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ご訪問ありがとうございます。前回は継体天皇の后妃について検証しましたが、継体天皇は、かなり広くネットワークを構築していたことが見受けられます。そこで今回からは継体天皇自身がどこに母胎を持っていたのか、考えてみたいと思いますが、今回はちょっと長いので目次をご活用いただいて、ちょっとずつ読んでいただければ(;^_^Aいやぁ、いいタイミングでリリースされて良かったです。目次「上宮記逸文」の系譜凡牟都和希王は誰か?応神天皇の原像(ホムダワケ)応神天皇の原像(オオトモワケ)応神天皇
皇紀二千六百八十五年建国記念の日徳島奉祝式典令和七年二月十一日(祝日)11時~会場:徳島懸護國神社〒770-8021徳島県徳島市雑賀町東開21-1電話:088-669-3090http://gokoku-jinja.jp/徳島奉祝式典主催:日本会議徳島本部入場無料日本書紀神武天皇の即位日として定めた祭日1873年(明治6年)に2月11日と定められました。
こんにちは人とペットのエネルギーを穏やかに整えるレゾナント・ヒーラーのマダム・サーニャです去年の大晦日、三重県熊野市にある、日本最古の神社に行ってきました🚌花の窟(いわや)神社です。神社の由来は、伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火神・軻遇突智尊(カグツチノミコト)を産み、灼かれて亡くなった後に葬られた御陵なのだそうそのことは、日本書紀にも記されているのだとか境内はそれほど広くはなく、
【阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)】(長崎県対馬市)阿麻氐留神社は、『延喜式神名帳』に記載のある式内社・阿麻氐留神社に比定されている古社で、貞観12年三月(871年)、正五位下に叙されています。上対馬と下対馬のちょうど中間地点、美津島町小船越に鎮座し、対馬の東岸と西岸を繋ぐ海運の中継地として重要視されていた場所で、社名のとおり太陽神をお祀りしていますが、アマテラスではなく天日神命(アマノヒノミタマ)がご祭神です。写真は国道382号線沿いに建つ一の鳥居で、この鳥居をくぐり石段をしばら
出雲大社「出雲」と言えば私たちは、出雲大社のある島根県を連想します。確かに古代のある時期においての「出雲」は、現在の島根県東部なのでしょうが「勢力圏」「文化圏」の視点から考えると、山陰一帯や丹波や畿内にもその痕跡があります。例えば大和・葛城地域は出雲色が強く、高鴨神社や鴨都波神社など社格の高い神社で出雲の神々が祀られています。また、奈良、京都、大阪には「出雲」という地名が多く残っています。ただしそれらは、畿内勢力に支配された出雲族が奴隷とし
第2章古事記・日本書紀に見る馬の神話日本最古の歴史書である『古事記』と『日本書紀』には、数々の神話が収められています。その中で、馬は神の使いとして、また時に災厄を招く存在として登場し、人々の信仰や畏れを映し出しています。ここでは、特に代表的なエピソードを取り上げながら、馬がどのように神々の物語に関わってきたのかをたどってみます。スサノオと「逆剥ぎの馬」最も有名なのは「天の岩戸隠れ」にまつわるエピソードです。荒ぶる神スサノオは、姉である天照大神に対して度重なる乱暴を働きました。その
みなさんは「百済三書」という名前を耳にされたことがあるでしょうか?『三国史記』(「高句麗本紀」「新羅本紀」「百済本紀」からなる)の「百済本紀」とよく間違いそうになりますが、まったく異なる書物です。百済三書とは、『百済記(くだらき)』『百済新撰(くだらしんせん)』『百済本記(くだらほんき)』という3つの書物を指します。これらは『日本書紀』の神功皇后摂政紀から欽明天皇紀において合計26か所で引用されています。具体的には、『百済記』は神功皇后摂政紀・応神天皇紀・雄略天皇紀で計5か
忍熊王は逃げて隠れるところもなく、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠んだ。イザアギ、イサチスクネ、タマキハル、ウチノアソガ、クプツチノ、イタデオハズハ、ニホドリノ、カヴキセナ。(さあ、我が君、五十狭茅宿禰よ。武内宿禰の手痛い攻擊を身に受けずに、鳰鳥(カイツブリのこと)のように水に潜って死のう。)共に瀬田の渡りに沈んで死んだ。そのときに、武内宿禰は歌って言った。アフミノミ、セタノワタリニ、カヅク卜リ、メニシミエネバ、イキドホロシモ。(淡海の海の瀬田の渡りで、水に潜る鳥が見当たら
JamesSetouchi2026(R8).2.9日本古典『古事記』を読んでみよう(2)大国主神の国作り(読書会資料)R8.5~7月実施見込み(未定)1『古事記』は、神話と文学と歴史が渾然一体となったものとして、何となく読み飛ばすなら、あらすじだけはすぐ読めてしまう。だが、神話と文学と歴史を混同して皇国史観のイデオロギーによって国民を戦場に駆り立て兵士として大勢死なせた過去をしっかり見据えるならば、簡単に読み飛ばして済ませるわけにはいかない。また、「これが日本
第2話|英雄の影に立つ大王(おおきみ)【あらすじ】英雄ヤマトタケルの子として生まれ、天皇となった足仲彦尊。人々は彼自身ではなく、「父の名」を見て玉座の上の姿を評価していた。凡人であることを知る彼は、それでも天皇として立つための道を静かに選び取っていく。――――――【本文】足仲彦尊(タラシナカツヒコのミコト)は、かの有名な日本武尊(ヤマトタケルのミコト)の第二子です。第二子とはいえ、それは最も高貴な妻のひとりが産んだ、ただ一人の男子でした。血統だけを見れば、申し分のない立場にあっ
武内宿禰(たけうちのすくね)は、古代日本の伝説的な人物であり、日本書紀や古事記などに登場する非常に重要な政治家・忠臣です。彼は神功皇后や応神天皇をはじめ、複数の天皇に仕えた長寿の臣下として知られています。構成:筑前由紀イラスト:YUTARO目次基本情報特徴と伝説実在性子供と子孫LINEスタンプ目次を開く基本情報・時代:古墳時代(3世紀末〜5世紀頃とされる)・仕えた天皇:景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后(摂政)、応神天皇、仁徳天皇・出身氏族:蘇
おもしろい本を読みました朝鮮半島の記録や日本書紀には伽耶国あたりに任那(みまな)があったと記されていますそれはヤマト王権の出先機関なのでしょうかそして大和朝廷に服属する人が造る前方後円墳が旧馬韓の地にあるのはなぜなのでしょうか伽耶は統一国家となる前に滅びたためまとまった史書がなく日本書紀や百済三書の史料的価値の評価し百済からみた伽耶の歴史を加味しながら2024年に書かれた工藤敦史さんの新書です◯任那はヤマト王権とは独立した存在で伽耶に土着した人々雄略
神功皇后は、日本の天皇家と、朝鮮半島の新羅国の王族の血を引く女性です。父親が、9代開化天皇の子孫。母親が、新羅から来たアメノヒボコの子孫です。神功皇后は、神を降ろして神託を受けることが出来る女性でした。第14代仲哀天皇が即位した翌年、仲哀天皇と結婚しました。近畿にいましたが、九州の熊襲という豪族が反抗的だと聞いて、九州へ向かいます。しかし、福岡県の香椎宮で神降ろしをすると、「熊襲を打つより朝鮮半島へ行くべし」という神託を受けます。仲哀天皇はそれを疑い
古事記・日本書紀に記される「八尺瓊勾玉」ってなに?正式には「五百津御統之玉(いほつのみすまるのたま)」と呼ばれ、#三種の神器のひとつです。これは単なる宝物ではありません。#イザナギが、娘・#天照大神へ託した「この世界をやさしく治めるための力」そのものです。「やさかのまがたま」という長い名には、日本人が大切にしてきたいのちの世界観がぎゅっと詰まっています。🌸八尺(やさか)大きさではなく、「弥栄(いやさか)」命が重なり、広がり、続いていくこと。🌸瓊(に)霊性を宿した美しい玉。
若八幡神社福岡県田川市夏吉1636御祭神仁徳天皇・応神天皇・神功皇后地主神神夏磯媛命輝徳霊神小笠原忠真公若八幡神社と夏吉夏吉若八幡神社の祭神五柱(誉田天皇・大鷦鷯天皇・息長足姫命・地主神・輝徳神)のうち、地主神として祀られているのは神夏磯媛である。神夏磯媛は、景行天皇筑紫巡幸の際に、天皇の御使武諸木等に磯津山の榊を執って恭順の意をあらわし、親征の御援助を申しあげた。この磯津山は古説によると香春の鏡山のことである。磯津山が、香春の鏡山⁉︎のち、神功皇后
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『神主の体が練れるに従って霊動は僅少となり、態度も整然となってくる。体が整う頃に至ると「体を切る」状態が出現する。体を切ると云うことは、正座したまま身体の形を崩さずに一尺から二尺ぐらい飛び上り、又元の位置へ着座する事である。初期の内は此の行動を何回か繰返す事もあるが、熟達するに従い、霊が憑依(降霊)する時に一回、昇霊する時に一回、前後二回行はれるのが正規とされている。』(「顕神
武内宿禰に刺客を放った応神天皇武内宿禰に反乱容疑壱岐神社(西区)に祀られた壱岐真根子武内宿禰と中臣烏賊津は義兄弟か?武内宿禰と容姿が似ていた壱岐真根子の謎中臣烏賊津(雷大臣)の二人の息子とその末裔香椎宮の神木「綾杉」の右奥に、第14代仲哀天皇と神功皇后に仕えた重臣「武内宿禰」の像がある。↑腕に抱っこしているのは、神功皇后の子・後の応神天皇である。武内宿禰は仲哀天皇の急死の後、お腹に子を身ごもった神功皇后を助け、朝鮮半島出征を成功させる。帰国後、皇后は宇美八幡宮で皇子を出産
【タケハヅチ/星の神を誅伐した織物の神】タケハヅチ(建葉槌命)は『日本書紀』の出雲国譲りに登場する神で、天津神の勢力に最後まで抵抗したアマツミカボシ(天津甕星/別名をホシノカガセオ(星神香香背男))を倒したとされる武神です。すでに派遣され各地の反乱勢力を平定した武神フツヌシノカミ(経津主神)・タケミカヅチ(武甕槌命)でしたが、この二柱の神では服従しなかったアマツミカボシを平定したのがタケハヅチとされます。『日本書紀』の他の記述では、天(高天の原)の従わない神がアマツミカボシで、地上
こんにちは。ぴる来るです。当ブログの【日本語上代】シリーズでは、古代日本語を解明する新しい試みをしていきます。今回も天孫降臨の一場面から、「まとこおふふすま」です。(以下、本文は常体で続きます)『和漢三才図会』による衾の画(Wikipediaより)古事記ではこの場面で記載は無く、日本書紀に登場するアイテムだ。高皇産霊(たかみむすひ)尊がニニギノミコトを地上に降ろす際に覆ったものとされる。「まどこおふふすま」と読まれることもある。「眞床追衾」あるいは「眞床覆衾」と表記される。
ご訪問ありがとうございます。今回も外交関係のようで、あまりそうではない(^^;)たぶん、いずれかの氏族の「家記」のようなものかと💦「日本書紀」の編纂時には、いろんな記録や言い伝えが残っていたのでしょう。3月、天皇は新羅を親征なさろうと思われたが、神が天皇を戒めて「行かれてはなりません。」とおっしゃった。天皇は是によって、行くことを果たせず、紀小弓キノオユミ宿禰スクネ・蘇我韓子ソガノカラコ宿禰・大伴談オオトモノカタリ連ムラジ・小鹿火オカヒ宿禰(紀氏)らに命じ「新羅は、もともと西
2026年2月3日(火)世田谷・代田八幡神社追儺(ついな)節分祭―豆まき本日、立春前日の夕刻、世田谷区の代田八幡神社にて、追儺節分祭が執り行われました。社殿前には多くの参拝者が集まり、年男・年女による豆まきが行われました。子供たちが袋を広げて最前列に陣取り、お菓子やミカンをたくさんゲットして皆とても楽しそうでした。境内は福を求める人々の熱気に包まれ、節分ならではの賑わいを見せていました。私は、後方にいましたが、みかんやお菓子が足元に転がってきて案外沢山手に入れることが出来ました
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『第二章日本書紀に見ゆる実例一日本書紀巻第一(神代上)(巻末G参照)又猿女君の遠祖天鈿女命は即ち手に芽纏の矟を持ち、天石窟戸の前に立たして、巧に俳優す。亦天香山の真坂樹を以て鬘と為し、蘿を以て手すきに為して、火処燒き、覆槽置せ、顕神明之憑談す。』(「顕神本田霊学法典」)『また猨女君の遠祖天鈿女命は手に茅を巻いた矛を持ち、天石窟戸の前に立って、巧みに俳優をした。
『60-③内宮参拝。個人手なお願いはなぜ荒祭宮なのか?前編』『60-②外宮参拝。外宮の話』『60-①8年前の誕生日旅行の話まずは二見興玉神社』本日は不詳私の50代最後の誕生日なんですけど風邪ひいてまして😂言わ…ameblo.jpまずは日本の信仰についてなんですが日本の神道神様は海外の一神教のGODとは全く違います。日本の信仰は自然崇拝怨霊信仰それにプラスで祖先崇拝が加わったものなんですね。八百万の神と言われるくらいなのでそこに仏教はもちろん、景教(キリスト教)
【ニニギノミコト/美しき花の女神と結ばれた天孫】ニニギは父方の祖母はアマテラス、母方の祖神がタカミムスビであり、父神アメノオシホミミと母神ヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれました。ニニギは神勅を受け高天原(天界)から高千穂(地上)へ降り立った神様で、このことを「天孫降臨」といい、現在の高千穂町や高千穂峰など降臨の伝承地が九州にいくつかあります。『日本書紀』において、アマテラスは天皇家の使命であり、日本建国の理念とされる「三大神勅」をニニギに託しています。その中の「宝鏡奉
ご訪問ありがとうございます。さて今回から武烈天皇ですが、まずは「武烈天皇紀」の冒頭、この前飛ばした総評の部分を見ることにしましょう。小泊瀬稚鷦鷯オハツセノワカササギ天皇は、仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘カスガノオオイラツメ皇后という。仁賢天皇7年、立ちて皇太子となる。長じては刑の判断や執行を好み、法令に詳しかった。日が暮れるまで政治を行い、無実を見抜き、訴えは退けるにしても情はおありになった。と、ここまで見るといい人に見えますが、これは「法治主義」です。法がすべてで、儒教のよ
「古事記や日本書紀に出てくる天皇や英雄は、どこまでが神話(架空)で、どこからが歴史(実在)なのか?」そういう二分法のような発想が、間違いのもとです。天照大御神や神武天皇の物語が「神話」なのは言うまでもないですが、じゃあそこに書いてあることは全部が空想、捏造、嘘八百なのか、ていえば、それはまた別の話です。モデルになる生身の誰かがいたかも知れないし、その事績には何がしか実際にあった事柄が反映されているかも知れません。それを全部「ここは歴史ではなく、神話だから」と切り捨てて顧みないのは、物凄く勿
ご訪問ありがとうございます。「雄略天皇紀」に描かれた眉輪王の変です。もう一度読み直しましょう。最初は褒め称えたいつものパターン大泊瀬幼武オオハツセノワカタケ天皇は、雄朝嬬稚子宿禰天皇=允恭天皇の第五子である。天皇は、生まれた時に神光が宮殿に満ち、長じて壮健であることは人に抜きん出ていた。慈しみ深いとか礼儀正しいとは書いてないのに注意(o´艸`o)♪3年8月、穴穗天皇は沐浴をしようと山の宮に行幸され、高楼に登って眺めを楽しみ、酒宴を催すように命じた。しばらくするうちに楽しさも極まって宴
ご訪問ありがとうございます。今回は吉備の話なのですが、吉備というと古代は今の岡山県、広島県東部を中心にした大地域でした。のちに律令制の時代に備前・備中・備後・美作ミマサカと分かれますが、さすがに4分割された地域は東北以外はありません。広いというより強大であったからのようです。古代の吉備地域8月。官者トネリ吉備弓削部虛空キビノユゲベノオオゾラが緊急の用事で家に帰った。吉備下道臣前津屋キビノシモツミチノオミサキツヤ或本に云わく国造吉備臣山キビノオミヤマが、虚空を留めて使用
さらにおかしな点を日本書紀(日本書紀(下)全現代語訳.宇治谷孟.講談社学術文庫,1988)の記述の中から追加で筆者のほうでピックアップしておく。⑧鎌足の身分と出自についてである。鎌足は神祇祭祀を家職とする中臣氏の出身とされているが、臣下でしかも無官位の身分の者が、企てを成し遂げえる盟主を求めるにあたり、王族に次々に接触し直接面談などできるであろうか。王族の軽皇子の宮に参上し、鎌足は軽皇子と対等の口を聞いている。軽皇子は鎌足を懇切丁重にもてなしているが、無官の臣下に対して王族が接待など
【ウカノミタマ/多くの稲荷神社で信仰される豊穣神】ウカノミタマは全国約三万社を数える稲荷神社の御祭神で「稲荷神」「お稲荷さん」と呼ばれ広く親しまれています。『日本書紀』ではイザナギとイザナミが大八島をつくった後、飢えを感じてウカノミタマを生んだとあり、食物との関係が強く示されています。『古事記』ではスサノオとカムオオイチヒメとの間に生まれた神様で、兄にオオトシ(大年神)がいますが、実際にどういった神様なのか詳しいことは記述されていません。名前にある【ウカ】は穀物、食べ物を表す