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楠木正成を代表とする「悪党」とは何か、彼等はなぜ後醍醐天皇のために最後まで戦ったのか、って話をします。「悪党」とは、鎌倉幕府から認められた御家人ではない、「武士とは認められていない」非正規武士のことです。悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」です。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁5日目(10/2)は、知夫里島からフェリーで西ノ島へ移動後、国賀海岸の観光18:00「西ノ島総合公園」の駐車場へ到着しまし
皆様、こんにちはまたまたご無沙汰していて申し訳ありませんでした。皆様、お元気でお過ごしでしょうか。まだまだ朝晩は寒いですが、お昼ごろの時間帯になると、だいぶ日差しが暖かくなってきました寒暖の差が激しくなっていますので、どうかくれぐれもお体に気をつけてお過ごしくださいませ今日は、前回の続きで、『阿野廉子』について取り上げたいと思います。後醍醐天皇による、「建武の新政」が始まると、後醍醐天皇との間に3男2女をもうけた廉子は出世して、後醍醐天皇から「准三后」という皇后と同等の位を授
三位局屋形(隠岐郡西ノ島町別府)三位局(阿野廉子)は、後醍醐天皇に扈従して来られた一人で、ここはその居住であったと伝えられ、通称「局屋敷」と云い、「つぼの内」という地名の中にある。因に、三位局は後村上天皇の御生母である。(※現地説明看板より)現地説明看板隠岐の城
「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結した」という捉え方は、あまり実情を反映していないからです。つまり、北朝の天皇は、戦ってもいないし勝ってもいません、実際のところを見れば。足利尊氏や後醍醐天皇のせいで天皇家が二つに分かれちゃった訳では、ありません。天皇家は、尊氏よりずっと以前、鎌倉時代のうちから、「持明院統」と「大覚寺統」の二つに割れて、交互に天皇を出しながら反目していたんです
改めまして新年あけましておめでとうございます。大神神社奈良県桜井市元旦のカウントダウンと同時に自宅を出発、徒歩で地元の氏神様にお詣りした後に向かったのは、大神(おおみわ)神社。二の鳥居で規制線が張られ15分ほど待ちました。「大神」と書いて「おおみわ」と読みますが、地元では三輪明神、通称「三輪さん」と親しまれています。三輪山そのものがご神体であるため、あちこちに拝殿が鎮座されています。正面の拝殿では、皇室御安泰祈願祭である繞
黒木御所(隠岐郡西ノ島町別府)後醍醐天皇は資性英邁、後鳥羽上皇の御意志を継承、鎌倉幕府を討滅して日本の姿を延喜天暦の御代に復そうとの御雄図は空しく挫折し、時の執権北条時高の為この丘陵(天皇山)に配流されました。天皇は京人の「正しき一天の主を下とし流し奉ることのあさましさよ、武家の命運今に尽きなん。とはばかるところなくいう声巷に満ちて、只赤子の母を慕うが如く泣き悲しむ」中を元弘二年(1332)三月七日(御歳45)京を御出発、翌月二十一日この山上に隠岐判官佐々木清高の設えたる黒木御所に着御になり