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『天勾践を…』天勾践空しゅうする事なかれ時に范蠡無きにしもあらず幼い頃より…何かにつけて父親から…母親から…この言葉を教えられた人は必ず窮地に落ちる…そんな時に無駄な思考も止めこの詩を教えられた年が過ぎ…人との交流から生まれる心の摩擦…そんな時この『詩』を思い出した天勾践は…中国春愁時代の越王范蠡…はその家臣天は決して勾践の事業を無効にはしない窮地にあっても必ず范蠡のような忠臣
楠木正成を代表とする「悪党」とは何か、彼等はなぜ後醍醐天皇のために最後まで戦ったのか、って話をします。「悪党」とは、鎌倉幕府から認められた御家人ではない、「武士とは認められていない」非正規武士のことです。悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」です。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。
◆恋志谷神社◆後醍醐天皇の寵妃を祀る、木津川のほとりにある恋志谷(こいしだに)神社。昔から子授け、安産、婦人病平癒など女性の守り神として信仰されています。毎年4月と9月の祭礼には遠方からも多くの人が訪れます。縁結びや恋愛成就を願う若い女性のパワースポットとしても知られ、最近は男性も訪れるのだとか。境内にハートの石があり、見つけると願いが叶うといわれています。鎌倉時代末期、倒幕の計画が知られた後醍醐天皇は、京都を脱出して笠置山に籠って挙兵しました。それを天皇に想いを寄せていた姫(妃)が
今日の長話。「後醍醐天皇とは、何だったのか」長男より末っ子のほうが可愛いから、そっちを跡継ぎにしたい、と言い出すワガママなヒトって歴史上いっぱいいますが、特に古代から中世の天皇家に多いですね。なんでですかね。要は「優秀な跡継ぎをちゃんと選ばないと家が没落する」という危機感を抱かなくてもすむ、日本で唯一のエライさんの家、だからでしょうかね。「保元の乱」もそうですよね。白河上皇が、長男の崇徳天皇が気に入らず、弟の近衛天皇に位を無理やり譲らせたのが戦争の発端ですからね。それで国ぢゅうが大乱にな
11月20日(木)23日(日)に鎌倉へ紅葉を見に行きました🍁レンバイへ邦栄堂製麺の餃子の皮を買いに行ったら、平日の午前中でしたが売切れ大町の本店も売切れでした・・せっかくなので鎌倉散策🍁へ💨古我邸Gardencafe&bar土日はウェディングや貸切で入れませんが、今日はカフェオープンしていました満席だったので葛原岡神社へ⛩️ここの坂道の傾斜がキツイ・・真っ赤で紅葉見頃でした🍁(11/20)昨年、ハイキングコースで途中で真っ暗になり、遭難するかと半泣きだった⬇︎
本日は修験道の本尊である金剛蔵王権現の修法を伝授していただきました。その昔、役行者が金峯山大峯山上ヶ岳山頂に千日籠居して感得した尊で純粋な日本オリジナルのものになります。国宝蔵王堂から続くこの尾根道を古来多くの方が歩きました。役行者、弘法大師、義経、後醍醐天皇みんな、この道を歩いて移動されたのです。以前、本尊金剛蔵王権現がご開帳された時に参拝させていただきました。とにかくデカい!金剛蔵王権現の行法作法次第はあまり伝えられておらず、今回はご縁がありこの次第を編集された方の友人である私の
先日、奈良の吉野で御朱印めぐりをしてきました!吉野へ行くのは、人生初です!まずはバスで中千本まで行き、そこから徒歩で吉野駅まで下るというルートをとりました。工事中の勝手神社に立ち寄ってから、吉水神社へ。ここは、南北朝時代に南朝の皇居となったところ。京を離れ、山深い吉野で、後醍醐天皇はどんな思いで日々を過ごしていたのでしょう……。御朱印は、勝手神社と2社分セットでいただきました。その後、金峯山寺へ。こちらは蔵王堂。山の上にこれほど立派なお堂があるとは驚きです。木造
吉水神社で参拝です。拝殿です。吉水神社の参拝作法は変わっていて二礼、十七拍、一拝なのです。十七拍は初めてです。四拍は出雲大社で経験ありますがさすがに十七拍は少し戸惑いました。それでも皆さんパチパチされてました。吉水神社参拝後はぜひ神社の中に入ってください。ブラタモリでも紹介されていた源義経潜伏の間がまず見られます。右手の打掛は静御前着用のものだそうです。いきなり度肝抜かれるような展示があります。潜伏の間手前右側には従者武蔵坊弁慶が奥州への逃げ方を思案したといわれる思案の間があります。鎌倉殿
♪天皇の号が世に出てはっと驚く江戸も京都も平安時代初めに即位した村上天皇以来絶えていた「天皇」という尊号が、江戸時代の光格天皇の崩御後874年ぶりに復活したことに、江戸や京都で騒ぎになっているという連歌の発句(ほっく)です。その空白期間に即位した歴代天皇について、たとえば、後醍醐天皇などと今では「天皇」の号をつけて呼んでいますが、それは大正になって政府がそう決めたためです。そもそも、即位中の天皇は「御門(ミカド)」や「今上(きんじょう)」「主上(しゅじょう)