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皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。YouTube動画『吉野桜~後醍醐天皇と南朝皇居~』が公開されました。早速紹介させていただきます。↓こちらの方が見やすい方はこちらからご覧下さい。吉野桜~後醍醐天皇と南朝皇居~おにぎり丸と嵯峨仙識が、吉野へ旅してきました。吉野桜と南北朝時代の先頭に立った後醍醐天皇の歴史に触れた旅となっています。沙貴誉(さきほまれ)の名前でブログを書いていますhttps://ameblo.jp/basara-do
4月6日。吉野山をてくてく歩いて、吉水神社へ。入ってすぐのところ、凄い人集り。みんな乗り出してカメラを構えて、向こうに広がる桜の山景色を撮ろうとギュウギュウ。。。でも、確かに、この景色は凄い。。絶景ですね。「一目千本」と書いてありました。吉野の桜。吉水神社と言えば、源義経がここで過ごしたと言われているのですね。頼朝に追われて、この吉水神社に潜伏するも、更に追討の手が、、静御前とここで別れて、弁慶らと吉野の山深くに落ちて行く、、置き去りにされた静御前のものとされる歌、大学時代
先日、四天王寺で開催中の「春季名宝展天皇家と四天王寺」へ行ってきました。場所はいつもの宝物館。館内へは、靴を脱いでスリッパに履き替えます。拝観料は500円。いつもながら、立派なパンフレットがついてきます。中身は22ページあって、写真と展示キャプションが全点網羅されています。東寺や仁和寺は2つ折りチラシ程度のものですが、四天王寺の場合は"冊子"になっています。毎回、趣向を変えて充実したものを作っていますね。今回の展示はタイトルが「天皇家と四天王寺」なので、天皇や上皇・法皇の書が多数
奈良県在住やましたひでこ公認断捨離®トレーナーおくだみねですお立ち寄り頂きありがとうございますランキングに参加してます↓↓↓”神様のおつかい”小鹿ちゃんをポチッと応援、よろしくお願い致しますにほんブログ村ありがとうございます引きつづきお読み頂けますと幸いです下千本、中千本、上千本の桜が葉桜になっている昨日観光客がガクンと減った吉野へ行ってまいりました上千本の更に上奥千本
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。留守から戻って参りました。実は旅に出ていました。奈良県の吉野山へ行ってきました。以前より、桜の時期に吉野山へ行ってみたかったので、今回思い切って訪れてみました。桜も見たかったのですが、もう一つ理由があります。それは第96代の天皇である後醍醐天皇が、この吉野の地で朝廷を樹立し南朝の初代天皇として、京都で北朝の天皇を擁立していた足利尊氏の室町幕府と相対したからです。後醍醐天皇は
皇室の歴史では、現在、問題進行中の愛子様や悠仁様のような替え玉入れ替わりがしばし行われていますが、その闇深い歴史は明治天皇すり替え事件でも良く知られています。以前から、長州藩に住んでいた南朝の末裔である大室寅之祐が、江戸時代最後の天皇であった孝明天皇の息子であり、本来なら明治天皇になる筈であった睦仁親王とすり替えられて明治天皇になったという説です。大室寅之祐が孝明天皇の息子と入れ替わって明治天皇になった経緯を明治天皇の実の孫、中丸薫さんから列記すると以下のとおりです。鎌倉時
如意輪寺へ向かってひたすら歩いて行きました。やっと到着。ここもお参りする人は、少なかった。御朱印を戴く時も、ベルを押しました。後醍醐天皇御霊殿太平記で、有名な楠公父子(正成、正行)の桜井の別れの石像多宝塔南朝と深い関わりがあるお寺です。本堂宝物殿には、後醍醐天皇、楠正行ゆかりの品々がありました。後醍醐天皇陵は裏山にありました。ひっそりとしています。遺詔に沿って京の空を睨むように北面して造られているので、北面の陵とも呼ばれている、とのこと。京に帰りたかったんだろうね。宮内庁が管
後醍醐天皇の側近の一人で、大僧正・第3代東寺座主・第66代醍醐寺座主を務めた文観僧正が施したとされる立川流に関して、いい加減な都市伝説が蔓延しており、先日も、弊会へ、『立川流』を基準にして建武を評する誤った認識下でのご意見が届けられた。この誤認識は、後醍醐天皇が建武や中興に掲げた理念についての認識をミスリードさせかねぬ深刻な問題と考える。そのため、当amebloとYouTube投稿に至った。僧侶ではない者や修行の経験すら無いような者が、著作やメディア等で中途半端な知識を以て流布
3月の上旬、雨上がりの気持ち良い翌日奈良の月ヶ瀬梅林へ行きました梅の名所として知られていますが、今回はじめての月ヶ瀬です赤い橋を渡り、川沿いを走って山の下の大きな駐車場に停める事が多いみたいですが、北側から回って山の上の駐車場を目指しましたよその名もズバリてっぺん駐車場駐車場の梅が満開でした車を降りたらふわ〜と香ってきて『来てよかったぁ』と第一声濃いピンクがとっても好き可愛いですこれから咲きそうなツボミがたくさんついていました。(3月上旬)てっぺん駐車場からほ
吉野では吉水神社⛩️にも参拝菊の御紋吉水神社の参拝は十七拍手👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏口に出して数えてないと忘れてしまいます💦参拝した後に南北朝時代に足利尊氏と対立吉野にて南朝を開いた後醍醐天皇がその際に皇居とされた『吉水院』もゆっくり見学来ました。後醍醐天皇の玉座源義経潜居の間兄の頼朝から逃れるために静御前と武蔵坊弁慶と共に吉野山に落ち延びた場所が吉水神社1594年に豊臣秀吉がおこなった吉野のお花見のレプリカの屏風🌸この吉野のお花見為に錚々たる大名など連れて
【奈良】奈良県吉野郡吉野町吉野山にある南朝皇居吉水神社の【限定御朱印】勝手神社復興祈念として平成28年10月中旬より限定500枚にて頒布されています「楠公」さんのお力をお借りして焼失してしまった勝手神社の復興をしたいという意味が込められている「御朱印」との事「御朱印」を通じて少しでもご協力出来れば嬉しいです「吉水神社限定御朱印」(書き置きタイプ)名物宮司様
3月27日に、吉野へ行ってきました。桜は、咲いてませんでした今年は、例年より開花が遅いです。大阪阿部野橋から特急で吉野に到着。平日で、二両編成でした。吉野みてあるきの散策ルートの図を手にして、ロープウェイを横目に七曲りを上って行きました。桜!?がちょっとだけ咲いてました。割ときつい坂でした七曲りも終点。大橋に辿り着きましたおよそ700年前、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が幕府軍と激戦した場所と伝えられています。大橋の説明黒門黒門の説明弘願寺吉野山寺宝めぐりに載ってました
今日は愛知県春日井市にある2基の古墳をアップします↑1基目は大留(おおどめ)荒子古墳、西側より移築再現古墳です。場所はこちら:35.254278,137.016655備忘録:左端に写っている軽自動車が今回利用したトヨタレンタカー、ピクシス。↑大留荒子古墳の解説板直径約10メートル、7世紀前半築造の円墳。元の場所は北西へ200メートルほどの箇所。↑横穴式石室の開口部↑石室内部の様子須恵器、金環、鉄刀、鉄鏃などが出土。
神戸高速線新開地駅徒歩5分兵庫警察署前竹内典之シェフGeorgesBlancHôtelBeau-RivageGenèveフィレンツェやプーリア州等で3軒リーガロイヤルホテル大阪を経て2017年5月15日オープンムール貝・小海老・帆立・トマトエスカルゴバターココット焼き真鯛の香草マリネ、シーザーサラダカリフラワームースパイ蛍烏賊・ベーコン・菜の花ペペロンチーノ→予約時スープへ変更可連子鯛、ベーコンと春キャベツケッパー・焦がしバターソース兵庫産牛フィレ肉、マデラソ
「日本」を封印した「聖徳太子」その14聖徳太子の謎を調べれば調べるほど「物部氏」が登場する。4世紀に秦氏が渡来して以降、天皇は基本的に秦氏で皇后は物部氏の王族であった海部氏の娘、それも特殊な力を持った巫女が選ばれてきた。天照大神の神意を下ろすことのできる姫巫女と天皇陛下というのは必須の組み合わせなのである。天皇陛下というのは役職で、その字が示すように「天の白く輝く王」=天照大神の階下にいて、その神意を下々の者に述べ伝える役割、つまり天照大神の預言者ということである。よって天皇陛下自身
〈南北朝〉三部作、第1弾『悪党の裔』、第2弾『道誉なり』、そして第3弾『楠木正成』。『楠木正成』上巻裏表紙時は鎌倉末期。幕府の命数はすでに尽き、乱世到来の情勢下、大志を胸に雌伏を続けた男がひとり――。その名は楠木正成。畿内の流通を掌握した悪党は、討幕の機熟するに及んで草莽の中から立ち上がり、寡兵を率い強大な六波羅軍に戦いを挑む。日本史上屈指の軍事的天才と称される武将の真の姿を描く、北方「南北朝」の集大成たる渾身の歴史巨編。第1弾『悪党の裔』は赤松円心を中心にして大塔の宮護良親王、足
天皇の名前というのは、ほとんどすべて、死んだあとに後世に贈られる尊称です(生きているときは、単に「ミカド」とか「院」とかです)。この「死後に付けられる呼び名」には、実は二種類あるんです。その天皇の業績などに因んで後世の学者がつけたもの(天智とか天武とか)を「諡号」といい、その天皇が離宮を営んだ、引退後に住んだ場所で呼んだものを「追号」といいます(奈良時代あたりまでは学者も力をこめて天皇の諡号を考えていたんですけど、平安時代になって天皇が実際の政治をしなくなってくると、業績っていってもあんまし何
吉水神社【内容】「初期書院造りの傑作」といわれる書院建築で、世界遺産でもあります。作法が「二礼十七拍手一礼」と珍しい形です。17の神様を祀っているからだそうです😳後醍醐天皇が「南朝の皇居」と定め、ここを拠点として「吉野朝」の歴史が始まったそうです。皇居ですから、すごい場所ですね😳ちなみに後醍醐天皇は、ここ吉野の地で病のため亡くなっているそうです。最後の地でもあるわけですね☝️源義経が静御前と弁慶を連れて、頼朝兄さんから逃げのびてきた場所でもあります。境内には、弁慶が追っ手をドン
朝日新聞小説「人よ、花よ、」一章前半1(8/15)~25(9/8)作:今村翔吾挿絵:北村さゆりレビュー一覧連載前情報1前半1後半2345678910感想予習のおかげで、楠木正行がどういう人生を歩んだかのレイヤーは整った。そして物語は多聞丸(正行)の二十一歳から始まる。この小説も従来同様、弊ブログ「ブックマーク」の「羊と猫と私」でレビューが始まっている。こちらは毎日の連載状況をリアルタイムで熱く語っており、弊方とは賑わいが段違い。ご訪問あれ
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
突然ですが今上天皇の諱(いみな=お名前)をご存知でしょうか?そう、「徳仁」(なるひと)様とおっしゃいます。<以下敬称略>今上天皇は第126代天皇。その前の上皇様は「明仁」(あきひと)。昭和天皇は「裕仁」(ひろひと)。大正天皇は「嘉仁」(よしひと)。明治天皇は「睦仁」(むつひと)・・・あ~もうええわ!とにかく皇室男子の諱(いみな)にはやたらと「仁」の字がつく。今上天皇の弟・秋篠宮皇嗣殿下だって「文仁」(ふみひと)だしね。
2020年1月4日近鉄の観光特急「青の交響曲」に乗って吉野まで来たけれど、普通電車で一駅逆戻りしました。下車したのは吉野神宮駅です。ここから吉野神宮まで歩いて参拝に向かいます。帰りの電車をチェックして・・・・15分か40分ですね。帰りの電車を12時40分に目標を定め吉野神宮に向かいます。吉野神宮駅前から南へ向かうと直ぐに大鳥居が建っています。鳥居をくぐって「吉野神宮」までの道のりは、少し急坂を約1キロ程(20分ほど)登るそうです。結構な急坂の自
3連休を取りました。向かったのは島根県の日本海に浮かぶ離島、人生初めての隠岐です。目的は後醍醐天皇や後鳥羽上皇が遠流された所に行ってみたかった、です。でも一番大きな理由は期限が迫っていたマイルの消化です。最近の僕の旅は「マイル消化旅」と化しています。思いっきり早起きして羽田空港に向かいました。往路は飛行機で「羽田空港→出雲空港→隠岐空港」のスケジュールでした。しかし予定のJAL便がまさかの整備不良?にて機種機体変更、そして大幅遅延です。出雲空港から隠岐空港までは1日1便しかあり
⬆️旅立ち当日の朝。霧が出た後、小さな彩雲が🌈☀️『座敷童子に会える宿』として、昔から有名な、岩手県の旅館、緑風荘。ウチには沢山の保護猫がいるので、暫く旅行は行けず終いで。でもキッカケがあり、いつも予約で一杯なのに、偶然キャンセルが出て、ネコ達も留守番出来るようになり…思い切って一泊して来ました‼️座敷童子の名前は、亀麿様。緑風荘の遠い御先祖霊だそう。南北朝時代、後醍醐天皇の家来だった武士の長男で、政争に破れ、岩手まで落ち延びたそうな…。でも、僅か6歳で病死(;
「3つある一条家をそれぞれ解説しよう!」という、連続3回やらかした前企画。「一条家(五摂家)」は、なんだか二条家の解説っぽくなってしまったのですが(もちろん理由があってですよ…無駄に語ったからじゃない!と思う)これに便乗して、二条家の曖昧回避もやってしまおうかな…などと思い立ってしまった…というわけで、今日はそんなお話になります。相変わらず、どこに需要があるんだか分かりませんが(笑)、まぁ自己満足もまた、立派なストレス解消なのでねー。さっそく、wikipediaで「二