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本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『瞑想ばかりする人が多くなれば一家も国家も亡ぶことになろう。要は霊・体共に磨き、調和(バランス)を保つことこそが大切なのである。常々鍛えた鎮魂力はいつもは蓄えておき、そして何か事ある時にはサッと直霊が四魂を統御して「神性を発揮」するものである。魂の活きは心の活きとなって現れるが、それには魄(人間心)が加わっている。従って魄の活きを浄め祓って清純な直霊の働きそのものとなれば
第2章古事記・日本書紀に見る馬の神話日本最古の歴史書である『古事記』と『日本書紀』には、数々の神話が収められています。その中で、馬は神の使いとして、また時に災厄を招く存在として登場し、人々の信仰や畏れを映し出しています。ここでは、特に代表的なエピソードを取り上げながら、馬がどのように神々の物語に関わってきたのかをたどってみます。スサノオと「逆剥ぎの馬」最も有名なのは「天の岩戸隠れ」にまつわるエピソードです。荒ぶる神スサノオは、姉である天照大神に対して度重なる乱暴を働きました。その
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************鎮魂法では、自らの一霊四魂を「分魂」し鎮魂石に鎮めるわけだが、その際にいくつかの段階を踏むと鎮魂法がやり易くなる。何年経ってもいい感触が得られない場合は、集中を意識しすぎるからかもしれない。先生が書かれているように『前述の如く手を組み神気(精神)を鎮め、石に向って「吾が霊魂が鎮魂石に鎮まる」と云う、強い思念を四、五回送る』わけだが、それには幾つか心掛けた方がいいことがある
ご訪問ありがとうございます。さて今回から武烈天皇ですが、まずは「武烈天皇紀」の冒頭、この前飛ばした総評の部分を見ることにしましょう。小泊瀬稚鷦鷯オハツセノワカササギ天皇は、仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘カスガノオオイラツメ皇后という。仁賢天皇7年、立ちて皇太子となる。長じては刑の判断や執行を好み、法令に詳しかった。日が暮れるまで政治を行い、無実を見抜き、訴えは退けるにしても情はおありになった。と、ここまで見るといい人に見えますが、これは「法治主義」です。法がすべてで、儒教のよ
武内宿禰に刺客を放った応神天皇武内宿禰に反乱容疑壱岐神社(西区)に祀られた壱岐真根子武内宿禰と中臣烏賊津は義兄弟か?武内宿禰と容姿が似ていた壱岐真根子の謎中臣烏賊津(雷大臣)の二人の息子とその末裔香椎宮の神木「綾杉」の右奥に、第14代仲哀天皇と神功皇后に仕えた重臣「武内宿禰」の像がある。↑腕に抱っこしているのは、神功皇后の子・後の応神天皇である。武内宿禰は仲哀天皇の急死の後、お腹に子を身ごもった神功皇后を助け、朝鮮半島出征を成功させる。帰国後、皇后は宇美八幡宮で皇子を出産
神功皇后は、日本の天皇家と、朝鮮半島の新羅国の王族の血を引く女性です。父親が、9代開化天皇の子孫。母親が、新羅から来たアメノヒボコの子孫です。神功皇后は、神を降ろして神託を受けることが出来る女性でした。第14代仲哀天皇が即位した翌年、仲哀天皇と結婚しました。近畿にいましたが、九州の熊襲という豪族が反抗的だと聞いて、九州へ向かいます。しかし、福岡県の香椎宮で神降ろしをすると、「熊襲を打つより朝鮮半島へ行くべし」という神託を受けます。仲哀天皇はそれを疑い
武内宿禰(たけうちのすくね)は、古代日本の伝説的な人物であり、日本書紀や古事記などに登場する非常に重要な政治家・忠臣です。彼は神功皇后や応神天皇をはじめ、複数の天皇に仕えた長寿の臣下として知られています。構成:筑前由紀イラスト:YUTARO目次基本情報特徴と伝説実在性子供と子孫LINEスタンプ目次を開く基本情報・時代:古墳時代(3世紀末〜5世紀頃とされる)・仕えた天皇:景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后(摂政)、応神天皇、仁徳天皇・出身氏族:蘇
ホツマツタヱは近世の創作でいわゆる「偽書」です。書かれているヲシテ文字も近世の創作で縄文時代から続く「神代文字」ではありません。それははっきりしていることなのだけど、信じてしまっている人は意外と多くホツマツタヱの本が売れたり参政党が利用したり結構シャレになっていない。—縄文ZINE(@jomonzine)December7,2025縄文ZINE(@jomonzine)さんのポスト。ホツマツタヱを自治体の町おこしにという活動が炎上していた件。「日本人の道徳にホツマ
おもしろい本を読みました朝鮮半島の記録や日本書紀には伽耶国あたりに任那(みまな)があったと記されていますそれはヤマト王権の出先機関なのでしょうかそして大和朝廷に服属する人が造る前方後円墳が旧馬韓の地にあるのはなぜなのでしょうか伽耶は統一国家となる前に滅びたためまとまった史書がなく日本書紀や百済三書の史料的価値の評価し百済からみた伽耶の歴史を加味しながら2024年に書かれた工藤敦史さんの新書です◯任那はヤマト王権とは独立した存在で伽耶に土着した人々雄略
「日本書紀」の疑義を衝いた『「日本書紀」隠し事』これは「藤原一族」の懺悔録である『「日本書紀」隠し事』(著・鈴木啓介)「歴史は勝者によって書かれる」――そう聞いたことはありませんか?私たちが学校で学んだ日本の古代史、その中心にあるのが『古事記』や『日本書紀』です。なかでも『日本書紀』は、日本という国がどう始まり、どのように皇室が続いてきたのかを語る、いわば“国の正史”とされています。けれども、その歴史のなかに、「本当にそうだったの?」と疑いたくなるような、い
能褒野神社から次の目的地へ向かう為、歩いて駅へ。井田川駅(三重県亀山市井田川町364)に到着。妙に主張する「大和タチバナ記念植樹」。手前には、ヤマトタケルが詠んだ(『日本書紀』では景行天皇が詠んだ)とされる国偲歌。ヤマトタケルの像あり。能褒野に近い駅だから、そりゃあヤマトタケル像くらいあるよね!と思いながら見る。ヤマトタケルの妻として、最も有名であろう弟橘媛。彼女は海を鎮める為、関東で身投げした。有名な女性だから、無関係ながらもヤマトタケル繋がりで紹介しているのだろうかと思いなが
知り合いの獣医さんが、幸せを呼ぶ「白いスズメ」のプリント写真(ご自身が撮影)をプレゼントしてくださいました♪嬉しい!ありがとうございます❣️パネルか額装して大切に飾ります💕🕊️白いスズメは、古くから縁起の良い鳥として知られていて、日本書紀にも瑞鳥(吉兆とされる鳥)として記載されているのだそう。つい最近も同じところで見かけたそうです。^^いつか私も出会いたいです。#白いスズメ#white#sparrow#幸運#鎌倉
【イブキドヌシ/大祓祝詞に記載される祓戸四柱の神】イブキドヌシ(気吹戸主神)は『古事記』や『日本書紀』には記載の無い神名ですが、神道の根源的な思想である「祓い」を象徴する祓戸四柱(はらえどのよんはしら)のうちの1柱で、多くの神社で奏上される大祓祝詞(おおはらえののりと)に登場します。・「セオリツヒメ(瀬織津比売)」は諸々の禍事・罪・穢れを川から海へ流す。・「ハヤアキツヒメ(速開都比売)」は海の底で待ち構えていて諸々の禍事・罪・穢れを飲み込む。(古事記に神名が記載)・「イブキドヌシ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************(本田親徳全集「霊学抄」の西原壮聡氏による現代語訳)この鎮魂の法は、天授の神法[=天から授かった神の法]であり、現世、神界[の双方に通じた]学則なので、上は天皇の治国平天下の御事[=国政の重大事]から、下は国民が修身斎家[=自分の行いを正しくし、家庭を整えること※『礼記・大学』に「修身斉家治国平天下」と記されている]の基本[であり]、さらに、無形である神界を探知する[ため
ご訪問ありがとうございます。ひさしぶりに「日本書紀」本文に戻ってまいりましたが、この頃から記事量も内容もしっかりしてきます。「内乱」説のせいで、事績としてはあまり注目されませんが、次の飛鳥時代にはちゃんと国家になっていますから、この間に着々といろんな組織とか経済基盤ができていることになります。そうでないと飛鳥寺やら法隆寺のような国家事業はできませんもんね❗それでは、「安閑天皇紀」❗まいりましょう❗(*´・∀・)つ目次安閑天皇の即位安閑天皇の后妃伊甚屯倉安閑天皇の即位ここでもう
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、日本の第14代天皇とされる人物です。『日本書紀』や『古事記』などに登場します。↑作:弟【基本情報】・名前足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)-『日本書紀』、和風諡号足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)-『日本書紀』帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)-『古事記』・在位:記紀によれば西暦192年頃~200年。(※年代には諸説あり)・父日本武尊(やまとたけるのみこと)-『日本書紀』倭建命(やまとたけ
M77.書評中公新書『加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか』:仁藤敦史2024年10月に発売され話題になった書籍を今回、ジックリ読みました。以前、出版された直後パラパラと読み、最後の結論だけチェックして読んだつもりにしておりましたが、読みたさで後ろ髪を引かれ仕方ありませんでした。当然ですが、著者の意図を全部吸収するにはパラパラ読みでは流石(さすが)の私でもムリです(笑)。パラパラ読みした限りでは進歩的な主張で読むに値する書籍だと直感したので、機会を
ご訪問ありがとうございます。「雄略天皇紀」に描かれた眉輪王の変です。もう一度読み直しましょう。最初は褒め称えたいつものパターン大泊瀬幼武オオハツセノワカタケ天皇は、雄朝嬬稚子宿禰天皇=允恭天皇の第五子である。天皇は、生まれた時に神光が宮殿に満ち、長じて壮健であることは人に抜きん出ていた。慈しみ深いとか礼儀正しいとは書いてないのに注意(o´艸`o)♪3年8月、穴穗天皇は沐浴をしようと山の宮に行幸され、高楼に登って眺めを楽しみ、酒宴を催すように命じた。しばらくするうちに楽しさも極まって宴
ご訪問ありがとうございます。前回まで「日本書紀」の雄略天皇のところを読んでいましたが、外交関係の記事ではおよそ20年のズレがあり、允恭天皇の頃の出来事が「雄略天皇紀」に入っているということがわかりました。つまり「日本書紀」の編者たちは、外交についての史料、ほぼ「応神天皇紀」と「雄略天皇紀」に集約して、あまり綿密な考証は行わなかったと言うことが言えます。そういうことですから、「神功皇后紀」~「雄略天皇紀」について、倭の五王を大和王権の人物とすることは妥当とする一方で、「日本書紀」に基づ
【キンシ/神武東征の際に活躍した金色の鵄】金鵄(きんし)は、『日本書紀』にのみ登場する金色に輝く鵄(とび)です。神武天皇による神武東征に尽力したと『日本書紀』に記されています。九州を出発して東征を進める神武天皇が、大和地方の豪族ナガスネヒコ(長髄彦)と激闘を繰り広げていました。そこに金鵄がどこからともなく飛来し神武天皇の弓に止まると、その体から発する強烈な光でナガスネヒコの兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされます。これにより日本の建国が成立し、2月11
地図を見ても、なかなかたどり着けない場所がある。琴弾原白鳥陵(日本武尊陵)奈良県御所市冨田玉手駅から約25分の距離を歩いて行った。途中、案内板あったのだけれども、描かれている矢印と道の形が全然違っていて困惑しかなかったGoogleマップを見ても、最後まで道が続いていない。こういうこと、ままある。目的地へ繋がる本当の入り口は、全く別の場所であることも少なくない。分からないので、遭遇した地元住民に聞いた。今回の場合はGoogleマップの青い丸の場所ま
ご訪問ありがとうございます。今回から「倭の五王」について考えていこうということですが、これまでみてきた通り、「日本書紀」の紀年はズレまくっていて、「神功皇后紀」の120年のをどう回収するかなどは、どなたも考えられたこともなく、また応神・仁徳同一人物説に立つと、天皇の数があまりにも少ない、ということになり、今まで言われているほど天皇の系譜が信用できるのか、甚だ心もとなくなってきます。ですから今回は「倭の五王」を中国や朝鮮半島の国々の史料から考えて、安易な比定をせずに話を進めたいと思いま
【御嵜神社(みさきじんじゃ)】(福岡県北九州市若松区)北九州市若松区の北海岸にある「遠見ケ鼻」は、日本一美しい夕日が見えると名高い景勝地。岬の先端に聳える妙見崎灯台の近くには、夫婦円満の神さまとして知られるイザナギノミコトとイザナミノミコトの夫婦神が祀られる御嵜神社が鎮座しています。もとは海上安全と豊漁祈願の神様として、海を見渡す妙見崎灯台の場所に鎮座していたそうですが、御嵜神社の神様夫婦のうち男神が遠見ヶ鼻の夕日に心を奪われてしまい、それに嫉妬した女神の八つ当たりで沖で遭難事故が
生まれも育ちも奈良県で、神社やお寺が好きなみくるです。先日、奈良市にあるとっても素敵な古社「登彌神社(とみじんじゃ)」に行ってきました。地元では「木嶋明神(このしまみょうじん)」って呼ばれて親しまれているのですが、これがまた静かで雰囲気のある神社歴史好きにはたまらない場所でした。ここがすごい!登彌神社の魅力3選✨日本書紀にも登場する超〜古社!そして「富雄」のルーツ!?登彌神社(とみじんじゃ)は、奈良県奈良市石木町に鎮座する式内社なのですが、『日本書紀』にもそのルーツが示唆されて
【アメノタヂカラオ/天岩戸をこじ開けた怪力の神】アマテラスが天岩戸に引き籠って天地が闇に閉ざされた後、天の安河原での会議に参加した重鎮の一人で、高天原きっての怪力の持ち主がアメノタヂカラオ。『古事記』で有名なのは「天岩戸」で岩戸をこじ開けた活躍です。天岩戸に引き籠っているアマテラスを外にどうやって出そうかと、知恵の神オモイカネを中心に会議で話し合い次のような作戦を決行します。神々が岩戸の前で大きな鏡を持ち、舞の女神アメノウズメが大声で歌い踊り出します。「アマテラスによく似た神
【須賀神社(すがじんじゃ)】(福岡県北九州市)この須賀神社は北九州市小倉北区に鎮座し、通称「若一王子(にゃっこうじ)さん」とも呼ばれ親しまれています。社伝によると平安時代初期の元慶元年の創建と伝わり、およそ1200年ほどの歴史を有する神社です。元慶元年のある時、三鏡山(小文字山)に怪しい光が現れると、地域に疫病が蔓延し多くの命が犠牲となりました。そんな時、村人が不思議な童と出会い「我はスサノオノミコトの化身なり。我が御魂を祀る宮を造れば悪疫は退散するであろう」とお告げをもらい、急
【綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう)】(福岡県築上町)平安時代、右大臣まで上り詰めた菅原道真公が政敵であった藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷され、昌泰4年(901年)、京都から大宰府に配流の折に船が難破し、ここ高塚の浜に漂着したと伝わります。この時地元の漁師たちが船の綱を円座に敷いて迎えたという故事により、天暦9年(955年)、国府の命によって社殿が造営され亡くなった道真公を天神として祀り綱敷天満宮といわれるようになりました。江戸時代には小倉藩主小笠原氏の保護を受け、宝剣、太刀や
【山幸彦(ホオリノミコト)/海神の宝玉で兄をこらしめた神】山幸彦(ホオリノミコト)は、その名前のとおり山の幸を獲る狩りを生業とし、天孫降臨したニニギとコノハナサクヤヒメとの間に生まれ、海の漁業が得意な海幸彦(兄・ホデリノミコト)と兄弟でした。『古事記』によると山幸彦はある日、海幸彦にお互いの猟具(弓矢と釣り竿)をそれぞれ交換してみることを提案し、兄の海幸彦はしぶしぶその申し出を受けます。そうして海幸彦は山に狩りに行き、山幸彦は意気揚々と釣りに出掛けましたが、お互い上手く獲物が獲れま
【熊本県菊池市(きくちじんじゃ)】(熊本県菊池市)熊本県菊池市に鎮座する菊池神社は、明治3年(1870年)に創建されました。南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏第十二代菊池武時(きくちたけとき)公、第十三代武重(たけしげ)公、第十五代武光(たけみつ)公がご祭神として祀られている神社で、他にも菊池氏一族26柱を配祀しています。境内にある歴史館には、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の古文書・家憲・能衣装・能面などの文化財が展示されています。菊池武時公をはじめ菊池氏は、96代後醍醐天
ご訪問ありがとうございます。仁賢天皇が終われば、岩波古典文学体系本の上巻が終わります。あとちょっと頑張ろう(^ω^)5年春2月5日、全国の国・郡コオリに散って逃げた佐伯部サエキベを探し求めました。佐伯部仲子=売輪ウルワの後裔を佐伯造サエキノミヤツコとしました。佐伯部仲子は顕宗天皇紀に見えます。(市辺押羽皇子と一緒に殺され、埋められた人)佐伯部は塞サえき部だと言われてまして、国境等の警備をする部民で、多くは大和王権に恭順した蝦夷を蝦夷の国との国境に置いて守らせたものです。それを