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[下関要塞/明治期]田ノ首砲台山口県下関市彦島田の首町2-25(下関南霊園)海正面砲台★大迫門防禦:彦島方面田ノ首砲台起工:明治20年9月28日竣工:明治21年12月28日←下関要塞の砲台群で最初に竣工備砲:加式鋼製28口径27センチ加農砲×4門(4座4門)だが据付は明治29年9月→斯加式12速加4(大正8年)→27Kに復す(大正12年)標高:16.85メートル任務:敵艦の進んで其の近距離に達する、及び、平射を以て俄然其の艦隊を洞射し、子の屈曲航路内に於いて、敵艦の進退動
俺は、ミリタリーマニアでもある。城もミリタリーではあるが、もっと新しい時代のミリタリーも大好き。赤色図を見たら山の尾根のピークに黒っぽい丸いものが写っている。位置は36.7350、140.4847。後から知ったのだが、それは防空監視哨だったのだ。そんな近代遺跡、戦争遺跡がこんな所に残っているとは知らなかった。場所は常陸太田市北部、福島県矢祭町と境を接する旧里美村の中心部、大中(おおなか)にある常陸太田市役所里美支所から北西にある鍋足山方面にハイキングコースが延びそのハイキングコースが
●2025年8月20日(水)2日目ハーバーフロント駅からケーブルカーに乗ってセントーサ島へ。シロソ・ポイント駅で降りてフォート・シロソ・スカイウォークを通って戦争遺跡へ戦争があったんだなぁ。セントーサ島にある水族館へ!大きな水族館でした!◆SingaporeOceanarium(formerlyS.E.A.Aquarium)シー・アクアリウム住所8SentosaGateway,SentosaIsland,Singapore098269行った時、ケーブルカ
軍用監視哨?沖ノ島遥拝所福岡県宗像市鐘崎岬224(織幡神社)織幡神社旧社格は県社(昭和3年)、名神大社、宗像大社境外摂社(明治10年)主祭神は武内大臣・住吉大神・志賀大神の3柱。御利益は海上交通安全、武運長久、国家鎮護*実際の創建については詳らかではないが、社史によれば履中天皇在位中(西暦400〜405年)。西暦850年『文徳天皇実録』では織幡神に従五位下としての記述、西暦927年『延喜式神名帳』には、宗像郡4座の名神大社として織幡神社が記述されている、などなど。長い
東京都の丘陵を歩いたよ😁戦争遺跡の防空壕が山の斜面に残ってるんだここは熊さん居ない所だから安心だ。そろそろ冬眠から目覚めるんだろうな明日からは天気が悪いみたいだけど、梅は見頃です🥰
[下関防備隊]波津崎防備衛所②防備衛所〜兵舎福岡県遠賀郡岡垣町波津下関防備隊波津崎防備衛所(丙)→(甲)着工:不明竣工:昭和19年初(推定)下関防備隊(山口県下関市吉見)所属だが、唯一、福岡県に設置されたのが波津崎防備衛所。陸軍芦屋飛行場(空自芦屋基地)の西、湯川山の北東に位置する波津崎に設置された。任務は敵潜探知。昭和19年7月1日〜31日までの戦時日誌下記の地図の他、域内の防備衛所・見張所は完備の状態にある。併せて白瀬衛所(甲)は人員23〜26名で測距儀、資女鼻衛所(甲
板碑の調査のために偶々訪れた、都内のとある墓地で鉄兜と思われるものと遭遇した。鉄兜があったのは墓地入口脇の慰霊碑。慰霊碑の下部には家名が刻んであり、一族3名の戦没者のためにご遺族が建てたものらしい。おそらく九〇式鉄帽かと思われるが、不明。由来等も事情を知る人がおらず不明である。
海がしけてフェリーが抜港となった徳之島からの移動は、急きょ飛行機で、奄美大島到着😃夜に到着し、夕食😃近くの居酒屋さんへ✌️山芋の焼いたのや、卵でくるんだおにぎり、独創性あるメニューでした😋翌日はレンタカーで島内観光は奄美博物館から😀本土復帰への困難な道のりが想像できます。加計呂麻島を臨む島の南部まで来て、ランチは「神鷹」で、加計呂麻島産のキビ酢を使ったチキン南蛮😋戦争遺跡も巡りました。隕石が作ったクレーターの景色、あやまる岬からの絶景も楽しませていただきました😃最後に、鶏
[下関防備隊]波津崎防備衛所①探照灯(変電所)福岡県遠賀郡岡垣町波津下関防備隊波津崎防備衛所(丙)→(甲)着工:不明竣工:昭和19年初(推定)下関防備隊(山口県下関市吉見)所属だが、唯一、福岡県に設置されたのが波津崎防備衛所。陸軍芦屋飛行場(空自芦屋基地)の西、湯川山の北東に位置する波津崎に設置された。任務は敵潜探知。昭和19年7月1日〜31日までの戦時日誌下記の地図の他、域内の防備衛所・見張所は完備の状態にある。併せて白瀬衛所(甲)は人員23〜26名で測距儀、資女鼻衛所(
再びの猿島。乗ってきた「くろふね」を背景に。かつて、猿島が要塞地帯であった当時の名残。前回と同じく、上陸後にガイドツアーに申し込み、皆で説明を受けながら島内探検(ハイク?)に参加しました。島内の切通となっている通路(?)を進みます。この日は快晴。けど風が強く、船が欠航したらどうしましょ。と思わなくもないお天気でありました。「天空の城ラピュタ」のモデル(?)となったのが猿島とか。なので、映画好きな方が訪問されることも多いとか。ガイドツアーでは、島内の説明を受けられるだけ
2月15日、壱岐の長島にて自然観察会を開催しました。今回のテーマは、島内の「戦争遺構」。戦後80年が経過しようとする今、自然の中に溶け込みつつある歴史の跡を辿りました。📷1.職人技が光る「カモフラージュ」の壁まず目を引くのは、遺構の壁面に施された迷彩塗装です。表面に凹凸をつけて周囲の岩肌や樹木に溶け込ませる工夫は、もはや職人技。当時の人たちが、いかに必死にここを隠そうとしたか、その執念が肌で伝わってきます。私が幼い頃は「砲台跡」と呼んでいましたが、調べてみると「渡良(
梅津会館(旧太田町役場)茨城県常陸太田市西二町2186『南東隅に角塔を立ち上げ、東面正面に大アーチの車寄を張出した本格的な庁舎建築。主要部は筋面タイル貼で、車寄アーチのキーストーンなどの要所にテラコッタを用いる。地元出身の梅津福次郎の寄付により建設された』・・・・と、文化庁の文化遺産オンラインにで紹介されている。竣工:昭和11年鉄筋コンクリート造2階建塔屋付登録有形文化財(建造物)梅津福治郎氏は常陸太田市出身、海産物問屋を営んで大儲けをし、故郷への寄付(浄財)により太田町役場
東京芝浦電機栃木県芳賀郡茂木町真岡線(真岡鉄道)茂木駅のすぐ西側の岩山に、東京芝浦電機の川崎工場(の疎開工場(地下壕)がある。国鉄真岡線茂木駅から坑道入り口まで引き込み線を敷き、貨物車両が直接疎開工場(茂木工場)に入れるような工場の建設を開始した。赤枠:疎開工場、黄枠:茂木駅出典:国土地理院1948/09/27(昭23年)USA-R1820-34、抜粋・加筆ここでは高射砲の砲身の製造を行う予定だったとされる。川崎工場からは金属加工用の旋盤機を持ち込んだ、という話もある
南岩国駅からほど近い愛宕山地域には、終戦間際に設けられた海軍の地下工場がありました。簡単に説明をしていきます。大正10年(1921)、海軍は広島県広村(現呉市)に「呉海軍工廠広支廠」を開設、2年後には「広海軍工廠」として独立し、航空機の生産・開発に主軸を置いた工場となりました。大東亜戦争開戦直前の昭和16年(1941)10月には、航空機部を改編する形で「第十一海軍航空廠」が設置され、戦時下において航空機・発動機等部品の生産、整備、修理、補給を担いましたが、昭和20年5月5日の空襲で
[軍人像]西田澤八幡宮青森県青森市西田沢興津24-5御祭神:譽田別尊、高龗草創年月不詳、寛永10年(1633年)村中にて再建。三ノ鳥居*この軍人像・・・誰かしら?*日露戦争関連の碑かと思いきや、北支事変・・・*モデルは乃木希典大将かな?陸軍の肋骨制服。この肋骨制服は明治41年に廃止されたので日露戦争時のものと思われる。後日訪れた乃木神社(下関)の宮司様にお尋ねしたところ、「お顔は乃木大将です。ですが、乃木大将は幼少期に片目を失明しているため、双眼鏡では無く単
金峰神社:91式戦闘機のプロペラ青森県青森市新城山田御祭神:廣国押武金日尊・倉稲魂命地元出身の陸軍大佐の佐藤一郎氏が、昭和16年に「91式戦闘機のプロペラ」を奉納したもの。長さ約3mで、胡桃の木に金網を張り、特殊な塗料を施したもの。昭和9年3月に製造されたもの、とのこと。*青森市羽白沢田(青森市油川)にあった青森飛行場(油川飛行場)の所属機だったようだ。金峰神社はまあまあ近いところに位置している。青森飛行場(油川飛行場)竣工式:昭和8年6月滑走路:780m×78
【岡山大学】高等先鋭研究院文明動態学研究所第2回大学と戦争遺跡カンファレンス「大学と戦争遺跡-市民とのコラボレーション-」〔2/11,水・祝岡山大学津島キャンパス〕2026(令和8)年2月4日国立大学法人岡山大学https://www.okayama-u.ac.jp/◆概要国立大学法人岡山大学(本部:岡山市北区、学長:那須保友)高等先鋭研究院の文明動態学研究所(RIDC)は、2026年2月11日(水)13:00~17:00に第2回大学と戦争遺跡カンファレ
[石垣島]琉球観音埼灯台下の陣地沖縄県石垣市新川1612石垣島の西南端にある琉球観音埼は、地元では冨崎(フサギィ)と呼ばれている。琉球観音埼灯台(冨崎灯台)竣工:昭和28年7月(琉球政府時代に建設)標高:標高約37m灯台の高さ:11.4m日本最西端の灯台*昭和27年にあった海難事故の慰霊碑と菩薩像も建立されているが、ここが戦時中は本土防衛の陣地だったことは知られていないようだ。灯台建設で多くが破壊されているが、灯台下には機銃陣地が残っている。よーーくみる
[奉安殿]石垣市立登野城小学校沖縄県石垣市立登野城290着工:昭和6年2月21日竣工:昭和6年12月28日登野城尋常高等小学校の奉安殿として建設された。校舎建て替え工事などで昭和50年頃に正門左脇の現在地に移動させた。沖縄県内に残存する奉安殿では、内部の棚を含めて唯一完全に残っていて、歴史的な価値が高い。南欧の神殿を彷彿させるデザインで、鉄筋コンクリートで造られ、表面は細かい洗い出し仕上げ。高さは約4m。正面に鉄製の扉があり、屋根はアーチ状、には菊花紋、櫛形破風には桐紋と
遂に故郷へ辿り着いた。尤も、まだ後で行くつもりだったし、まさか誘拐だなんて想像すらしなかった方法で偶々着いたけど…「しかし此処が、お前さんの故郷か…」「うん。」忘れもしない。帝国で一番、青い空のよく見える街。だがその下はと言えば、毒と湿気の大地だ。底まで綺麗に見える、何処までも透明な川(リレー河の下流に流れ込んでいるらしいが、生き物1匹住みつかない)。のたうち回る様に地を這いつくばり、曲がりくねって伸びる草花(其の花の名前を僕達は知らない)。壊れたまま、放置されたコンクリイトの四
今年も、養成クラスの実技レッスンが始まりました。実際にバレエコースの学生に来てもらい、先生にも来てもらって、本物のクラスレッスンをします。弾くのは養成クラスの学生。ほとんど未経験です。それでもとても頑張ってくれました。あとは「場慣れ」です。
[石垣島]八重山旅団司令部壕沖縄県石垣市大川住宅地の一画、古い亀甲墓を利用した壕がある。石垣島では地上戦はなかったが、昭和19年10月10日の大空襲を契機として、沖縄本島以外の宮古島や八重山諸島、大東諸島でも防空壕が掘られた。防空壕の中には、特に軍部は古い亀甲墓を利用した。ぱっと見、八重山旅団司令部壕???と思ったが、案外奥行きがあり、十数名は収納できそうだ。琉球石灰岩を用いて巧く偽装している。道路側は削れているが、往時はもう少し大きかったのかもしれない。石垣島に配備
【荒神谷博物館で第242回定例講演会】令和8年2月21日(土)13:30~15:00、荒神谷博物館で第242回定例講演会が開催されます。演題は「出雲の戦争遺跡を写真で巡る」で、講師は高嶋敏展氏(写真家・アートプランナー)です。高嶋さんには、『平和学習島根ふるさと読本』を制作するにあたり、「松から採れる油で飛行機を飛ばす」のタイトルで読み物資料を新たに寄稿いただきました。高嶋展敏さんは、写真集『忘れられた戦争』を2021年に出版。島根県内に残る戦争遺跡等の掘り起こし取り組んで
今日は朝から、大人の社会科見学がてら表題の施設の見学に行ってきましたo(^-^)o当該施設の見学ができるのは今回が最初で最後、春頃には建物の取り壊しが始まるとのことです。歴史はあまり得意ではありませんが、興味のある近代史ということ、そして何より解説の方の説明がわかりやすかったこともあり、ひじょうに有意義な時間を過ごせました。明日まで開催予定ですが、降雪時中止と明記されていることもあってでしょうか、午前10時の時点で大盛況でした( ̄□ ̄;)写真も沢山撮ったので、あらためて記事にするかもしれ
戦時中、米軍の上陸があるとされていた宮古島では、敵の上陸地点に兵力を集中し、一挙に敵を壊滅させる「水際作戦」を立てた。万が一、敵の上陸を許したばあいは、野原岳周辺の陣地間を複雑なめいろや枝状の通路で繋ぐ複郭陣地で持久戦を展開することも計画していた。そのため、敵上陸地点を地形から判断して①平良港②下地村宮国から嘉手苅③白川湾の3ヶ所と予想し、それぞれの地点に水際陣地、特攻艇秘匿壕、海軍砲台などを構築し、兵力を集中展開した。そのため、小さな宮古島に約3万人の将兵が配備されほと
ニーハオ!台北人です。宜蘭の思源機堡は場所的に不便な場所にあります。対向車が来たら,すれ違え無いほどの細い農道をはしります。幸い対向車は車椅子のご老人だけでした。大人の遠足で日本人2人を拉致して出没。宜蘭県員山郷にある思源機堡(しげんきほう)は、第二次世界大戦末期の日本統治時代に建設された軍事遺構です。その構造、歴史的背景、そして現代における価値について詳しく解説します。1.歴史的背景:太平洋戦争と宜蘭の戦略的地位思源機堡を理解するためには、1940年代前半の太平洋戦争の情勢を
歩兵第18連隊連隊本部跡愛知県豊橋市今橋町(豊橋公園)*後日、加筆予定歩兵第18連隊は明治17年6月、名古屋で創設された陸軍最古参の歩兵連隊のひとつ。連隊兵舎等は吉田藩の城下町である豊橋市内の吉田城址に建設がすすめられ、明治19〜20年迄に移駐が完了した。所属の第3師団から(日露戦争後に新設された)第15師団を経て第3師団に復帰、大東亜戦争中に第29師団に変更になった。満洲からテニアン島に移動中、米潜により輸送船が撃沈され、半数以上の損害と装備を失い、サイパン島に上陸しました。その後
前回のトヨタの引き込み線の話で、コメントを見て思い出した話先日、厚木を走った時に日産のNTCの通勤バスをみかけたんです見た事もないサイズの最新高級バスで驚いた、しかも本数多い!(午前11時でほぼ空バスなのに)「なんだ、まだ息してるんじゃん余裕じゃん」って思った。これは追浜民は見た方がいいんじゃないかねぇ・・あ、小市民の一言です。ここは大変素晴らしい施設だったので長いです馬堀自然自然教育園に到着ーひえ、自転車置き場すらない激狭出入り口!アドレスでよかったです・・ギ
ニーハオ!台北人です。第二世界大戦の時には,台湾人も日本人にならされ,一緒に戦いました。今回は宜蘭県員山郷に残る[員山機堡](神風特攻機堡)についてお知らせします。1.歴史的背景:太平洋戦争下における宜蘭の戦略的地位1895年から1945年まで台湾を統治した日本軍にとって、第二次世界大戦末期(1943年以降)、台湾は「絶対国防圏」の重要な拠点となりました。特に宜蘭平野は、沖縄や日本本土へ向かう連合軍を迎え撃つための航空基地として極めて重要な役割を担いました。宜蘭の3つの飛行場:当時
[筑波海軍航空隊]④地下無線室茨城県笠間市旭町654(記念館)筑波海軍航空隊記念館のHPを参照開隊:昭和9年6〜8月(霞ヶ浦海軍航空隊友部分遺隊開隊として)独立:昭和13年12月15日(筑波海軍航空隊)転出:昭和19年3月(93式陸上中間練習機部隊は福岡県の筑城航空隊に編入)転入:昭和19年3月(大分航空隊から零戦隊が転入。飛練教程から実用機教程に)滑走路:418mx40m、570mx40m、610mx40m(全てコンクリート舗装)横須賀鎮守府所管航空基地現状より筑