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新緑の吉野山の寺社散策の中でのハイライトの一つ、世界遺産・𠮷水神社にやってきました。桜の最盛期には境内から中千本から上千本に咲き乱れる山桜を見ることができたでしょうが、残念ながら遅いタイミングの訪問になりました。桜はなくても素晴らしい新緑が綺麗でした。にほんブログ村世界遺産部門のランキングに参加しています。このブログが気に入ったら1日1回、こちらに応援クリックして頂けると嬉しいです。↓↓↓[https://travel.blogmura.com/sekaiis
皇室の歴史では、現在、問題進行中の愛子様や悠仁様のような替え玉入れ替わりがしばし行われていますが、その闇深い歴史は明治天皇すり替え事件でも良く知られています。以前から、長州藩に住んでいた南朝の末裔である大室寅之祐が、江戸時代最後の天皇であった孝明天皇の息子であり、本来なら明治天皇になる筈であった睦仁親王とすり替えられて明治天皇になったという説です。大室寅之祐が孝明天皇の息子と入れ替わって明治天皇になった経緯を明治天皇の実の孫、中丸薫さんから列記すると以下のとおりです。鎌倉時
小御門神社(こみかど)《皇室が分裂した結果の神社》当社は、全国に15社しか存在しない「建武中興十五社」の1つです。神域は緑が深く、落ち着きのある美しい神社です。(注)建武中興十五社・・・後醍醐天皇に忠誠を誓った皇族、武将などを祭神とする神社。明治時代、国策により創建されました。◇鎮座地:千葉県成田市名古屋898◇最寄駅:JR成田線・滑河駅コミュティバス→小御門神社前バス停◇御祭神:藤原師賢公(ふじわらもろかた)◇社格等:別格官幣社◇御朱印:あり※
奈良の吉野の山奥のお寺に行ってきました。如意輪寺っていうお寺です。お寺の境内にはこんなすてきな菊花のお飾りがとってもひっそりとした、山奥のお寺であんまりひとが訪れないんだろなぁ〜ってかんじでした。さて、なぜ、そんな、山奥のひっそりなお寺に行ったのかといいますと。。じゃーん(効果音ちゃんと音読してくださいよ)これですこれ。↓歴女もびっくり!後醍醐天皇のお墓です!!10年以上前に、夢に出てきたんです。後醍醐天皇のお墓。べつにわたし、歴史詳しくないですからね。なぜ後醍醐天皇?
今日は、竹内睦泰さん(通称むっちゃん)の講演から。この方が、本物の武内宿禰の正統後継者で、正統な竹内文書(口伝)を引き継いでいらした方です。既にお亡くなりになられましたが…🙏非常に残念です。竹内睦泰講演会神社とお寺とキリスト教2017年9月16日講演会日本歴史文化研究機構http://rekishibunka.jp/youtu.be室町時代の三代将軍・足利義満の時に、南北朝が合一しまして、これは1392年(いざ国一つ南北朝と覚えます)の事です。その時に、後南朝の96代・後醍醐天皇が北
昨日、ともちゃん(こうざきともこさん)が思考の学校上級講師デビューされましたともちゃんは、和歌山在住のスピリチュアルマスターさんですエステティシャンとして長年活躍されながらたくさんの方々にスピリチュアルマスターとして愛されてきたともちゃん。なぜにそんなに大文字にしちゃうのかはよくわかりませんがうーん、なんか強調しときますね。なんか知らんけど。その愛されっぷりはまだ日にちが決まっていない3か月講座の予約がすでにいっぱいというすごさ。そんなともちゃんがわたしが10
龍蛇の神(りゅうだのシン)このシリーズは、南北朝時代に実在した神官にして武将・大神信房(おおみわのぶふさ)(シン)を主役とし、彼の生き様に思いを馳せ、究明と鎮魂をはかる歴史小説である。目次【龍蛇の神】第1話~神の子~【龍蛇の神】第2話~銭の世~【龍蛇の神】第3話~民の鎖~【龍蛇の神】第4話〜法の末〜【龍蛇の神】第5話〜春の餞〜【龍蛇の神】第6話〜次の賭〜【龍蛇の神】第7話〜天の理〜前編【龍蛇の神】第7話〜天の理〜後編【龍蛇の神】第8話〜賊の首〜【龍蛇
朝、吉野山に来て山頂を目指す時は通り過ぎてしまった吉水神社様に、夫と私は帰りに立ち寄りました。御祭神は後醍醐天皇陛下、楠木正成公、吉水宗信法印様です。https://www.yoshimizu-shrine.com/吉水神社様のすぐ近くには湯元宝の家(ほうのや)さんというお宿が、以前ありました。2020年に出版された奈良のガイドブックが私の手元にあります。どうしてその本を買ったのか全く思い出せないのですがどうも私はその頃奈良に行きたくて色々調べたもの
大きな木には必ず触っとく思考の学校校長の大石洋子です。ところでですね、このお寺、うちから100歩くらい歩いたところにあるお寺なんです。九品寺(くほんじ)って言います。このお寺、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞さんが、当時の鎌倉幕府の権力者だった北条一族のみなさんの菩提を弔うために建てたお寺なんだそうで(最期は北条一族さんみんな自害されたみたいですね、昔の政権交代はそんなかんじだったんですよねえ、そう考えるといまはずいぶん良い世の中になりましたね。)つい最近そのことを知りました。なんと
吉野山巡り最後は竹林院から3キロ山から山へ歩き如意輪寺へ如意輪寺【にょいりんじ】奈良県吉野山の中腹に位置し、春は桜に、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪と四季を感じ自然豊かな中に伽藍が連なっています。当山は、延喜年間(901-923)三好善行の弟で醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人により真言宗のお寺として建立されました。そして、後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた際に、後醍醐天皇の勅願寺と定められ南朝(吉野朝)勅願寺ともなりました。如意輪寺は、南朝と大変深い関わりがあるお寺です。正平二年
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
葛原岡神社は、後醍醐天皇の忠臣日野俊基を祀る神社。俊基は、倒幕を企てた罪で捕らえられ、1332年(元弘2年)6月3日、葛原ヶ岡で斬首されました。例大祭は俊基の命日に行われます。神輿祭神輿祭は6月4日。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆~アジサイの名所~
南北朝の争いは「南朝が正統」で決着しました。北朝の天皇が「北朝1」「北朝2」みたいな脇扱いされているのは、そのときの「政治決着」が今も生きているからです。北朝のスポンサーである室町幕府、足利義満が、三種の神器を南朝から取り戻すための方便として、名目上だけ妥協した、ということです。どういうことか、以下、説明します。天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。後嵯峨上皇という困った人がいて、末っ子が可愛いからといって、兄
大室寅之祐身長-「謎多き明治天皇」―明治天皇すり替え説―孝明天皇の子どもである明治天皇は皇位継承の際、すり替えられたというのである。(詳しくは中丸薫さんの本を買って見ていただきたい)天皇家は南北朝動乱の後、代々北朝の流れをくんでいた。そして、⭕南朝は99代の後亀山天皇で絶えたとされており歴史上では滅亡したことになっている。しかし実は、【南朝である後醍醐天皇の玄孫の更に孫くらいに当たる人物に】⭕大室寅之祐という人物がおり、それを長州藩が育てており、伊藤博文、桂小五郎などが担
令和4年4月25日月曜日、快晴。梅雨の晴れ間、ではないけど今日は快晴、猛暑。27,8℃ありました。夕べ気付かないうちに、またも奥歯の詰め物が欠けていたので、朝一で歯医者に電話。やれやれ、夕方の予約で行って来ました。ついに_金属を被せることになりました、が、ゴールデンウィーク明けの予定。さて。すっかり季節も良くなり間もなく紫陽花の季節ですが。紫陽花といえば鎌倉ですよね。大河ドラマでも人気だし…ゴールデンウィークは混みそうです。甘味処は言うまでもなく行列でしょう、湘南の海
朝日新聞小説「人よ、花よ、」一章前半1(8/15)~25(9/8)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりバックナンバー連載前情報1前半1後半23感想予習のおかげで、楠木正行がどういう人生を歩んだかのレイヤーは整った。そして物語は多聞丸(正行)の二十一歳から始まる。この小説も従来同様、弊ブログ「ブックマーク」の「羊と猫と私」でレビューが始まっている。こちらは毎日の連載状況をリアルタイムで熱く語っており、弊方とは賑わいが段違い。ご訪問あれ!さて多聞丸。年齢から言って当然
バタバタと過ぎていった五月も今日が最後の日になってしまいました。どんよりとした曇り空はもう梅雨に入ったかのようです。そんな忙しさの中偶然お友達家族とお詣りした別格官幣社の一つ小御門神社何時も近くを行き来してはいましたが…参拝するのは初めて境内にひっそりと咲いていた「夏蠟梅」とても印象的でした。身代わりの君が御すがた夏蠟梅御廟の杜に咲いて儚げ後醍醐天皇の身代わりとなって囚われこの流刑地下総の国で三十二歳の命
楠木正成に関する本は、数多く、あるのでしょうが、その息子、楠木正行、楠木正儀に焦点を当てた一般書は、この本くらいなのではないでしょうか。楠木正行・正儀:この楠は正成が子なり、正行が弟なり(ミネルヴァ日本評伝選220)Amazon(アマゾン)2,961〜8,855円楠木正行と、楠木正儀について、簡単に、説明をします。楠木正行は、楠木正成の長男。父、正成が「湊川の戦い」で戦死をした後、楠木一族の棟梁になったものと思われますが、後醍醐天皇は、足利尊氏との戦いに劣勢となり、京都