走行し香芝市方面に向かいました。目的地は、奇勝・屯鶴峯(どんつるぼう)景色が優れているところを「景勝」とか「名勝」と副詞修飾しますが、屯鶴峯は”奇勝”と修飾されます。由縁は、真っ白い奇岩群が山肌に広がり、まるで異世界のような景観だから。県道703号香芝太子線で大阪方面左手、どんづる峯専用駐車場、もちろん無料駐車場
遥拝台と陸軍橋福岡県久留米市野中町11遙拝台陸軍墓地の付属施設。軍の式典などで遥拝台の屋上から、皇居(宮城)の方角に向かって遥拝していた。久留米の遥拝台は国旗掲揚台と手信号の訓練場を兼ねている。遥拝台は裾広がりの円柱状の建物。高さ4.8m、底部径6m、屋上径5.8m。内部の螺旋階段を上ると屋上に出る。---屋上には石の標柱があり「宮城遥拝」と「皇紀2601年」が刻まれている。-国旗掲揚台は反対側にあるでは下りますか。-
こんにちは。本日は、日本陸軍航空隊が使用していた初期の酸素マスクを試作しましたので、ご紹介したいと思います。なかなか資料がなく、当時の写真も少ないですが、米国のコレクター様からの情報提供で再現する事ができました。実物●外装・・・アルミ金属●外装回り・・・バックスキンのクッション(外装に縫い付けられている)●正面カバー・・・ベークライト(開閉式)●ゴムバンド式裏にはパイプが見えます。このフックで開閉します。この部分にホースをつけます。
【3D】北朝鮮“弾道ミサイル”の性能を徹底比較DPRKBALLISTICMISSILEEVOLUTION北朝鮮の問題①困った問題が起きてきました。アメリカはもうお手上げです。しかし、北朝鮮は悪いのです。まず、偽ドルをつくっています。それから、偽タバコもつくっています。それから、ハッカーをやって、他国のコンピューターを壊して、何百億ドルというお金を稼いでいるのです。悪のやりたい放題です。北朝鮮のプルトニウムをつくっている現場を視察したアメリカ人が一人います。それ
陸軍由良飛行場(○○飛行場/榎列飛行場)淡路島陸軍の正式呼称は「由良飛行場」。軍機漏洩罪を恐れたため、まるまる(○○)または榎列飛行場または三原飛行場と呼ばれていた。滑走路は60m×1,500m(コンクリート敷)。横風用の滑走路は未着工だった模様。1943年(昭和18年)11月、陸軍(由良要塞司令部)は阪神防空用戦闘機基地として、淡路島の三原平野(松帆村・榎並村:南あわじ市松帆脇田)に由良飛行場の建設を決定。1944年(昭和19年)4月に着工、同年9月より一部運
こんばんは。本日はちょっと一休み、今年5月に鹿児島の戦争遺跡を巡ってきました。万世~知覧~鹿屋の旅です。零式三座水上偵察機万世特攻基地で撮影された写真富屋旅館に泊まりました。空は少し曇っていましたが、開聞岳は美しかったです。一緒に旅をした、坂本氏と記念撮影。最後は美しい桜島で、おしまい。皆さま、いかがでしょうか。
陸軍成増飛行場(高松飛行場)の掩体壕(東京都板橋区成増)(赤丸は現存する有蓋掩体壕)陸軍成増飛行場は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲(日本本土に対する初の空襲)を期に、帝都(東京)防空のための飛行場として急遽建設が計画され、1943年(昭和18年)年8月着工、同年12月に完成した。(誘導路脇の土塁の跡)滑走路は1,200×60メートルのコンクリート舗装。路面は迷彩ペイントを施された。陸軍の飛行第47部隊、第43飛行場大隊、航空廠立川分廠成増分遣整備が
[豊予要塞]正野谷桟橋愛媛県西宇和郡伊方町正野佐田岬灯台へ向かう県道、正野谷部落(藤ノ実バス停前)から海へ向かって約500メートル歩く(表示板在り)と、佐田岬第2砲台建設の資材を陸揚げするために造られた桟橋が正面にある。昭和2年竣工。地元民は軍用桟橋とか軍艦波止とか呼んでいた。長さ約50メートル×幅約550メートルのコンクリートと一部鉄製の桟橋。計24本の円柱に支えられている。半島の先端ゆえ風も波も強く、橋の崩壊を免れるための様々な工夫が凝らされている。①
今回は、レジンキットです。HINODE1/72海軍十二糎自走砲です。“JAPANESENAVY12cmSPG”海軍十二糎自走砲(海軍12cm自走砲)又は長十二糎自走砲(長12cm自走砲)は、日本海軍が第2次大戦末期に試作した自走砲です。現存資料が少なく謎が多い車輛。開発担当は艦政本部第一部。一般に「海軍十二糎自走砲」と呼ばれていますが、「短十二糎自走砲」に対し、「長十二糎自走砲」と呼ばれることも。他に、「海軍長12cm自走砲」や「海軍
[豊予要塞]関崎砲台大分県大分市佐賀関着工:昭和20年3月備砲:38式野砲×2門独立混成第118旅団歴史:昭和20年2月〜出典:アジア歴史センター(C14060991400)独立混成第118旅団歴史急斜面を降りて行く。道はしっかりしている(^o^)右翼側の砲台僅かに迷彩塗装が残っている左翼側の砲台右翼側の砲台にある案内版浄法寺朝美「日本築城史」p.272には、『高島第1および関崎砲台:共に大正10年7月起工、同13年1月
浜松陸軍墓地跡のトーチカ静岡県浜松市中区住吉4丁目21陸軍浜松飛行場の防衛のために作られたトーチカ。浜松陸軍墓地の端にあったが、陸軍墓地も忠霊殿も壊されて平和記念公園と名前を変え、その南西には浜松市立青少年の家が建つ。南側は傾斜しているが、その傾斜にトーチカがある。--前面は半円の形状で、砲口部は至近弾の被害を軽減するために階段状となっている。--出入り口は埋めているのか、わざと伐採された木の枝を積み上げているため全容は不明。なお、白亜の霊
こんにちは。本日は、以前に試作品をご紹介しました、日満製の初期航空眼鏡を製作しましたので、ご紹介したいと思います。こちらです。当時陸軍の飛行士が使っていた航空眼鏡は、いわゆる「ナス型」の眼鏡で、同型のものを試作し納品していた。しかし、これまでの型の航空眼鏡は視野が狭く、眼鏡内部の空気流通も悪かった。また、外国製の模倣品であったため、日本人の鼻梁には適さず、使用すると頭痛を引き起こすこともあり、早急に改善するよう、研究と改善に着手した。参考文献~日興電機30年史
こんにちは。本日は、試作中の鷲の目型航空眼鏡をお見せしたいと思います。実物今回はこちらの航空眼鏡を再現してみました。この眼鏡の特徴は、真ん中に蝶番が付いており、クッション部はビロードもありましたが、このように革も使用されています。何とも良い風合いです。再現アルミ金属、アクリル、本革、ゴムバンド、塗装仕上げ。~前期型冬飛行帽~~昭和15年5月制定
[佐世保鎮守府]軍需部第2突堤/前畑第2火薬庫長崎県佐世保市干尽町出典:アジア歴史資料センター(C08010977400)海軍省「火工工場(前畑、千尽)施設配置図」*前畑火薬庫群明治21年5月に完成した前畑火薬庫。創設当時の前畑火薬庫は2棟の火薬庫で構成され、中央の兵器廠で製造した兵器類を保管する武庫に所属していた。前畑火薬庫は創設以来拡張が繰り返され、現在の形となったのは昭和15年頃。その頃には第2火薬庫一帯は佐世保海軍工廠前畑火工工場となっており、前畑火薬庫に保管してい
今回は、レジンキットです。HINODE1/72一式半装軌装甲兵車ホハです。“TYPE1HALFTRACKAPC”一式半装軌装甲兵車ホハは、第2次大戦において旧日本軍が使用した装甲兵員輸送車です。日本陸軍は戦前から装甲で覆われた装軌式車輛の研究をしていました。1933年には九二式重装甲車の足回りを使用した試製装軌自動貨車TCが試作され、試製装軌自動貨車TE(1934年)、試製装甲兵車TG(1935年)と続きました。初めてモノにな
こんにちは。本日は、試作中なのですが鷲の目眼鏡を再現したく、製作したものをご紹介したいと思います。こちらです。2種類作りました。ひとつひとつのパーツから手作りして完成させました。まだまだ改善点はありますが、作れば作るほどに理解が深まり、想像力も湧いてくるものです。当時、鷲の目型を開発した後藤氏が見事に完成させた、この航空眼鏡の凄みが伝わってくるようでした。これからも試作を重ねたいと思います。①フレーム黒色②フレーム濃緑色ヘッドマネキンに装
こんにちは。本日は埼玉県S.A様が装着写真を送ってくださいましたのでご紹介したいと思います。以前、防毒マスクやヘッドホーンレシーバーなどを製作いたました。艦内作業服装海兵団での陸戦教練艦上戦闘服装(通信兵)表情もいいですね。左が再現したヘッドホーンレシーバー。~海軍陸戦隊~艦上戦闘服装(機銃員1)~艦上戦闘訓練~襲い来る敵艦載機を迎え撃つ代表がこの高角機銃。単装、二連装、三連装と多彩
宇都宮陸軍飛行場(清原/鐺山飛行場)の掩体壕栃木県宇都宮市宇都宮市清原地区には陸軍宇都宮飛行場(清原/鐺山飛行場)があった。付属の有蓋掩体壕は合計5基あったとのことだが、今では栃木県農業大学校の敷地内の2基のみ現存している。(栃木県農業大学校の敷地内にある倉庫)現存する2基の有蓋掩体壕はいづれも大型のもので、北側の掩体壕は幅28.1メートル×奥行き22.6メートル×高さ4.7メートル、とのこと。南側の掩体壕もほぼ同じサイズと思われる。陸軍の大型の有蓋掩体壕は、庇(前部)が崩壊
[三菱重工熊本航空機製作所]米田地下工場熊本県山鹿市小原付近昭和17年6月頃、三菱重工業は陸軍航空本部の命令により、熊本市内の健軍地区に官設民営(カミタ)の熊本航空機製作所(第9製作所)を起工した。生産された航空機は4式重爆撃機「飛龍」で敗戦までに46機(42機説もあり)。戦況の悪化、空襲の激化で昭和20年6月頃から、第二次疎開として県内に半地下・地下工場がつくられた(掘られた)。米田工場もその一つで疎開工場の中では第二次最大規模。ここでは工作機械を生産した。地下壕は長岩横穴
各務原陸軍飛行場の穹窖掩体壕不動山(矢熊山)の南麓の岩盤を掘り込んだ穹窖掩体壕。部分的にコンクリートで補強されている。1917年(大正6年)6月、各務原陸軍飛行場が竣工。各務原陸軍航空支廠、川崎航空機工業各務原工場、三菱重工業名古屋航空機製作所各務原格納庫などがあり、重要な飛行場に位置づけられた。戦況の悪化を鑑み、1944年(昭和19年)7月頃から飛行場の南の長平山と荒井山の山腹、不動山の山腹に多くの掩体壕がつくられた。大半が土塁の無蓋掩体壕だが、コンクリート壁の無蓋掩体壕
[金丸原陸軍飛行場]掩体壕栃木県大田原市終戦時の金丸原飛行場は、西側に(主)第1滑走路が1,900×幅100メートル、東側に(副)第2滑走路が1,300×幅100メートル。第2滑走路は那須野ケ原カントリークラブ付近にあった。有蓋掩体壕が那須ヶ原カントリークラブの敷地内クラブ管理棟の前に、1基のみ現存している。終戦時に有効な掩体壕が何基つくられていたかは不明。現在は国際福祉大学キャンパス、大田原市立金田南中学校、那須ヶ原カントリークラブ、大半が田畑になっており、有蓋掩体壕以外(兵
[京都市役所本庁舎]高射機関砲?陣地★追記あり昭和2年4月に竣工の京都市役所本庁舎。ほぼ完全に左右対称で、中央と両翼を突き出させ、中央に塔を建てている。出典:京都市役所「新庁舎整備に係る基本設計について」この京都市役所本庁舎の屋上の両端(両翼)には階段室があり、この階段室の屋上に円形(上から見ると螺旋状)のコンクリートの障壁がある。土台になる階段室の強度と狭さを考えると一般的な高射砲ではなく、対空機関砲の類い(高射機関砲)を置いたと思われる。なお京都は(他地域に比べれ
陸軍八日市飛行場の有蓋掩体壕滋賀県東近江市滋賀県東近江市にある、陸軍八日市飛行場附属の掩体壕群。このうち現存する有蓋掩体壕は2基あり、どちらも中型のもの(説明板では小型機用とかかれている)。農作業中の某爺様にお声かけしたところ、有刺鉄線内にあるこの有蓋掩体壕にGO!でした。「ひび割れが進みいつ崩れるかわからないから。死んでもしりませんよ」の言葉付きで₍₍(੭•̀ω•́)੭有蓋掩体壕(7号掩体)開口幅24.5メートル×最大幅28メートル×奥行22.5メートル×高5
[釧路地区]興津トーチカ釧路市興津の海岸。「岩を刳り貫いてつくられたトーチカ」とされているが、釧路オコツナイ骨格陣地の南端に位置していること、銃眼の形状や大きさからここは監視所を兼ねたトーチカかもしれない。-銃口!"トーチカ"から見た景色"トーチカ"の出入口は転落防止のため塞いだとのこと(通りがかりのご老人談)。崖地の岩盤を真上から掘り込んだ、とのこと。*北海道本島の防衛について
[函館/津軽要塞]穴澗電燈北海道函館市函館山★後日、写真追加・加筆します函館要塞は函館港の防禦を目的とした要塞で、陸軍の薬師山砲台(堡塁)/御殿山第1砲台/御殿山第2砲台/千畳敷砲台/立待保塁、海軍の機雷などで構成される。大正8年の要塞整理案で、津軽海峡を防備するために津軽要塞が新たに設置され、廃止されずに存続した函館要塞の一部(御殿山第2砲台/千畳敷砲台の一部/立待保塁)を吸収した。砲台付属施設出典:現代本邦築城史第2部第8巻函館山は霧がかかりやすいため、高地にある砲
[釧路地区]大楽毛トーチカ(新大楽毛トーチカ)釧路市大楽毛南1丁目1付近道東のトーチカは1トン爆弾に耐える重掩蓋で、コンクリートの厚さの規定は1メートルだが、湿地帯や地盤が良くない地のトーチカは工法が異なる。半完成品を工場で作成してトラックで運び、設置する場所に置いた。半完成品のトーチカの上に掩体(天井)=分厚いコンクリート板をのせた。近くに現存する新富士トーチカ、根室半島の桂木トーチカ①も同様の工法だ。大楽毛トーチカはJR根室本線の新大楽毛駅の近くの住宅街にある。変形六角形で
[陸軍第1技術研究所伊良湖試験場]①気象塔兼展望塔愛知県田原市起工:明治34年(1901年)3月31日竣工:明治34年(1901年)11月30日増築:大正13年(1924年)西射線を追加明治後期以降の大砲や弾薬の研究、効力実験、弾道研究、採用検査などを行った施設(通称:伊良湖試験射場)。陸軍の使用する主に海岸砲の大砲や弾薬のほとんどがここで試験検査を受けていたとのこと。昭和に入ると海岸砲以外の兵器開発も手がけた。出典:広報たはら2012年8月1日号渥美半島の
船越防空監視哨秋田県男鹿市船越秋田県の男鹿半島の付け根、船越海岸に現存する防空監視哨。八郎潟の干拓事業で、八郎潟から流れ出る船越水道は河口の位置が変わっている。昭和23年5月米軍撮影出典:国土地理院1948/05/21(昭23)USAR147255↓2022年のGoogle秋田県戦争遺跡研究会編「秋田県の戦争遺跡」p.123秋田県戦争遺跡研究会編「秋田県の戦争遺跡」の123頁船越防空監視哨が紹介されている。同書によれば「男鹿半島の他の4監
小巻沢林道橋(九九式重構桁鉄道橋)北海道夕張市鹿島地区日本陸軍が戦地における架橋のために設計した軍用組み立て式のトラス橋「九九式重構桁鉄道橋」。これが現存している話を聞いて行ってみた。小巻沢林道橋は北炭夕張炭鉱地域、下夕張森林鉄道夕張岳線(鉄道)の第五号橋梁。戦後、木材を搬出する貨物専用鉄道を敷設するが、極端な物資不足の中で注目されたのが、国内で放置されていた九九式重構桁鉄道橋(JKT)だった。*※重構桁鉄道橋(JKT):Jは重い、Kは構桁(Truss)、Tは鉄道。