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「奈良国立博物館」「奈良国立博物館新館」地下空間が素晴らしいです。ゴールデンウィーク、やっと晴れた5/5子供の日。奈良国立博物館の「吉野・大峯特別展」に行ってきました。古来人の山岳修行始まりの地である吉野・大峯の山々がいわゆる金峯山(キンプセン)と呼ばれ、役行者(エンノギョウジャ)の前に、岩から湧き出るように蔵王権現(ザオウゴンゲン)が登場したと言われています。大峯山寺(オオミネサンジ)には、たくさんの人が蔵王権現さまのお像を納めていったことからお像が現在に伝わっている
後村上天皇は後醍醐天皇の第7皇子で第97代の天皇になる。父の遺志を継いで北朝勢力と戦って各地を転戦したが、京都を回復することは叶わなかった。墓は河内長野市寺元の観心寺にある檜尾陵で、宮内庁により管理されていて、立ち入ることはできない。なお、観心寺は後村上天皇が一時期行宮とした地でもあるので、山門脇には「後村上天皇御舊蹟」の石碑が建てられている。
令和8年5月4日(月・祝)今日は「緑の日」で祝日となっている。雨も上り、天気になってきたので、嵐山の天龍寺に行くことにした。9:00過ぎ頃に嵐電嵐山駅に到着する。既にかなりの人出となっていた。天龍寺は京都五山筆頭の臨済宗禅宗の寺院であり、足利尊氏・後醍醐天皇縁の寺院でもある。世界遺産にもなっており、庭園や雲龍図、達磨大師図などで知られる。〈天龍寺〉大方丈。山門。境内図。多数の塔頭が点在する大本山である。当時は、今以上の寺領を有していたようだ。塔頭弘源禅寺。虎嘯の庭と毘
24年ぶりに高校の時の同級生と会いました私に合わせてお仕事を無理やり休み取ったみたいで、申し訳なかったけれど無理しても会えて良かった一緒に作楽神社(さくらじんじゃ)にお参り鎌倉幕府の打倒に失敗し囚われの身となった後醍醐天皇が京から隠岐の島へ流される時の宿泊地備前国の土豪児島高徳が護送の途中で後醍醐天皇を解放しようと企てここまで追跡したけれど思い叶わず、庭に単身潜入し桜の幹を削り十字詩を刻んだ『天(てん)、勾践(こうせん)を空(むな)しうすること莫(なか)れ。時に范蠡(はんれい)無き
「吉水神社(よしみずじんじゃ)」源義経が兄の頼朝に追われ、ここで5日間過ごしました。その後山伏の姿になって敵の目を欺きながら、弁慶とともに大峰山に逃げていきます。大峰山は女人禁制だったため、愛する静御前とここで悲しい別れをします。一連のエピソードは、「義経千本桜」というお話になり歌舞伎や浄瑠璃などで取り上げられています。また足利尊氏に追われて後醍醐天皇が南朝を開いたのも、ここになります。豊臣秀吉もここを中心に大規模な花見を行いました。義経千本桜古典新訳コレクション(
昨日、奈良国立博物館で4月10日から6月7日まで開催中の特別展「神仏の山吉野・大峯蔵王権現に捧げた祈りと美」を初めて観覧させてもらいました。気になっていた展覧会でしたが前期(5月10日)の展示に間に合いました。大河ドラマ「光る君へ」で藤原道長役を演じられた俳優の柄本佑さんがナビゲーターを務められた音声ガイドを借りて会場を回らせてもらいました。如意輪寺の、如意輪観音坐像と蔵王権現立像は以前、吉野山を訪ねた時に何度も拝見しましたが、これだけ間近で観る機会は無かったので感激しました。
明治から昭和の戦前まで、南北朝時代の天皇は「南朝が正統」とされ、異論は許されませんでした。現実の天皇は北朝の子孫なのに。たとえ学問の分野でも、うっかり足利尊氏や北朝を擁護するようなことを言うと、ヒステリックに非難され、弾圧されました。なんでか?明治維新、という政治運動が「南朝正統」という思想をドグマとしていた、からです。幕末に活躍した「討幕の志士たち」が自分たちの活動の基盤とした思想は、「とにかく天皇は神聖で、天皇に逆らう者は悪である」という「尊皇思想」というヤツです。天皇の意志に叛
藤の花の他にもいろいろ咲いていました…曼荼羅寺公園を散歩です愛知県江南市ツツジクロバナロウバイよく見ると三本松葉ですレンゲツツジキングサリ???オオヤマレンゲと言っていたような・・・曼荼羅寺のほかに常照院・霊鷲院・修造院・本誓院・光明院・世尊院・寛立院・慈光院と隣り合っていますそれぞれの庭には花や木や石で作庭してありとても楽しみなところです曼荼羅寺は1324年後醍醐天皇の勅願により創建された由緒あるお寺です
昨日の妙顕寺の続きです妙顕寺https://shikaishodo-myokenji.org/京都|日蓮宗大本山妙顯寺後醍醐天皇に認められてより700年、秀吉も常宿に京都市上京区に位置するこの場所は春は桜が咲き誇り、秋は紅葉が境内を覆う五感で感じとれる日本の清麗な美しさを堪能する時間をshikaishodo-myokenji.org枯山水の🌸桜を見て奥のお部屋へ移動しました小さな竹林がある坪庭私は妙顕寺の竹林の坪庭が凄く好きですお部屋は凄く広い椿が満開お部屋か
異形中先代の乱4回目八月二日、足利尊氏は京を離れた。後醍醐天皇の許しは得ていなかった。新政府に出仕していた足利の家臣たちも尊氏に従って京を出た。『虎が野に放たれた』後醍醐天皇の側近たちは尊氏の東国下向を恐れた。一方、逃走中の足利直義は途中で成良親王を京に送り返し、直義自身は三河国の矢作で留まった。鎌倉の反乱軍を攻撃するためである。直義に従っている兵は二万騎だった。ここで直義は反乱軍に反抗するための軍の再編を行なった。鎌倉に向かう尊氏の許に、近江・美濃・尾張・遠江・
どーも、castom98です。以前の記事で、中津川市にございます鉄砲池古戦場や夜泣き石などの史跡をご紹介しました。『岐阜県中津川市鉄砲池古戦場』どーも、castom98です。今回はクルージング中に発見した史跡をご紹介します。岐阜県中津川市にございます、鉄砲池古戦場です。訪問したのは2025年8月です…ameblo.jp『岐阜県中津川市夜泣き石』どーも、castom98です。今回はドライブ中に偶然発見した、岐阜県中津川市にございます夜泣き石です。訪問したのは2025年
久しぶりにあのお寺さんに行って見ることにしました茶ろん俵屋さんの近くにあります俵屋さんは満席だったので頭を切り替えて妙顕寺https://shikaishodo-myokenji.org/京都|日蓮宗大本山妙顯寺後醍醐天皇に認められてより700年、秀吉も常宿に京都市上京区に位置するこの場所は春は桜が咲き誇り、秋は紅葉が境内を覆う五感で感じとれる日本の清麗な美しさを堪能する時間をshikaishodo-myokenji.org山門の前の枝垂れ桜はまだ満開ではなかった
今年2026年、3月24日から5月6日迄金峯山寺「蔵王堂」にて開催されている金剛蔵王大権現の「特別御開帳」に行ってきた。ある真言宗のご住職に御縁を頂いて整体院を開業した2011年からなのでもうかれこれ15年は通っている。今回、改めて金峯山寺の成り立ちに関する歴史の勉強をしたところ…今まで知らなかった事が沢山あったので共有する為、ブログに残すことにした。◼️「金峯山寺」とは本来100を超える仏塔寺院の総称でその総門が「黒門」◼️「金峯山」とは
「昭和の日」今日は、尊氏と高氏とはみなさんおはようございます昭和天皇のご生誕日ですかつては「みどりの日」と言っていましたが「昭和の日」となりましたシラス道をひたすら歩まれた貴い天皇であられましたウキウキを伝える、卯月、4月暦を大切に(笑顔で)「小川翔護とハタラク仲間たち(OHN)」ご参加いただいた皆様、いつもありがとうございます4月29日は北条高時から一字をもらい「高氏」その後、後醍醐天皇の尊治から一字をもらい「尊氏」そして
異形中先代の乱2回目十五日、反乱軍と鎌倉将軍府軍は八幡河原・福井河原・村上河原で戦いに及んだ。十八日、諏訪頼重と北条時行は上野国に進攻した。十九日から二十二日までの戦いで、鎌倉将軍府の岩松四郎・岩松経家・渋川義季・今川範満・小山秀朝などの有力武将が次々と討ち死にした。二十二日、足利直義が自ら武蔵国の井出沢で反乱軍と戦い敗北した。反乱軍の攻勢が京の新政府に報告された。後醍醐天皇を中心とする政権は反乱軍に揺らいだ。足利尊氏は反乱軍の討伐のため、東国に下向することを計画した。
異形中先代の乱1回目後醍醐天皇による新政が世の中を安定させることはなかった。当初、多くの人々が新政に期待を寄せたが、期待は裏切られた。とくに武家は著しく不満を持った。後醍醐天皇の政治は公家に甘く、武家に辛かった。不公平を感じた武家たちは、源氏の嫡流たる足利尊氏を新たな拠りどころにした。建武政権は内部に不和を抱えて迷走していた。京では、後醍醐天皇と足利尊氏のあいだでの競合が激しさを増していた。地方では、不満を蓄積した武士たちが北条一族を担ぎ反乱を起こした。建武二年(1
世界遺産、奈良県・吉野を散策してみたその1(*^-^*)先日は幼なじみ、Hくん夫婦に誘われて奈良県の吉野観光へ出掛けました。行きは特急「さくらライナー」で大阪阿部野橋から乗車です。私ひとりでは、まず、行くことはないですね。お誘いは、ありがたくもあり、うれしくもあります。吉野駅からバスに乗り、中千本エリアにきました。花見季節も終わり、今回は世界遺産エリア吉野の散策です。まず、最初は建物そのも
異形建武の新政5回目後醍醐天皇に使嗾された護良親王は建武元年(1334)六月七日に足利尊氏を捕らえるため、兵を率いて足利邸に攻め寄せた。しかし尊氏は足利邸にいなかった。阿野廉子から報せを受けていた尊氏は、難を避けるため身を隠していたのである。護良親王の尊氏逮捕の計画は失敗に終わった。後醍醐天皇は護良親王を見捨てた。『足利邸襲撃』の責任はすべて護良親王の罪とされた。建武元年十月二十二日の夜、護良親王が参内したところを武者所の名和長年と結城親光の兵によって捕らえられた。後
奈良国立博物館で公開講座に参加したあとは、開催中の特別展「吉野・大峯蔵王権現に捧げた祈りと美」を観てきました展示は、ざっくり分けると信仰的な部分と、後醍醐天皇が南朝の拠点とした政治的な部分、そして桜のイメージとともに文化的な部分…かな〜という印象でした。たくさんの蔵王権現さんたちを観ることができて、いろんなサイズやタイプがいるんだな〜と見比べることができました。そして、公開講座のテーマでもあった、藤原道長の埋納経と経筒も観ることができました『金峯山経塚出土藤原道長埋納経について』先
登場人物覚え書き|高峰明日香の明日はどっちだ!人物・設定はコチラ↑あすか「楠木正成って人は、近畿地方の武人だったんだけど、彼の過去を知る者はいない。『太平記』によれば、鎌倉幕府を倒そうと挙兵した後醍醐天皇が夢の中で『楠』という者を頼れとお告げがあって、探させてみたら楠木正成にあたったという話だよ。鎌倉時代後期の話だ」あすか「それまで無名だった楠木正成は、後醍醐天皇に忠誠を違った。やがて幕府軍は後醍醐天皇の要塞とする山に放火し、後醍醐天皇と側近をとらえてしまう。だけど天皇の第三王
一旦、住吉大社さんから、出ようとしたのですけれど。夫婦楠を見て、仲良さそうで羨ましいですねえと、ため息をつき。千年楠を見て、ご長寿で羨ましいですねと、うつむきます。オマエが長生きしたら、地球の迷惑やて、くそポンコツアル中変質者っそ、そんな影響力はないと思いますけど。さて、今度こそと、住吉大社さんの南東側に出てきますと。そこには、車返しの桜がありました。ここで、車を降りて、返されたのかなと思いきや。後醍醐天皇が、こちらの桜を見るために、車を戻してこられたのだとか。それほど、見事な
後醍醐天皇の詩碑の辺り散った桜が地面に落ちてその様子も見事でした。、
今回は怖い日本史のカテゴリに入る内容です。立川流(たちかわりゅう)は、オカルトフアンならご存知だと思いますが、真言系密教の一流派で、淫祠邪教の代名詞のようにあつかわれています。ちなみに、字は同じですが立川流(たてかわりゅう)と読むと、故立川談志師匠が創設した落語団体のことになります。どっから話していきましょうか。まず、立川流の教義および儀式ですが、これははっきりわかってはいません。というのは、立川流は徹底的に弾圧され、独自の経典などは焚書ですべて失われているからです。現在残っ
異形建武の新政4回目元弘四年(1334)正月、恒良親王が皇太子に立坊された。生母は阿野廉子である。廉子は中宮の西園寺家禧子が元弘三年(1333)十月十二日に崩御したのち、後醍醐天皇の寵愛を一身に集めた人である。和歌を詠む才能と容姿は禧子に及ばなかったが、廉子は後醍醐天皇の政策を助ける才能はあった。新政を行う朝廷は所領問題、とくに訴訟や恩賞のことで混乱していた。鎌倉幕府が滅んでも、社会は安定しなかった。そんな中、武士たちは新政に参画していない足利尊氏に望みを託した。尊氏
吉野には、世界遺産金峯山寺の本堂である国宝の蔵王堂があります。すこしだけ、階段をのぼっていきます。桜の木と思われる木が見えました。木を組んでいました。この中に、「金剛蔵王大権現3体」がいらっしゃるのです。普段は秘仏で拝見することはできないのですが、特別ご開帳を、毎年春と秋に期間を定めて行っているらしく、このたび、その近くで拝むことができました。写真を撮ることができないものでしたので、画像をお借りします。この3体はとてもとても大きくて、暗
異形建武の新政3回目元弘三年(1333)六月十五日、朝廷は旧領回復令を発布した。続いて朝廷は寺領没収令・朝敵所領没収令・誤判再審令を出した。土地の所有権・訴訟の申請には後醍醐天皇の綸旨が必要であった。そのため土地所有権の認可を申請したい者は京に殺到してきた。後醍醐天皇一人では裁き切れなくなった。七月、朝廷は諸国平均安堵令を発した。後醍醐天皇は朝敵を北条一族のみとし、知行の安堵を諸国の国司に任せた。事実上、後醍醐天皇は『天皇の裁断』を撤回したのである。八月、朝廷は記録
2026年4月20日に、兄が友人たちと奈良県の吉野山を散策しましたので、そのときの様子を記事にします。この日は、吉野山蔵王堂特別拝観券きっぷ(3,460円)を利用したということでした。大阪阿部野橋駅から近鉄16600系「Ace」の特急に乗車し、吉野駅に着いたところです。吉野駅の駅舎です。吉野山の麓に位置し、特徴的な社殿風の駅舎になっています。奈良県吉野町にある「七曲坂(ななまがりざか)」です。この周辺は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部に指定されています。吉野
私が今まで強い権力に対峙する時、そうですね、典型的には小田原市長だった守屋輝彦やそれと手を組んだ小田原箱根商工会議所会頭らと対峙した2020-2024年。小田原で最も権力を持っている市長と経済界のトップを敵に回して、巨大権力に挑んだんですからね。並大抵の事じゃないんですよ。だから、私は第二次加藤政権では、市長を作り替えた責任者としてふるまっているのです。議員でもなんでもない市民で間違いなく「最強市民」だったと思います。私は何の後ろ盾もなく、自分でこの地位を築いてきたので
異形建武の新政1回目後醍醐天皇は五月二十五日、詔を出して光厳天皇の退位を宣言した。復位した後醍醐天皇は光厳の即位自体をなかったものとし、正慶の年号を廃止したのである。さらに後醍醐天皇は光厳が出していた詔書や官位を無効とし、関白であった鷹司冬教を解任した。後醍醐天皇は五月二十八日に帰京した。元弘三年六月、後醍醐天皇は建武の新政を開始する。まず後醍醐天皇は功労者を顕彰した。結城親光、名和長年、楠木正成、千種忠顕らが第一功臣とされた。世の中の人々は彼らのことを『三木一草』と
高山寺から五分ほど歩いたところに小見山城趾がある。林の中に二段の平らな広がりがある。桃畑やイチゴの観光農園の営業の関係で立ち入りができないことがある。ごく近くまで車で行ける山城というのは稀少である。城跡は高山寺の土地であるとのこと。写真は小見山城の入り口、少しいって右に曲がりあとは小道を歩く。小見山城は小見山氏の山城である。のちに毛利氏の城となるがその後も維持された。小見山氏は「太平記」の中に出てくる。太平記は南北朝の動乱を描いたもので後醍醐天皇や北条氏や楠木正成、足利尊氏などの動向