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[逓信省/奄美大島]赤尾木無線送受信所鹿児島県大島郡龍郷町赤尾木昭和13年11月に開設された赤尾木無線送受信所の無線塔。昭和18年頃、長雲峠に陸軍通信隊が設置されこの無線塔は軍事用としても使われた。奄美郷土研究会報第40号によれば、赤尾木無線送受信所は南に送信所、1キロ離れた北に受信所が設置されていた。往時は受信用無線棟が5基・送信用無線棟が5基あった。塔の高さは30メートル(送信)と25メートル(受信)。塔の高さが違うのは立地問題(標高差)か?*赤尾木無線送受信所黄
[陸軍高松飛行場]由良山格納庫壕群香川県高松市由良町1050(清水神社)旧高松空港跡地の碑(平成6年3月林地区開発協議会)【要約】ここは昭和の後半から平成の初めまで香川県の空の玄関であった旧高松空港の跡地であるが、旧高松空港の成り立ちは地元との関わりを抜きにしては語ることができない。太平洋戦争の戦局が厳しくなる中、昭和19年1月23日(香川県木田郡)林村に陸軍省から「林村を中心に周辺三町村にまたがる約270ヘクタールに飛行場を建設する」との連絡が入った。5日後の28日、林小学校
[紀伊防備隊]伊島防備衛所(乙)徳島県阿南市伊島町紀伊防備隊の任務は紀淡海峡(紀伊水道)の海上防備、哨戒、海上交通の保護。管轄下に5ヶ所の防備衛所(聴音所等)を持つ。太平洋戦争前から設置されていたのは友ヶ島・伊島(徳島県阿南市)・日御碕(和歌山県美浜町)。戦時中に瀬戸崎(和歌山県白浜町)・阿波大島(徳島県牟岐町)にも設置された。友ヶ島は紀淡海峡(航路幅11km)〜大阪湾に出入りする最終チェックポイントであるため、防備衛所(甲)となり、管制機雷を装備した唯一の防備衛所でもあった。伊島
[紀伊防備隊]蒲生田特設見張所(辛)徳島県阿南市椿町蒲生田紀淡海峡、四国側の最東端の蒲生田岬の沖合に伊島があり、ここに対潜見張を主目的とする海軍の防備衛所がつくられた。出典:アジア歴史センター(C08011210100)昭和20年8月31日兵器軍需品施設目録第22嵐部隊出典:アジア歴史センター(C08011206800)紀伊防備隊(3)引渡目録防衛省戦史資料室「電探関係配備一覧表」によれば、蒲生田特設見張所(辛)として新設されたが、着工/竣工など具体的な年月日は不明(昭和2
2024年4月27日(土)の午前中、予定通り出雲市日御碕にある高尾山へ太平洋戦争時の戦争遺跡を巡りながらの登山を実施しました。出発当初は曇り空で気温もあまり上がらず、心地よい風が吹き通る若葉のトンネルとなった登山道をゆっくりと登りました。この高尾山道路では、昭和17年(1942)の1学期、日御碕国民学校の3年生以上の児童が、数回にわたって砂やレンガを運び上げる勤労作業に当たりました。地元の日御碕の人々や大社中学校、高等女学校の生徒、近郷の青年団、簸川郡や出雲市の生徒たちも、毎日入れ替わ
す[大阪警備府]小勝島機銃陣地(移設)徳島県阿南市橘町土井崎115-16(阿南市立ふるさと館)『阿南市立ふるさと館』の建屋の裏に、第6特攻戦隊司令部があった小勝島の機銃陣地に配備されていた高角砲台座と即応弾薬置場が保存されている。小勝島は関係者以外立ち入り禁止の島になっている。*昭和20年6月頃、橘湾内の小勝島には海軍第6特攻戦隊第22突撃隊が置かれた。阿南市資料によれば終戦時は兵士が700〜800人駐留されていた、とされる(阿南市資料)。小勝島には見張り台、銃座、司令部、兵
レプリカ零戦格納庫の目前にある小山の地下には戦闘指揮所が存在した。この筑波海軍航空隊基地は飛行兵育成のために設立運用されていたが、大戦末期に本土防空基地と位置付けられ基地の要塞化がすすめられた。その一環としてこの地下戦闘指揮所が作られたのである。基地北端にある司令部から約1000m離れた指揮所まで2.2kmの地下通路(地下排水路)が作られていたという。薄暗い地下壕に入る前に係員のかたからLEDライトを手渡される。通路の高さは2mほどか?!仮設のほの暗い灯りが当時を思い起こ
[徳島航空基地]②姫野隧道徳島県鳴門市大麻町姫野大森付近[徳島航空基地]①弾薬庫/送信所、からのつづき。築城年不明〜天正10年(1582年)頃にあった姫田城(現在は葛城神社)、その御堂の背後の山麓に、海軍が姫田隧道と呼ぶ格納壕群がある。引渡目録によれば坑道(隧道)は飛行機格納壕2+燃料庫11+弾薬庫3の合計16本あったようだ。鳴門JCT近くの宮尾神社から西へ歩いたが、確認しただけで数本は崩落、2本現存していた。格納庫群の坑口付近は竹藪と湿地になっていて、なかなか大変だった。
[宮古島]トゥリバー浜の秘匿壕群トゥリバー浜の東側に隣接する(通称)スキラ崎、このスキラ崎の東側の付け根から先端にかけての琉球石灰岩の岩壁に、多くの特攻艇秘匿壕の坑口がある。四式肉薄攻撃艇(マルレ/○レ)を格納するためのもので確認されているだけで15ヶ所。全ての壕が東か北東方向に開口している。『パイナガマ海空すこやか公園』西端の駐車場から海岸沿いを西にあるくと、護岸にある階段から海岸に降りることが出来る。引き潮時のみ歩けるので、そのままスキラ崎に向かえばOK(・∀・)
[宮古島/来間島]東御嶽の陣地と遠見台沖縄県宮古島市下地来間477来間集落の東に来間集落発祥の地とされる東御嶽(アガイヌウタキ)がある。観光的には『松の木展望台』や『パシャ(端)の石段』と言った方がわかりやすいかも。この東御嶽(アガイヌウタキ)の一帯に、集落の防禦のための少人数の防禦陣地があった。密林となっているため詳細はわからないが、確認出来るのは東御嶽の鳥居の横、琉球石灰岩を掘り込んだタコ壺(竪穴)である。1m×0.7mくらいのタコ壺(竪穴)堆積物があるため浅く
4年ぶりに再訪した小呂島ですが、一番の目的は電燈所を探すことでした。電燈所は射光機(探照灯、サーチライト)による夜間時の警戒と加農砲の射撃補助が任務でした。要塞砲台に付属設備として構築され、小呂島にも砲台北方島端高地に設けられたことが史料に書かれています。地図で確認します。電燈所の正確な場所は不明ですが、「砲台北方島端高地」は北端にある標高44mピーク以外に考えられませんので、砲台から北に向けて伸びる交通路を辿ってみました。途中から激ヤブになり道をロストする場面もありましたが、
[宮古島/来間島]山砲陣地竣工:昭和19年頃備砲:94式山砲(75ミリ)←終戦時には未設置?標高:約20メートル守備:山砲兵第28連隊構造:琉球石灰岩を掘り込み、砲口のみコンクリート補強終戦時の宮古島陣地構築図出典:アジア歴史センター(C11110237900)戦史資料山砲第28連隊(宮古島)*(山砲陣地から真っ直ぐ海岸に出たところの景色)来間ガーの入口に「山砲陣地」の案内版がたつ。出典:宮古島市neo(新)歴史文化ロード綾道戦争遺跡編宮古島
先日、4年ぶりに小呂島を再訪しましたので砲台の記事を書き直します。小呂島(おろのしま)は玄界灘に浮かぶ福岡県西区に属する島で、姪浜渡船場から北西約40㎞の位置にあります。150人ほどが住む有人島ですが、戦時中この島には陸軍の砲台と海軍の防備衛所が置かれていました。壱岐要塞の砲台位置図で場所を確認します。島に渡るには福岡市の姪浜渡船場から市営渡船に乗船して65分の船旅となります。日帰りできるのは火、木、土、日で、往路は姪浜・午前9時発、復路は小呂島・午後1時20分発の一便のみです
[宮古島/来間島]チフサアブ沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第30集「沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(V)宮古諸島編」で紹介されていた来間島のチフサアブ。戦時中は来間島の住民の避難壕として利用した自然壕らしい。(ヤシカニ?がいる密林を1時間以上彷徨う)「昭和の初め頃に来園島から石灰岩を用材として切り出していた時期があり、この場所は火薬の保管場所として利用されていた。その時にコンクリートで入口が造られたとある。開口部はコンクリートで造られている。縦0.9m✕横0.5mの長
[陸軍第12師団]工兵第12大隊隧道福岡県北九州市小倉南区蜷田若園1-1-1(ファミマ)明治31年、小倉に陸軍第12師団が置かれた。大正14年に宇垣軍縮で第12師団司令部が久留米に移転したが、小倉は軍都であり続けた。*工兵第12大隊は明治30年6月(明治31年説あり)、北方(現北九州大学付近)に移転してきた。大正9年頃、工兵第12大隊から工兵第12連隊に名称変更されている。坑口上部に扁額が残っており大隊名なので、大正9年までにつくられた、と思われる。兵科演習隧道?といわれるが詳
[陸軍第12師団]火薬庫群福岡県北九州市小倉南区若園4丁目付近明治31年、小倉に陸軍第12師団が置かれると、小倉南区一帯(北方)には、歩兵第47連隊(現小倉駐屯地)、騎兵第12連隊(現自動車試験場等)、野戦砲兵第12連隊(現小倉駐屯地南)、工兵第12大隊(現北九州大学)、輜重兵第12大隊(現小倉南区役所)が移動した。だが大正14年に宇垣軍縮で第12師団司令部が久留米に移転すると、騎兵第12連隊は久留米へ、歩兵第47連隊は大分へ、他は廃止された。一方、下関から野戦重砲兵第6連隊、歩兵
[佐伯防備隊]本部②濃岡山監視哨?など大分県佐伯市鶴谷町2-1-10(日本文理大付属高校)付近佐伯防備隊は下記の図のピンクの部分。出典:アジア歴史センター(C08011058800)引渡目録防備隊濃岡山(のうかやま/現在は濃霞山)の南西側の山腹、佐伯海軍基地(飛行場)が見える位置に、案内版によれば指揮所とトーチカがある(たぶんどちらも監視哨)。山頂には見張所があった。*監視哨?案内版では「指揮所」で濃岡山の中腹(西端)の斜面にある。施工が粗いので戦争末期につ
アロマヒーリングとボイジャータロットのセラピストスクール『ステラ』代表・講師の星咲友香です。2024年3月末に溝の口・フィオーレの森内サロンはクローズしました。現在お仕事は休業中です!ブログは気まぐれで更新していきます。今後はオンラインをベースに活動してまいります✨スピリチュアル×現実に落とし込めるパワフルなボイジャータロットやアロマの講座、個人セッションを引き続きご提供していきます。最新情報はこのブログやインスタから更新しています。下記メニュー等はリニューアル予定です。現在のご提供メニ
[佐伯防備隊]本部①濃岡山の地下壕群大分県佐伯市鶴谷町2-1-10(日本文理大付属高校)付近呉鎮守府佐伯防備隊の本部は、濃岡山(のうかやま/現在は濃霞山)の南西側の山麓、現在の日本文理大学付属高校のグランド付近から長島川沿いの狭い平地にあった。佐伯海軍航空隊と呉海軍軍需部佐伯支庁に挟まれている。佐伯防備隊は下記の図のピンクの部分。出典:アジア歴史センター(C08011058800)引渡目録防備隊濃岡山(のうかやま/現在は濃霞山)の南西側の山麓には、受信所壕や詳細不明
その2では地下発電所から見ていきます。発電所は地下に造られています。内壁には迷彩が施されていますが、その1で紹介した迷彩建物とは違ってこちらは鱗状になっていません。間取りを描いてみました。右手に物置のような凹みがあります。左手に開口部があるので入ってみると...。デカくて深い貯水槽が現れました。貯水槽の内壁に鉄製の梯子が残っています。左側に土管と奥の壁に丸い穴があります。丸い穴の地表露出部分はおそらくコレ。こんなところにも迷彩が施されてお
[佐伯海軍基地]佐伯飛行場③長島山機銃砲台大分県佐伯市中江町佐伯湾に面する佐伯陸上飛行場には、「豊後水道の上空哨戒を任務」とする呉鎮守府隷下の佐伯海軍航空隊が駐留した。佐伯空は内戦航空隊の中では館山海軍航空隊に次ぐ実戦力を持っていた、とのこと。近くには海軍の水上機用の飛行場(スベリ)もある。陸上機用滑走路:850mx50m、450mx40m水上機用滑走台:100mx50m、170mx50m出典:国土地理院1947/03/04(昭22)USA-M100-73、抜粋・加筆
今日は壱岐島の南西に浮かぶ長島に構築された長島電燈所をレポートします。**************************長島は大島、原島とともに渡良三島を構成しています。3島を巡るフェリーが壱岐の郷ノ浦港から出ていますが、長島と大島は珊瑚大橋で繋がっています。地図で場所を示します。壱岐島から見た渡良三島です。長島から大島に架かる珊瑚大橋を見ています。*********************************長島電燈所は射光機(探照灯、サーチライト)によ
[佐伯航空基地]佐伯飛行場②指揮所大分県佐伯市東浜1-6(興人佐伯工場)佐伯湾に面する佐伯陸上飛行場には、「豊後水道の上空哨戒を任務」とする呉鎮守府隷下の佐伯海軍航空隊が駐留した。佐伯空は内戦航空隊の中では館山海軍航空隊に次ぐ実戦力を持っていた、とのこと。近くには海軍の水上機用の飛行場(スベリ)もある。佐伯海軍航空隊は昭和9年2月15日開隊(昭和10年8月15日説などあり)。艦隊の出入港に合わせて豊後水道の航路警戒を行っていた。佐伯水陸両用飛行場は昭和14年12月1日に開港した。
[佐伯航空基地]佐伯飛行場①有蓋掩体壕大分県佐伯市東浜1-6(興人佐伯工場)佐伯湾に面する佐伯陸上飛行場には、「豊後水道の上空哨戒を任務」とする呉鎮守府隷下の佐伯海軍航空隊が駐留した。佐伯空は内戦航空隊の中では館山海軍航空隊に次ぐ実戦力を持っていた、とのこと。近くには海軍の水上機用の飛行場(スベリ)もある。佐伯海軍航空隊は昭和9年2月15日開隊(昭和10年8月15日説などあり)。艦隊の出入港に合わせて豊後水道の航路警戒を行っていた。佐伯水陸両用飛行場は昭和14年12月1日に開港した
まとめ煉瓦造りが綺麗
[呉鎮守府]両城の百階段/二百階段広島県呉市両城1丁目(百階段)広島県呉市両城2丁目(二百階段)呉は平坦な土地が少なく、その平坦な土地は軍の施設や工廠に使われた。それゆえ山の裾野〜中腹にみっちりと住宅が建つ。明治から昭和にかけて両城地区の急傾斜地(最大傾斜45度?)が宅地化された。急傾斜地ゆえ、住人の高齢化問題、車が入らない、建て替えは困難などで空き家が多い。百階段地区百階段の地域は呉鎮守府の海軍士官・将校や軍属商人が多く住んでいた、とのこと。高さ10メートル程もある石垣を
【戦争遺跡見学】地図から消された島に行って来ました。島にいるうさぎも悲しい歴史を背負って生きてきました。【大久野島(おおくのじま)】(広島県竹原市忠海町)広島県竹原市の忠海港(ただのうみこう)から船で約15分。大久野島はかつて日本の化学兵器製造拠点として毒ガスの製造が行われ、戦争中は秘密の島として地図からも消されていました。周囲4キロの島には今も発電場や毒ガス貯蔵庫の跡などが残り、当時の面影を残す戦争遺跡が残されています。【大久野島毒ガス工場の歩み】東京第二陸重造兵廠忠海製造所
【戦争遺跡見学】地図から消された島に行って来ました。島にいるうさぎも悲しい歴史を背負って生きてきました。【大久野島(おおくのじま)】(広島県竹原市忠海町)広島県竹原市の忠海港(ただのうみこう)から船で約15分。大久野島はかつて日本の化学兵器製造拠点として毒ガスの製造が行われ、戦争中は秘密の島として地図からも消されていました。周囲4キロの島には今も発電場や毒ガス貯蔵庫の跡などが残り、当時の面影を残す戦争遺跡が残されています。【大久野島毒ガス工場の歩み】東京第二陸重造兵廠忠海製造所は
【戦争遺跡見学】広島市南区にある、市内最大規模の被爆建物「旧広島陸軍被服支廠(ひふくししょう)」を見学しました。【最大規模の被爆建物】軍服や軍帽などの製造や保管のために、旧陸軍が建設した軍需工場で、米軍による原子爆弾投下でも倒壊を免れ、工場施設倉庫4棟が現存しています。平成6年に広島市が被爆建物として登録しています。内部は見ることはできませんが、連続して500mに及ぶ歴史的景観には圧倒されます。爆心地から2670メートルの距離にありながら倒壊はしませんでしたが、爆風により変形した鉄扉を目
[陸軍航空隊大刀洗航空補給廠]上西郷弾薬倉庫福岡県福津市上西郷(上西郷地区)福間町史などによると、昭和18年8月に陸軍は上西郷村に弾薬庫を作りたいと協力要請があったため、村は約100ヘクタールの土地を提供した。陸軍は陸軍航空隊大刀洗航空補給廠福間出張所として建設を開始した。上西郷地区の田園の中に弾薬倉庫や軍用品倉庫など50棟弱を点在させ、山腹には多くの地下壕が掘られた。弾薬倉庫群から少し離れた所(福間町総合運動公園辺り)には兵舎などが建てられた。翌年には国鉄福間駅から弾薬庫入口まで