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2025-04-27華表神社なんて読むんだろ??難しくてよく分からん入りまーすハトがお水を飲みに来てたよお口が赤いバージョン大きな木がありましたご挨拶して出まーすトコトコ〜曲がってから、またコースに戻らなきゃなので、スルーされるお仲間さんも多かったこちらまろんは初めてなので行ってみますよ〜浅香山稲荷神社お仲間さんたちがご挨拶してるので先に境内散策しますん?裏にまわってみよ〜ほぉ〜ご挨拶こちらも〜真後ろくらいまで来たかなご挨拶しときましょ正面に戻ってきまし
吉水神社【内容】「初期書院造りの傑作」といわれる書院建築で、世界遺産でもあります。作法が「二礼十七拍手一礼」と珍しい形です。17の神様を祀っているからだそうです😳後醍醐天皇が「南朝の皇居」と定め、ここを拠点として「吉野朝」の歴史が始まったそうです。皇居ですから、すごい場所ですね😳ちなみに後醍醐天皇は、ここ吉野の地で病のため亡くなっているそうです。最後の地でもあるわけですね☝️源義経が静御前と弁慶を連れて、頼朝兄さんから逃げのびてきた場所でもあります。境内には、弁慶が追っ手をドン
昨日は富山県南砺市にある安居寺(あんごじ)境内にある古墳をアップしました。↑今日取り上げるのはは安居寺境内にある伝長慶天皇御陵です。↑標柱と奥に写る伝長慶天皇御陵標柱:南北朝末期の元中8年(1391年)、長慶天皇(南朝)がこの地で亡くなられたとの言い伝えがある。ちなみに長慶天皇は即位したのか?所説があります↑伝長慶天皇御陵、南側から広角レンズで撮影目測で長さ20メートル弱。方墳もしくは円墳って感じでしょうか?↑近づいて今も安居寺では長
後醍醐アンダーソン天皇鎌倉幕府の後に天下を制したのは持明院統の光明ラビン天皇を擁する足利スクワイア尊氏だった。しかし不満を抱いて京を脱出した大覚寺統の後醍醐アンダーソン天皇はモンセラト吉野に南朝(通称ABWH朝)を開いた。南北朝時代の始まりである。南北朝はそれぞれの正統性を訴えて訴訟合戦を繰り広げ、内戦状態に陥った。後醍醐アンダーソン天皇が開いた南朝は、非商業主義であり、三種の神器(ブルフォード、ハウ、ウェイクマン)を有すると、正統派プログレを主張したが、セカンドアルバムの制作が進まず
小御門神社(こみかど)《皇室が分裂した結果の神社》当社は、全国に15社しか存在しない「建武中興十五社」の1つです。神域は緑が深く、落ち着きのある美しい神社です。(注)建武中興十五社・・・後醍醐天皇に忠誠を誓った皇族、武将などを祭神とする神社。明治時代、国策により創建されました。◇鎮座地:千葉県成田市名古屋898◇最寄駅:JR成田線・滑河駅コミュティバス→小御門神社前バス停◇御祭神:藤原師賢公(ふじわらもろかた)◇社格等:別格官幣社◇御朱印:あり※
大楠公駒返し岩を過ぎると間もなく笠置山。後醍醐天皇の鎌倉討幕活動に端を発する元弘の変における9月29日の笠置陥落に際して笠置を脱出された嵐の夜、後醍醐天皇、萬里小路藤房、季房は、敵の目に止まらぬよう昼間は身を潜め、夜になってから移動しつつ、正成の籠る赤阪城を目指していった。不慣れな地を3日間、彷徨い歩くうちに、一行は現在の井手町多賀の有王山中に迷い込まれた。3日もの間、食事も採れておらず、疲労も限界に達しておられ、山中の谷あいにて、草を寄せ集めて敷物とされ岩を枕に、三者並
ブログにお越しくださりありがとうございます。Mioの蒼月まり(あおつきまり)です。ご予約・お問い合わせはこちら大神神社から吉野神宮へ向かいました。吉野神宮は第96代天皇である後醍醐天皇がお祀りされています。2021年にはじめて参拝させていただき、数年ぶりです。前回参拝した際、粋で雅な後醍醐天皇が素敵で、私はすっかりファンになりました以前Kちゃんにそのことを話したところ、その後Kちゃんも吉野神宮へお参りして速攻で願いが叶った!と喜んでいました^^
ひでです。お早うございます。今居るのは道の駅なら歴史芸術文化村です。新しい道の駅で、TVもフルセグだしWiFiも拾えるし、とってもいい道の駅です。昨日は雨が降る天気予報ですが、行けるところまで行きましょう。流石茶所和束、茶畑ですね~。先ず行ったのは、後醍醐天皇行宮遺址碑です。交差も出来ない道を進みます。奥様から「ひでと来るとこんな道ばっかり。今度からひでだけで旅をせんか?。私は北海道以外は家で待っとる」と言う有難いお言葉を頂戴しました。笑後醍醐天皇は天皇親政を目指して鎌倉幕府を倒すことを計
建武政権崩壊の序章「二条河原の落書」から紐解くプロパガンダの恐さを中心に、何故建武政権が僅か2年で瓦解したかについて、小学生でも分かるレベルで解り易く解説してみました。つまり、建武政権瓦解の直接的キッカケの役割を担ったのは、建武政権樹立一年後に「京童(身元不明の京都市民の何者か)」によって突如建てられた立札で、建武政権の欠点を皮肉たっぷりにこき下ろした「二条河原の落書」の存在。その原文と現代語訳はこちら👇【原文】此比都に流行る物、夜討、強盗、偽綸旨召人、早馬、虚騒動、生頸、還俗、自由出
こんばんは、デジkota9です!突然ですが、室町時代を切り開いた人物として知られる足利尊氏。今回はその足利尊氏が九州に来たことがあるということでその足跡を辿る話なんですが…時の将軍といえば江戸幕府を開いた徳川家康とか鎌倉幕府の源頼朝などは有名ですし、とりわけ家康公ともなると歴史物でしょっちゅう出てきますし、日光東照宮などは世界遺産になるほどで、知らぬ人はいないといった感じです。鎌倉時代と江戸時代を挟む武士の時代の、帝は南北朝に分かれてのちには戦国乱世
大きな木には必ず触っとく思考の学校校長の大石洋子です。ところでですね、このお寺、うちから100歩くらい歩いたところにあるお寺なんです。九品寺(くほんじ)って言います。このお寺、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞さんが、当時の鎌倉幕府の権力者だった北条一族のみなさんの菩提を弔うために建てたお寺なんだそうで(最期は北条一族さんみんな自害されたみたいですね、昔の政権交代はそんなかんじだったんですよねえ、そう考えるといまはずいぶん良い世の中になりましたね。)つい最近そのことを知りました。なんと
1288年11月26日(正応元年11月2日)に第96代天皇の後醍醐天皇が生まれました。鎌倉時代は第89代天皇の後深草天皇の持明院統とその弟の第90代天皇の亀山天皇の大覚寺統の子孫が交互に天皇に即位するという慣例ができていました。後醍醐天皇は大覚寺統になります。しかし、後醍醐天皇はその慣例を破り、自らの子孫に皇位を継がせようとして鎌倉幕府の倒幕を企てます。そして挙兵しますが圧倒的な兵力を持つ幕府軍に敗れて捕らえられ、隠岐島に流されます。そして慣例通り持明院統の光厳天皇が即位します。しか
昨日、ともちゃん(こうざきともこさん)が思考の学校上級講師デビューされましたともちゃんは、和歌山在住のスピリチュアルマスターさんですエステティシャンとして長年活躍されながらたくさんの方々にスピリチュアルマスターとして愛されてきたともちゃん。なぜにそんなに大文字にしちゃうのかはよくわかりませんがうーん、なんか強調しときますね。なんか知らんけど。その愛されっぷりはまだ日にちが決まっていない3か月講座の予約がすでにいっぱいというすごさ。そんなともちゃんがわたしが10
43-6.【奈良県】吉野神宮(よしのじんぐう)御祭神:後醍醐天皇(ごだいごてんのう)鎮座地:奈良県吉野郡吉野町吉野山3226「深吉野」四社巡り丹生川上神社三社(上社・中社・下社)と吉野神宮の四社を一日で巡る「『深吉野』四社巡り定額タクシー」が運行されているようですタクシーではありませんがレンタカーです。。。四社目として吉野神宮に参拝いたしました後醍醐天皇が崩御した際、その像を吉野・吉水院に安置したことが始まりのようです。静寂に包まれた境内。良き参拝でございまし
昨日夕方の情報番組で見て行かなきゃと血が騒ぎ曼陀羅寺公園江南藤まつりに行って来ました30年ぶりです30年前のゴールデンウィーク既に終わりに近い状態藤の記憶がない^^;その時のリベンジ今日は、お天気に恵まれて素晴らしい藤を見ることが出来ました先日の名古屋城の藤はぶっ飛びました^^;御覧ください九尺藤野田白藤本紅藤八重黒龍初めて見ました紫カピタンこれも初めてです藤の名前はパンフレットより時折吹く風に藤のカーテンがゆらゆら藤の香りに酔ってしまいそうなくらい曼陀
2020年1月4日近鉄の観光特急「青の交響曲」に乗って吉野まで来たけれど、普通電車で一駅逆戻りしました。下車したのは吉野神宮駅です。ここから吉野神宮まで歩いて参拝に向かいます。帰りの電車をチェックして・・・・15分か40分ですね。帰りの電車を12時40分に目標を定め吉野神宮に向かいます。吉野神宮駅前から南へ向かうと直ぐに大鳥居が建っています。鳥居をくぐって「吉野神宮」までの道のりは、少し急坂を約1キロ程(20分ほど)登るそうです。結構な急坂の自
南北朝の争いは「南朝が正統」で決着しました。北朝の天皇が「北朝1」「北朝2」みたいな脇扱いされているのは、そのときの「政治決着」が今も生きているからです。北朝のスポンサーである室町幕府、足利義満が、三種の神器を南朝から取り戻すための方便として、名目上だけ妥協した、ということです。どういうことか、以下、説明します。天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。後嵯峨上皇という困った人がいて、末っ子が可愛いからといって、兄
な「逃げ上手の若君」アニメが始まったので、観てます。TVアニメ「逃げ上手の若君」公式サイト松井優征が描く、「週刊少年ジャンプ」で大人気連載中の歴史スペクタクル漫画がついにアニメ化!nigewaka.runなるほど、北条時行が主人公だから、鎌倉を滅ぼした足利尊氏は、問答無用で悪役なのかな、このドラマでは。面白いね。歴史は、視点をひっくり返すと、正義がどちらか、全然違うようにも描けるってことだわな。https://youtu.be/JjOLjAB0bcI-YouTubeYouTube
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
(後醍醐天皇第一皇子・護良親王幽閉の地、土牢)いよいよ鎌倉宮のメインともいうべき「土牢」へ。社務所にて、拝観料300円を払い荒れた裏庭へ入っていきますと、その裏山の麓にそれはありました。最初どこにあるのだろう?と、社殿の周りをウロウロ。社務所で拝観料を払わないといけないようになってました。何の拝観料なのか?書いてなかったので、恐る恐る……。「これって土牢のあるところに行けますか?」と尋ねましたら、そうです、とのお返事。そうだったか、無駄な時間を過ごしてしまいました。これが、
朝日新聞小説「人よ、花よ、」一章前半1(8/15)~25(9/8)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりレビュー一覧連載前情報1前半1後半2345678910感想予習のおかげで、楠木正行がどういう人生を歩んだかのレイヤーは整った。そして物語は多聞丸(正行)の二十一歳から始まる。この小説も従来同様、弊ブログ「ブックマーク」の「羊と猫と私」でレビューが始まっている。こちらは毎日の連載状況をリアルタイムで熱く語っており、弊方とは賑わいが段違い。ご訪問あれ
津山市院庄にある作楽(さくら)神社には後醍醐天皇と児島高徳が祀られています。津山城鶴山公園で「忠義桜」が流れてたので、ついでに訪ねました。作楽神社のある院庄館跡こちらは鎌倉から室町時代に美作守護所があった場所だそうです。こんな説明板もありました。慶長8年(1603)美作18万石の藩主森忠政は、初代藩主としてこの地に到着し、ここに築城を考えてました。ところが、藩主夫人の兄と重臣の意見が合わず果し合いになり、2人とも亡くなってしまったので、鶴山に変更したそうです。また藩
先日、四天王寺で開催中の「春季名宝展天皇家と四天王寺」へ行ってきました。場所はいつもの宝物館。館内へは、靴を脱いでスリッパに履き替えます。拝観料は500円。いつもながら、立派なパンフレットがついてきます。中身は22ページあって、写真と展示キャプションが全点網羅されています。東寺や仁和寺は2つ折りチラシ程度のものですが、四天王寺の場合は"冊子"になっています。毎回、趣向を変えて充実したものを作っていますね。今回の展示はタイトルが「天皇家と四天王寺」なので、天皇や上皇・法皇の書が多数
天龍寺(てんりゅうじ)は暦応二年(1339年)に、吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が夢窓国師を開山として創建された寺院で、康永二年(1343年)には七堂伽藍が整った。夢窓国師の門流は隆盛し、天龍寺は京都五山第一位の寺格を誇った。この地は、壇林皇后(嵯峨天皇の后)が開創した壇林寺のあったところで、後に、後嵯峨上皇の仙洞御所・亀山殿が営まれた。創建以来、延文元年(1356年)をはじめ、8回の大火に見舞われ、現在の堂宇の多くは、明治期に再建されたものである。夢窓国師による曹源池
楠木正成を代表とする「悪党」とは何か、彼等はなぜ後醍醐天皇のために最後まで戦ったのか、って話をします。「悪党」とは、鎌倉幕府から認められた御家人ではない、「武士とは認められていない」非正規武士のことです。悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」です。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。
突然ですが今上天皇の諱(いみな=お名前)をご存知でしょうか?そう、「徳仁」(なるひと)様とおっしゃいます。<以下敬称略>今上天皇は第126代天皇。その前の上皇様は「明仁」(あきひと)。昭和天皇は「裕仁」(ひろひと)。大正天皇は「嘉仁」(よしひと)。明治天皇は「睦仁」(むつひと)・・・あ~もうええわ!とにかく皇室男子の諱(いみな)にはやたらと「仁」の字がつく。今上天皇の弟・秋篠宮皇嗣殿下だって「文仁」(ふみひと)だしね。
足利尊氏が征夷大将軍に任命されたのは、建武五年(1338年)八月十一日、正二位に昇進した時である。これは閏七月に新田義貞が越前国藤島の戦いで戦死した後である。尊氏の征夷大将軍就任に伴い、光明天皇の皇太子であった後醍醐の成良親王が廃止され、光厳上皇皇子益仁親王が皇太子となった。後醍醐が南都に逃亡してもなお、講和条件を維持していたが、この段階で講和を破棄したことになる。これは八月二十八日に暦応に改元している。しかし幕府内伝奏の倦怠のために暦応年号を使用し始めたのは九月からだった。直義も八月十一
この歌の元ネタであるお話の舞台となった場所に行って来ました。岡山県津山市の院庄にある作楽神社。歌碑があるって聞いてたんですが、もしかしたらこれだったのか?左側の「忠義桜南条歌美作」がそうだね。文部省唱歌「児島高徳」は初めて見る歌、もしかしたら蓄音機で聴けるレコード残っているかな?明治2年創建と比較的新しい神社、いかにも国家によって建てられたって感じです。そんなに大きくない神社ですが、きれいに整備されていました。高徳が詩を書いた桜の跡地があると聞いていたので見学させて頂きます。
吉水神社奈良県吉野郡吉野町吉野山旧村社。もとは吉水院と称し、白鳳年間に役行者の創立と伝える吉野修験宗の僧坊であった。明治維新の神仏分離の際、神社に改まった。もとより吉水神社は南朝の元宮であり、後醍醐天皇を祭神とし当時天皇の忠臣であった楠木正成を合祀している。後醍醐天皇南北朝時代第96代天皇にして南朝初代天皇。楠木正成、新田義貞が討たれ進退窮まった後醍醐天皇は、1336年の冬、吉野に逃れてきた。へとへとになり地元の若衆、僧兵たちに守られながら吉野の奥まで辿り着き、ようやくこの吉
「3つある一条家をそれぞれ解説しよう!」という、連続3回やらかした前企画。「一条家(五摂家)」は、なんだか二条家の解説っぽくなってしまったのですが(もちろん理由があってですよ…無駄に語ったからじゃない!と思う)これに便乗して、二条家の曖昧回避もやってしまおうかな…などと思い立ってしまった…というわけで、今日はそんなお話になります。相変わらず、どこに需要があるんだか分かりませんが(笑)、まぁ自己満足もまた、立派なストレス解消なのでねー。さっそく、wikipediaで「二