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承久二(一二二〇)年一二月一日、三寅の着袴の儀が執り行われた。着袴の儀とは現在でいう七五三に相当する儀式である。だいたい五歳前後に生まれてはじめて袴を着ることから、幼児の成長を祈願する儀式へと発展し、この時代の貴族や武士にとっては人生初の儀式と見做されるようになっていた。もっとも、儀式のメインではあっても幼児自身が儀式を準備、運営、開催するわけではなく、その幼児のバックボーンがいかに強固なものであるかを周囲に見せつけることが儀式のメインであった。三寅は鎌倉幕府全体がバックボーンであるだ
水戸光圀が編纂した「大日本史」が、幕末水戸藩の尊王攘夷思想のバックボーンとなった。それはもう誰もが知ってる、そのとおりの話なんですが。ポイントは「徳川の御三家にもかかわらず」つまり幕府を守るべき徳川一門の藩が、なんで反幕府思想の温床みたいになっちゃったのか、でしょう。まず前提として、「尊王攘夷=反幕府」では全然ない、ということを確認してください。ここのところを類型的に考えている人が多いですが。尊王攘夷というのは「正統な君主のもとに団結し、外国に屈するな」という思想であり、「いや、それは
「征夷大将軍より、関白のほうが位は上ですよね、だとすれば徳川将軍といえども、関白の命令は聞かなきゃいけないんですよね?」それは、全然違います。関白は公家のトップ、征夷大将軍は武家のトップ、ともに天皇の一の家来という意味では、横並びです。征夷大将軍は関白の家来でも部下でもありません。関白は必ず将軍より偉いかっていうと、そうとも限りません。関白も征夷大将軍も共に令外官であり、決まった位階はありません。敢えて言えば何大臣を兼ねているかで格は決まりますが、関白が右大臣や内大臣に過ぎないこともあ
山梨県都留市朝日馬場に鎮座する石船神社は、住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)を御祭神とする古社であるが、実はその御神体として後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王の首級が祀られている神社である。護良親王は、元弘の乱において父帝を支え、盟友でもあった楠木正成らと共に鎌倉幕府打倒の先鋒として活躍した忠勇無双の皇子であった。建武の中興においては征夷大将軍に任命され、天皇の御心を体現する存在であった。しかし、皇子を排除し自らが征夷大将軍にならんと目論んでいた足利尊氏の野心をいち早く見抜いた皇子は、