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《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》826通(かよ)ひける女のはかなくなり侍りけるころ、書き置きたる文(ふみ)ども、経(きやう)の料紙(れうし)になさんとて、取り出(い)でて見(み)侍りけるに按察使公通(あぜちのきんみち)書きとむる言(こと)の葉(は)のみぞ水茎(みづぐき)の流れてとまる形見(かたみ)なりける☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆通っていた女が亡くなりましたころ、書
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》825俊頼(としより)朝臣身(み)まかりて後(のち)、常に見ける鏡を仏(ほとけ)に作らせ侍るとてよめる新少将(しんせうしやう)うつりけん昔の影や残るとて見るに思ひのます鏡かな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆俊頼朝臣が亡くなってのち、常に見ていた鏡を、鋳直して、仏像に作らせますというので詠みました歌新少将映った生前の父の面影が残っているか
大河ドラマ「光る君へ」も大分ストーリーが佳境に入ってきて、第17話「うつろい」では、藤原道長の兄で、ときの関白道隆が亡くなるところまで話が進んだ。死の床で、道隆は妻の貴子に対して「そなたに初めて会ったのは、内裏の内侍処であった。つんとすました女子であった。」これに対し、貴子は、「道隆さまは、お背が高く、きらきらと輝く、殿御でございました」と答え、これに道隆は、かすれるような声で「忘しの(わすれじの)行末まてはかたけれはけふ(今日)をかきり(限り)の命
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》824題知らず大江匡衡(おほえのまさひら)朝臣夜(よ)もすがら昔のことを見つるかな語るやうつつありし世や夢☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず大江匡衡朝臣夜どおし、昔のことを夢に見ていたことよ。その夢の中で人と語り合っていたことが、現実であるのか、それとも、その人の生きていた世が夢であったのか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》823大江嘉言(おほえのよしとき)、対馬守(つしまのかみ)になりて下(くだ)るとて、「難波堀江(なにはほりえ)の蘆(あし)のうら葉に」とよみて下り侍りけるほどに、国にてなくなりにけりと聞きて能因法師あはれ人今日(けふ)の命(いのち)を知らませば難波の蘆(あし)に契(ちぎ)らざらまし☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆大江嘉言が対馬守になって下る
明日ご紹介する→→次の記事→→の詞書に登場する歌を先に訳しておきます。大江嘉言(おほえのよしとき)は対馬守(つしまのかみ)として遠く長崎に船で旅立つ際、「また帰ってきますよ〜」とこの歌を詠みましたが任国で亡くなってしまいます。この歌と明日掲載する歌『新古今和歌集823番』をセットでご鑑賞ください。《後拾遺和和歌集・476》命あらばいま帰り来む津の国の難波堀江の蘆のうら葉に大江嘉言☆☆☆☆☆☆☆☆【直訳】☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》822返し源三位(げんさんみ)思へ君燃(も)えし煙にまがひなで立ちおくれたる春の霞(かすみ)を☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆返し源三位お思いください、君よ。帝のお燃えになった煙にまぎれて立ちのぼってしまうことなく、立ち遅れている春霞と同じように、おあとに残っているわたしのことを。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》821後朱雀院かくれ給ひて、源三位(げんさんみ)がもとに遣はしける弁乳母(べんのめのと)あはれ君いかなる野べの煙(けぶり)にてむなしき空の雲となりけん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆後朱雀院が亡くなられて、源三位のもとに詠み贈った歌弁乳母ああ、帝は、どういう野辺の火葬の煙で、虚空の雲となられたのでしょうか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》820世のはかなきことを嘆くころ、陸奥国(みちのくに)に名ある所々(ところどころ)かきたる絵を見て紫式部見し人の煙(けぶり)となりし夕(ゆふ)べより名ぞむつましき塩竈(しほがま)の浦(うら)☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆世のはかないことを嘆いているころ、陸奥国で有名な所々を描いてある絵を見て紫式部親しくしていた人が亡くなり、火葬の煙と
あさんぽで、山吹に目にいった。今が見ごろとばかりに輝いていた。一重クローズアップ八重クローズアップ花言葉は、気品・崇高・金運山吹といえば、『万葉集』の編者大伴家持、『古今和歌集』の編者紀貫之、『新古今和歌集』の編者藤原定家をはじめ、そうそうたる歌人が山吹を詠まれてきた、という。また、『源氏物語』にも使われるなど、古くから日本人の生活や文化に寄り添ってきた花である。今夜は「光る君へ」を視ようと思います。にほんブログ村に参加し
僕の住むところでは、桜もすっかり葉桜となり、新緑の季節となりました、これまでは、初夏という言葉にはよく接しても、暮春、晩春という言葉には、あまり意識が向きませんでした。晩春というと、小津安二郎の名作『晩春』ー往年の名女優、原節子の笑顔が何とも忘れられないーが思い出されるぐらいですから。でも、式子内親王の和歌を取り上げるようになってから、季節の節目の言葉には確かに敏感になってきました(引き出しが一つ増えたみたいで嬉しいです)。ということで、今日は暮春の歌をご紹介します。暮れて行く春の
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》819僧正明尊(みやうそん)かくれて後、久しくなりて、房(ばう)なども、石蔵(いはくら)に取り渡して、草生(お)ひ茂りて、ことざまになりにけるを見て律師慶暹(りつしきやうせん)なき人の跡をだにとて来て見ればあらぬ里にもなりにけるかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆僧正明尊が亡くなってのち、久しく時がたって、坊なども、石蔵に移して、草が生い茂っ
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》818返し加賀少納言なき人をしのぶることもいつまでぞ今日(けふ)のあはれは明日(あす)のわが身を☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆返し加賀少納言亡き人を思い慕うことも、いつまででしょうか。亡き人を思い慕う今日の私の悲しみは、明日の私の身の上のことになるかもしれないのですから。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》817上東門院小少将(こせうしやう)身まかりて後、常にうち解(と)けて書き交(かは)しける文(ふみ)の、ものの中に侍りけるを見出(みい)でて、加賀少納言(かがのせうなごん)がもとに遣はしける紫式部たれか世に長らへて見ん書きとめし跡(あと)は消えせぬ形見(かたみ)なれども☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆上東門院の小少将が亡くなってのち、い
藤原隆家は兄の伊周とともに、藤原道長との権力争いの末、花山法皇に矢を射って流罪となった。藤原隆家の最期を詳しく見ていこう。藤原隆家は979年天元2年、藤原道隆と高階貴子の間に四男として生まれた。天下の「さがな者」とささやかれた中関白家の御曹司が藤原隆家である。さがな者とは「性悪者」「荒くれ者」という意味で、隆家は若い時は手に負えないやんちゃ者だったようだ。隆家は弓の腕もなかなかだったらしく藤原道長が書いた御堂関白記には次のように記述されている。「宮中行事の弓場始では権中納言がよく射た第
今、雨がしとしとと降っています。桜の花も散りました。今日、取り上げる歌は、偶然ですが、今日の気分に添うというか、ふさわしい和歌と言っていいかもしれません。花は散りその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる新古今和歌集春下一四九《歌意》花は散ってしまい、なんということもなく、ながめていると、何もない空に春雨が降っている(ことに気づいた)この和歌は、死の前年、それも半年
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》816小式部内侍身まかりて後(のち)、常に持ちて侍りける手箱(てばこ)を誦経(ずきやう)にせさすとてよみ侍りける和泉式部恋ひわぶと聞きにだに聞け鐘(かね)の音(おと)にうち忘らるる時の間(ま)ぞなき☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆小式部内侍が亡くなってのち、いつも持っていました手箱を誦経の布施にさせるというので詠みました歌和泉式部恋い悩
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》815小野宮(をののみや)右大臣身まかりぬと聞きてよめる権大納言長家(ながいへ)玉の緒(を)の長きためしに引く人も消ゆれば露にことならぬかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆小野宮右大臣が亡くなってしまったと聞いて詠んだ歌権中納言長家人々が、命の長い例に引く人でも、亡くなると、消えやすい露とすこしも違わないことよ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》814後一条中宮、かくれ給ひて後(のち)、人の夢に故郷(ふるさと)にゆく人もがな告げやらん知らぬ山路(やまぢ)にひとりまどふと☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆後一条院の中宮がお隠れになってのち、人の夢の中で故郷である現世に帰って行く人がいたらいいなあ。いたら、告げてやろう。見知らぬ死出の山道で、わたしひとり迷っていると。☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》813をさなかりける子の身まかりけるに源道済(みちなり)はかなしといふにもいとど涙のみかかるこの世を頼みけるかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆幼かった子が亡くなってしまったので源道済はかないというにつけても、いよいよ涙ばかりがこぼれかかる、こういう無常のこの世を頼みにしていたことよ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》812後朱雀院かくれ給ひて、上東門院白川(しらかは)に籠(こも)り給ひにけるを聞きて女御藤原生子(せいし)憂(う)しとては出(い)でにし家を出(い)でぬなりなど故郷(ふるさと)にわが帰りけん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆後朱雀院がお隠れになって、上東門院が白川に籠ってしまわれたことを伝え聞いて女御藤原生子上東門院様は、世をつらいとお思
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》811一条院かくれ給ひにければ、その御事(おほんごと)をのみ恋ひ嘆き給ひて、夢にほのかに見え給ひければ上東門院逢ふことも今はなき寝(ね)の夢ならでいつかは君をまたは見るべき☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆一条院がお隠れになってしまったので、その御事をばかり思い嘆かれて、夢にほのかにお見えになったので上東門院現実にお逢い申し上げることも、
定家の直筆書は冷泉家当主が800年間代々継承、古今伝授箱は「畏れ多く」130年開かれず(読売新聞オンライン)-Yahoo!ニュース藤原定家の直筆書物と思われる史料が、冷泉家で発見された、とのことです。以下、記事の抜粋。『定家の直筆書は冷泉家当主が800年間代々継承、古今伝授箱は「畏れ多く」130年開かれず4/18(木)21:14配信鎌倉時代を代表する歌人・藤原定家の流れをくむ冷泉(れいぜい)家(京都市)の当主の間で、約800年にわたって継承されていた古今和歌集の注釈書
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》810公忠(きんただ)朝臣身まかりけるころ、よみ侍りける源信明(さねあきら)朝臣ものをのみ思ふ寝覚(ねざ)めの枕には涙かからぬ暁(あかつき)ぞなき☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆公忠朝臣が亡くなってしまったころ、詠みました歌源信明朝臣物思いばかりして、寝ては目覚める枕には、涙のかかっていない暁はないことだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
こんばんは!吉野の桜、続きです。吉野山の奥の千本を散策しています。西行庵新古今和歌集の代表的歌人の一人である西行が、武士を捨て、法師となり3年間住まいとしたと伝わる庵。西行像が安置されています。鎌倉時代の初めのころ(約800年前)西行法師が俗界をさけてこの地にわび住まいをした所と伝えています。西行はもと、京の皇居を守る武士でしたが世をはかなんで出家し、月と花とをこよなく愛する歌人となり、吉野山で詠んだといわれる西行の歌とくとく落つも岩間の苔清水汲みほすまでもなきすみかかなこの歌
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》809入道摂政のために、万灯会(まんどうゑ)おこなはれ侍りけるに東三条院水底(みなそこ)に千々(ちぢ)の光は映(うつ)れども昔の影は見えずぞありける☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆入道摂政のために、万灯会が行われましたときに東三条院池水の底に、灯明の数知れない光は映っているけれど、亡き父の昔の姿は見えないことだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》808恒徳公(こうとくこう)かくれて後、女のもとに、月あかき夜(よ)、忍びてまかりて、よみ侍りける藤原道信朝臣干(ほ)しもあへぬ衣(ころも)の闇(やみ)にくらされて月ともいはずまどひぬるかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆恒徳公が亡くなってのち、女のもとに、月の明るい夜、ひそかに訪れて行って、詠みました歌藤原道信朝臣悲しみの涙を干すこと
【執筆ノート】『西行──歌と旅と人生』三田評論ONLINEより寺澤行忠(てらさわゆきただ)慶應義塾大学名誉教授今日、実に多くの人が西行に関心を寄せていることを知り、驚くことがある。現代は何を信じてよいか分からないような、混とんとした時代でもあるが、それだけに、何かはっきりとは表現できないが、西行に人間の生き方の本質に触れるものをみて、心引かれるのであろう。西行は定家とともに新古今時代を代表する歌人である。『新古今和歌集』には、専門歌人ではない西行の歌が、専門歌人をはるかに上回る、
日本國を護る戦いが始まったみなさん、おはようございます日本國を護る戦いが始まりました「無の境地」宮本武蔵の五輪書を愛読書とする素晴らしい人が立ち上がってくれました皆で誠心誠意応援しましょうそして自ら立ち上がりましょうアリガトウ「4月15日と16日」の國史です「4月15日」「古今和歌集、完成」延喜5年(905年)古今和歌集は万葉集(7~8世紀編纂)新古今和歌集(10世紀初め編纂)と並ぶ勅撰和歌集です醍醐天皇の命により編纂されます選者は紀友
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》807返し女御徽子(きし)女王いにしへのなきにながるる水茎(みづぐき)は跡こそ袖のうらに寄りけれ☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆返し女御徽子女王昔の帝はもういらっしゃらないので、伝わり残っているご筆跡には泣きに泣かれて、その涙の跡は、ご筆跡とともに、わたしの袖の中に残ることです。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆