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これは6/11/2021に別ブログで書いた記事の転記です。思うところがあり、再投稿します。護良(もりなが)親王の忠臣・村上義光公は、護良親王を御祭神とする鎌倉宮に、村上社としてお祀りされています。護良親王は、鎌倉幕府から天皇を中心とした国に戻すため、還俗して戦った皇子です。それまで天台座主であられた親王は、仏教のことには目もくれず、比叡山の僧兵相手に武芸三昧の日々を過ごしておられました。太平記に見られるこの記述と、若くして亡くなったこと、尽くした相手
津山市院庄にある作楽(さくら)神社には後醍醐天皇と児島高徳が祀られています。津山城鶴山公園で「忠義桜」が流れてたので、ついでに訪ねました。作楽神社のある院庄館跡こちらは鎌倉から室町時代に美作守護所があった場所だそうです。こんな説明板もありました。慶長8年(1603)美作18万石の藩主森忠政は、初代藩主としてこの地に到着し、ここに築城を考えてました。ところが、藩主夫人の兄と重臣の意見が合わず果し合いになり、2人とも亡くなってしまったので、鶴山に変更したそうです。また藩
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
1331(元弘元)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒のために、挙兵をします。この時に幕府軍の大将として上洛したのは、足利尊氏でした。尊氏率いる幕府軍は後醍醐天皇率いる反幕府軍を簡単に平定し、天皇を隠岐の島に配流させています。つまり足利尊氏と後醍醐天皇はこの時、敵対関係だったわけでして、しかも戦いの結果を見れば後醍醐天皇にとっての足利尊氏は憎んでも憎み切れないほどの天敵のはずです。何しろ天皇でありながら島流しに逢うという屈辱を味わい、もう絶体絶命の状態のはずでした。しかもそ
南北朝の争いは「南朝が正統」で決着しました。北朝の天皇が「北朝1」「北朝2」みたいな脇扱いされているのは、そのときの「政治決着」が今も生きているからです。北朝のスポンサーである室町幕府、足利義満が、三種の神器を南朝から取り戻すための方便として、名目上だけ妥協した、ということです。どういうことか、以下、説明します。天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。後嵯峨上皇という困った人がいて、末っ子が可愛いからといって、兄
小御門神社(こみかど)《皇室が分裂した結果の神社》当社は、全国に15社しか存在しない「建武中興十五社」の1つです。神域は緑が深く、落ち着きのある美しい神社です。(注)建武中興十五社・・・後醍醐天皇に忠誠を誓った皇族、武将などを祭神とする神社。明治時代、国策により創建されました。◇鎮座地:千葉県成田市名古屋898◇最寄駅:JR成田線・滑河駅コミュティバス→小御門神社前バス停◇御祭神:藤原師賢公(ふじわらもろかた)◇社格等:別格官幣社◇御朱印:あり※
藤の季節になりましたね。ちかさんのブログで紹介してあったから、私も藤の花を見たくなって、さっそく出かけてみました。私の家から車で30分ほどの所に住雲寺という寺があり、その昔隠岐に島流しにあった後醍醐天皇と縁がある古刹ですが、それよりも地元では「ふじ寺」で親しまれていて、シーズンになると藤まつりが行われ大勢の人で賑わいます。今年は残念ながら2年続けて祭りは中止になりました。でも藤の花は今年もちゃんと咲いてくれてます。今回も朝早くに行ってみました。
元気です。#奈良#吉野#吉野神宮#後醍醐天皇#ここは自然に咲く花も#元気です#マウントアダプター#ゾルキー#インダスター50mm#オールドレンズ#マニュアルレンズ
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれる鎌倉幕府のクズっぷりが忠実過ぎて草www大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれる鎌倉幕府のクズっぷりが忠実過ぎて草www大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれる鎌倉幕府のクズっぷりが忠実過ぎて草www[解説・講座]三谷幸喜氏の脚本、ナイス。何故、後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒し建武中興を目指したか、理解できる...nico.ms
皇室の歴史では、現在、問題進行中の愛子様や悠仁様のような替え玉入れ替わりがしばし行われていますが、その闇深い歴史は明治天皇すり替え事件でも良く知られています。以前から、長州藩に住んでいた南朝の末裔である大室寅之祐が、江戸時代最後の天皇であった孝明天皇の息子であり、本来なら明治天皇になる筈であった睦仁親王とすり替えられて明治天皇になったという説です。大室寅之祐が孝明天皇の息子と入れ替わって明治天皇になった経緯を明治天皇の実の孫、中丸薫さんから列記すると以下のとおりです。鎌倉時
…南朝を立てた天皇で、崩御後にその冥福を祈る為、尊氏が天龍寺を創建した事でも知られるのは誰か?「後醍醐天皇」は大覚寺統の後宇多天皇の子であり、兄の後二条天皇が若くして崩じたため即位したが、やがては持明院統に皇位を譲らねばならない事になっており、それに不満を抱いた天皇はこうした体制の保証役となっていた鎌倉幕府の討滅を決意した。初めは失敗して隠岐に配流されると云う憂き目を見たが、ついには幕府を滅ぼし、建武の新政を開いた。しかし武士たちの不満を受けた足利