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第146震洋隊宮戸島特攻基地宮城県東松島市宮戸大鮫陸繋島の宮戸島、旧鮫ヶ浦漁港。東日本震災の津波で被災した倉庫を改修した「鮫ヶ浦水曜日郵便局」があった。この郵便局は震災後に企画された1年間限定のもの。「水曜日に起きた日々の何気ない日常や誰かに知ってもらいたい思いを手紙をこの郵便局宛に送ると、担当のスタッフが仕分けて同じように手紙を書いた別の誰かの元へ届く仕組み」旧鮫ヶ浦漁港は、戦争末期にあった第146震洋特別攻撃隊の震洋基地を改修して開港した、とのこと。*第1
『海軍第三火薬廠』ザックリと言えば、旧海軍が舞鶴に造った火薬工場です。昭和14年秋・・・海軍高官の朝来村役場訪問から始まる。。。「海軍の施設拡充のため、白屋、岡安、長内の全地域を買収する。1年以内にすべてを撤去せよ」との厳命を受ける。余りに一方的な強制買収です・・・それにより、朝来地区全山林の4割、田畑等の6割、家屋移転は55戸という大規模なものとなったそうです。代々受け継いだ住み慣れた土地や家を失う事となります。第三火薬廠は、当時海軍がすでに稼働さしていた長浜工場の施設拡充移転を目
[大慈山中之院]軍人墓地知県知多郡南知多町山海字土間53案内板『ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちです。緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、船で野間沖に待機していた巡洋艦、駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でしたが、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。軍人像そのものはめいめいの遺族が戦没者の一
中城湾臨時要塞の伊計島砲台沖縄本島、うるま市備砲:88式7センチ高射砲×4門(4基)中城湾要塞重砲兵聯隊第3中隊勝連半島の先端近く、ホワイトビーチを見下ろす丘陵(平敷屋配水池の奥)にある。昭和16年(1941年)7月、中城湾臨時要塞建設が下令。即時着工、同年11月に竣工したようだ。昭和19年9月、中城湾要塞重砲兵聯隊第3中隊=石部隊は、備砲と共に、(那覇)小禄48.2高地に転出する。沖縄戦で上陸した米軍が当地に到着した時は、守備隊もおらず早々に無血占領された。
光海軍工廠は光市の光井・島田地区に建設された国内7番目の海軍工廠で、大東亜戦争開戦前年の昭和15年(1940年)10月1日に開庁しました。海軍の兵器工場として、砲煩、水雷、製鋼、爆弾、造機、航空機用魚雷の生産が戦時中においても着実に行われていきましたが、終戦前日の昭和20年(1945)8月14日、米軍の空襲によって施設の7割が壊滅し、700人以上が犠牲となりました。場所を地図で示します。茶臼山から見た光海軍工廠跡地です。戦後跡地には日鉄ステンレスや武田薬品などの工場が建設されました
徳島県南部に浮かぶ無人島ですね。磯釣りしてる方なら絶対に知ってる場所です。オレも磯釣りはしますが・・・正直5回程しか行った事ありません。あまり好きじゃないんですよね。磯割りクジが悪ければ朝からテンション下がるし・・・磯割り良くてもサンデーアングラーですからね。一級磯に上がってもメッチャ人上げてくるし、釣りが楽しくないんですわwww大会で仕方なく行った記憶しかないですね。とか・・・まぁ、釣りの話は置いときましょう。今回の大島は釣りではなく、探索です。戦争遺跡のね。旧海軍の防備所跡が
宿毛海軍航空基地・第21突撃隊本部②現在の遺構の大半が宿毛海軍航空隊以降のもの、とのこと。主な遺構は飛行艇揚陸スロープ(スリップ)、飛行艇の係留場、火薬庫(弾薬庫)、貯油庫、地下壕(格納庫、整備壕、待避壕など)誘導灯。*貯油庫1階:油槽庫、2階:貯油庫ここで水上艇をクレーンで吊り上げて、整備や給油が行われていた。高さ10m・幅5m・奥行き50mくらい、とのこと。*昭和20年3月、第21突撃隊(特設突撃隊)の特攻基地本部が設置され、以下の地下壕はその頃
[勇払平野/鵡川]③鵡川河口トーチカ勇払平野/鵡川*鵡川河口トーチカこの地域で最も重要な場所。トーチカは全部で3基あった。今は1基しか現存していないが、これも柱というか壁が折れてしまった。写真のトーチカ(現存)の備砲は1式機動47ミリ砲消滅した2基の備砲は消滅(1)が92式重機関銃、消滅(2)が92式重機関銃×2内部は海砂の流入もあり、よくわからない。正面の屋根にある突起物。観測所といわれている。鵡川河口はすぐ太平洋
蓋井島(ふたおいじま)は下関市吉母(よしも)の沖合約6kmの響灘に浮かぶ島です。周囲約10kmで、35世帯81人が暮らしています。(令和5年4月1日現在)島中部の金比羅山(標高148m)から南東部の乞月山(こいづきやま)を眺めています。島に渡るには市営渡船を利用します。本土側の吉見港から1日2~3便が往復しており、乗船時間は約40分です。季節や曜日によってダイヤは異なりますが、4~9月の土日祝日なら最大6時間半ほど島に滞在できます。なお吉見港には船着き場の前に有料駐車場(1日400
[沖縄戦]摩文仁沖縄県糸満市摩文仁摩文仁丘では昭和20年1月12日より、第24師団歩兵第89連隊第2中隊によって、複数の坑道式防御陣地の構築が開始されていた(陣中日誌:自昭和20年1月1日至昭和20年1月31日)。昭和20年5月27日21時10分、首里の軍司令部壕を出発した第4梯団(軍司令官・高級参謀他約50名)は、経由地の津嘉山に向かい翌日未明に到着。津嘉山軍司令部壕から摩文仁へ先遣隊を出す。津嘉山軍司令部壕は、南部の島尻方面に敵主力が上陸することを想定して、第2野戦築
横須賀海軍鎮守府第一特攻隊美保基地(第136震洋隊)の格納庫静岡県静岡市清水区三保清水海軍航空隊の甲種飛行予科練習生が、コンクリート製の格納庫や待避壕などの建造に従事した。第136震洋隊基地は三保半島の内側(三保内浜海水浴場)江ノ浦にある。出典:国土地理院1947/10/01(昭22)(USAR236-No.192)震洋はいわゆる特攻兵器で、トヨタ特KC型ガソリンエンジン×2を積んだ小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、搭乗員が操縦して目標艦艇に
私の軍跡探索の中心は山の中や島嶼部にある砲台/見張所ですが、5月~9月は遺構が草木に覆われるため探索はシーズンオフとなりますので、この期間は「山口県の戦争遺跡」を紹介していきます。なおこのカテゴリーで扱う戦争遺跡とは、山口県下に残る軍関係の施設(砲台/見張所は別カテゴリーで紹介)、忠魂碑を除く日清戦争以降の記念碑や銅像および関連物、記念館/博物館の展示物などが対象となります。それでは昨年11月以来となる「山口県の戦争遺跡」カテゴリー再開の一発目は、萩市の椿八幡宮に奉納されている日本海海戦
7回に亘ってお送りした生石山砲台群もこれで最後となります。今回は第四砲台東方谷地に置かれた「生石山電燈」をレポートします。電燈とは夜間に敵艦探知を行う射光機(探照灯)のことです。この射光機が1基と電源供給を行う発電所(電燈機関舎)がセットとなった電燈所が要塞域内の要所に配備されました。由良要塞では、由良地区、友ヶ島地区、深山地区にそれぞれ1つずつ置かれていました。電燈所の履歴です。◆起工:明治31年(1898年)11月1日◆竣工:明治33年(1900年)3月31日◆射光機1基
先日、4年ぶりに小呂島を再訪しましたので砲台の記事を書き直します。小呂島(おろのしま)は玄界灘に浮かぶ福岡県西区に属する島で、姪浜渡船場から北西約40㎞の位置にあります。150人ほどが住む有人島ですが、戦時中この島には陸軍の砲台と海軍の防備衛所が置かれていました。壱岐要塞の砲台位置図で場所を確認します。島に渡るには福岡市の姪浜渡船場から市営渡船に乗船して65分の船旅となります。日帰りできるのは火、木、土、日で、往路は姪浜・午前9時発、復路は小呂島・午後1時20分発の一便のみです
[紀伊防備隊]蒲生田特設見張所(辛)徳島県阿南市椿町蒲生田紀淡海峡、四国側の最東端の蒲生田岬の沖合に伊島があり、ここに対潜見張を主目的とする海軍の防備衛所がつくられた。出典:アジア歴史センター(C08011210100)昭和20年8月31日兵器軍需品施設目録第22嵐部隊出典:アジア歴史センター(C08011206800)紀伊防備隊(3)引渡目録防衛省戦史資料室「電探関係配備一覧表」によれば、蒲生田特設見張所(辛)として新設されたが、着工/竣工など具体的な年月日は不明(昭和2
松代大本営(舞鶴山地下壕)長野市松代町西条3511松代大本営は大日本帝国陸軍において計画・推進されたもので、太平洋戦争末期、皇居・大本営・政府中枢機能移転のために長野県長野市松代地区などの3山(象山=イ、舞鶴山=ロ、皆神山=ハ)を中心に掘られた地下壕群を指す。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。陸軍は昭和19年4月より本土決戦態勢に入る。特に「東京から大本営および政府機関を地方(松代)に移さなければ、本土決戦は行えない」との立場を貫く中堅将校たちは地方への大本営の建設を推進した。中堅
(2022年7月15日に全面書き換え)今日から新しいカテゴリーとして導入する「北九州の防空」では、北九州~関門地区に展開した陸軍の防空部隊を取り上げます。ここで言う防空部隊は主に以下の4つとなります。********************************高射砲陣地…高射砲6門編成を基本とする一個高射砲中隊照空陣地…照空灯や聴音機を有する一個中隊および指揮下の一個分隊電測陣地…電波標定機(対空射撃管制レーダー)を有する一個小隊/分隊警戒機陣地…超短波警戒機(対空警戒レー
花巻防空監視哨(聴音壕/集音壕)岩手県花巻市若葉町2-14-16出典:国土地理院1948/05/15(昭23)USA-R1424-44、抜粋東北・北海道で現存する唯一の聴音壕とのこと。この聴音壕、戦時中は盛り土による「小山」に埋まっていた。火山のような感じ(火口が聴音壕)戦後、盛り土を取り除いたため、聴音壕は露出している。聴音壕直径3.5メートル、高さ3.17メートル、深さ約2メートルレンガ積み(基礎部はコンクリート)上部は集音しやすいようにラッパ状に
◆起工:昭和4年(1929年)5月10日◆竣工:昭和9年(1934年)3月31日◆備砲:四十五口径四十糎加農砲2門(砲塔1基)◆設置標高:45.4m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→豊(とよ)砲台は対馬北端、現在の上対馬町鰐浦に構築されました。釜山の鎮海湾要塞と協力し、朝鮮海峡における敵艦の脅威を排除して航行の安全を図ることを任務としていました。場所はこちら。豊砲台には連装砲塔である45口径40糎加農砲1基が装備されましたが、これはワ
秋水(ロケット局地戦闘機)②呂号乙薬甲液製造装置正式名称「試製秋水」は陸軍、海軍、民間の三者の共同によって開発されたロケット局地戦闘機。秋水全長6.05m、全幅9.5m、全高2.7m特呂2号(KR-10)ロケットエンジン、推力1,500kg1回の飛行に消費する燃料甲液1,149L・乙液536L(この膨大な燃料を3分で使い切る)甲液・乙液とも、異物混入時の爆発の危険性と有機物に対する強い腐食性があったため、陶器(耐酸炻器)が用いられた。*呂号陶器(呂号乙薬甲液
明治中期以降、関門地区は下関要塞地帯と呼ばれるようになり、陸軍は複数の砲台を築城、下関重砲兵連隊を配置して関門の守りにあたりました。昭和期に入ると、陸軍は日本海の島嶼部まで防御ラインを進めましたが、海軍においては、昭和16年10月31日に下関防備隊を開隊して、響灘や下関海峡の海上防衛の任務に就かせることになりました。下関防備隊は下関市吉見に本隊を置いて特務艇や掃海艇を保有するとともに、島嶼部には防備衛所や見張所を配し、対潜哨戒・撃退を主任務として遂行しましたが、太平洋戦争末期の昭和20年
◆起工:大正13年(1926年)9月22日◆竣工:昭和4年(1929年)3月31日◆備砲:五十口径三十糎加農砲2門(砲塔1基)◆設置標高:100m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→「龍ノ崎第一砲台」は、昭和期における第3次築城期の最初に構築された砲台です。対馬南東岸に設置され、壱岐要塞の砲台と協力して対馬海峡東水道を防御し、味方艦船の安全な航行を図ることを任務としていました。対馬の地図で場所を確認します。第一砲台には連装砲塔である5
浦賀船渠(浦賀ドック)1号ドック起工:明治30年(1897年)2月24日竣工:明治32年(1899年)11月26日長さ:渠底(開渠時136.35m→現在180.3m)横幅:渠口下部(開渠時17.88m→現在25.7m)深さ:渠口底中央(開渠時9m→現在10.9m)渠壁・渠底の使用建材:煉瓦(フランス積み)昇降用階段・連絡通路・渠底敷石の仕様建材:安山岩(新小松石)切石降りてみた*排水用
人物紹介3人目は田中義一さんです。義一さんは山縣有朋さん、桂太郎さんと同じく陸軍軍人で総理大臣を務めた人物ですが、本ブログでは軍人に関係する物であれば取り上げていますので、人物紹介が続いていると言うわけです。なお、初代総理大臣の伊藤博文関連の物も萩市には残っていますが、博文さんは軍人ではありませんので紹介はしていません。前置きはさておき、田中義一さんの経歴を簡単に紹介します。田中義一は江戸末期に萩藩の下級武士の息子として生まれました。陸軍軍人として日清戦争(明治27,28年)に従
[呉鎮守府]両城の百階段/二百階段広島県呉市両城1丁目(百階段)広島県呉市両城2丁目(二百階段)呉は平坦な土地が少なく、その平坦な土地は軍の施設や工廠に使われた。それゆえ山の裾野〜中腹にみっちりと住宅が建つ。明治から昭和にかけて両城地区の急傾斜地(最大傾斜45度?)が宅地化された。急傾斜地ゆえ、住人の高齢化問題、車が入らない、建て替えは困難などで空き家が多い。百階段地区百階段の地域は呉鎮守府の海軍士官・将校や軍属商人が多く住んでいた、とのこと。高さ10メートル程もある石垣を
[陸軍高松飛行場]由良山格納庫壕群香川県高松市由良町1050(清水神社)旧高松空港跡地の碑(平成6年3月林地区開発協議会)【要約】ここは昭和の後半から平成の初めまで香川県の空の玄関であった旧高松空港の跡地であるが、旧高松空港の成り立ちは地元との関わりを抜きにしては語ることができない。太平洋戦争の戦局が厳しくなる中、昭和19年1月23日(香川県木田郡)林村に陸軍省から「林村を中心に周辺三町村にまたがる約270ヘクタールに飛行場を建設する」との連絡が入った。5日後の28日、林小学校
[由良要塞](由良/淡路)成山第1砲台兵庫県洲本市由良町由良出典:「現代本邦築城史」第二部第四巻由良要塞築城史(陸軍築城部)(赤は廃止/青は終戦時現役/黒は設置予定)由良地区の由良の対岸、南北(約6.4キロ/砂州は約3キロ)に延びる成ヶ島。北の成山(標高52m)と南の高崎(標高23m)はもともと陸繋島であり、江戸時代初期までこれらは砂州で淡路島と繋がり、砂州の中間付近が湾口だった。北の成山と由良を新川口、南の高崎と由良を今川口と呼ばれている。成ヶ島は中世から近
4年ぶりに再訪した小呂島ですが、一番の目的は電燈所を探すことでした。電燈所は射光機(探照灯、サーチライト)による夜間時の警戒と加農砲の射撃補助が任務でした。要塞砲台に付属設備として構築され、小呂島にも砲台北方島端高地に設けられたことが史料に書かれています。地図で確認します。電燈所の正確な場所は不明ですが、「砲台北方島端高地」は北端にある標高44mピーク以外に考えられませんので、砲台から北に向けて伸びる交通路を辿ってみました。途中から激ヤブになり道をロストする場面もありましたが、
[沼津海軍工廠]沼津高射砲陣地沼津海軍工廠は昭和18年(1943年)6月開設。無線部で電波探信儀、航空無線部で航空用無線機が製造されていた。高射砲陣地はこの工廠の防衛陣地。備砲は12.7センチ連装高角砲、機銃。砲座はみつけられなかった。他、観測所や探照灯などが装備されていたらしいがこちらも遺構は見つからず。*砲台公園静岡県沼津市中沢田1049弾薬庫(砲側庫)が1基ある。入口の爆風避けが独特の形をしている。入口付近には防湿用に塗られたタールが残っていた。
由良要塞](友ヶ島)友ヶ島火薬本庫第5砲台の門柱から軍道を下り60mの地点にある。土塁で仕切られた2つの空間、それぞれの空間内に煉瓦造りの建物の一部が残っている。*出入り口は1カ所(久しぶりに来たら立入禁止のロープが復活。門柱だけ撮って退散)煉瓦製の門柱は1本のみ。もう片方はコンクリート製で土塁の中に埋まっていた。以後、過去に撮影したものを掲載ネ*門柱に近い小さな建屋があった場所遺構は無かったと記憶*2つめの建屋は大きか