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《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》816小式部内侍身まかりて後(のち)、常に持ちて侍りける手箱(てばこ)を誦経(ずきやう)にせさすとてよみ侍りける和泉式部恋ひわぶと聞きにだに聞け鐘(かね)の音(おと)にうち忘らるる時の間(ま)ぞなき☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆小式部内侍が亡くなってのち、いつも持っていました手箱を誦経の布施にさせるというので詠みました歌和泉式部恋い悩
式子内親王の命日(一月二十五日)も迫ってきました。このところ、これぞ式子の真骨頂ともいうべき和歌を挙げていなかったので、今日は、歌人としての実力がよく伝わる和歌を取り上げたいと思います。最後の百首歌『正治初度百首』「恋」の部にあり、『新古今和歌集』恋一一〇七四にも入集しています。しるべせよ跡なき波にこぐ舟の行へも知らぬ八重の潮風《歌意》道しるべをしておくれ、八重の潮路を吹く風よ。航跡もない波の上を漕ぐ私の舟は行方もわからないのだから恋する自分を、道しるべのない、はるかな海上を進むの
藤原隆家は兄の伊周とともに、藤原道長との権力争いの末、花山法皇に矢を射って流罪となった。藤原隆家の最期を詳しく見ていこう。藤原隆家は979年天元2年、藤原道隆と高階貴子の間に四男として生まれた。天下の「さがな者」とささやかれた中関白家の御曹司が藤原隆家である。さがな者とは「性悪者」「荒くれ者」という意味で、隆家は若い時は手に負えないやんちゃ者だったようだ。隆家は弓の腕もなかなかだったらしく藤原道長が書いた御堂関白記には次のように記述されている。「宮中行事の弓場始では権中納言がよく射た第
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》808恒徳公(こうとくこう)かくれて後、女のもとに、月あかき夜(よ)、忍びてまかりて、よみ侍りける藤原道信朝臣干(ほ)しもあへぬ衣(ころも)の闇(やみ)にくらされて月ともいはずまどひぬるかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆恒徳公が亡くなってのち、女のもとに、月の明るい夜、ひそかに訪れて行って、詠みました歌藤原道信朝臣悲しみの涙を干すこと
今日取り上げる、桜を詠んだ歌は、A百首(式子内親王の和歌の研究者にとって、これが通称ですが、どうも味気ないと感じる方、『前斎院御百首』という名称もあります)の中で、新古今和歌集に入集されている、一番若い番号のものです。はかなくて過ぎにし方をかぞふれば花に物思ふ春ぞへにける春下一〇一《歌意》はかなく過ぎてしまったこれまでをあれこれ思って数えると、花についていろいろ物思いをする春を幾度も経てきたことよ和歌にあまり接したことのない方でも、名歌と思わせる和歌ではないでしょう
『新古今和歌集』の512番から514番まで歌の中に「鶉(うづら)」が詠み込まれていました。「鶉(うづら)」を古語辞典で調べると…うづら:鶉。鳥の名。草原で見られることが多く和歌では秋の風物詩として詠まれる。…という、「そのまんま」の意味だけが出ています。しかし、いつも申し上げているとおり古典和歌は【暗号】ですので❗️「うづら」という文字の並びをよ〜く観察してみると…(・Д・)「う」+「つら」👉「憂
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》814後一条中宮、かくれ給ひて後(のち)、人の夢に故郷(ふるさと)にゆく人もがな告げやらん知らぬ山路(やまぢ)にひとりまどふと☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆後一条院の中宮がお隠れになってのち、人の夢の中で故郷である現世に帰って行く人がいたらいいなあ。いたら、告げてやろう。見知らぬ死出の山道で、わたしひとり迷っていると。☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》604五十首歌奉りし時藤原雅経秋の色をはらひ果ててやひさかたの月の桂(かつら)に木枯(こがら)しの風☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆五十首の歌を差し上げた時藤原雅経木枯らしの風は、世の秋の紅葉の色をすっかり吹き払って、今、月の桂に吹いているのであろうか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》815小野宮(をののみや)右大臣身まかりぬと聞きてよめる権大納言長家(ながいへ)玉の緒(を)の長きためしに引く人も消ゆれば露にことならぬかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆小野宮右大臣が亡くなってしまったと聞いて詠んだ歌権中納言長家人々が、命の長い例に引く人でも、亡くなると、消えやすい露とすこしも違わないことよ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
今、雨がしとしとと降っています。桜の花も散りました。今日、取り上げる歌は、偶然ですが、今日の気分に添うというか、ふさわしい和歌と言っていいかもしれません。花は散りその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる新古今和歌集春下一四九《歌意》花は散ってしまい、なんということもなく、ながめていると、何もない空に春雨が降っている(ことに気づいた)この和歌は、死の前年、それも半年
式子内親王の悲運な生涯を辿る前回では、それまでの仮住まいから、やっと大炊殿に身を落ち着けることができたまでをお話ししました。前回引用した、『源家長日記』の御殿の庭の記述からは、内親王が、平安な暮らしをようやくにして得たことがうかがえます。しかし、それは長くは続きませんでした。重い病が内親王を襲うことになるのです。それが、明らかになるのは、定家が『明月記』正治元年(1199)五月一日の次の記事からです。「大炊殿ノ女房告ゲ送リテ云ハク雑熱ノ事御ハス之間、医師等ヲ召スト云々」2018年に評
○2022年2月3日に、上賀茂神社へお参りした。上賀茂神社の楼門横に、小さいながら、派手な社が建っているのを見付けた。それが片山御子神社だった。片山御子神社は、賀茂別雷神社の第一摂社であると言う。その片山御子神社については、前回、詳しく触れたので、そちらを参照されたい。・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『片山御子神社』片山御子神社|古代文化研究所(ameblo.jp)○その中で、「紫式部と片岡社」と言う案内があって、興味深く読ませていただいた。和歌を勉強している者にとって、甚だ
*:..。o○○o。..:*梶間和歌プロフィール小説梶間和歌YouTubeチャンネル歌集『生殖の海』のご購入はこちら歌をやり取りするfacebookグループ*:..。o○○o。..:*近日中にインスタグラムにて読者プレゼントを始めます*:..。o○○o。..:*秋の歌とて秋ふけぬ鳴けや霜夜のきりぎりすやや影さむしよもぎふの月後鳥羽院新古今和歌集秋下517【現代語訳】秋は更け、夜も更けた。鳴けよ、霧の降りた霜夜のきり
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》811一条院かくれ給ひにければ、その御事(おほんごと)をのみ恋ひ嘆き給ひて、夢にほのかに見え給ひければ上東門院逢ふことも今はなき寝(ね)の夢ならでいつかは君をまたは見るべき☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆一条院がお隠れになってしまったので、その御事をばかり思い嘆かれて、夢にほのかにお見えになったので上東門院現実にお逢い申し上げることも、
夏刈りの萩の古枝は枯れにけり群れ居し鳥は空にやあるらむ題知らず源重之新古今和歌集巻第六冬歌(612)夏に萩は、野に混沌として広がっていた。枝を刈り払っても、それでも野に残っていた。だが残った枝も、冷えゆくこの季節、冬風の中に枯れ果てた。鳥たちは、もうここにはいない、──押し黙る残骸の中に、居場所はないのだろう。この冬の日の午後、空は蒼く、──風の中に高く。不思議な彫像であるかのような叢雲
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》775小式部内侍(こしきぶのないし)、露(つゆ)置きたる萩(はぎ)織りたる唐衣(からぎぬ)を着て侍りけるを、身まかりて後(のち)、上東門院より尋ねさせ給ひけるに奉るとて和泉式部置くと見し露もありけりはかなくて消えにし人をなににたとへん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆小式部内侍が、露の置いた萩を織り出した唐衣を着ていましたが、それを、
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》614冬の歌の中に太上天皇冬の夜(よ)の長きをおくる袖濡れぬ暁方(あかつきがた)の四方(よも)の嵐(あらし)に☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆冬の歌の中に太上天皇冬の長い夜を眠れないでいる私の袖は、いつしか涙で濡れてしまった。明け方の、四方から聞こえてくる嵐の音で。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》813をさなかりける子の身まかりけるに源道済(みちなり)はかなしといふにもいとど涙のみかかるこの世を頼みけるかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆幼かった子が亡くなってしまったので源道済はかないというにつけても、いよいよ涙ばかりがこぼれかかる、こういう無常のこの世を頼みにしていたことよ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第五・秋歌下》471秋歌の中に太上天皇野原より露のゆかりを尋ね来てわが衣手(ころもで)に秋風ぞ吹く☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆秋歌の中に太上天皇野原から、露の縁である涙を尋ねてきて、わたしの袖に秋風が吹くことだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎《和歌コードで読み解いた新訳》✴︎
*:..。o○○o。..:*梶間和歌プロフィール小説梶間和歌YouTubeチャンネル歌集『生殖の海』のご購入はこちら歌をやり取りするfacebookグループ*:..。o○○o。..:*近日中にインスタグラムにて読者プレゼントを始めます*:..。o○○o。..:*百首歌奉りし時、秋歌桐の葉もふみ分けがたくなりにけり必ず人を待つとなけれど式子内親王新古今和歌集秋下534【現代語訳】深まる秋の道に、桐の葉も踏み分けがたく積もったものだなあ。訪ね
【最終更新日:2022-09-25】平安時代の歌人、藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)と式子内親王(しきし/しょくし/のりこないしんのう)には、恋愛関係があったという話が伝えられている。両方ともwikipediaより。歌の家「御子左家(みこひだりけ)」の藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい/としなり)・定家父子は、後白河院の第三皇女、式子内親王と和歌を通して交流があった。式子は俊成から和歌を学んでいたが、次第に息子の定家も、式子の屋敷を訪れるようになったことが、定家の日記『
我が君は千代に八千代に細石の巌となりて苔の生すまでこれは平安時代の古今和歌集(905)において、賀歌の筆頭歌として撰ばれた歌だ。詠み人知らずの句だが、約千年後には、紆余曲折を経てこの歌は日本の国歌の候補となる。色々な説はあるが、僕はこの時点ではこの歌の「我が君」は、天皇であったという説を支持したい。なぜなら、古今和歌集は天皇勅命による勅撰和歌集であるからだ。僕の立場でこの記事は危うい。教師は思想を語ってはいけないと言われている。ただ僕が語っているのは思想ではなく歴史とそれに
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》795母の思ひに侍りける秋、法輪寺(ほふりんじ)に籠(こも)りて、嵐のいたく吹きければ皇太后宮大夫俊成憂(う)き世(よ)には今はあらしの山風にこれやなれゆくはじめなるらん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆母の喪に服していました秋、法輪寺に籠って、嵐がひどく吹きましたので皇太后宮大夫俊成つらい世には今は住むまいとまで思うが、これが、荒い嵐山の
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》764年ごろ住み侍りける女の、身まかりにける四十九日果てて、なほ山里に籠(こも)りゐてよみ侍りける左京大夫顕輔(あきすけ)たれもみな花の都(みやこ)に散り果ててひとりしぐるる秋の山里☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆年来、通っていた女の、亡くなってしまった後の四十九日の法事が終わって、そのままやはり、山里に籠っていて詠みました歌左京大夫顕輔