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こんばんは。今までリビングは3日に一度は掃除機で掃除しないと髪の毛と埃だらけだったのですが、人と動物が居なくなったら、ゴミが一つも無い、コレは楽で良いですね~日本軍試製四式十二糎自走砲ホト日本軍試製四式十二糎自走砲ホト日本軍試製四式十二糎自走砲ホト日本軍試製四式十二糎自走砲ホト日本軍試製四式十二糎自走砲ホト日本軍試製四式十二糎自走砲ホト一時期、海外メーカーから日本軍車
ビルマ敗戦行記❲岩波書店❳【5】前回のブログ記事は以下の通りです。ビルマ敗戦行記❲岩波書店❳【4】アメーバブログ記事よりビルマ敗戦行記❲岩波書店❳【4】アメーバブログ記事『ビルマ敗戦行記❲岩波書店❳【4】』ビルマ敗戦行記❲岩波書店❳【4】前回のブログ記事は以下の通りです。ビルマ敗戦行記❲岩波書店❳【3】アメーバブログ記事よりビルマ敗戦行記❲岩波書店❳…ameblo.jp目次となります。目次まえがきはじめに1一ビルマ戦線へ9二マンダレ
シュガーローフの戦いfuyunoBの沖縄戦跡訪問の続きです。シュガーローフ。(アメリカ軍の呼称)安里52高地。(日本軍の呼称)慶良間チージ。(沖縄での呼称)激烈な沖縄戦の中でも、屈指の超激戦地。太平洋戦史に血に染めた名を刻んだシュガーローフの戦いが行われた場所。↑太平洋戦争時のシュガーローフ(写真はWikiからお借りしています)シュガーローフとはアメリカ南西部名物の菓子パンで、丘の形がシュガーローフに似ていたのでアメリカ軍にこう呼ばれました。シュガーローフの戦い
[小倉陸軍造兵廠]日田製造所①友田地区大分県日田市吹上町上町8-32(長善寺)大正5年(1916年)、陸軍造兵廠が直轄する6機関の1つ、小倉兵器製造所として開設されたのが始まり。東京砲兵工廠の集約移転先として昭和8年(1933年)に小倉工廠は完成した。昭和15年、陸軍大臣直属の陸軍兵器本部が設置され「小倉造兵廠」と改称。昭和17年、小倉陸軍兵器補給廠(城野)と共に東京第2造兵廠の管轄になった。176,000坪の敷地を有し、小型戦車、小銃、機関銃、高射機関砲、砲弾、風船爆弾、化学兵器など
[市ヶ谷台]大本営陸軍部地下壕②所在地:東京都新宿区市谷本村町5-1防衛省敷地内に現存する大本営地下壕(大本営陸軍部地下壕)公開当初は3本の主坑のうち、西の3本目、それも半分しか見学できなかったが(下記写真の赤枠のみ)、いつの間にか、見学エリアが大幅に緩和していたので再訪した。下記のURLから予約電話で事前に確認後、メールフォームを送信https://www.mod.go.jp/j/publication/ichigaya/index.html寸足らずだった見学エリア(
こんにちは。本日は、戦地に赴く兵士に送られて(贈られて)いた「お守り人形」について書いてみたいと思います。軍装品ではありませんが、再現するにあたってなくてはならない、忘れてはいけないものだと思っております。慰問人形に笑顔を見せる兵士たち三角兵舎で、全国の女学生から届いた慰問人形を手にする特攻隊員私は普段さまざな軍装品について研究しておりますが、こういった人形について気に留める事なく過ごしておりました。ですが、兵隊さんたちを見ていると、当時の写真に人形を身につけておら
先日講演会で藤沢を訪れた際に、「親族が書いた本です」といただいたのが表題の本(おそらく私家本)であった。こうやって筆者の研究に関する資料をいただけるのはとっても嬉しい。そして拝読して特に興味を持ったのは、IGファルベンとの人造石油に関する交渉の部分であった。本編ではそのあたりを中心に紹介する。筆者の木下利貞は昭和8年(1933年)に東京帝国大学工学部造兵学科(現在精密機械工学科)卒業後、陸軍燃料廠などに勤務した。そして1940年秋にドイツ行きの命令が出る。ようやくソ連のビザを得て、独