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あの時代について。あの時代とは、足利尊氏や後醍醐天皇、楠木正成、新田義貞などが登場した南北朝時代のことである。南北朝時代この約六十年の間でも、名のある人物はきわめて多い。北条高時、足利直義、高師直、護良親王、北畠顕家、佐々木道誉などなど、だ。にもかかわらず、世上こんなことが言われている。南北朝時代はなぜ小説になりにくいのか?この問いに対して、作家・司馬遼太郎は、興味深いことを言っている。わたしの感じでは、どうも小説にならない。なぜ小説にならないのか。自分でもよくわかりません。(
葉室麟『星と龍』朝日新聞出版楠木正成が主人公。後醍醐天皇、足利尊氏、新田義貞、赤松円心。鎌倉幕府打倒を目指す人々と出会い、共に戦い、そして分裂する様子を描く。最新の研究で「悪党」と評されてきた楠木正成の実態が明らかになりつつある。その成果をふまえながら、時代の転換期に実力と智謀を使って世に出ようとする正成の鮮やかな活躍ぶりを描く。一方で、「悪党」というアウトローであるがゆえに、やがて迎える「破滅」をにおわせながらも、ひたむきに生きる正成は多くの人の共感を
大河ドラマ「太平記」を今NHKBS4Kで再放送している。35年前(1991年)の作品。大好きだった「鎌倉殿の13人」の続編みたいな感じで、あの義時が亡くなってから約100年後のドラマ。未だ7話しか見てないけど、話が分かりやすく惹き込まれる😁今も大活躍されている俳優さんが沢山出演されていて凄いなぁ〜😲(宮沢りえ・沢口靖子・陣内孝則・柳葉敏郎・高嶋政伸・大地康雄・勝野洋・片岡仁左衛門など)今放送中の「豊田兄弟」はバタバタしていて軽い感じでイマイチ😢どうも秀吉の演技が大袈裟過ぎて好きに
カンヌ映画祭公式インスタ、レッドカーペットの大悟の写真投稿も醍醐虎汰朗と勘違いタグ付け大失敗(日刊スポーツ)-Yahoo!ニュースフランスで開催中の世界3大映画祭の1つ、第79回カンヌ映画祭で最高賞パルムドールを競うコンペティション部門に出品された、是枝裕和監督(63)の新作映画「箱の中の羊」(29日公開)の公式上映が16日news.yahoo.co.jp笑笑笑っちゃいけないけど..後醍醐天皇みたいなね..これは芸能界だし笑えるミスだけど教育業界はね事務方のミス、タレントにとっ
4月20日に私はとある美術館に行く為銀座を歩いておりました銀座三越ではコスメデコルテの宣伝をしていらっしゃいました💓それにしても大谷翔平君って本当に素晴らしい顔相をなさってますよね〜💕三越の屋上は相変わらず賑わっていました春の花から初夏の花に移っていました百合やアジサイの枝がぐんぐん伸びています❗️ライラックが咲いていました出世地蔵尊様と三囲神社様にいつものように近況報告をいたしました🙏途中、何やら行列があったので見てみると、あのシヅカ洋菓子店
権威の朝廷と実権の幕府元寇もその中の大きな事件の一つでしたが、日本も歴史の中でその歴史の灯火が消えそうなことが何度かありました。しかし、この日本という国は、必ずそのたびに甦って繁栄を築いてきました。南北朝動乱や戦国時代は、室町時代を挟んで、日本の歴史の中では特異な時代だと思います。日本の歴史上、国内が無秩序になるほどの戦乱というのは、多くはありません。また、世界史上の時間にしてもたと比較して長い混乱があったとはいえません。世界史上は、ほとんど文明の興亡だともいえるほどです。実際世界史
ゴールデンなウィークも終わりました皆様、いかがお過ごしでしたでしょうか?今年はほぼほぼカレンダー通りで休めまして虚弱なくせに相も変わらず飛び回っておりました神さんのお遣いや最近は仏さんのお遣いまで幅広くやらせていただいてますwww最近ずっと月2くらいのブログ投稿需要はないとは思いますが…書ききれてないのはインスタのストーリーと投稿をわりにリアルタイムでアップしてますのでどんな神仏のお遣いしてるのか見てやってくださいませモダンな陰陽師まあみ
異形新政の崩壊2回目建武二年十一月二日、足利直義は新田義貞追討の軍勢催促の御教書を四国・西国の武将たちに宛てて発給した。恩賞宛て行ない、軍勢催促状、足利氏が後醍醐天皇の建武政権から離脱したことは明らかであった。朝廷は足利尊氏に謀叛の意図ありと判断した。十一月二十二日、後醍醐天皇は足利尊氏追討の綸旨を発した。十一月二十六日、後醍醐天皇は勅勘を持って足利尊氏を解官した。新田義貞の関東下向が決定した。義貞は足利尊氏を討つ『錦の御旗』を得た。後醍醐天皇の怒りを知った尊氏は恐懼
朝廷政治の揺り戻しとしての建武の新政実は、フビライは三度目の日本遠征を計画していました。モンゴル帝国がこのまま負けたままでは威信にかかわります。フビライは、本腰を入れて中央肝煎りで企画しました。が、反乱が起き、これがフビライ時代最大の危機となったようです。唐の時代もそうでしたが、チャイナが安定しているとき、日本はいつも危機を迎えます。逆の時は、日本は安泰のようです。それは、時代が変わっても同じようです。2度の元寇後、鎌倉幕府は衰退していきます。いってみれば、鎌倉幕府はすっかり体力を使い
異形新政の崩壊1回目鎌倉に居座り続ける尊氏は10月に細川和氏を京に派遣して、後醍醐天皇に『君側の奸』を除くように奏上した。標的にされたのは新田義貞だった。一義貞の鎌倉幕府に対する蜂起は、尊氏の六波羅攻略を知ってからである。一鎌倉幕府討伐は足利千寿王の功績である。一尊氏が北条の残党と戦っている間、義貞は京で尊氏を讒訴している。以上が尊氏の奏上の内容である。尊氏は新田氏の本領である上野国の新田荘を麾下の三浦高継に与えていた上に、今度は義貞の誅罰までも求めて来たのである
先日、『神仏の山吉野・大峯―蔵王権現に捧げた祈りと美―』を見に奈良国立博物館へ行ってきました修験道の祖、役行者が開いた大峯山寺。このお寺は、女人禁制で普段女性が立ち入ることはできませんそんな大峯山寺からなんと!この度、仏様が下山してきてくれました(人に背負われてです)‼️これを逃したら一生拝む事が出来ないかもしれない‼️秘仏の蔵王権現様の御尊顔を拝見しようと奈良まではるばる行ってきました感想は、もう感動ですこんなに沢山の蔵王権現様を拝見できるなんて✨秘仏中の秘仏に手を合わせる事も
異形中先代の乱9回目尊氏は上杉憲房に新田義貞の分国である上野国の守護職を任せた。上杉家は尊氏の生母・清子の生家である。尊氏から褒賞を受けた将士は尊氏を尊んで『鎌倉殿』と呼んだ。『鎌倉殿』の呼称は源頼朝以来のことである。将士は尊氏を源頼朝の再来と見なしていた。鎌倉に武家政権樹立の気運が満ちて行った。関東の武士たちは足利尊氏の許に集結した。この流れは誰にも止めることができなかった。建武の新政に失望していた武家たちが『自らの君主』を求めていたのである。京の後醍醐天皇の周
異形中先代の乱8回目後醍醐天皇は鎌倉に駐屯し続ける足利尊氏を危険視した。後醍醐天皇は尊氏に対抗できる者を探した。ひとりの武士が後醍醐天皇の目に留まった。新田義貞である。新田氏は河内源氏の支流である。鎌倉時代の新田氏は足利一門のひとつと見做されていた。それほどに官位も所領も足利に比べて低かったのである。義貞には鎌倉を攻めて北条氏を倒したという功績があったが、義貞が足利千寿王と合流したことで関東の武士が集まったと言われるほど身分格差があった。後醍醐天皇は足利対策として新
私が行く2週間前位に、この場所で発見されました。この場所は「宮下文書」の地図で墓になっていましたが、つまり本当に少なくとも墓では有るのは間違いなかったのでしょう。南朝天皇家の墓発見!-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be【南朝北朝が出来た理由】鎌倉時代の後半に皇室が二つに分かれたのです。後嵯峨天皇(上皇)が自分の二人の子に皇位を継
5月の和菓子教室は御手洗だんごでした個人的に御手洗だんごは苦手かなぁ………………と思っていましたがタレを作り絡めまーす昆布だしにとろみをつけるのに吉野葛を今まで食べてきた御手洗だんごはなんだったんだろー😀嫌いから好きになった瞬間がありましたちなみに御手洗だんごは5個らしいですみたらしだんごの由来丸い団子5つを竹串にさし、醤油のたれで付け焼にしたものをなぜか、みたらし(御手洗)団子という。御手洗とはもともと、神社詣でのさいの浄めの泉水のこと。するとトイレに御手洗と書
異形中先代の乱7回目北条時行が鎌倉から逃亡した。北条軍が鎌倉を占拠して、わずか二十日余りのことだった。八月三十日、後醍醐天皇が小山朝氏を鎌倉に派遣して来た。後醍醐天皇は足利尊氏を下野国の国司兼守護に補任した。そして後醍醐天皇は足利尊氏に『恩賞あてがい』を行なわないようくぎを刺した。さらに尊氏にすぐの帰京を命じた。これらは後醍醐天皇による尊氏への懐柔と拘束である。尊氏は側近らに、「京に帰るか」と問うた。「なりません」反対の声があがった。彼らは武家政権樹立と鎌倉
こんばんわ神女シャンリーラです🌟昨日の神女(かごめ)降臨についてお読みくださりありがとうございました。『神女(kagome)が降りました』こんばんわ。シャンリーラです。正確には一昨日の夜から私のエネルギー刷新拡大が起きついには今宵(現在2:50)新しい流れの封印が解かれました。…ameblo.jpそして神女となった翌日の今日導かれるように東慶寺さんへ。久しぶりにお邪魔しまし
5月8日、鎌倉市大町にある「日蓮宗妙法寺」に行って来ました。1253年日蓮聖人がここ鎌倉松葉ヶ谷(まつばがやつ)を布教の拠点として小庵を結ばれたのが妙法寺の始まりです。中興開基とされる第5世の日叡聖人は後醍醐天皇の皇子である大塔宮(だいとうのみや)護良(もりなが/もりよし)親王の子です。つまり後醍醐天皇の孫にあたる方です。1357年日叡聖人は悲壮な最期を遂げた父である護良親王の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためこの地に堂塔伽藍を復興されました。日蓮聖人が他宗派を非難した為、1260年「松葉ヶ
清正の枕石へ。海岸線を歩く。想像していたより距離がある。だが、不思議と足は止まらない。波の音だけが続く。その先に、静かに現れる石。ただの岩ではない。そこに残る名前と歴史が、この場所の空気を変えている。なぜだろう。時間の積み重ねというものは、人の感覚まで変えるらしい。最後に向かったのは、帝井。後醍醐天皇の皇子、義良親王のために掘られた井戸だという。静かな場所だった。派手さはない。だが、その背景を知ると見え方が変わる。この島には、ただ景色があるわけじゃない。歴史そのも
「奈良国立博物館」「奈良国立博物館新館」地下空間が素晴らしいです。ゴールデンウィーク、やっと晴れた5/5子供の日。奈良国立博物館の「吉野・大峯特別展」に行ってきました。古来人の山岳修行始まりの地である吉野・大峯の山々がいわゆる金峯山(キンプセン)と呼ばれ、役行者(エンノギョウジャ)の前に、岩から湧き出るように蔵王権現(ザオウゴンゲン)が登場したと言われています。大峯山寺(オオミネサンジ)には、たくさんの人が蔵王権現さまのお像を納めていったことからお像が現在に伝わっている
後村上天皇は後醍醐天皇の第7皇子で第97代の天皇になる。父の遺志を継いで北朝勢力と戦って各地を転戦したが、京都を回復することは叶わなかった。墓は河内長野市寺元の観心寺にある檜尾陵で、宮内庁により管理されていて、立ち入ることはできない。なお、観心寺は後村上天皇が一時期行宮とした地でもあるので、山門脇には「後村上天皇御舊蹟」の石碑が建てられている。
令和8年5月4日(月・祝)今日は「緑の日」で祝日となっている。雨も上り、天気になってきたので、嵐山の天龍寺に行くことにした。9:00過ぎ頃に嵐電嵐山駅に到着する。既にかなりの人出となっていた。天龍寺は京都五山筆頭の臨済宗禅宗の寺院であり、足利尊氏・後醍醐天皇縁の寺院でもある。世界遺産にもなっており、庭園や雲龍図、達磨大師図などで知られる。〈天龍寺〉大方丈。山門。境内図。多数の塔頭が点在する大本山である。当時は、今以上の寺領を有していたようだ。塔頭弘源禅寺。虎嘯の庭と毘
24年ぶりに高校の時の同級生と会いました私に合わせてお仕事を無理やり休み取ったみたいで、申し訳なかったけれど無理しても会えて良かった一緒に作楽神社(さくらじんじゃ)にお参り鎌倉幕府の打倒に失敗し囚われの身となった後醍醐天皇が京から隠岐の島へ流される時の宿泊地備前国の土豪児島高徳が護送の途中で後醍醐天皇を解放しようと企てここまで追跡したけれど思い叶わず、庭に単身潜入し桜の幹を削り十字詩を刻んだ『天(てん)、勾践(こうせん)を空(むな)しうすること莫(なか)れ。時に范蠡(はんれい)無き
「吉水神社(よしみずじんじゃ)」源義経が兄の頼朝に追われ、ここで5日間過ごしました。その後山伏の姿になって敵の目を欺きながら、弁慶とともに大峰山に逃げていきます。大峰山は女人禁制だったため、愛する静御前とここで悲しい別れをします。一連のエピソードは、「義経千本桜」というお話になり歌舞伎や浄瑠璃などで取り上げられています。また足利尊氏に追われて後醍醐天皇が南朝を開いたのも、ここになります。豊臣秀吉もここを中心に大規模な花見を行いました。義経千本桜古典新訳コレクション(
昨日、奈良国立博物館で4月10日から6月7日まで開催中の特別展「神仏の山吉野・大峯蔵王権現に捧げた祈りと美」を初めて観覧させてもらいました。気になっていた展覧会でしたが前期(5月10日)の展示に間に合いました。大河ドラマ「光る君へ」で藤原道長役を演じられた俳優の柄本佑さんがナビゲーターを務められた音声ガイドを借りて会場を回らせてもらいました。如意輪寺の、如意輪観音坐像と蔵王権現立像は以前、吉野山を訪ねた時に何度も拝見しましたが、これだけ間近で観る機会は無かったので感激しました。
明治から昭和の戦前まで、南北朝時代の天皇は「南朝が正統」とされ、異論は許されませんでした。現実の天皇は北朝の子孫なのに。たとえ学問の分野でも、うっかり足利尊氏や北朝を擁護するようなことを言うと、ヒステリックに非難され、弾圧されました。なんでか?明治維新、という政治運動が「南朝正統」という思想をドグマとしていた、からです。幕末に活躍した「討幕の志士たち」が自分たちの活動の基盤とした思想は、「とにかく天皇は神聖で、天皇に逆らう者は悪である」という「尊皇思想」というヤツです。天皇の意志に叛
20260501連休を利用し古道の仕上げとも言える大峯奥駈道へ前泊含め5泊6日の行程吉野〜熊野へ南下する「逆峯ぎゃくふ」※8世紀、役行者が開いたルートは熊野〜吉野へ北上する「順峯じゅんぷ」熊野詣が盛んになった事から中世ごろ逆峯が一般的になった名古屋から近鉄で大和八木まで行き前泊橿原かしはら市はCAPCOM社長の出身地との事でストⅡのリュウや春麗の銅像があります良いけど…小っちぇ!なんか顔とかポーズがイメージと違うな〜はどーけん!やっやっやっやっ!K!O!橿原市×ス
藤の花の他にもいろいろ咲いていました…曼荼羅寺公園を散歩です愛知県江南市ツツジクロバナロウバイよく見ると三本松葉ですレンゲツツジキングサリ???オオヤマレンゲと言っていたような・・・曼荼羅寺のほかに常照院・霊鷲院・修造院・本誓院・光明院・世尊院・寛立院・慈光院と隣り合っていますそれぞれの庭には花や木や石で作庭してありとても楽しみなところです曼荼羅寺は1324年後醍醐天皇の勅願により創建された由緒あるお寺です
昨日の妙顕寺の続きです妙顕寺https://shikaishodo-myokenji.org/京都|日蓮宗大本山妙顯寺後醍醐天皇に認められてより700年、秀吉も常宿に京都市上京区に位置するこの場所は春は桜が咲き誇り、秋は紅葉が境内を覆う五感で感じとれる日本の清麗な美しさを堪能する時間をshikaishodo-myokenji.org枯山水の🌸桜を見て奥のお部屋へ移動しました小さな竹林がある坪庭私は妙顕寺の竹林の坪庭が凄く好きですお部屋は凄く広い椿が満開お部屋か
異形中先代の乱4回目八月二日、足利尊氏は京を離れた。後醍醐天皇の許しは得ていなかった。新政府に出仕していた足利の家臣たちも尊氏に従って京を出た。『虎が野に放たれた』後醍醐天皇の側近たちは尊氏の東国下向を恐れた。一方、逃走中の足利直義は途中で成良親王を京に送り返し、直義自身は三河国の矢作で留まった。鎌倉の反乱軍を攻撃するためである。直義に従っている兵は二万騎だった。ここで直義は反乱軍に反抗するための軍の再編を行なった。鎌倉に向かう尊氏の許に、近江・美濃・尾張・遠江・