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世界の終末を告げるオノゴロ島「隠岐」の謎その22022年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』である。主役は小栗旬が演じる2代執権「北条義時」であるが、この北条義時が「承久の乱」の際に後鳥羽上皇を島流しにした場所が「隠岐」である。小栗旬が演じる北条義時(『鎌倉殿の13人』)まぁ小栗旬はどうでもいいのだが、このタイミングで「北条義時」が主役のドラマが作られるというのには意味がある。脚本を書いている三谷幸喜も主役の小栗旬もそんなことは一切考えてもいないだろうが、世の中に偶然は
【天野山金剛寺(こんごうじ)】大阪府河内長野市天野町996【河内長野と『楠公さん』】楠木正成(生年不詳~1336年)正成については、後半生の約5年を除くと史料が残っておらず、その人生の大半が謎に包まれたままである……。【金堂】楠木正成の前半生については、物語や寺伝などでは、現在の千早赤阪村に誕生し、幼い頃は『多聞丸』と呼ばれ、8歳~15歳までは【観心寺】で学問を、加賀田(河内長野市加賀田)で兵法を学んだと伝えられる。この【金剛寺】には、赤坂城で挙兵した正成に【金剛寺】から戦勝祈祷
皆さまわしのブログにアクセスしてくれてありがとうございます。そして、『フォロー』や『いいね』をしてくれる心優しい方々、本当にありがとうございます。いよいよ、5月15日より月組の公演がスタートじゃあな。この公演はトップスターの珠城さんと美園さんの退団公演じゃあな。同時に7名の方が退団、紫門さんと輝月さんが専科へ組み替えとなるの。作品は雪組の望海さんと真彩さんの退団公演『fff』を手掛けた上田先生が描く日本物じゃあな。上田先生の日本物は『月雲の皇子』や『星逢一夜』があり、2
楠木正成が後醍醐天皇から下賜され、自身の旗印に掲げた菊水紋。楠木家の家紋ともいうべき菊水紋をシンボルとして戦前から現在に至るまで掲げてくださっている信太山駐屯地の歴史資料館が「修史館」。向かって中央より左半分は明治天皇の娘婿である北白川宮成久王殿下(野砲兵第1大隊長)の執務室、中央より右半分は、幹部集会場(旧将校集会場)で、明治期の建物としてそのまま現存し、歴史資料館として、幹部集会場は、式典会場や会議場として、今も現役で活躍し続けている。現在も残る木製のしっかりとした窓枠や、手
笠脱神社鎮座地:岐阜県恵那市笠置町毛呂窪森下地区祭神:天津神、国津神、伊邪那岐神、の三柱と由緒にあるが、本当は後醍醐天皇の孫である「尹良親王」であろう。紀元二千八十三年吉野朝の頃、人皇九十六代後醍醐天皇の孫尹良親王、信州宮原の大戦に敗れ忠臣逸見左衛門九郎朝彬なるものに擁せられ大井中山道に出て、笠置山を眺め、「見かえりて笠置の山ときけばこそ都のことなに思うらめ」と詠われ、我住む地は笠置山なりと木曽川の五段の瀬頭を渡り毛鹿母村西之洞当所へ来て、我が笠脱ぎ所と定められた。
今日は笠置山に行きました。奈良の近くの京都の笠置山、朝6時に出発して一時間ちょいで着きました。駅近くに車置いて、歩いたよーん。30分くらい登ったら笠置寺に到着、ここは後醍醐天皇が修行してたところで城跡とか色々ありました。歴史詳しくないので語れず…。歩いてるとめっちゃ大きな石がたくさんあって、圧巻。これは龍神のいる石、来年は辰年やな。ゆるぎ石。この石でっかいけど揺らすことできるねん。思いっきり力で揺らしたった。太鼓石。叩いたらちょっと変わった音がして、感触が石っぽくない。胎
後醍醐天皇が祀られている「吉野神宮」桜井識子『再訪:後醍醐天皇の吉野神宮』後醍醐天皇を応援しに、吉野神宮に行きました。私は、歴史上の人物の中で、一番面白いのは後醍醐天皇ではないかと思っています。会話をしていると、笑わされる…ameblo.jpココ、車を持っていない人が参拝するには、ちょっと「難易度が高い」んですまず、公共交通機関を使うと「近鉄吉野神宮前」で下車することになりますが、そこから「歩道のない道」を1キロ登らないといけません💦かなり「危険」です
今回のお茶会は、もう12月も近いという時期なので、薄茶器は金輪寺が多かった。(写真はネットより借用)お客様のなかに「今日は金輪寺の棗が多いんですが、どうして」と質問された方がいらして、この質問は答えにくい。これは困った質問で、私には、季節のお道具としか、すぐには答えられない。ただ、金輪寺は格の高いお道具とされていて、それは、そのお道具のもつ、いわれがあって、御醍醐天皇が吉野で,衆僧に茶を賜ったときの容器とされたという伝承があるからかもしれない。そのため、年の改まる
碕宮王子(尹良親王の皇子)御陵愛知県豊田市平折町トヤカ子7崎之宮伝説地は、岡崎市中伊町の『南朝若宮社(根の若宮社)』以外にもあった。それは、南朝若宮社から北に10kmほどの場所にある。平折神明宮のすぐ前にある「ひろり集会所」のすぐ裏手にある。平折神明宮の北側の神社の道を挟んだ反対側に階段がある。山道は整備されているし、5分と掛からずに到着するが案内はない。
久丸神社ひさまるじんじゃ御祭神玉柱屋根姫命たまはしらやひめのみこと伊弉冉命いざなぎのみこと田心姫命たごりひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと天穂日命あめのほひのみこと天津彦根命あまつひこねのみこと熊野大隅命くまのおおすみのみこと市杵島姫命いちきしまひめのみこと仁徳天皇由緒延宝6年(1678年)創建。玉柱屋根姫命を祀り、鍬山神社と称したのが始まりです。明治42年に久丸神社と改称しました。例祭は10月に執り行われます。また、この神社には後醍醐天皇の皇
こんにちはAtrioLuceの瑠羽です。↓の続き。『吉野へ①』こんにちはAtrioLuceの瑠羽です。ブログお久しぶりです。忘れないうちに初吉野金峰山寺に連れて行っていただきました。現在,11月30日までご本尊の特別…ameblo.jp(一度書きかけてたのに全部飛んだ、、😭)𠮷水神社のあとはランチ。吉野名物「葛うどん」のセット。麺にもお出汁にも葛がはいっていてのどごしよくあたたまります。肉厚のどんこが美味しいセットの柿の葉寿司も美味しいそういえば道の駅で買ったみ
2020年1月4日近鉄の観光特急「青の交響曲」に乗って吉野まで来たけれど、普通電車で一駅逆戻りしました。下車したのは吉野神宮駅です。ここから吉野神宮まで歩いて参拝に向かいます。帰りの電車をチェックして・・・・15分か40分ですね。帰りの電車を12時40分に目標を定め吉野神宮に向かいます。吉野神宮駅前から南へ向かうと直ぐに大鳥居が建っています。鳥居をくぐって「吉野神宮」までの道のりは、少し急坂を約1キロ程(20分ほど)登るそうです。結構な急坂の自
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
三隈川沿いに佇む「亀山公園(きざんこうえん)」は、日田三丘陵のひとつ“日隈山”を中心とした公園です。\(゜ロ\)(/ロ゜)/東側のみどり橋に架かる水辺にはせせらぎが流れ、歴史的な歌にも詠まれた景勝の地である、日田市を代表する水辺景観地です。(~o~)奇岩にはイチイガシやムク、エノキ等の数百年の老樹が茂り、紅葉の時期に木々を彩ります。また、西側には桜が植えられ、花見の名所としても知られています。(*^o^)/\(^-^*)別名“日隈公園”と呼ばれる公園にはすべり台やブランコなどの遊具もあ
南北朝の争いは「南朝が正統」で決着しました。北朝の天皇が「北朝1」「北朝2」みたいな脇扱いされているのは、そのときの「政治決着」が今も生きているからです。北朝のスポンサーである室町幕府、足利義満が、三種の神器を南朝から取り戻すための方便として、名目上だけ妥協した、ということです。どういうことか、以下、説明します。天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。後嵯峨上皇という困った人がいて、末っ子が可愛いからといって、兄
世の中の歴史マニアのなかには「石田三成絶対贔屓派」というべき人たちが一定数いて、「最近の歴史研究では、北政所は西軍支持だったことが証明されている」なんてことをいいます。しかしね、淀殿が徳川家康に手紙を送って、「三成が謀叛した、助けてくれ」と訴えてる、って記録もあるんですよ。そんなのは本心じゃない、淀殿と秀頼は三成の味方に決まってるじゃないか、って言いますか?その同じ口で「北政所は西軍支持だったのは間違いない、証拠の文書もあるんだから」とか仰るわけですよね。こういうの、贔屓の引き倒しといい
「3つある一条家をそれぞれ解説しよう!」という、連続3回やらかした前企画。「一条家(五摂家)」は、なんだか二条家の解説っぽくなってしまったのですが(もちろん理由があってですよ…無駄に語ったからじゃない!と思う)これに便乗して、二条家の曖昧回避もやってしまおうかな…などと思い立ってしまった…というわけで、今日はそんなお話になります。相変わらず、どこに需要があるんだか分かりませんが(笑)、まぁ自己満足もまた、立派なストレス解消なのでねー。さっそく、wikipediaで「二
20-3建武の新政京都にはいった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、「延喜・天暦の治(えんぎてんりゃくのち)」を理想とし、摂関政治(せっかんせいじ)・院政(いんせい)・武家政治(ぶけせいじ)すべてを否定する政治姿勢をとり、天皇親政(しんせい)をめざして建武の新政(けんむのしんせい)を開始したが、この新政は、3年ほどであえなく失敗することになる。新政が失敗した理由を確認しておきたい。➊妥協的(だきょうてき)な政治機構中央機関として、記録所(きろくしょ)と並んで旧幕府の引付(ひ
臨済宗天龍寺派の大本山足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために後嵯峨上皇の亀山殿の跡地に創建されました世界遺産にも認定されています法堂混雑を避けるべく早朝より訪問でしたが多くの観光客でにぎわっていました外国の方は写真を撮ることにとても熱心ですたくさんの綺麗な紅葉をお土産にされるのでしょうね癒される紅葉にありがとう💗
今日は、竹内睦泰さん(通称むっちゃん)の講演から。この方が、本物の武内宿禰の正統後継者で、正統な竹内文書(口伝)を引き継いでいらした方です。既にお亡くなりになられましたが…🙏非常に残念です。竹内睦泰講演会神社とお寺とキリスト教2017年9月16日講演会日本歴史文化研究機構http://rekishibunka.jp/youtu.be室町時代の三代将軍・足利義満の時に、南北朝が合一しまして、これは1392年(いざ国一つ南北朝と覚えます)の事です。その時に、後南朝の96代・後醍醐天皇が北
●奈良吉野・金峯山寺、吉野朝宮趾、仏舎利宝殿へ11【近畿地方・パワースポット】初めての方へ/メニュー・セッション/お客様の声/問合せ・申込/プロフィール吉野、金峯山寺続きです。蔵王堂を降り、脳天大神さま、龍王院の方へと向かいます。梅も綺麗。階段を下り進むと、吉野朝宮趾があります。(1336(延元元)年、吉水院に難を避けられた後醍醐天皇は、次に蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とされ、寺号を金輪王寺と改められた。後醍醐天皇は悲運の生涯をここで閉じられた
2023.12.6訂正秋元家の神田駿河台にあり、後に館林に移された庭を「寒香園」と書きましたが、正しくは「富春園」の誤りでしたので訂正しました。「寒香園」は元館林藩士の岡谷繁実が角筈(現・西新宿)の秋元家下屋敷跡に開いた農園です。-----------------------------------------------------------------今回は館林を離れて、京都の八瀬にある秋元神社を紹介します。館林の秋元神社に祀られているのが「館林旧藩主秋元氏歴世神霊」で
番組の途中ですが、、ここでニュースです。←N●Kかじゃなかった、桑名遠征の途中ですが、つい先日桜井駅跡に行ってきたので、湊川の戦いの続きです。。湊川の戦いっていやあ、やっぱり“桜井の別れ”抜きでは語れないでしょうというわけで急いでご紹介。↓桜井駅跡史跡公園_遠景JR京都線の線路を挟んだ北側より。周りがのどかなので、公園の木々が目立つ。3月とあって、早くも梅の花が右手前に咲いている。↓12史蹟櫻井驛阯碑(しせきさくらいえきあとひ)阪急・水無瀬(
…ここを行在所として挙兵した史跡でもある山は?京都府相楽郡笠置町の「笠置山」である。標高約289mで、麓から山頂近くまで花崗岩の奇岩巨岩が数多い。原始的な巨岩信仰が、奈良末期には弥勒菩薩像の磨崖仏として具現化され、平安期の末法思想による弥勒信仰と共に栄えた。中世には修験者の修験場となる。後醍醐天皇・行在所(アンザイショ)は、「笠置寺」にあったと云う。隠岐黒木御在所跡*元弘の乱(1331~1333年)とは、後醍醐天皇vs鎌倉幕府の
朝日新聞小説「人よ、花よ、」一章前半1(8/15)~25(9/8)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりバックナンバー連載前情報1前半1後半23感想予習のおかげで、楠木正行がどういう人生を歩んだかのレイヤーは整った。そして物語は多聞丸(正行)の二十一歳から始まる。この小説も従来同様、弊ブログ「ブックマーク」の「羊と猫と私」でレビューが始まっている。こちらは毎日の連載状況をリアルタイムで熱く語っており、弊方とは賑わいが段違い。ご訪問あれ!さて多聞丸。年齢から言って当然
吉野山巡り最後は竹林院から3キロ山から山へ歩き如意輪寺へ如意輪寺【にょいりんじ】奈良県吉野山の中腹に位置し、春は桜に、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪と四季を感じ自然豊かな中に伽藍が連なっています。当山は、延喜年間(901-923)三好善行の弟で醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人により真言宗のお寺として建立されました。そして、後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた際に、後醍醐天皇の勅願寺と定められ南朝(吉野朝)勅願寺ともなりました。如意輪寺は、南朝と大変深い関わりがあるお寺です。正平二年
全くもって、趣味の領域のつらつら書きです。櫻花詞逸名薄命能伸旬日寿はくめいよくのぶじゅんじつのじゅ納言姓字冒此花なごんのせいじこのはなをおかす零丁借宿平忠度れいていやどをかるたいらのただのり吟詠怨風源義家ぎんえいかぜをうらむみなもとのよしいえ滋賀浦荒翻暖雪しがのうらあれてだんせつひるがえり奈良都古蔟紅霞ならのみやこはふりてこうかむらがる南朝天子今何在なんちょ
最強の数字「3」まずはやりすぎ都市伝説SP2016/9/30にて「日本人が3を崇拝する起源」と題してあばれるくんが何かゴチャゴチャやってたけど、別にピンとこなかったw毎回あばれるくんコーナーがつまらん。ずっと関のターンでいいのに。何となくまとめると温泉を「空海」が発見。500年後、「後醍醐天皇」が同じように湧き水発見した的な跡→後醍醐天皇は空海リスペクト?空海が33歳で彫った不動明王像が存在する寺の隣に神社を後醍醐天皇が作る→リスペクト感さらに。あと日本三大投入堂。三朝町三徳山
鎌倉・鶴岡八幡宮の東、天台宗円頓“宝戒寺”。拝観料として300円也。ここは、元は鎌倉幕府執権邸であり、鎌倉幕府(北条得宗家)が倒された後、北条氏の供養の為、後醍醐天皇の命により足利尊氏が建てた寺。こちらが本堂。本尊は、延命地蔵菩薩。↓本堂の中に上がらせて頂き、本尊並びに脇侍各尊像に合掌。本堂脇には、水琴窟。↓鎌倉の古寺仏像と四季の花を訪ねる(楽学ブックス)[原田寛]楽天市場1,760円${EVENT_LABEL_01_TEXT}花の寺社彩
1,「新たに新田家を興す者」新田義興さて、今回は新田義興、義宗兄弟について。まず、義興は新田義貞の次男です。義顕の弟になります。生年は元弘元年(1331)であり、2年後に上洛した義貞は、ほとんどこの息子の成長を見ていないことになります。母親は上野一宮貫前神社の神主・天埜(あまの)時宣の娘です。この天埜時宣がどのような人物か分かっていませんが、「天野」なら実は『銅の軍神』に大きく関わっています。これは次回、いや、次々回かな。世に出るのは建武4年(1337)のこと。北畠顕