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「天武天皇は男女交易(人身売買・子弟売買・百姓子女・妻子の売買)を一度も許可しなかった」という主張は、一次史料である『日本書紀』により明確に否定されます。主張の核心である「一度も」(一切・絶対に許可しなかった)は、史料的事実と矛盾します。最重要レベル(一次史料そのもので直接的反証・核心記述)『日本書紀』巻第二十九天武天皇紀下天武天皇13年(西暦684年)春正月丙寅条原文(抜粋):「比年不登、百姓困窮、或売子弟、或自鬻、或質妻子。乃下詔曰『比年不登、百姓困窮、或売子弟、或自鬻、或質妻子
【カムナオビ/禊で誕生した罪禍事を祓い清める神】始めて夫婦の契りを交わしたイザナギとイザナミでしたが、イザナミが火の神ヒノカグツチを産んだ際に大やけどを負い死んでしまいます。妻を忘れられないイザナギは、死者の世界である黄泉の国に取り戻しに行きますが、思い実らず失敗してしまいました。この時にイザナギが黄泉国の穢れを洗い流す禊(みそぎ)をすると、黄泉の国で受けた穢れが剥がれ落ち、穢れからも沢山の神々が生まれました。この禊でヤソマガツヒ(八十禍津日神)、オオマガツヒ(大禍津日神)の
考察壬申の乱(672年)が「男系と女系の争い」であった、という解釈は、古代の皇位継承における「母方の血筋(女系)」の影響を重視する歴史的視点から見るとあり得る話とも言えると思います❗️具体的には、天智天皇の息子の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子(後の天武天皇)の争いの事を壬申の乱と言うものですが、彼らの後ろ盾となった母親の身分や支持勢力に大きな違いがあったことは見逃すわけには行きませんよね❓️●壬申の乱の構図(男系VS女系・豪族の支持あり)の大海人皇子(天武天皇)は、男系の正
。.ꕤ🍀…………………………………………………..🍀ꕤ.。🍀🌈本日の一転語🌈🍀。.ꕤ🍀…………………………………………………..🍀ꕤ.。今回ご紹介するのは、【神話解説】日本で一番偉い神様に迫る動画です。動画解説は、高等宗教研究機関であるHSUの人間幸福学部黒川ディーンです。こちらの動画で以下の事を学べます。🍀古事記・日本書紀の原書「ホツマツタヱ」とは🍀日本で一番偉い神様とは🍀なぜホツマツタヱが原書と言えるのか🍀日本神道最大の歴史ミステリーとは!
「人間観」テーマ、青人草の恩頼(あおひとぐさのみたまのふゆ)4回目それでも、人間は神に誕生を祝福され、幸せな生活を恵まれた存在であると言う論拠は『日本書紀』に穀物神である保食神(うけもちのかみ)が六穀などを与え、医薬祖神の大己貴(おおなむち)・少彦名(すくなひこな)の神は療病の方(みち)などを定められている。生は辛苦を伴うが、本質的には神々の恩頼によって保護され、祝福されている。人間の責任人間理解に関して重大な問題の一つに「罪」があるが、これも神道では本性
人間に生まれてきて初めて、古事記と日本書紀という記紀に触れてみた。とはいっても、そこに書かれいることは、ほぼほぼダークサイドヒーロー物語なので自分なりの直感で感じてみた。人間の根源って、ドラコニアンなのかい!ってかんじ。何か、悍ましいというか、高次元といえども繰り広げられていることって3次元より低くないか。そもそも、ダークサイドの為に作られた地球なのか?と思ってしまうほど、何をしとるんだ!と叱責したくなる。そもそも宇宙って大丈夫かと心配になった。やっぱり今でも宇宙戦争って繰
「人生」2月よさらば(872)★哲学する!デリダ(現代哲学最強の真理批判者)アルジェリアジャック・デリダ(1930~2004)はアルジェリア出身のフランスの哲学者であり、ポスト構造主義と呼ばれる現代哲学の旗出である。デリダの哲学とは何かと言えば、要するに、西洋批判と真理批判であると言っていいだろう。彼は、西洋文明を音声中心主義であるとして批判した。この音声中心主義とは、簡単に言えば、「話し手を大事にする文化」のことと思えば良い。そもそも会話は「話し手」と「聞き手」の二人がいて初めて成立
<無料フリースクール雑学講座-736>【ものの始まり-1】1.メガネ:イタリア発祥説、中国発祥説など・13世紀末にはイタリアのベネチアで作られていた初めは凸レンズの老眼用だけだったが、16世紀には近視用が作成された・日本では室町時代12代将軍・足利義晴が所持したのが最古・サングラスは1929年にアメリカで製作・コンタクトレンズは1930年代イギリスが初め2.雨具:日本書紀・神代巻にスサノオノミコトが笠蓑を使用したことが記されている・万葉集でも「王の御笠」が詠まれている・
天武天皇に関連する「凶作」(飢饉・不作)と「男女交易」(人身売買・子弟売買・百姓の子女売買許可)についての記述は、現存する一次史料および学術的検証可能な範囲で、『日本書紀』巻第二十九天武天皇紀下の天武天皇13年(西暦684年)春正月丙寅条が唯一の直接的・核心的記述です。他の年次(例:天武5年676年)では人身売買の申請を却下した記録があり、許可したのはこの684年条のみです。『日本書紀』以外の正史(『続日本紀』など)や出土文書・金石文に同内容の独立記述は存在せず、周辺の凶作記録(尾張・美濃など
昨日登った可也山途中に可也神社があります日本の初代天皇である神武天皇を祀った神社ですこれを読むと神武天皇が日向の国から東征に向かう際に国見をするためにこの山頂に立ち寄られたという事ですようするに、九州南部から奈良盆地へ向かったという話です日向では統治が不便な事から奈良を目指したそうでも、神武天皇はあくまで神話の中の人物実在する最初の天皇は第10代の崇神天皇その神話って古事記とか日本書紀の事それを書いた人が、書いた人の頭の中の空想を書いたって事なのかな🤔という事は、神武天皇
【神武天皇/九州生まれの九州男児である初代天皇】神武天皇(じんむてんのう)は本名をカムヤマトイワレヒコノミコトといい、日本を建国した初代天皇として知られています。『古事記』によると神武天皇は、九州日向(宮崎県)でウガヤフキアエズノミコトと海の女神タマヨリヒメとの間に産まれた末っ子(四男)で幼名ワカミケヌと呼ばれ、幼いころから明達で若干15歳で皇太子となり、その後、阿多小橋君の妹アヒラツヒメと結婚しました。天孫ニニギが高千穂に降臨し永い時を経ていましたが、未だ日本全体を平定できていな
七夕つながりで大阪府交野市からの連続投稿です市町村の名前由来名前の由来に興味をもち調べてみると小郡市福岡県小郡市日本書紀に登場する筑紫小郡からお忘れの方に日本書紀とは天皇の命によって編さんされた歴史書で720年に完成したもの日本書最古の歴史書七夕の里、小郡市内を流れる宝満川を挟んで七夕神社と牽牛社が配される地理的な位相からも小郡が七夕と深い関係を持っていることがわかります七夕神社とは七夕神社は通称でほんとうの名前は媛社(ひめこそ)神社祭神は織女
あれ?結局、「建国記念日」はこの国造りスタート宣言の日ではなく、天皇即位の日にしたんだ。こっちの方が建国記念日ぽくないか?(前回ここまで)そう思って調べたところ、この件に関する情報はいくつもあった。私なりにまとめてみます。まず、法律によると「建国記念の日は日本が建国された日」ではなかった。(てか、祝日って法律で決まってるんや・・・)建国記念の日とは「建国をしのび、国を愛する心を養う」日だそうです!つまり、別に建国した日じゃなくてよかったのね。そして、そもそも、私は「
神道における人間観のテーマ、青人草の恩頼(あおひとぐさのみたまのふゆ)についての続き。前回は『古事記』で綿津見神三柱を阿曇連などの祖神と述べている点からも、神と人との間に本質的な断絶を見ない。という話でしたが、他にも神と氏族の繋がりを書いた記事が過去にありましたので、ご紹介します。【関連記事】『神別(天孫)の氏族』日本の八百万の神は古代日本の政権・豪族(氏族)とも繋がっているので、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』という平安時代初期に編纂された記録から神別(天孫)の…a
古事記・日本書紀「アハシマとアハズヤアタリア」KarlaBonoff"TheWaterIsWide"withLivingstonTaylor&SeanMcCue【序】前回の記事で、記紀の「ヒルコとアハシマ」のモデルが、聖書の「カインとアベル」である可能性について書きました。この事を念頭に、以下で「アハシマ」について見てみたいと思います。画像と記事は関係ありません【古事記の記述】古事記では次のように記されています。生子水蛭子此子者
神話・伝説の時代を扱っているという点では、日本書紀・古事記は司馬遷の通史「史記」に似ている。春秋時代は「春秋左氏伝」、戦国時代は「戦国策」を主たる資料にしたようであるが、西周以前の時代は様々な資料をかき集めたようである。殷王朝や夏王朝の存在が考古学によって発見されたが、そのストーリーは伝承の世界であり、易姓革命のモデルを採用している。まして「五帝本紀」は伝説の世界である。司馬遷は「三皇本紀」を書かなかったのは史実ではないというのだが、「五帝本紀」は史実だというのであろうか。「古
おはようございます本日みなさまのために現れたひめ神カードは✨⛩️11.くくりひめ💖本音のひめ神さまです✨📕古事記に出てこないで、日本書紀にでてくるひめ神さま喧嘩したイザナギとイザナミを言葉をかけて仲直りさせたひめ神さまです。男女をくくる、仲良くさせるひめ神さまとして人気のあるひめ神さまです。何を語ったか記述されていませんので謎の女神とも呼ばれています。🌈✨本日のひめ神カードメッセージ✨⛩️自分の本音を見てみましょう。(何を大事にしているか)⛩️嘘偽りない言葉
だから、『地獄の沙汰も金次第』は、⭕️生きてた時の行いに繋がり真面目にコツコツと働いて、そして、分相応な暮らしをしてたら、普通に暮らして行けるけど贅沢な暮らしをしてた場合や、分布相応な生活を続けたら後からが本当に、本人たち自身に跳ね返るので、早い話、🟨貴女から嫌われた人達は、ぶっちゃけ助からない。だから今回は、ソレを目の当たりにした。だから【戦い方🪖】が強い。そして【寛大】だったから、皆んなは普通ならば怒る。…と言われたが、、、🟪あの人達3人の話を、最後
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『第八章神術研修の本意神術である鎮魂法、帰神術を修めるのは、奇蹟や不思議な術を体得することを志とす可きでなく、その本旨は神典と国史とを根拠として、専らその法則に随って研修し、神霊の儼存の事実を確認して、その尊厳を体得し、幽冥界の幽遠微妙である事情を知得し、惟神(かんながら)の大道を了解する事に有るのである。故に本田翁は“道之大原(解説一四二頁)”に「霊学は心を浄むるを本
【鳥飼八幡宮(とりかいはちまんぐう)】(福岡市中央区)福岡市中央区に鎮座する鳥飼八幡宮。創建は今から1700年ほど前とされ、神功皇后(じんぐうこうごう)とゆかりの深いお宮です。仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が遠征中に突如崩御された後、后である神功皇后は朝鮮半島に出兵した三韓征伐(さんかいせいばつ)を行い、瞬く間に朝鮮半島を平定し終えると、姪浜(福岡市西区)に帰国上陸し、その後、鳥飼村平山という場所に辿り着きます。その時に鳥飼村の人々は皇后と皇軍をもてなしたので、この鳥飼村での凱旋の
今回はこういうお題でいきますが、あくまでもこれは自分の独自研究であり、必ずしも正しいことではないかもしれないことをお断りしておきます。しかし、こう考えれば『日本書紀』の記述が面白いほど整合的に読みとけるのです。まず、大前提として、自分は卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命と考えています。そして次の男王が崇神天皇。そして台与が豊鍬入姫あるいは倭姫、おそらく豊鍬入姫でしょう。では、なぜ『日本書紀』はそのことをはっきりと書かなかったのでしょうか?これはおそらく、『三国志』魏志倭人伝に・卑弥
生は辛苦を伴うが本質的には神々の恩頼によって保護され祝福されている『神社のいろは要語集宗教編』より青人草、蒼生(あおひとぐさ)『古事記』『日本書紀』ともに人間を表す一般名辞のうち発生論的な認識を思わせる用語は青人草、蒼生(あおひとぐさ)である。また『日本書紀』安閑天皇2年条には元元蒼生(おおみたから)と表現され、「延喜式祝詞」大祓詞には天之益人(あまのますひと/あめのますひと)といった表現が用いられていることを考えあわせると、人間は自生のものと考えられていたとも見られ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************筆者の体験では、神感法の際もある段階まで意識はしっかりとしている。勿論自身が就寝中であるという自覚はないが、それでも強烈な神気による霊的な感触はかなりのものだった。最初は佐藤先生の御存命中のこと。夢の中だが、白い玉石の敷き詰められた神前(伊勢神宮の御垣内のような場)で先生の審神者を受けていた。いつものように体を切り口を切ったが、殆ど幽斎の時と同じ感覚だった。(仰向けで寝ていた
古事記や日本書紀に登場する走水神社(横須賀)に行ってきました!古事記(712年)日本書紀(720年)つまり、1300年前の日本の歴史に登場する走水(はしりみず)の神社です日本武尊(倭建命:やまとたけるのみこと)が東夷征討に向かう時、目の前の海を渡ろうとした際に海が荒れて船が沈みそうになった海の神様の怒りを買ってしまったと思った日本武尊の妻である弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は、自ら海に飛び込んで命と引き換えに海を宥(なだ)めた……横須賀を代表する、伝説の地です神社が語る
【シタテルヒメ/出雲の神と宗像の神の御子神】シタテルヒメ(下照比売)は本名をタカヒメ(高比売命)といい、オオクニヌシと宗像三女神のタギリヒメとの間に生まれた娘であり、高天原からやって来たアメノワカヒコの妻として登場し、兄にアヂスキタカヒコネがいるとされています。国譲りの為に高天原から派遣されたアメノワカヒコでしたが、葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるオオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚し、オオクニヌシに従属してしまいました。アメノワカヒコはオオクニヌシに取り入って、あわよくば葦原中
改新政権は朝鮮半島では百済派だった。新羅は唐と同盟した(660)ために、律令国家建設を目指す改新政権は理念的に破綻してしまう。大海人皇子(天武天皇)による壬申の乱(672)は改新政権の矛盾を糺そうとする勢力に支えられて成就された。唐・新羅連合軍との白村江の戦い(667)における軍事的・外交的敗北の責任を痛感したものと考えられている。下掲の左上は加耶地域があった5世紀、右上は三国時代の6世紀前半、左下新羅が統一した6世紀後半、右下は渤海が自立した7世紀。古代最大の戦乱である壬
今回はこういうお題でいきます。けっこう専門的なお話になるかと思います。まずは富雄丸山古墳について。現在、発掘調査が行われていて、古代史ファンには大きな話題になっていますが、その被葬者等について少し私見を述べたいと思います。さて、富雄丸山古墳は、奈良市街地から西方の富雄川右岸に築造された大型円墳であり、墳形は円形で、直径109m、円墳としては全国で最大規模です。墳丘は3段築成。出土した埴輪片などから、築造時期を古墳時代前期後半の4世紀後半頃と推定する研究者が多いようです。一昨年
ご訪問ありがとうございます。任那問題は結局うやむやになっていますが、その後を見ていくことにしましょう。目次粛慎人の出現百済との通交百済の丈六仏膳臣巴提便の虎退治粛慎人の出現越コシの国=北陸地方から連絡があり「佐渡島の北の御名部ミナベの海岸に粛慎人ミシハセノヒトがおり、1艘の船に乗って留まっている。春夏は魚をとって食料にしている。その島(佐渡島)の人は人間ではないと言い、また鬼であるとも言って、敢えてこれ=粛慎人に近づかない。島の東の禹武ウム(新潟県両津市梅津?)という村の人
11藤原宮造営1冬十月戊戌朔。日有蝕之。乙巳。詔曰。凡先皇陵戸者置五戸以上。自餘王等有功者置三戸。若陵戸不足。【冬ふゆ十月かむなつき戊戌つちのえいぬの朔つきたち、日ひ蝕あえる之のこと有あり。乙巳きのとみ詔みことのりして曰のたまわく「凡おほよそ先さきの皇すめらみことの陵戸みさざきのべ者は、五戸いつへ以上よりかみを置おけ。自餘これよりほかの王おほきみ等たちの、功いたはり有ある者ものには三戸みへを置おけ。若もし陵戸みさざきのべ不足たらずは、】〔冬十月一日、日蝕にっしょくがあった。十月八日、詔みこ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『第七章神感法長沢翁門下で傑出した神主は宮城島金作氏である。氏は明治二十七年、御穂神社々務所に於いて翁を審神者として帰神を執行されたことがあった。其の折に御穂神社の御眷属八千彦(やちひこ)命が御懸りあって、日清戦争の状況に就いて予言あられた。その神詰と申すのは、実に微に入り細にわたって正確であったことに並び居る人々を驚嘆させたとの事である。之れは翁にとって帰神予言中の最