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遥拝台福岡県久留米市野中町11陸軍墓地の付属施設。軍の式典などで遥拝台の屋上から、皇居(宮城)の方角に向かって遥拝していた。久留米の遥拝台は国旗掲揚台と手信号の訓練場を兼ねている。遥拝台は裾広がりの円柱状の建物。高さ4.8m、底部径6m、屋上径5.8m。内部の螺旋階段を上ると屋上に出る。屋上には石の標柱があり「宮城遥拝」と「皇紀2601年」が刻まれている。国旗掲揚台は向かい合っての反対側にあるでは下りますか。
詫間海軍航空基地のスリップ(滑走台)香川県三豊市詫間町香田1943年(昭和18年)5月、詫間海軍水上機基地が竣工。同年6月に詫間海軍航空隊が開隊、水上機実用機教程を開始する。1944年(昭和19年)9月、沖縄攻防戦に備えて横浜海軍航空隊大艇隊の主力機(二式大艇;二式飛行艇)が詫間に移駐する。一時、鹿屋基地に移駐するも詫間基地に戻る。(二式大艇:鹿屋基地前に展示されている詫間海軍基地所属の実機。後述)スリップ(滑走台)は計4台。水偵用幅スリップ幅
4年ぶりに渡良大島砲台を再訪しましたので、ブログ記事を書き直します。渡良大島(わたらおおしま)は郷ノ浦港の沖合に浮かぶ島で、近隣の長島、原島とともに「渡良三島(わたらみしま)」を構成しています。なお現地では単に「大島」と呼ばれています。地図で島の位置を確認します。大島に上陸するためにはまず壱岐島に渡ってフェリーを乗り換える必要があります。つまり二次離島と言うわけですね。壱岐島の郷ノ浦港から定期船が1日4便就航しており、原島、長島を経由して大島までは50分の船旅となります。
その4では両翼の側防穹窖を取り上げるとともに、北端の地下にも匣室が設置された可能性について考察していきます。まずは堡塁の定義を明治期の史料から抜粋します。「堡塁とは近戦自衛の設備を備え陣地の支点又は複郭たる任務を有する防御営造物である。堡塁の形状は通常平扁なる多角形にして之に平行せる壕を設け、壕内は外岸側防穹窖又は「カポニエール」と称する特別の側防設備に依りて側防す。咽喉部も亦側防の設備を為す。而して壕内の側防には小口径速射砲若しくは機関砲を備ふるものとする。」定義の通り龍司山
◆参考リンク:下関要塞の概略[明治期][昭和期][本土決戦]本項では、下関要塞の守りに任じた下関重砲兵聯隊を取り上げていきますが、まずは年表的に誕生から終わりまで記していきます。・明治20年関門地区の要塞築城が開始・明治23年(1890年)5月「要塞砲兵第四聯隊」(一大隊三中隊編成)創設・明治27~28年日清戦争に従軍・明治29年(1896年)5月要塞砲兵第四聯隊は「下関要塞砲兵聯隊」と改称、三個大隊(十二中隊)編成となる・明治37~38年日露戦争に従軍・明
金丸原陸軍飛行場の掩体壕栃木県大田原市終戦時の金丸原飛行場は、西側に(主)第1滑走路が1,900×幅100メートル、東側に(副)第2滑走路が1,300×幅100メートル。第2滑走路は那須野ケ原カントリークラブ付近にあった。有蓋掩体壕が那須ヶ原カントリークラブの敷地内クラブ管理棟の前に、1基のみ現存している。終戦時に有効な掩体壕が何基つくられていたかは不明。現在は国際福祉大学キャンパス、大田原市立金田南中学校、那須ヶ原カントリークラブ、大半が田畑になっており、有蓋掩体壕以外
各務原陸軍飛行場(中飛行場)の南側、長平山の南麓にある大型の有蓋掩体壕。幅22メートルx奥行22メートルx高さ6メートルで、前面の上部には庇が付いており、内部は梁で補強されている(一般的な大型の有蓋掩体壕)。運送会社の倉庫として使用されている。掩体壕の後部の先は、山を大きく堀り込んでいる。1917年(大正6年)6月、各務原陸軍飛行場が竣工。各務原陸軍航空支廠、川崎航空機工業各務原工場、三菱重工業名古屋航空機製作所各務原格納庫などがあり、
陸軍成増飛行場(高松飛行場)の掩体壕(東京都板橋区成増)(赤丸は現存する有蓋掩体壕)陸軍成増飛行場は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲(日本本土に対する初の空襲)を期に、帝都(東京)防空のための飛行場として急遽建設が計画され、1943年(昭和18年)年8月着工、同年12月に完成した。(誘導路脇の土塁の跡)滑走路は1,200×60メートルのコンクリート舗装。路面は迷彩ペイントを施された。陸軍の飛行第47部隊、第43飛行場大隊、航空廠立川分廠成増分遣整備が
その2では地下発電所から見ていきます。発電所は地下に造られています。内壁には迷彩が施されていますが、その1で紹介した迷彩建物とは違ってこちらは鱗状になっていません。間取りを描いてみました。右手に物置のような凹みがあります。左手に開口部があるので入ってみると...。デカくて深い貯水槽が現れました。貯水槽の内壁に鉄製の梯子が残っています。左側に土管と奥の壁に丸い穴があります。丸い穴の地表露出部分はおそらくコレ。こんなところにも迷彩が施されてお
今日紹介する支那事変応召記念碑は、陸上自衛隊山口駐屯地の東門付近にあります。これまで何度も書いている通り陸自の駐屯地は陸軍歩兵第42連隊の屯営地でしたが、当時陸軍病院が隣接しており、その一角に記念碑が建てられています。こちらが記念碑ですが、撮影した時期が悪かったようでセイダカアワダチソウに埋もれています(^^;埋もれて見えませんが、記念碑の正面には「赤心報国」(せきしんほうこく)と刻まれています。赤心はいつわりのない心。つまり、誠意を込めて国のために尽くすと言う意味となります。
[十勝地区]当縁川河口トーチカ(滑落後)北海道十勝郡大樹町付近北海道広尾郡大樹町のJAXA&インターステラテクノロジズ社実験場がある当縁川(とうべりがわ)の河口のトーチカ、ついに息絶える!の報があり再訪する。宙に浮くトーチカ、崩落していた北海道の旧日本軍施設:朝日新聞デジタル太平洋に面した北海道大樹町(たいきちょう)の海岸で、第2次世界大戦末期に造られた旧日本軍の「トーチカ」が崩落しているのが見つかった。9月下旬、十勝総合振興局が河川パトロール中に発見し、町に報告したと…w
[由良要塞](友ヶ島)第3砲台①外観・掩蔽棲息部(弾薬支庫)友ヶ島第3砲台起工/竣工:明治23年10月/明治25年5月備砲:28cm榴弾砲×8門(砲座4)首線:175度標高:110m目的:紀淡海峡に侵入する敵艦の動作を妨害第3砲台は、友ヶ島砲台群の中核を成す砲台であり、最大規模、島の最高地点に築城された。発電所と観測所以外の主施設はほぼ地下にある。地下2階分(2層式)の弾薬庫と装薬庫、廻廊がある棲息掩蔽部などなど、機能的にデザインされ、これが地下迷宮になっていて興味
アロマヒーリングとボイジャータロットのセラピストスクール『ステラ』代表・講師の星咲友香です。2024年3月末に溝の口・フィオーレの森内サロンはクローズしました。現在お仕事は休業中です!ブログは気まぐれで更新していきます。今後はオンラインをベースに活動してまいります✨スピリチュアル×現実に落とし込めるパワフルなボイジャータロットやアロマの講座、個人セッションを引き続きご提供していきます。最新情報はこのブログやインスタから更新しています。下記メニュー等はリニューアル予定です。現在のご提供メニ
横浜市保土ヶ谷区のたちばなの丘公園にきましたよここのそばに陣ヶ下渓谷公園というのがあって、グレが幼い頃からしばしばお散歩にきてましたが、『初夏の陣ヶ下渓谷』横浜の秘境と言われる陣ヶ下渓谷にお散歩に来ましたよ。保土ヶ谷区川島町、環状2号線のそばに、エアポケットのように森林が残っています。>こもれびがきもちいいです坂…ameblo.jpここのそばに、最近の探検で行った岩鼻や平塚で『陸軍岩鼻火薬製造所跡』たれカツ丼を食べに高崎に行こうとしたらグレが戦跡のにおいがするというので車を停めました
[勇払平野/苫小牧]①植苗トーチカ&緑ヶ丘公園トーチカ安平川(&勇払川)の西側。丘陵・山地にも縦深陣地では、植苗トーチカ(41式山砲)が現存、緑ヶ丘公園トーチカ(92式重機関銃?)がほぼ埋没しているが気配は確認はできる。安平川(&勇払川)の東岸に隣接する柏原には、山の中に柏原2号トーチカ(41式or94式山砲)が現存しているようだが、こちらは詳細がわからず行けなかった。勇払海岸〜汐見町海岸〜高砂海岸〜基町海岸には水際陣地が構築されていたが、現存するのは元町海岸トーチカ(92式重機関銃
相模線寒川駅にきましたよ!きょうは1984年に廃線になった相模線西寒川支線の廃線跡を歩きますよ!さっそく205系500番代がやってきました!僕の知ってる相模線は非電化ローカル線なので浦島太郎状態だ!グレの前を列車が通過していきます。あれ?でもこのシーン見覚えあるぞ!1978-81年頃にかけて、当時中高生だったグレパパは、しばしば気動車の撮影に来たもんでした!これはカーブの感じ、高圧鉄塔の位置から、ほぼ同じ場所の撮影だと思います!それにしてもベッドタウン化で周辺の環境
[小倉陸軍造兵廠]福岡県北九州市小倉北区大正5年(1916年)、陸軍造兵廠が直轄する6機関の1つ、小倉兵器製造所として開設されたのが始まり。東京砲兵工廠の集約移転先として昭和8年(1933年)に小倉工廠は完成した。昭和15年、陸軍大臣直属の陸軍兵器本部が設置され「小倉造兵廠」と改称。昭和17年、小倉陸軍兵器補給廠(城野)と共に東京第2造兵廠の管轄になった。176,000坪の敷地を有し、小型戦車、小銃、機関銃、高射機関砲、砲弾、風船爆弾、化学兵器などを製造していた。※環境省が
※2023年1月16日追記:2022年夏に開催された「仙崎引揚展」の写真を追加しました※2023年9月21日追記:2023年9月から開催の「マンガでひもとく引揚げ展」の写真を追加しました今日は戦後の引揚港となった長門市仙崎(せんざき)を訪れます。まずは「引揚げ」について簡単に説明します。============================昭和20年(1945年)8月15日に終戦の詔勅が発せられ、満州事変から端を発した十五年戦争に終止符が打たれることになりました。終戦に
[十勝地区]浜大樹トーチカ②北海道十勝郡大樹町付近当縁川河口のトーチカは滑落してしまったが、浜大樹の海岸段丘にはまだ頑張っているトーチカもある。浜大樹①は笹の藪漕ぎ必須&崖地なので探索断念、②をみにいく。トーチカの盛り土がなくなり、天井が露出している。アプローチは天井、というかコンクリートの広場(*_*)形状から、銃眼は1つのようだ。南西(大樹漁港方面)東北西(当縁川方面)下りるテトラポットでがっちり護岸されているが、海岸段丘
第146震洋隊宮戸島特攻基地宮城県東松島市宮戸大鮫陸繋島の宮戸島、旧鮫ヶ浦漁港。東日本震災の津波で被災した倉庫を改修した「鮫ヶ浦水曜日郵便局」があった。この郵便局は震災後に企画された1年間限定のもの。「水曜日に起きた日々の何気ない日常や誰かに知ってもらいたい思いを手紙をこの郵便局宛に送ると、担当のスタッフが仕分けて同じように手紙を書いた別の誰かの元へ届く仕組み」旧鮫ヶ浦漁港は、戦争末期にあった第146震洋特別攻撃隊の震洋基地を改修して開港した、とのこと。*第1
[航空総軍]屯鶴峯地下司令部壕(戦闘指令所)②奈良県香芝市穴虫大阪と奈良の県境に近い屯鶴峯(どんづるぼう)。この奇岩群から程近い南北の小さな尾根の裾、東側と西側に地下壕が格子状に張り巡らされている。本土決戦を目前にして、昭和20年4月に全国の陸軍航空部隊を統一指揮するための航空総軍が編成された。その司令部諸施設として、屯鶴峯近くの山中に同年6月〜8月の2ヶ月間で掘られた、とされる。だが8月15日の敗戦(停戦)により、地下壕は未完成のまま放置された。NPO法人屯鶴峯地下壕
[佐伯防備隊]本部①濃岡山の地下壕群大分県佐伯市鶴谷町2-1-10(日本文理大付属高校)付近呉鎮守府佐伯防備隊の本部は、濃岡山(のうかやま/現在は濃霞山)の南西側の山麓、現在の日本文理大学付属高校のグランド付近から長島川沿いの狭い平地にあった。佐伯海軍航空隊と呉海軍軍需部佐伯支庁に挟まれている。佐伯防備隊は下記の図のピンクの部分。出典:アジア歴史センター(C08011058800)引渡目録防備隊濃岡山(のうかやま/現在は濃霞山)の南西側の山麓には、受信所壕や詳細不明
大東亜戦争末期の昭和20年(1945)、米軍による日本本土への空襲が本格化しましたが、徳山は2度の大規模な空襲を受けました。最初の空襲は昭和20年5月10日で、第三海軍燃料廠と大浦油槽所が狙われました。午前9時50分、B29約110機による燃料廠への爆撃が開始され、その15分後にはB29約80機が大浦油槽所を襲いました。空襲は午前10時50分に終わりましたが、投下された3,500発以上の爆弾(燃料廠に2,017発、大浦油槽所に1,533発)により、設備の大半は破壊されて事実上壊滅、5
[四国防衛軍]栗山トーチカ高知県南国市十市2535-3土佐湾に面する小浜海岸の背後の山塊。高知県南国市の守備隊である四国防衛軍(陸軍第2総軍15方面軍第55軍)が本土決戦を見据えて構築したトーチカがある。土佐湾に数多く造られた第2防衛線の防御陣地のひとつ。栗山トーチカ群は、県道14号線から少し北に入った山の中腹に点在する。幾つか現存するようだがわかりやすいのは2カ所。個人宅の背後の山にあるため立入許可は取った(教えていただき感謝デス自力でみつけるのはなかなか困難)。山の道は南国
大砲を奉納する春日山神社新潟県上越市大豆1743春日山神社の境内には、日露戦役(日露戦争:1904年2月8日〜1905年9月5日)でのロシア軍大砲の鹵獲品が奉納されている。解説板はない。出典:佐山二郎「日本陸軍の火砲野砲山砲」p.92どうやらロシア軍の87ミリ野砲(87-ммполеваялёгкаяпушкаобразца1877года)と思われる。87-ммполеваялёгкаяпушкаобразца1877года出典:
[佐伯防備隊]本部②濃岡山監視哨?など大分県佐伯市鶴谷町2-1-10(日本文理大付属高校)付近佐伯防備隊は下記の図のピンクの部分。出典:アジア歴史センター(C08011058800)引渡目録防備隊濃岡山(のうかやま/現在は濃霞山)の南西側の山腹、佐伯海軍基地(飛行場)が見える位置に、案内版によれば指揮所とトーチカがある(たぶんどちらも監視哨)。山頂には見張所があった。*監視哨?案内版では「指揮所」で濃岡山の中腹(西端)の斜面にある。施工が粗いので戦争末期につ
蛇崎高角砲台は、佐伯市街地の南方に位置する蛇崎山(標高145m)に築かれました。場所を地図で示します。砲台は2か所に分かれており、蛇崎山山頂の東側稜線上に「第一砲台」、南西側の少し離れた尾根上に「第二砲台」が置かれました。第一砲台には45口径12糎高角砲が2門、第二砲台には八八式7糎野戦高射砲3門が配備され、佐伯市北部の大入島の高角砲台とともに、佐伯防備隊の本隊や佐伯航空基地の上空を守る役目を担っていたと思われます。なお、昭和20年2月までの『佐伯防備隊戦時日誌』には「蛇崎」
今日は戦前・戦中の関釜連絡船で、戦後は引揚げ船として活躍した興安丸(こうあんまる)を紹介します。(仙崎の海外引き揚げ上陸跡地の説明看板より)関釜航路は下関と朝鮮半島南端の釜山を結ぶ航路です。山陽鉄道傘下の山陽汽船が明治38年(1905年)9月に運航を開始しましたが、翌年には鉄道国有法によって山陽鉄道が国有化されたため、関釜航路も国有に移管されました。ちなみに山陽鉄道は明治21年に設立された神戸に本社を置く鉄道会社で、同社が建設した神戸~下関間の路線は、現在JR西日本が管轄する山
先日は、行川の桜花基地を探しに行ったが、今回は更にマニアックな黒原の基地を探しに。数少ない情報を元に、発見!ここにも格納壕と旋回盤跡、更にはカタパルトも遺っている。カタパルトの先端?欠けていて、途中かもしれない。崩壊部分が地面に。これは何かな。カタパルトの上は木が生えない為、道のようになっている。知らなければカタパルトや旋回盤跡には気付かず、ただ竹林へ延びる畑道のように見える。進んでいくと、旋回盤が。分かりにくいかもしれないが、縁がところどころ見えている。旋回盤の更に奥に、格
先月初めて舞鶴を訪れました。明治期の砲台・堡塁をひと通り見て回りましたが、1日半しかなかったのでバタバタでした(^^;今日から探訪記を書いていきますが、見逃した物があれば再訪して確認後に補完する...と言うスタンスで進めていきます。==========================今回は葦谷(あしだに)砲台をレポートします。砲台の履歴です。◆起工:明治30年(1897年)11月1日◆竣工:明治32年(1899年)8月28日◆備砲:克式二十八糎榴弾砲6門(明治33年3月