ブログ記事2,202件
京急田浦駅最寄りの東芝ライテックの工場は、旧横須賀海軍工廠造兵部の跡地の払下げを受けたものです。なので、当時の建物をそのまま使っていたのですが、老朽化のため解体されるようです。今回の解体は、本部庁舎、製図工場、機銃工場、材料倉庫、烹炊所でいずれも築90年前後の建物です。特に本部庁舎は大正2年建設という関東大震災を潜り抜けてきた建物なので大変残念です。現時点で、本部庁舎、製図工場、烹炊所は消え去り、材料倉庫と機銃工場が解体中でした。また横須賀の海軍時代の建物が消えていきます。この次に予定
[東清鉄道東線]綏芬河①鉄道関連黒龍江省綏芬河市*後日、加筆します満洲鉄道駅名一覧(1940年~1945年)出典:満洲鉄道駅名一覧1940年~1945年、一部抜粋東清鉄道本線(東線)の最東にある国境の駅がポグラニチナヤナ(Пограничная)駅で、帝政ロシアは1897年開通のウスリー鉄道(ウラジオストク〜ハバロフスク)と、東清鉄道を接続させた。ウラジオストク駅から数えて5番目の駅になる。・1897年(明治30年)8月16日:東清鉄道、起工式(清国との合弁会社「東清鉄
[沖縄戦]独混第15連隊(美田部隊)監視哨沖縄県南城市玉城糸数156(玉城構造改善センター/糸数体育館)沖縄戦での第32軍司令部は、連合国軍の上陸予想地点を小禄、牧港、嘉手納のいずれかと想定。それぞれ1個師団ずつを配置し、作戦を考え、機動の猛訓練を行わせたのが昭和19年8月頃。だが、11月に第9師団の台湾抽出が決定され、第32軍は大幅な作戦変更(現兵力をもって最善を尽くす)を行うことになった。機動決戦方針を断念して、本島南部での持久戦を行う作戦、すなわち、沖縄本島南部島尻地区に主防
[タラワ]ブアリキ島ブアリキ島*後日、加筆します最後の守備隊日本軍兵は西端のベティオ島以外に、ブオタ島Buota(現在の空港があるボンリキ島Bonrikiの北西)、ブアリキ島Buarikiに見張所があり、総勢約60名が駐屯していた。ベティオ島で戦闘が起きる前後、島民の案内で島伝いに北に転進した。だが程なく、やはり島民の案内で追ってきた米軍兵とブアリキ島Buarikiで白兵戦を繰り広げ、これも28日に鎮圧された。谷浦英男著「タラワ、マキンの戦い:海軍陸戦隊ギルバ
[沖縄戦]国頭支隊本部壕・野戦病院跡沖縄県国頭郡本部町字並里国頭(くにがみ)地区の防禦は、独立混成第44旅団第2歩兵隊(隊長宇土武彦大佐)を中心とす国頭支隊。清末隊と蔦井隊は独混44旅の第2歩兵砲中隊に所属している。昭和19年7月、沖縄北部(国頭地区)守備の為、独混44旅団第2歩兵隊を基幹として国頭支隊(球7071/支隊長宇土大佐)を派出。当初、名護付近に本部を置いた。同年11月、独混44旅団第2歩兵隊第1大隊(井川正少佐)が伊江島の防衛に転出したため、国頭支隊は防衛陣地を縮
[土浦海軍航空隊]陸自武器学校茨城県稲敷郡阿見町青宿121-1(陸上自衛隊武器学校→後方支援学校武器科部)*後日、加筆します昭和12年:安中水上機着陸場、完成昭和13年:安中水上基地、完成。昭和15年5月11日:霞ヶ浦航空隊安中水上隊、開隊。昭和15年12月15日:鹿島海軍航空隊と改称昭和15年11月15日:海軍初の予科練生教育専門の練習航空隊として、土浦海軍航空隊が開隊した。霞ヶ浦海軍航空隊から独立した土浦海軍航空隊なので、初代司令は青木泰次郎大佐が続投している。昭和14
2026.05.02金田城のジオラマ(観光情報館ふれあい処つしま)今回、事前にガイドの方とお話し、どのルートで登山するかについてはイメージはできていた(ただし、この段階では高低差のイメージは全くできていない😅)。一応、登山前におさらい。登山口に車を停め、軍道沿いに登りまず城山の山頂(標高276m)をめざす。①登山口→東南角石塁→東屋分岐点→城山砲台跡→城山山頂(青+黄色)山頂下山後、一旦東屋分岐点まで戻り、海抜0メートルの大吉戸神社鳥居に降る②城山山頂→東屋分岐点→ピン