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京急田浦駅最寄りの東芝ライテックの工場は、旧横須賀海軍工廠造兵部の跡地の払下げを受けたものです。なので、当時の建物をそのまま使っていたのですが、老朽化のため解体されるようです。今回の解体は、本部庁舎、製図工場、機銃工場、材料倉庫、烹炊所でいずれも築90年前後の建物です。特に本部庁舎は大正2年建設という関東大震災を潜り抜けてきた建物なので大変残念です。現時点で、本部庁舎、製図工場、烹炊所は消え去り、材料倉庫と機銃工場が解体中でした。また横須賀の海軍時代の建物が消えていきます。この次に予定
愛知航空機瀬戸疎開工場愛知県瀬戸市上本町1(瀬戸市民公園)愛知航空機株式会社は時計の生産を行っていたが、日露戦争の最中から陸軍用の信管など精密兵器の製造も開始。大正9年頃からは空機の生産を開始する。三菱重工業・中島飛行機とともに、日本を代表する航空機製造会社に成長、99式艦上爆撃機、零式水上偵察機、彗星などをつくっていた。昭和16年、愛知航空機(当時は愛知時計電機)永徳工場が操業開始。昭和19年12月7日には東南海地震(M7.9)、昭和20年1月13日には三河大地震(M6.8)が発
[昭南島]Sentosa:トーチカ群36SilosoBchWalk,Sentosa,シンガポール099007付近イギリスのシンガポール防衛準備の一環として、1930年代にトーチカの建設が始まり、シンガポールの東〜南〜西の海岸沿いに設置された。シンガポールの海岸に設置された沿岸型トーチカ(coastaltype,)は、ほぼ同じ様式だが、設置場所によって高さにばらつきがある。①様々な方向に射撃可能な機関銃2丁を設置②観測室(計測器・双眼鏡・小型探照灯付き)③兵
[東京湾要塞]金谷砲台①砲座など千葉県富津市天羽町金谷2340(砲台山ハイランド時代の住所)*2018年秋、訪問*2026年春、再訪鋸山の北方、通称;砲台山の山頂部に築城された関東大震災後の応急砲台(臨時砲台;他に千駄ケ崎砲台、走水第2砲台)。応急砲台としてスタートしたが、備砲を更新しながら終戦まで存続した。出典:国土地理院1946/03/05(昭21)USA-M64-A-6-113、抜粋・加筆金谷砲台起工:大正12年12月竣工:大正13年3月27日標高:106m
下関要塞火ノ山砲台跡地に設けられた「火の山公園」は、2024年10月から再編整備工事が行われています。工事開始以降山頂一帯は立入禁止でしたが、2025年11月21日にアスレチックエリアが完成して供用が開始されました。今後は、今年4月23日に展望デッキの「ヒノヤマリング」、7月ごろに山麓エリアにキャンプ場がオープン予定ですが、ロープウェイに代わるパルスゴンドラは来年以降にずれ込むようです。=============火ノ山砲台の記事:[概略][第一(発掘)][第一][第二][第三][第四
[日露戦争]203高地中華人民共和国、遼寧省大連市旅順口区(中日友好櫻花林)2025年8月27日〜9月11日迄、南洋戦線に出征中!コメントや質問など、滞ります東アジアの日本、李氏朝鮮(朝鮮半島)、清国江戸時代末期に西から列強諸国が押し寄せてくると、各国はそれぞれのリアクションをおこした結果、朝鮮半島を巡って日清戦争を勃発し、日本は李氏朝鮮を影響下に置き、清国は欧米列強諸国の半植民地となっていく。日清戦争直後、北から帝政ロシアという新しいプレーヤーが現れる。南下政策を進
ニーハオ!台北人です。第二世界大戦の時には,台湾人も日本人にならされ,一緒に戦いました。今回は宜蘭県員山郷に残る[員山機堡](神風特攻機堡)についてお知らせします。1.歴史的背景:太平洋戦争下における宜蘭の戦略的地位1895年から1945年まで台湾を統治した日本軍にとって、第二次世界大戦末期(1943年以降)、台湾は「絶対国防圏」の重要な拠点となりました。特に宜蘭平野は、沖縄や日本本土へ向かう連合軍を迎え撃つための航空基地として極めて重要な役割を担いました。宜蘭の3つの飛行場:当時
宮古島にも戦争遺跡がありました伊良部大橋の宮古島側には陸軍特攻艇秘匿壕群特攻の船バージョン壕はこのあたりにたくさんあるようですが入口がもはやジャングル奥にコンクリの入口らしきものがみえましたがヘビとかハチとかいそうだしサンダルとか短パンではぜったいに無理こちらは宮古島本島の陸軍中飛行場戦闘指揮所跡でもなにもありませんでした。この看板だけというか草ぼうぼうでなにがなにやらサトウキビ畑が泣けますねさて宮古島の町の街路樹や並木は南国の木です梛ホウボウボク花が咲いてい
戦時中、岩国市には海軍航空隊や陸軍燃料廠の軍事施設、民間においては航空機部品を製造する帝人航空機工業、航空揮発油を製造する興亜石油麻里布製油所などの軍需工場がありました。内地の空襲が本格化した昭和20年、岩国は大小9回の空襲を受けることになりましたが、その内大きな被害を蒙ったのは以下の4回でした。(被害の数字は「岩国市史」による)***************************************◎5月10日:陸軍燃料廠、興亜石油麻里布製油所に対する空襲被害は全壊家
南岩国駅からほど近い愛宕山地域には、終戦間際に設けられた海軍の地下工場がありました。簡単に説明をしていきます。大正10年(1921)、海軍は広島県広村(現呉市)に「呉海軍工廠広支廠」を開設、2年後には「広海軍工廠」として独立し、航空機の生産・開発に主軸を置いた工場となりました。大東亜戦争開戦直前の昭和16年(1941)10月には、航空機部を改編する形で「第十一海軍航空廠」が設置され、戦時下において航空機・発動機等部品の生産、整備、修理、補給を担いましたが、昭和20年5月5日の空襲で
まとめこちらは御座所は窓越しで旧松代舞鶴山地下壕から、歩いて直ぐ!!
既に終了した展覧会で恐縮ですが、4月10日、横浜都市発展記念館の『戦争の記憶-横浜と軍隊の120年』を鑑賞いたしました。展覧会サイトhttp://www.tohatsu.city.yokohama.jp/feature.html雨、風の強い日でしたので少し迷いましたがやはり見ておこうと思ったのです。明治44年の『東京市全図』。上野公園の部分…現在の東博は帝室博物館ですね。この東京全図についている最新横浜図。そして『三浦半島図』展示物の撮影が許されていたのはここまででした。横
大房岬の海軍関連千葉県南房総市富浦町多田良1212-29(大房岬ビジターセンター)大房岬の南(南繋船場)、海軍の回天基地と海軍陸戦隊(山岡部隊)の訓練地があり、北(北繋船場)には水中聴測機があったようだ。海軍陸戦隊「山岡部隊」の訓練地この崖を登る訓練をしたらしいが真偽不明。手前が回天10型の配備を想定した魚雷艇射堡・魚雷艇基地。回天10型の発射基地魚雷艇射堡・魚雷艇基地で、回天10型の配備を想定したらしい。ただし回天10型は開発途中ゆえ、部隊配備もされていない。2本
[日露戦争]東鶏冠山北堡塁①中華人民共和国、遼寧省大連市旅順口区后新街1号(东鸡冠山景区为省级文物保护单位)清国時代に砲台群を築城。ロシアが旅順を租借地にした以降、清国時代の砲台群を近代的な要塞にパワーアップした。旅順要塞の中でも難航不落と言われたのが東北正面の東鶏冠山堡塁だった。--------日露戦争は、従来の戦争には無かった金融やメディアなど言論の参入(金融戦争と広報戦争)、新技術の戦艦や火砲、無線機や電信技術など、新しいものを総動員した総力戦だった。海
[東清鉄道東線]横道河子駅①東清鉄道専門家宿舎など黒龍江省牡丹江市海林市横道河子鎮昭和20年(1945年)年8月8日、ソ連対日参戦(ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦布告)により、満洲国もソ連軍の侵攻を受けて関東軍等の守備陣地を突破され、戦況を立て直すことができず次々と降伏した。武装解除した関東軍将兵・在満洲日本人居留民の義勇兵などが捕虜となりシベリアに抑留された。北満地域において横道河子駅は、シベリアに送られる日本人捕虜の「集積地」となり、ウラジオストク方面に列車輸送された
今日8月15日、日本人が忘れてはならない日、終戦記念日です。本日付けの東京新聞に、同紙の記者と一緒に回った鎌倉、江ノ島の本土決戦陣地遺構の記事が掲載されました。無料登録すると読むことができます。〈つなぐ戦後81年〉観光地にも刻まれた戦跡北鎌倉・江の島・稲村ケ崎などを訪ねて研究家・佐藤さん「終戦間際の出来事考える機会に」:東京新聞デジタル神奈川県内有数の観光地の鎌倉市や藤沢・江の島にも、太平洋戦争末期の軍事施設の痕跡がある。15日は終戦の日。省みられることが少なくなった...ww
軍用監視哨?沖ノ島遥拝所福岡県宗像市鐘崎岬224(織幡神社)織幡神社旧社格は県社(昭和3年)、名神大社、宗像大社境外摂社(明治10年)主祭神は武内大臣・住吉大神・志賀大神の3柱。御利益は海上交通安全、武運長久、国家鎮護*実際の創建については詳らかではないが、社史によれば履中天皇在位中(西暦400〜405年)。西暦850年『文徳天皇実録』では織幡神に従五位下としての記述、西暦927年『延喜式神名帳』には、宗像郡4座の名神大社として織幡神社が記述されている、などなど。長い
■私が実家に住んでいた若い頃、"戦争"が家庭内で話題に上ることはほとんど無かった。親父は教員だったからか招集されていない。だから戦争で亡くなった家族もいなかった。たまに戦争の話が出ても、ひと回り年上の長兄や次兄が、空襲があった時の“少年の冒険話”を面白おかしく語る程度だった。ふたりの兄たちは終戦当時10歳前後だった。また、空襲といっても都市部と違い田舎だったから、焼夷弾により集落が焼き尽くされる・・・といった被害も無かった。その兄たちもここ数年で相次いで亡くな
「大山中尉殺害事件は謀略」が定説となるまでの、笠原十九司名誉教授の論考系譜-葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会TheTokyoWarMemorialWalkers来月25日から30日まで富士国際旅行社が催行する>検証上海事変から蘇州・南京占領まで6日間~海軍の「大山事件」・南京大虐殺を考える<ツアーに参加します。上海で管理人が大山中尉殺害事件について座学をしますので、笠原十九司都留文化大学名誉教授が「大山事件は謀略である」という歴史の定説となるまでの学術論考の系譜を整理してみました
[第12海軍航空廠]賀来の地下格納庫①餅田地区大分県大分市賀来沖縄戦上陸作戦が始まる直前の昭和20年3月中旬、沖縄支援目的の特攻機の離発着基地は、米軍機による空襲を受けた。大分県でも3月18日頃より、初めて本格的な米軍の空襲を受けた。大分県には複数の航空基地、海軍工廠など軍需工場があった。特に大分市内には大分海軍航空基地(のちの旧大分空港)、陸海軍基地、第12海軍航空廠もあったことから7月16日夜半から17日未明にかけて大規模な空襲を受け焼き尽くされ、空襲は8月11日まで続いた。江
[タラワ/ベティオ島]東岬地区⑧20cm砲(右翼)ニッポン・コーズウェイの料金所、旧台湾公園から西*後日、加筆します出典:防衛庁防衛研修所戦史室編『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』〈戦史叢書62〉、P.458*東岬地区米軍による上陸なし守備隊は佐世保第7特別陸戦隊高射砲隊東岬地区の主な火砲・50口径3年式20cm砲(艦砲)×2門・50口径3年式14cm砲(艦砲)×2門・88式7cm野戦高射砲(7cm半野戦高射砲/陸軍)×4門・93式13mm単