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今回はこういうお題でいきます。以前、牛について書いたので、次は馬だろうと思われた方は正解です。ただこれ、「馬オカルト」で検索すると、競馬の話がえんえんと出てくるんですね。中央競馬では、あらかじめ大レースで勝つ馬は決まっていて、そのヒントが、馬名やいろいろなところに隠されているとかなんとか。じつは自分は競馬フアンでして、この話題はかなり詳しいんですが、今回取り上げるのはやめておきたいと思います。さて、牛と同じく日本の古代には馬はいなかったと考えられています。ただし、大陸から伝わっ
生まれも育ちも奈良県で、万葉集が好きなみくるです今回は、日本最古の道の一つ「山の辺の道」の北コースから、特にロマンあふれるスポットをご紹介します。『万葉集』や『日本書紀』にも登場する、歴史と悲恋の物語が息づく場所です悲劇のヒロイン・影姫が駆け抜けた橋今回ご紹介するのは、天理市の石上神宮のすぐ近くにある「布留の高橋(ふるのたかはし)」。古来より、この橋は万葉集に詠まれ、また、恋人の亡骸を探し求めてこの道を走ったという、影姫(かげひめ)の悲しい伝説の舞台となりました。なぜ「高橋」という名
今朝は、朝から冷たい雨、そして風今日は、奈良マラソンが開催される日ですが、ランナーの方々の無事な完走を応援します。昨年、私は、10kmを走りましたが、その時はお天気も良くマラソン日和でしたが、今日は、寒いし、足元は滑るだろうし、怪我無く完走して欲しいですね。東北では地震も継続的に起きていて、眠れぬ夜も続いているようで、雪害も段々と増えてきているそうで、我慢強い東北の方々だからきるぬけるんでしょうね~、お見舞い致します。”謎の古代史”先日、ツーリングで
今日は「大根(ダイコン)」を取り上げます。わが菜園では長さ約5mの畝一畝に大根を蒔いています。9月中旬に筋蒔きし、適宜間引きし最終的に株間約30㎝としています。原産地は地中海あるいは中央アジアといわれていますがはっきりしません。多くの品種があり形状も多様ですが、日本では白い皮の品種が主流です。日本には弥生時代に伝わったとされ、『日本書紀』にも「於朋根(おほね)」と記され、「大根」の字を当てていたものが、いつしか音読みされ「だいこん」と呼ばれるようになったという。一般に食用とさ
【タジマモリ/垂仁天皇に仕え菓祖となった忠臣】タジマモリ(田道間守)は11代垂仁天皇に仕え、登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」(橘とされる)を求めに常世の国に派遣されました。タジマモリは、新羅から渡って来た新羅王子のアメノヒボコ(天日槍)の後裔とされ、三宅連(三宅氏)祖とされています。生まれについて、『日本書紀』垂仁天皇3年条では、アメノヒボコの玄孫で、清彦の子とある一方、『古事記』応神天皇段では、アメノヒボコの玄孫は同じですがタジマヒナラキ(多遅摩比那良岐/但馬日楢
ご訪問ありがとうございます。今回は屯倉ミヤケ設置の記事が続くので、ささっと読んでいただいて大丈夫です。黒字のところだけでも良いかと…で、屯倉?氏姓制度?という疑問には、次回‼️「入門編」で、教科書レベルで解説いたしますd(>∇<;)目次百済の入貢皇后の屯倉妃たちの屯倉大河内直味張と三島県主飯粒春日部の采女武蔵国造の争い屯倉の整備目次を開く百済の入貢5月、百済は下部脩德カホウシュウトク(百済の官位)嫡德孫チャクトクソン・上部都德ジョウホウトトク己州己婁コツコル等を派遣、
オンライン講座をはじめています!!第4回は『天照大神と瀬織津姫』についての解説です。天照大神といえば伊勢内宮のご祭神であり皇室の祖神や国民の総氏神として祀られていますが一般的には女神とされています。ところがホツマツタヱでは天照大神は男神となっております。男神ということは后がおられます。そのかたが大祓詞にも登場する女神瀬織津姫(せおりつひめ)というかたです。男神・天照大神と后・瀬織津姫というはまさにホツマツタヱならではの記述といえます。
6新の詔1二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。「其一曰。罷昔在天皇等所立。子代之民。處々屯倉及別臣連。【〔大化〕二年ふたとせ春はる正月むつき甲子きのえねの朔つきたち。賀正あたらしきとしの礼ゐやを畢をへ、即すなはち新あらたしきに改あらたむる之の詔みことのりを宣のたまひて曰のたまはく「其その一はじめに曰のたまふ。昔むかし在ましましし天皇すめらみこと等たちの立たたしたまへる所ところの子代こしろ之が民たみ、処々ところどころの屯倉みやけ、及および別ことには臣おみ・連むらじ・】〔二年春一月一日
こんにちは!明日香村の続きです。牽牛子塚古墳に来ました。牽牛子塚古墳は、八角形の形をしています。八角墳は現在5基確認されています。八角形の八は天皇を中心に八方あまねく国土を統治するという中国の世界観を現しています。現在確認されている5基の古墳牽牛子塚古墳は、7世紀後半に造られた八角墳です。内部には二上山産の凝灰岩(ぎょうかいがん)の巨石をくり抜いた埋葬施設があり、石英安山岩の切石が取り囲んでいます。墓室は2つあり、七宝飾金具、玉類の副葬品の一部や夾紵棺(きょうちょかん)片、人骨
続きではないです。😆でも、わたしの好きな話をサクッとしますね。😘日本🇯🇵の神話で「天岩戸(あまのいわと)神話」というのがある。😚スサノオさん(須佐之男命)が天の世界である高天原(たかまがはら)であばれたので、姉であるアマテラスさん(天照大神)が怒って洞窟のなかにかくれたという話ですね。☺️太陽☀️の神様であるアマテラスさんが隠れたので、天の世界も地上の世界も真っ暗な闇になった。😅そこでね、神様たちがあつまって、アマテラスさんを洞窟から出てもらうた
【神武天皇/九州で生まれ育ち東征し大和で即位した初代天皇】神武天皇(じんむてんのう)は本名をカムヤマトイワレヒコノミコト(神倭伊波礼毘古命)といい、日本を建国した初代天皇として知られています。『古事記』によると神武天皇は、九州日向(宮崎県)でウガヤフキアエズノミコトと海の女神タマヨリヒメとの間に産まれた末っ子(四男)で幼名ワカミケヌと呼ばれ、幼いころから明達で若干15歳で皇太子となり、その後、阿多小橋君の妹アヒラツヒメと結婚しました。天孫ニニギが高千穂に降臨し永い時を経ていましたが
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************(本田親徳全集「霊学抄」の西原壮聡氏による現代語訳)<帰神>帰神の法を幽斎の法、と言う。[※ここに〝帰神の法〟と書かれているのは、神感法を含んだ内容であるため。自感法と他感法の二つを指す場合が〝帰神術〟。神感法を含めると〝帰神法〟。神感法は、自感法や他感法と異なり、訓練で身につけた能力や技能ではないことから、〝術〟とは言わない。筆者の見解だが。]神界に感合する方法は
今日は私の勤務する事務所から数分のところに位置する、神武天皇ゆかりの橿原神宮に挨拶に出向きました。この橿原神宮の隣には初代神武天皇(傍山東北陵)や第二代綏靖天皇(桃花鳥田丘上陵)があります。橿原神宮では新たな年に向けて11月30日(日)、外拝殿の大絵馬が来年の干支である「午」へと掛け替えられ清祓が執り行われました。高さ4.5m、幅5.4mの大絵馬は、昭和35年(1960年)に今上陛下の御生誕を奉祝して制作されて以来、67回目となります。平成24年(2012年)
2025年11月9日(日)には奈良のお香屋・あーく煌々(きらら)さんが主催するホツマツタヱの勉強会縁結界解(えんゆひかいかい)において男神・天照大神と后・瀬織津姫について解説させていただきました!ありがとうございますホツマツタヱにのこる天照大神の事績からなぜいまこうして伊勢の内宮のご祭神として天照大神が篤く祀られているのかをひも解いてゆきました!↓くわしくはこちらからお願いいたします。あーく煌々の天照大神講座奈良の癒し屋・あ
【紅葉八幡宮(もみじはちまんぐう)】(福岡市早良区)紅葉八幡宮は、文明14年(1482年)、筑前国早良郡橋本村(現西区橋本)に土着した陸奥国(今の宮城県)刈田の住人・柴田繁信(しばたしげのぶ)によって八幡宮が建立されたのが始まりとされています。柴田家の先祖は陸奥国柴田郡の豪族で、一説には越後国(今の新潟県)柴田の人ともいい、故あって一族郎党を引き連れて筑前橋本に流れ着き、郷の八幡宮の分霊をこの地に向かえ社殿を建てたと伝えられています。以来、橋本村一円の鎮守神として尊崇を集め、江戸時
古事記・日本書紀に記される「八尺瓊勾玉」ってなに?正式には「五百津御統之玉(いほつのみすまるのたま)」と呼ばれ、#三種の神器のひとつです。これは単なる宝物ではありません。#イザナギが、娘・#天照大神へ託した「この世界をやさしく治めるための力」そのものです。「やさかのまがたま」という長い名には、日本人が大切にしてきたいのちの世界観がぎゅっと詰まっています。🌸八尺(やさか)大きさではなく、「弥栄(いやさか)」命が重なり、広がり、続いていくこと。🌸瓊(に)霊性を宿した美しい玉。
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************(本田親徳全集「霊学抄」の西原壮聡氏による現代語訳)この鎮魂の法は、天授の神法[=天から授かった神の法]であり、現世、神界[の双方に通じた]学則なので、上は天皇の治国平天下の御事[=国政の重大事]から、下は国民が修身斎家[=自分の行いを正しくし、家庭を整えること※『礼記・大学』に「修身斉家治国平天下」と記されている]の基本[であり]、さらに、無形である神界を探知する[ため
天智天皇山科陵(御廟野古墳)9(京都市右京区)24年7月三条通の喧騒から離れ、天皇陵の中に歩を進めると、静まり返っていてまるで別世界です。天智天皇は、主に飛鳥・難波・大津で活躍しており、山科とは縁もゆかりもないように見えます。一見すると近江宮から近いように感じられますが、山で隔てられています。記録に現れていないだけで何らかの関わりがあったのかもしれませんが、山科は、今でこそ京に近い場所であるものの、まだ平安京も存在しない当時は何もない農村であり、ここに天智天皇の縁があったとは
【クマノクスビ/アマテラスの勾玉から生まれた神】クマノクスビ(熊野久須毘神)は『古事記』や『日本書紀』にある「誓約(うけい)の段」において、アマテラスの右手の勾玉を受け取ったスサノオが化生させた五柱(『日本書紀』第三の一書では六柱)の神の一柱で、アマテラスの物実(勾玉)から生まれたアマテラスの御子神であると記されています。アマテラスとスサノオの誓約によって生まれた神々は以下の三女神と五柱の男神です。スサノオの剣からアマテラスが生んだ女神▼・タキリヒメ(オキツシマヒメ)・イチキシマヒ
『司馬遼太郎・講演集-3』-司馬遼太郎●秦氏の建築技術-⑤✪秦河勝は秦氏のリーダーだった。そして聖徳太子のパトロンの一人だった。いつの時代にも政治家はお金がいるようですね。秦氏は京都を開き、そして播州も開いています。播州平野が古くから開かれていたのは、秦氏のおかげでした。秦氏は水田を教えました。養蚕や機織りを教え、あまり政治的なことはしませんでした。わずかに平安時代、桓武天皇のとき、平安京をつくるために土地を提供しています。いまの不動産屋のようなことをしたわけではありません。本当
RK氏の記紀はフェイク‼️2025/12/10高校生のブログこれは田中英道氏も言ってます(YouTube)フェイクといってもすべてが嘘ではありませんネットで9割真実1割嘘と言うアレですそれから言っとくけんど日本人は太陽信仰だかんね無信仰じゃない人間は1日として信仰無しには生きられない(田中英道)彼らは宗教というへんてこりんな訳語にした(明治に福沢諭吉がだよ)が宗教はレリジョンreligion。つまり縛る意味や。田中英道氏はつながりと言ってるとにか
ホツマツタヱは近世の創作でいわゆる「偽書」です。書かれているヲシテ文字も近世の創作で縄文時代から続く「神代文字」ではありません。それははっきりしていることなのだけど、信じてしまっている人は意外と多くホツマツタヱの本が売れたり参政党が利用したり結構シャレになっていない。—縄文ZINE(@jomonzine)December7,2025縄文ZINE(@jomonzine)さんのポスト。ホツマツタヱを自治体の町おこしにという活動が炎上していた件。「日本人の道徳にホツマ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************(本田親徳全集「霊学抄」の西原壮聡氏による現代語訳)こ[の記載]は、その[=伊邪那岐命の]霊魂を附着させ[た玉によって、天照大御神を]現天[=顕天=顕の高天原⇔幽天=天御中主神が主宰するのが幽の高天原]の主宰たらしめようと、[伊邪那岐命が]御定めになった[ことに関する]ものである。そして、[時代が下り、天孫降臨の条において、]この玉は天照大御神から皇孫二二岐命[=邇邇芸
【ヤガミヒメ/白兎の予言のとおりオオクニヌシと結婚した女神】稲羽(因幡)の白兎伝承で有名なヤガミヒメはオオクニヌシの最初の妻となった美しい女神です。オオクニヌシの兄である八十神(やそがみ)たちが、巷で美しいと評判の稲羽のヤガミヒメに求婚しようと、自分たちの荷物を末弟オオクニヌシに背負わせて稲羽の国に出立します。その道中で一行は皮を剥がれ痛みに苦しむ白兎に出くわし、八十神は兎に「痛んだ体を治したければ、海水を浴び、風の強く当たる高い山に行き伏せておけ」と言いまが、兎がその通りにすると
構成:筑前由紀イラスト:YUTARO【解説】漫画は『日本書紀』を元に描いています。【日本書紀の記述現代語訳】秋7月5日。皇后は豊浦津に泊まりました。この日に皇后は如意玉を海中から得ました。『日本書紀』での記述はたったこれだけです。けれど、この、神功皇后が手に入れた、すごい力を持った珠の話はいろいろな場所でいろいろな名前で伝わっているのです!!九州・山口では、圧倒的に満珠・干珠です。『歴代の長府藩主を祀る豊功神社より
伊射波神社伊射波神社加布良古崎(かぶらこざき)にあるため、地元では”かぶらこさん”とも言う。海に向かって鳥居が建っており、昭和初期までは海岸まで船で来て参拝したという。縁結びの御神威でも知られており、また一の宮巡拝で訪れる人も多い。www.iseshima-kanko.jpこちらの御祭神は稚日女命(かわひるめのみこと)稚日女命日本書紀では高天原の斎服殿で神衣を織っていた時にスサノオが馬の皮を剥いでそれを部屋に投げ入れた。それに驚いた稚日女は機織り機から落ちて持っていた梭
ご訪問ありがとうございます。ひさしぶりに「日本書紀」本文に戻ってまいりましたが、この頃から記事量も内容もしっかりしてきます。「内乱」説のせいで、事績としてはあまり注目されませんが、次の飛鳥時代にはちゃんと国家になっていますから、この間に着々といろんな組織とか経済基盤ができていることになります。そうでないと飛鳥寺やら法隆寺のような国家事業はできませんもんね❗それでは、「安閑天皇紀」❗まいりましょう❗(*´・∀・)つ目次安閑天皇の即位安閑天皇の后妃伊甚屯倉安閑天皇の即位ここでもう
2025.08.252025.09.03植栽の手入れで伐採直前に、救済を申し出て助かったガガイモさん無事に種が弾けました2025.12.09ガガイモの実のサヤは・・・日本書紀や古事記に出てくる「一寸法師」が乗っていた船(お椀の船)と言われています。種に直接付いている綿毛を、「種髪(しゅはつ)」と言います。絹糸のような繊細な綿毛が、陽射しを浴びてキラキラと輝いていました実の中にば、びっしりと折りたたんだように種が入っています。綿毛は空
津軽大北斗七星・礼番三青森県平川市「猿賀神社」さんです。大変立派な”第一鳥居”です。嘗ては、猿賀神社の境内には”猿賀十二坊”という、天台宗の12のお寺が立っていました。上がらせて頂きます。足を進めますと、”第二鳥居”が。参道を更に進むと、左右に寺院が。神仏習合の名残りです。奥州津軽の霊地として、津軽藩の祈願所であった”猿賀山長命院”は広大な寺域を持っていました。「猿賀山蓮乗院」(天台宗)”猿賀深砂大権現宮”の別当
奈良まほろば検定(*^_^*)第185回(*^_^*)新しいシリーズ①の答え:ウの藤原京藤原京(ふじわらきょう)は、約1300年前(694年~710年)に持統天皇が造営し、文武・元明天皇の時代まで続いた日本初の本格的な唐風都城で、奈良県橿原市・明日香村一帯に位置し、大和三山に囲まれた広大な敷地に、中央の藤原宮を核として、碁盤の目状の条坊制(じょうぼうせい)が敷かれ、律令国家形成の舞台となりました。『日本書紀』では「新益京(あらましのみやこ)」とも呼ばれ、大宝律令の制定や和同開珎の発行、