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1331年倒幕の挙兵後、後醍醐天皇は笠置山に立て籠ったものの苦戦をしいられ、追い詰められた。ある夜、笠置山行在所↑の南庭に立つ巨木の下に一人の武士が額いている夢を見た。この夢から「木へんに南、すなわち楠」という字を思いついた天皇は「このあたりに『くすのき』という武士はおるか」と問い、かくして稀代の名将・楠木正成が歴史の表舞台に登場することに(昔読んだ伝記の記憶をたどった笑)。天皇と謁見した正成は感涙して忠誠を誓い挙兵の準備へ。しかし笠置山は落ち、天皇は隠岐に流される。JR笠置
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁5日目(10/2)は、知夫里島からフェリーで西ノ島へ移動後、国賀海岸の観光6日目(10/3)は、西ノ島の焼火神社、後醍醐天皇行在所
楠木正成を代表とする「悪党」とは何か、彼等はなぜ後醍醐天皇のために最後まで戦ったのか、って話をします。「悪党」とは、鎌倉幕府から認められた御家人ではない、「武士とは認められていない」非正規武士のことです。悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」です。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(9/29)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動9:30七類港を出港して、2時間かけて隠岐・知夫里島(ちぶりじま)の来居港(くりいこう)まで行きます。晴れ渡った空と波穏やかな海で、快適な航海になりま
▼写真AC:nekko_nekonさん提供のフリー素材「吉水神社後醍醐天皇歌碑」1332年隠岐へ流される1318年鎌倉時代末期に、31歳で天皇に即位しました。何度となく倒幕を試み、そのたびに失敗を重ね、後醍醐天皇は西ノ島に配流となりました。後醍醐天皇の住んでいた場所は、海辺の小高い丘の上にあり、遠く別府港を望めます。黒木御所とは、皮がついたままの木のことで「粗末な臨時の御所」という意味があります。向かいに見える見附島が、後醍醐天皇を見張る島です。常に監視されていました。後醍
改めまして新年あけましておめでとうございます。大神神社奈良県桜井市元旦のカウントダウンと同時に自宅を出発、徒歩で地元の氏神様にお詣りした後に向かったのは、大神(おおみわ)神社。二の鳥居で規制線が張られ15分ほど待ちました。「大神」と書いて「おおみわ」と読みますが、地元では三輪明神、通称「三輪さん」と親しまれています。三輪山そのものがご神体であるため、あちこちに拝殿が鎮座されています。正面の拝殿では、皇室御安泰祈願祭である繞
こんにちは、philosophiaです少し間が空いてしまいましたが3泊4日の近畿攻城TRGの続編です。翌日の朝食は、ビュッフェ形式で和食中心にしましたがさすが大阪です!たこ焼きがあったので2ケ追加(笑)食後のエスプレッソ珈琲お世話になった部屋の号室は、誕生日と同じでした!昨夜は夜中に雨が降ったようで、チェックアウトの時気づきました(^^;宿からほど近い、クルマで約10分程で到着したのは<寄手塚・身方塚>南北朝1333年(元弘3年、正慶2年)に後醍醐
YouTube更新。建武の中興を支えた忠勇の後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王を非道にも弑逆した足利尊氏の弟・直義。そしてその首級を寵妃・雛鶴姫が密かに運び山梨の山中に鎮めた。親王の首級が神社の御神体に…日本人が忘れてはいけない大義の史実を解説。
おはようございます(´・ω・`)前回続きを書こうとしたのですが、見逃した場所がありましたので、1ヶ月越しで再訪してきました最寄りの場所から辿ります近鉄吉野線吉野駅から奈良県道37号を南へ走り、2つ目の分岐を右に曲がり、ひたすら道なり(道幅狭くなります)に行くと左側に如意輪寺の駐車場があります駐車場から少し歩くと吉野温泉元湯があり、ここまでは業者のトラックが入って来るので、注意が必要です⚠️吉野温泉元湯🏨ここから先もまだ車道ですが、転回場があるだけで通り抜けはできません。落石が多いので