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鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。七類港フェリーターミナルの無料駐車場です。公衆トイレの近くは満車でした。公衆トイレです。古いけど掃除が行き届いているトイレでした。和式が1つあるだけでした。多目的トイレは洋式ですがウォッシュレットではありませんでした。メテオプラザのトイレはウォッシュレットだったので、そちらを利用することにし
ライバル剥き出しの両県人このタイトルを見て、「あ~あの話か」と思われた年輩の方は多いでしょう。「お互いにライバル意識を剥き出しにする」と言う話で・・・別の言い方をすれば「仲が悪い」とも言えるし、逆に「良き競争相手」とも言える。先に申し上げておきますが、これは当時(昭和)に「そう言えば、そんな話があったな」と言う一時期の状況であり、現在(令和)の若い人は「そんな話は知らない」と言う人がほとんどだと思う。福岡の生まれ育ちの僕が、このことを意識したのは会社人生の中半だった。支店の
1,奥州軍上洛さて、人物帖顕家編3回目ですが。建武2年(1335)11月。ついに後醍醐天皇は足利尊氏討伐を命じます。ここから所謂「南北朝時代」がスタートすることになります。『北畠顕家の旗ー蘭陵王太平記ー』でぜひとも描きたかったものについて、「奥州軍の2度の上洛」があります。箱根・竹之下の戦いで敗れた新田軍を追撃して、足利軍が上洛。それを追い奥州軍も上洛します。彰子「沿道の住民にはご迷惑な気も……」隼人「この時代は基本的に現地調達。つまり略奪な」そろそれ、前の作品のキャラに退場して
如意輪観音本展には、南朝勅願寺である如意輪寺から、秘仏本尊の如意輪観音坐像も、お出ましになっておられました・・・・・・・・写真1、2(↓):如意輪観音坐像(1312年、如意輪寺蔵、本展の絵葉書より)後醍醐天皇、楠木正行らの運命を見つめてきたお顔です・・・深い物思いに耽る目の表情に、ぞくっとするものを感じました・・・また、どこかニヒリスティックな雰囲気も感じました・・・写真3(↓):去年の3月に訪れた如意輪寺の山門奥に見えるのが、
1,元弘の乱終結発売日は一昨日でした。昨日、今日あたりから皆様のお近くの書店へと並びます。さあ!是非ともお手にお取りくださいませ!さて、コラムは第4回。後醍醐天皇は捕縛され楠木正成は燃え上がる赤坂城と共に姿を消しました。乱後、後醍醐は隠岐島へ流罪となりました。これは承久の変の後鳥羽上皇に倣ったもの。千種忠顕など数名の公家が同行しましたが、この流罪に妃で唯一、従ったのが阿野廉子でした。無礼講にも参加していた寵妃で、元は皇后禧子の女房。恒良、宗良、義良の三人の皇子を産んでいまし
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁5日目(10/2)は、知夫里島からフェリーで西ノ島へ移動後、国賀海岸の観光6日目(10/3)は、西ノ島の焼火神社、後醍醐天皇行在所
・少し、読み進んだので2回目を書いておこう。(3回目があるとしたら、室町後期についての他の本を読みこんでから・・)。・まず、「三種の神器」について。特に、本文中に詳しいコメントは無かったと思うが、以下のような整理がなされているようだ。「『吾妻鑑』によれば、1185年(元歴2年)の壇之浦の戦いで、安徳天皇が入水し草薙剣(形代)も赤間関(関門海峡)に水没したとされる。この時、後鳥羽天皇は三種の神器が無いまま、後白河法皇の院詮を根拠に即位している。足利尊氏は後醍醐天皇の建武の新制(あるいは建