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みなさま、こんにちは。ポスチャースタイリスト古谷維久子です。奈良・吉野旅行記①桜以外の魅力~聖地の中の聖地奈良・吉野旅行記②青い仏様奈良・吉野旅行記③日光東照宮のモデル神社奈良・吉野旅行記④源義経と静御前が別れた場所~金峯神社奈良・吉野旅行記⑤露天風呂のあるお宿~景勝の宿芳雲館さん奈良・吉野旅行記⑥南朝跡奈良・吉野旅行記⑦超おすすめ~かまどで炊いた番茶が100円!奈良・吉野旅行記⑧今が見ごろの紅葉(車情報アリ)奈良・吉野旅行記⑨お勧めランチ・古民家
吉水神社【内容】「初期書院造りの傑作」といわれる書院建築で、世界遺産でもあります。作法が「二礼十七拍手一礼」と珍しい形です。17の神様を祀っているからだそうです😳後醍醐天皇が「南朝の皇居」と定め、ここを拠点として「吉野朝」の歴史が始まったそうです。皇居ですから、すごい場所ですね😳ちなみに後醍醐天皇は、ここ吉野の地で病のため亡くなっているそうです。最後の地でもあるわけですね☝️源義経が静御前と弁慶を連れて、頼朝兄さんから逃げのびてきた場所でもあります。境内には、弁慶が追っ手をドン
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。YouTube動画『吉野桜~後醍醐天皇と南朝皇居~』が公開されました。早速紹介させていただきます。↓こちらの方が見やすい方はこちらからご覧下さい。吉野桜~後醍醐天皇と南朝皇居~おにぎり丸と嵯峨仙識が、吉野へ旅してきました。吉野桜と南北朝時代の先頭に立った後醍醐天皇の歴史に触れた旅となっています。沙貴誉(さきほまれ)の名前でブログを書いていますhttps://ameblo.jp/basara-do
4月6日。吉野山をてくてく歩いて、吉水神社へ。入ってすぐのところ、凄い人集り。みんな乗り出してカメラを構えて、向こうに広がる桜の山景色を撮ろうとギュウギュウ。。。でも、確かに、この景色は凄い。。絶景ですね。「一目千本」と書いてありました。吉野の桜。吉水神社と言えば、源義経がここで過ごしたと言われているのですね。頼朝に追われて、この吉水神社に潜伏するも、更に追討の手が、、静御前とここで別れて、弁慶らと吉野の山深くに落ちて行く、、置き去りにされた静御前のものとされる歌、大学時代
こんにちは前回に続き、「いざいざ奈良」タイトルにしましたが、しばらく・・ずっと・・「いざいざ奈良」シリーズが続きそうな予感どんだけ奈良が好きやねん・・って感じですがマジで奈良が好きなんです笑さてさて、明日香を楽しんだ翌週、春日大社へ行ってきました現在、小鹿公開中ですよん鳥居では、鹿が迎えに来てくれました春日の杜の参道は、めちゃくちゃ気持ちいい~今回も、もちろん特別参拝春日大社に来たら、
【奈良】奈良県吉野郡吉野町吉野山にある南朝勅願寺如意輪寺のステキな【御朱印】令和元年5月1日より新たに猫不動尊の御朱印がいただけるようになりました【如意輪寺御朱印】月ごとに印の色が変わるそうです(カラー書き置き御朱印もありました)【猫不動明王】令和元年5月1日開眼法要※撮影許可をいただいております【如意輪寺御朱印】
3月の上旬、雨上がりの気持ち良い翌日奈良の月ヶ瀬梅林へ行きました梅の名所として知られていますが、今回はじめての月ヶ瀬です赤い橋を渡り、川沿いを走って山の下の大きな駐車場に停める事が多いみたいですが、北側から回って山の上の駐車場を目指しましたよその名もズバリてっぺん駐車場駐車場の梅が満開でした車を降りたらふわ〜と香ってきて『来てよかったぁ』と第一声濃いピンクがとっても好き可愛いですこれから咲きそうなツボミがたくさんついていました。(3月上旬)てっぺん駐車場からほ
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。留守から戻って参りました。実は旅に出ていました。奈良県の吉野山へ行ってきました。以前より、桜の時期に吉野山へ行ってみたかったので、今回思い切って訪れてみました。桜も見たかったのですが、もう一つ理由があります。それは第96代の天皇である後醍醐天皇が、この吉野の地で朝廷を樹立し南朝の初代天皇として、京都で北朝の天皇を擁立していた足利尊氏の室町幕府と相対したからです。後醍醐天皇は
吉野では吉水神社⛩️にも参拝菊の御紋吉水神社の参拝は十七拍手👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏口に出して数えてないと忘れてしまいます💦参拝した後に南北朝時代に足利尊氏と対立吉野にて南朝を開いた後醍醐天皇がその際に皇居とされた『吉水院』もゆっくり見学来ました。後醍醐天皇の玉座源義経潜居の間兄の頼朝から逃れるために静御前と武蔵坊弁慶と共に吉野山に落ち延びた場所が吉水神社1594年に豊臣秀吉がおこなった吉野のお花見のレプリカの屏風🌸この吉野のお花見為に錚々たる大名など連れて
2011年9月9日富山県には仏塔が全部で7基あり、内訳は五重塔が1基、三重塔が6基となります。氷見永明院の五重塔と山藤商会の小三重塔は前回紹介済みなので、残りの5基について順次紹介していきたいと思っています。今回は摩頂山国泰寺の三重塔です。国泰寺は高岡市太田にあり、高岡駅から加越能バスが利用できます。この路線バスは氷見を通過するので、氷見永明院の五重塔を撮影した後、氷見駅入り口のバス停から乗車しました。国泰寺前バス停を下りて、約15分ほど歩く必要があります。国泰寺の寺号標開山は慈
⬆️旅立ち当日の朝。霧が出た後、小さな彩雲が🌈☀️『座敷童子に会える宿』として、昔から有名な、岩手県の旅館、緑風荘。ウチには沢山の保護猫がいるので、暫く旅行は行けず終いで。でもキッカケがあり、いつも予約で一杯なのに、偶然キャンセルが出て、ネコ達も留守番出来るようになり…思い切って一泊して来ました‼️座敷童子の名前は、亀麿様。緑風荘の遠い御先祖霊だそう。南北朝時代、後醍醐天皇の家来だった武士の長男で、政争に破れ、岩手まで落ち延びたそうな…。でも、僅か6歳で病死(;
世界の終末を告げるオノゴロ島「隠岐」の謎その22022年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』である。主役は小栗旬が演じる2代執権「北条義時」であるが、この北条義時が「承久の乱」の際に後鳥羽上皇を島流しにした場所が「隠岐」である。小栗旬が演じる北条義時(『鎌倉殿の13人』)まぁ小栗旬はどうでもいいのだが、このタイミングで「北条義時」が主役のドラマが作られるというのには意味がある。脚本を書いている三谷幸喜も主役の小栗旬もそんなことは一切考えてもいないだろうが、世の中に偶然は
大河ドラマの録りだめ2ヶ月分を歴ヲタ会議で刺激された事もあって一気見したん。花山天皇あっけなく騙されて退場してしもた。ナレーションで圓教寺に参詣した言うだけで、圓教寺の紹介してくれへん😡東坂参道麓にある花山天皇、後白河法皇、後醍醐天皇御駐輦跡。ここに乗り物置いたいうことは山道歩いて登った?当時は建造物も少なかったやろうけど、道順は仁王門のある道かな?仁王さんお留守や❗️花山天皇が寄進したらしい大講堂は落雷で焼失。再建された大講堂。花山法皇の再登場の布石やと思うけど、道長と伊周の
全くもって、趣味の領域のつらつら書きです。櫻花詞逸名薄命能伸旬日寿はくめいよくのぶじゅんじつのじゅ納言姓字冒此花なごんのせいじこのはなをおかす零丁借宿平忠度れいていやどをかるたいらのただのり吟詠怨風源義家ぎんえいかぜをうらむみなもとのよしいえ滋賀浦荒翻暖雪しがのうらあれてだんせつひるがえり奈良都古蔟紅霞ならのみやこはふりてこうかむらがる南朝天子今何在なんちょ
朝日新聞小説「人よ、花よ、」一章前半1(8/15)~25(9/8)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりレビュー一覧連載前情報1前半1後半2345678910感想予習のおかげで、楠木正行がどういう人生を歩んだかのレイヤーは整った。そして物語は多聞丸(正行)の二十一歳から始まる。この小説も従来同様、弊ブログ「ブックマーク」の「羊と猫と私」でレビューが始まっている。こちらは毎日の連載状況をリアルタイムで熱く語っており、弊方とは賑わいが段違い。ご訪問あれ
極楽征夷大将軍(文春e-book)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}第169回直木賞受賞作やる気なし使命感なし執着なしなぜこんな人間が天下を獲れてしまったのか?動乱前夜、北条家の独裁政権が続いて、鎌倉府の信用は地に堕ちていた足利直義は、怠惰な兄・尊氏を常に励まし幕府の粛清から足利家を守ろうとするやがて後醍醐天皇から北条家討伐の勅命が下り一族を挙げて反旗を翻した一方足利家の重臣・高師直は倒幕後、朝廷の世が来たことに愕然と
愛知県江南市にある曼陀羅寺公園で、昨日から、「こうなん藤まつり」が始まり、早速、見に出かけた。今日は、曇空で快適な春だ。ここは、両親が毎年、楽しみにしていた場所。両親から、藤の花が綺麗だと聞いていたが、出かけるのは初めて。亡くなった両親の供養も兼ねて見に出かけた。〈ツツジと藤〉〈ボタン〉1970年に寺域の一部が江南市の管理下に置かれてから、藤の名所になり、その広い公園の中、4700m2もの広さがある藤棚は壮観だ。残念ながら、まだ、藤の花は咲き始めだった。しかし、ツツジやボタンなども咲い
JR奈良線の玉水駅下車。歩いて数分。京都府綴喜郡井手町。玉川沿いに1.5km、500本の桜が植っています。ほぼ満開です川沿いには桜が植ってる人を集めて、堤を強化するのに役立ちます。そう、井手町は、昭和28年台風13号直前の南山城水害で上流の大正池が決壊、大被害を受けました桜のトンネルこんなにもすばらしいとは思ってませんでした。穴場だと思ってたら、人が結構いました桜が溢れてる源頼政鎌倉殿の13人後
天皇の名前というのは、ほとんどすべて、死んだあとに後世に贈られる尊称です(生きているときは、単に「ミカド」とか「院」とかです)。この「死後に付けられる呼び名」には、実は二種類あるんです。その天皇の業績などに因んで後世の学者がつけたもの(天智とか天武とか)を「諡号」といい、その天皇が離宮を営んだ、引退後に住んだ場所で呼んだものを「追号」といいます(奈良時代あたりまでは学者も力をこめて天皇の諡号を考えていたんですけど、平安時代になって天皇が実際の政治をしなくなってくると、業績っていってもあんまし何
こんばんは、デジkota9です!突然ですが、室町時代を切り開いた人物として知られる足利尊氏。今回はその足利尊氏が九州に来たことがあるということでその足跡を辿る話なんですが…時の将軍といえば江戸幕府を開いた徳川家康とか鎌倉幕府の源頼朝などは有名ですし、とりわけ家康公ともなると歴史物でしょっちゅう出てきますし、日光東照宮などは世界遺産になるほどで、知らぬ人はいないといった感じです。鎌倉時代と江戸時代を挟む武士の時代の、帝は南北朝に分かれてのちには戦国乱世
こんばんは!吉野の桜、続きです。奥千本から下ってきて、下千本に来ました。大橋今からおよそ700年前、後醍醐天皇(ごたいごてんのう)の皇子、大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)が鎌倉幕府倒幕にむけて吉野山で挙兵します。親王は吉野山を城として立てこもり、幕府軍に立ち向かいます。「太平記」によれば、6万人の幕府軍を相手に3千人の兵で1週間にわたって持ちこたえたといいます。そして、この大橋のあたりは激戦となったようで今でも、攻めが辻と呼ばれています。この激戦地には、敵の侵入をはば
さてさて【賀名生の里歴史民族資料館】を出発し、到着したのは………【賀名生(あのう)皇居跡(堀家住宅)】奈良県五條市西吉野町和田いい雰囲気だあ建武中興に失敗した後醍醐天皇は、延元元年(1336年)12月21日に京都から密かに脱出して、吉野地方に逃れて来たその時、まず留まったところがこの地(旧賀名生村)である。『太平記』にその事が象徴的に記されている。大河ドラマ『太平記』の後醍醐天皇は、品格がありカッコいい演じるは片岡孝夫(現:片岡仁左衛門)だ当時の賀名生は「里遠く人煙幽に、山
4月6日。吉野駅からバスに乗って、如意輪寺で降りました。そこから、坂道をてくてく。。道すがら、さくらの花びらが舞っていました。歩みを止めてふと振り仰ぐと蔵王堂が見える、というのは前前記事「吉野へ」で書いた通りです。如意輪寺に着きました。観光客向けの案内板が出ています。後醍醐天皇ゆかりのお寺さんです。(建武の中興とか、南朝とか、日本史で学びましたね)お寺自体は、10世紀に真言宗のお寺として建立されたのでした。14世紀、建武の中興を行った後醍醐天皇は、足利尊氏の離反に遭い、京を逃
東寺の外周を歩いてみよう。南大門(重要文化財)今の南大門は、明治28年、慶長6年(1601)創建の三十三間堂の西門が移築されたもので、以前の南大門は、明治元年に焼失した。南大門を入ると金堂・講堂・食堂が南から北へ一直線に並んでいる。南大門から東大門へ歩く。築地塀の東南角を「猫の曲がり」と言った。江戸時代より以前、猫は貴人や僧侶などしか飼えない高価な動物だった。だが、江戸時代には猫の数が増え、見た目のかわいさもあって、庶民の間でも飼う人が急増した。特に、養蚕農家では猫は鼠を獲ってくれる神
浦島太郎みたいですが2年半ぶりにブログを再開することにしました。ブログアカウントがが残ってたことが驚きです。病気したり刑務所に入ってた訳でもないし、まだ夜逃げはしていません。そんなに忙しかったこもないのに、なんとなくブログを書かなかったらこんなに時間が経ってました。この2年半の間に僕は白髪が増えて体重も4キロ増えました。ヤバいね・・・3年半前から毎朝欠かさず近所の妙見神社参拝は続けてるし、17年前から毎月欠かさず春日大社の初辰祭に参拝してい
神戸高速線新開地駅徒歩5分兵庫警察署前竹内典之シェフGeorgesBlancHôtelBeau-RivageGenèveフィレンツェやプーリア州等で3軒リーガロイヤルホテル大阪を経て2017年5月15日オープンムール貝・小海老・帆立・トマトエスカルゴバターココット焼き真鯛の香草マリネ、シーザーサラダカリフラワームースパイ蛍烏賊・ベーコン・菜の花ペペロンチーノ→予約時スープへ変更可連子鯛、ベーコンと春キャベツケッパー・焦がしバターソース兵庫産牛フィレ肉、マデラソ
2020年1月4日近鉄の観光特急「青の交響曲」に乗って吉野まで来たけれど、普通電車で一駅逆戻りしました。下車したのは吉野神宮駅です。ここから吉野神宮まで歩いて参拝に向かいます。帰りの電車をチェックして・・・・15分か40分ですね。帰りの電車を12時40分に目標を定め吉野神宮に向かいます。吉野神宮駅前から南へ向かうと直ぐに大鳥居が建っています。鳥居をくぐって「吉野神宮」までの道のりは、少し急坂を約1キロ程(20分ほど)登るそうです。結構な急坂の自
「3つある一条家をそれぞれ解説しよう!」という、連続3回やらかした前企画。「一条家(五摂家)」は、なんだか二条家の解説っぽくなってしまったのですが(もちろん理由があってですよ…無駄に語ったからじゃない!と思う)これに便乗して、二条家の曖昧回避もやってしまおうかな…などと思い立ってしまった…というわけで、今日はそんなお話になります。相変わらず、どこに需要があるんだか分かりませんが(笑)、まぁ自己満足もまた、立派なストレス解消なのでねー。さっそく、wikipediaで「二
津山市院庄にある作楽(さくら)神社には後醍醐天皇と児島高徳が祀られています。津山城鶴山公園で「忠義桜」が流れてたので、ついでに訪ねました。作楽神社のある院庄館跡こちらは鎌倉から室町時代に美作守護所があった場所だそうです。こんな説明板もありました。慶長8年(1603)美作18万石の藩主森忠政は、初代藩主としてこの地に到着し、ここに築城を考えてました。ところが、藩主夫人の兄と重臣の意見が合わず果し合いになり、2人とも亡くなってしまったので、鶴山に変更したそうです。また藩