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来る6月5日(水)午後2時より、大阪府大阪市に鎮座する全国住吉神社総本社・住吉大社にて「第48回楠公研究会〜全国住吉神社総本社・住吉大社と南朝住吉御所〜」と題して楠公研究会を開催致します。住吉大社は、後醍醐天皇、後村上天皇が一時期、行宮とされておられ、行宮跡や後醍醐天皇が愛でられた松も現存しており、南朝と深い関わりを持つ神社です。勉強会では、正式参拝の後、住吉大社権宮司で前乃木神社宮司の加藤司郎様より御講話、境内御案内を頂きます。この度の住吉大社での勉強会開催にあたり、多大のご尽力を賜
藤島神社(福井市毛矢3丁目8番21号)御祭神新田義貞公難攻不落の鎌倉幕府を攻め落とした英雄で、後醍醐天皇を支え武士道の原点となった武将です。後醍醐天皇の建武政権に反旗をひるがえした足利尊氏を討つため、新田義貞が派遣されますが、箱根・竹ノ下の戦いで敗戦します。その後後醍醐天皇の皇子恒良親王、尊良親王を奉じて北陸へと下り、1338年藤島の戦いで戦死します。野上神社義貞公夫人勾当内侍を祀る摂社藤島神社は小高い丘にあり、先に開通
GWにちょっとだけ旅行を。まずは奈良の天理市にある柿の葉ずしの平宗(ひらそう)直売所「便利館」でお昼に食べる柿の葉ずしをセレクトして詰めてもらって…御本尊ご開帳中の金峯山寺(きんぷせんじ)に向かいました🚙もうすぐ着くってところで通行止めになってて…「金峯山寺も吉水神社もココに車停めて歩いて」と言われ😱徒歩20分と言われて、1日を費やすハメになりそうなので泣く泣く諦めました。以前、ご開帳の時期に行って御本尊は拝見したことあるので、諦めもつきました😅でも本日の2大メインイベントがなく
善福寺さんで長いことお話してお昼まで頂きまして、移動です。良い気持ちで寝ているんでしょうね。如意輪寺に到着です。後醍醐天皇御霊殿法然上人が開いた浄土宗のお念仏を称える私たちが、この世(彼岸)へと向かいます。「二河白道庭園」は、私たちがこの世からあの世へ往生する様子を喩えたお話を庭園に表現したものです。釈迦は「行け」と発遣し、阿弥陀は「来い」と召喚す。私たちが目指す先は「阿弥陀如来」の石柱が立つ西方極楽浄土です。そこに向かう唯一の方法は左に燃えさかる「火の海」と右の激流が逆巻く「水の
山中絶景カフェお天気がよかったこともありますが、この景色でランチは最高です!ゴールデンウィークでイベントしていてもそれほど混雑していません。奈良県川上村はアートで村興しということでここを造ったようですが、もう25年という作家さんも。宿泊できるコテージ、作家さんのアトリエ兼住居、絶景カフェがあるパブリック棟があります。面白いところです。これはおまけグリーンカレーおすすめします!吉野川上村は何度か行ってますがココは初めて。おすすめします。https://takum
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。YouTube動画『後醍醐天皇について占ってみた』、公開されました。早速紹介させて頂きます。後醍醐天皇について占ってみた久しぶりの歴史シリーズです。今回は後醍醐天皇についてです。吉野桜と後醍醐天皇については前回の動画をご覧下さい。https://youtu.be/Kwg6lTJHiYY?si=wJaWmHnKmjOMgJ96沙貴誉(さきほまれ)の名前でブログを書いています。https://ameblo.jp/b
後醍醐天皇が倒幕の軍を起こした時、鎌倉幕府は「天皇、御謀叛」と言った、といいます。謀叛というのは、下の者が植えに対して逆らうことを言うわけだから。つまり、幕府の執権ほうが、天皇よりも偉かった、ってことなのか?違います。天皇が「御謀反」したのは、執権に対してでも幕府に対してでもありません、「日本国」に対して、です。後醍醐は国家秩序を脅かしたんです。どんな帝王でも、従わなければならない「天の節理」ってものがあります。ときの天皇個人よりも、日本国が長年の間に築き上げてきた国家秩序のほうが、
皆さま、おはようございます・1331年(元弘元年)5月5日、元弘の変が起こる→鎌倉幕府から実権を取り戻そうとした後醍醐天皇は、1324年に兵を挙げようとします(正中の変)。7年後再び兵を挙げようとしますが(元弘の変)、失敗しました•••••cut•••••・フォトギャラリー
今回の本来の目的はこれ。吉野神宮への参拝と御朱印をいただくこと。吉野神宮に祀られているのは後醍醐天皇。後醍醐天皇は鎌倉幕府を討伐して、政権を武士から朝廷に戻すべく、動いたのです。が。足利さんがほっとかなかった。足利さんは京都に別の天皇を立てて、「こっちが朝廷や!」と主張。後醍醐天皇だって負けない。「奈良の吉野にあるここが朝廷や!」そんないざこざが南北朝時代ってやつです。結局後醍醐天皇の死後、足利尊氏さんが京都に天龍寺を作り、祀ったんです。ちなみにこの天
葉の香りがとても良くて美味しかったです。歌藤(かとう)さん吉野で後醍醐天皇に仕え、歌を教えたご先祖様が後醍醐天皇に直接与えられた苗字だそうです。由緒ある素晴らしい苗字宝ですね。熱い緑茶と一緒にいただく柏餅好評でした。緑色の葉はこしあん緑色じゃない方は粒あん
2024.5.1のブログを一部改正致しました。『2024.1.23チノポス書道史③「趣味が功を奏して…」』前回のブログでも記載した通り三筆「嵯峨天皇、空海、橘逸勢」に関する先生のお話をチノポス・書道史に沿って御衣黄の覚書から、記します。*詳細が気になった方は著書…ameblo.jp前回のブログで小野篁が、流罪に処された(隠岐に流された)事に触れました...その時、詠んだ歌と小野篁に関して先生がyoutube上で語られていましたので御衣黄なりに、まとめてみます。
🌷新串呂解明が20本に達したのを記念して、ここでコーヒーブレイクということで、鈴木超世志が三浦芳聖師の門人(御弟子)となった時の思い出をご紹介いたします。🔴この続きはこちらからご覧ください。https://note.com/quanro/n/nb9a445da0d7e
5月26日(日)は運良く本城球場を13時から5時間借りれるようになりました。久々の本城球場です。なかなか貸し出しする事すら少ない球場です。ただ高価なので人気はイマイチかもしれません。グレード的には上級ですので何かイベント事しても良いかな?とも思ったり…つーか、その日は若松サンデーリーグが2試合入ってるので、まずはそちらが重要です。なのでこの日は4試合になるのかなぁ(笑)で、せっかく良い球場借りてやるんだったらさ、アナウンス付きにしたらより豪華じゃない?😙なのでアナウンスのプロフェ
愛知県江南市の曼陀羅寺(まんだらじ)の隣にある曼陀羅寺公園の藤を見に、名鉄電車と名鉄バスを乗り継ぎ行ってきました。(4月25日撮影)色鮮やかな紫の藤は一部散っていましたが、長く優雅な花房が残って待っていてくれました。特に遅咲きの白い藤が最高の見ごろを迎えていました。早咲きから遅咲きまで11種類約60本の藤が園内の藤棚に張り巡らされていました。藤を撮影した後、後醍醐天皇の勅願で建立された尾張の
愛知県郊外の江南市で藤まつりをやっていたので藤花大好きなカミさん孝行をしてきました。後醍醐天皇の命で建立された曼陀羅寺の藤まつりです。いろいろ屋台も出ていて大変な賑わいでした。カミさんの希望は「あしかがフラワーパーク」らしいのですがGW中、わざわざ混雑するところに行く気もしないので所謂一つの「安近短」で誤魔化した次第です。何年か前に行ったあしかがフラワーパークの藤花です。間違いなく感動します。佐野ラーメンも食べたいです。(^^♪
金峯山寺(きんぶさんじ)蔵王堂の仏像や建築物に夢中になって、いつしか時間が昼過ぎになっていることを忘れ、月美結貴さんから、𠮷水神社に参拝する時間がかなりギリギリであることを告げられた僕ですが……10秒ほど思案したものの、何とかなるんじゃないかという気がして、「速攻で、𠮷水神社を参拝してしまいましょう」と月美さんに提案しました。この時間に追われる展開、まさに僕のいつもの人生パターンです。こういう時には、考えるよりも早く行動してしまうに限ります(笑)月美さんも「𠮷水
こんにちは〜🌟前回、かなりしんどい〜、という感じでしたが、若干戻ってきました今朝は6:30から1時間強のウォーキング👍後半はゴミ拾いもしました🌈わたしが拝読するブログは、やっぱり、見えない世界を身近に感じておられるかたのブログになりますそんなブロガーさんのお一人が、ぜひ聴いてみてください、と紹介されていました、篠笛奏者の佐藤和哉さん!なぜか、心惹かれるものがありまして、、、先日、ついに和哉さんの篠笛を生で拝聴する機会に恵まれました(遠くに佇み
まだ4月ですが雲一つない晴れ渡る青空はまさしく五月晴れ。大型連休2日目です。外に出してから咲き始めたカトレアたちバラジ・エイシャント・マリナーもうすぐ咲きそうマダム・ルナイー今日の最高気温は28℃。暑くなる前に図書館へ。空海展で、後醍醐天皇が自分は空海の再誕と言われていたと知りました。再誕って生まれ変わりという意味よね?後醍醐天皇のことを知りたくなって借りてきました。それが、図書館も空いていたし(いつものご老人たちの姿見えず)駅の周りもいつもより車も人も少なかっ
脳天大神龍王院からの階段を、月美結貴さんと共に上がって、蔵王堂までたどり着いた時には、二人ともすっかり息が上がってしまい、ゼイゼイしていました。大峯千日回峰行の阿闍梨(あじゃり)になるには、まだまだ程遠いようです。いや、絶対になれないから(笑)これから向かう予定の吉野神宮は、ここからかなり離れた所にあるのですが、バスは土日だけで、平日は通っていません。月美さんがタクシー会社に電話して調べてくれたのですが、どのタクシーも満席で出払っていて、送迎をするの
千早城に釘付けになっている幕府軍の隙間に後醍醐天皇は隠岐島を脱出し討幕を全国に発し播磨国や伊予国、肥後国が蜂起すると千早城を囲んでいた守護が帰国し始め、関東では挙兵した新田義貞が鎌倉を攻めて鎌倉幕府は滅亡してしまいます鎌倉幕府が滅亡するのは千早城の戦い100日戦争が終了した12日後の事でした
足利尊氏は後醍醐天皇を尊敬していた!それは、足利尊氏の名前に!当初、足利高氏だったが、後醍醐天皇の名前の一部をもらって、足利尊氏に!後醍醐天皇の名前、今回初めて知りました。勉強になります。↓押してくれたら嬉しいです↓にほんブログ村
1311年9歳の時に父貞時が死去。貞時は死去の際、高時の舅・安達時顕と内管領・長崎円喜を幼い高時の後見として指名した。その後高時まで3代の中継ぎ執権を経て、正和5年(1316年)、父と同じ14歳で14代執権となる。その頃には円喜の嫡男・長崎高資が権勢を強めていた。高時は在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起き、1324年、京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変では、倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配
今回は怖い日本史のカテゴリに入る内容です。立川流(たちかわりゅう)は、オカルトフアンならご存知だと思いますが、真言系密教の一流派で、淫祠邪教の代名詞のようにあつかわれています。ちなみに、字は同じですが立川流(たてかわりゅう)と読むと、故立川談志師匠が創設した落語団体のことになります。どっから話していきましょうか。まず、立川流の教義および儀式ですが、これははっきりわかってはいません。というのは、立川流は徹底的に弾圧され、独自の経典などは焚書ですべて失われているからです。現在残っ
登城口から真っ直ぐに伸びる石段は登城する前にため息が出ますこの階段が全部で560段‼️1331年後醍醐天皇は倒幕を企てましたが吉田定房の密告によって発覚し1332年に天皇は隠岐島に流されますこれを機に鎌倉幕府の得宗(北条氏の嫡流で跡継ぎの血筋を持つ者つまり北条氏のトップ)に不満を持った楠木正成や赤松則村などの武士たち(悪党と呼ばれていました)が各地で反幕府の兵を挙げるようになりました
🌷都賀町合戦場(つがまちかっせんば)・大麻生(おおあそう)・中央・中央台は、⛩神龍芳聖天皇御陵(神皇正統三浦皇統家墓地)の祭祀場としての霊格・霊性を昭示しています。三浦芳聖師は、ご生前、毎月2回、神龍芳聖天皇御陵前で天下国家を浄化する祭祀を厳修しておられました。私は、兄弟子たちと共に「栄え三浦の皇統家は日夜久(ひやく)睦(むつま)じく神国の神代の姿そなわりて」(大本教お筆先)とある通りの「神生み」の神秘的な超常現象を垣間見た生き証人の一人であります。🔴この続きはこちらからご
奈良の吉野には、なにやら縁があるようで、3回ほど訪れています最初は、高校の修学旅行の、班ごとの自由行動で、なぜか吉野に行ったんですよ金峯山寺や吉水神社を巡った後、吉野山の麓の温泉宿で「昼食をいただいて温泉に入らせて欲しい」と申し出て、お食事と日帰り温泉を楽しみました高校生グループが、お食事しながら温泉に浸かる、なんと雅(みやび)な高校生・・・それで、吉野と言えば桜ですよね、2015年に、桜の最盛期に奈良の吉野を訪れました、すごかったですよ、写真を貼りますそ
給料日に真っ先にすることは?▼本日限定!ブログスタンプ今日は初任給の日なんですね懐かしいですねエ随分前になりますが・・・・あの頃は現金で給料袋に入ったもの頂きました嬉しかったなあ桜旅記事書いています奈良県吉野に居ますおにぎり食べそこなってしまったけど気を取り直して中千本に向かいます沿道には沢山のお寺が有りますがすべて行っているのでパス天武天皇、持統天皇勅願所桜本坊沿道には沢山の人が歩いていて休憩所も有ります下り坂がまだまだ続きますこのあたりは中千本の中
Online自然派四柱推命・六十干支講座も一区切りついて、少しだけ時間に余裕ができました。今、僕はある場所に旅に行こうと、9:21東京発のぞみ217号に乗って、西へと向かっています。その場所は奈良県にある吉野山……伊勢の占いとアロマのお店の月美結貴さんと、昨年の12月の頭、高野山へ参拝をしに行った時、奈良にある金峯山寺(きんぶせんじ)の勤行が、すごく良かったというお話を聞いたのです。(2023/12/11ブログ「奥の院に眠るお大師様」参照)そして、吉野山の後醍
こんばんは!吉野の桜、続きです。奥千本から下ってきて、下千本に来ました。大橋今からおよそ700年前、後醍醐天皇(ごたいごてんのう)の皇子、大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)が鎌倉幕府倒幕にむけて吉野山で挙兵します。親王は吉野山を城として立てこもり、幕府軍に立ち向かいます。「太平記」によれば、6万人の幕府軍を相手に3千人の兵で1週間にわたって持ちこたえたといいます。そして、この大橋のあたりは激戦となったようで今でも、攻めが辻と呼ばれています。この激戦地には、敵の侵入をはば
東寺の外周を歩いてみよう。南大門(重要文化財)今の南大門は、明治28年、慶長6年(1601)創建の三十三間堂の西門が移築されたもので、以前の南大門は、明治元年に焼失した。南大門を入ると金堂・講堂・食堂が南から北へ一直線に並んでいる。南大門から東大門へ歩く。築地塀の東南角を「猫の曲がり」と言った。江戸時代より以前、猫は貴人や僧侶などしか飼えない高価な動物だった。だが、江戸時代には猫の数が増え、見た目のかわいさもあって、庶民の間でも飼う人が急増した。特に、養蚕農家では猫は鼠を獲ってくれる神