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かつて、東北地方に住んでいた「蝦夷」と呼ばれた人たち。朝廷による「和人」たちの支配が、次第に、北上し、「蝦夷」たちは、存在感を失って行くことになる。有名なのは、平安時代の初期、「蝦夷」のリーダーである「阿弖流為」と、朝廷側の征夷大将軍「坂上田村麻呂」の戦いでしょう。阿弖流為は、坂上田村麻呂に敗れ、「蝦夷」は、朝廷によって支配されることになる。しかし、まだ、東北地方は、完全に、朝廷の支配下になった訳ではないようですね。そこに登場をするのが、「蝦夷の末裔」の人たち。蝦夷の末裔―前九年
近くに用事があったので、源頼朝のお墓にお参りしてきた。白旗神社近くの公園に、地元の子達が調べた紙が貼ってあった。よく学習しているね。頼朝のお墓は、53段の階段を登った先にある。地元の子達の情報によると、頼朝が53歳で亡くなったので、それにちなんで53段なんだって。私の1個上だな。早稲田大学で日本史の勉強をした時、課外授業で鎌倉のお墓をめぐって勉強した。このタイプのお墓は時代が古い型だよね。江戸幕府を開いた徳川家康は、日光東
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉られてはじめて上皇となるのである。ゆえに、退位してから上皇となるまでの間は、後鳥羽院と記すことならばできても後鳥羽上皇とは記せないのである。また、どんなに用意周到な譲位ではあっても、退位と同時に上皇として院政を開始できるわけではない。このあたりは、衆議院の総選挙で次期首相が決まったとしても、正式に総理大臣に就任するのは国会での指名の後で
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳にして治天の君となった瞬間に、後鳥羽上皇の周囲には後鳥羽上皇の意のままに動く人材が揃っていた。その多くは自らの不遇からの一発逆転を狙って院政に自らの未来を託した野心家である。その野心家の全てを後鳥羽上皇は周囲として迎え入れたのではない。後鳥羽上皇は自らの周囲に集った人材に競争させたのである。ここまではいい。問題はどのように競争す
〜↑↑前回の続きだよ〜***さて、大負けしたヤマト朝廷軍、次に征夷大将軍として白羽の矢がたったのが、マロ君(坂上田村麻呂だよ)マロ君は、カリスマ性がありなかなかのキレ者、蝦夷軍との正面衝突はさけて、時間をかけて徐々に蝦夷の人たちを分散させる作戦に出ます。とにかく移民をどんどんどんどん東北に送り込むわ仏教を持ちこむわ、胆沢城を建設するわなんかします。そんで朝廷側になびく人たちはとことん優遇し、都へのツアーにも連れて行ったりする一方、なびかない人たちは徹底的にイジメ叩きます。
そして、源頼朝もこのときばかりはあくまでも一人の貴族として、すなわち、前権大納言として東大寺に参詣しており、周囲をかためる武士達が鎌倉幕府の御家人であるという違いはあるものの、この一瞬だけを切り取れば、牛車の周囲を守る武士の数が多いという以外は他の貴族と変わらないように見える。ただし、一点だけ無視できないポイントがある。源頼朝の周囲を固める武士達は、東大寺再建供養の警備を務める武士達の一部であるという点だ。さらに言えば、後鳥羽天皇の周囲を固める武士達も、その他の皇族や貴族の周囲を固める武士
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。しかし、後鳥羽院はまだ一九歳という若さながら既に老獪さの片鱗を披露するようになっていたのである。土御門通親の権勢の根幹は、天皇の外祖父であることと、後鳥羽院の院司別当、つまり、後鳥羽院に仕える貴族や役人達のトップであることの二点である。そして、この二点とも永続する要素ではない。どういうことか?替えが効くのだ。後鳥羽院にとっては自分の
もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇としてのあるべき姿、すなわち、上皇としての政務を執っている姿は特筆すべきことではなかったからであろう。藤原定家の日記を紐解くと、建久九(一一九八)年二月三日に後鳥羽上皇が殷富門院のもとへ御幸したことの記録が出てくる。藤原定家はその御幸の様子があまりにも壮麗であり、卑近な言葉で言えばどんちゃん騒ぎを繰り返したことを非難している。また、後鳥
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで
上皇となり院政を始めるメリットは多々ある。責任からの回避や政治的自由も無視できないメリットであるが、忘れることのできないメリットとして資産がある。天皇は皇室予算や国家予算が資産であり、自由に行使できる資産は、ゼロではないにしても乏しい。行使できる資産の量は多大であるが、天皇の独断で行使できるものではない。しかし、院政となると違う。院が独自に資産を手にできるだけでなく、手にした資産を院が自由に使うことができる。その成果が如実に示されたのが建久九(一一九八)年四月二一日のことである。二条東
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦
幕末の激動期、ペリー来航から始まった開国要求とそれに反対する尊皇攘夷の中で、公武一和のもと仁孝天皇の皇女・和宮(15)の14代将軍徳川家茂(16)への降嫁が決まりました。文久元年(1861)旧暦10月20日に京都を出発した行列は、中山道を一路江戸へと向かいました。京方1万人、江戸方1万5千人、諸藩の警固1万人、その他人足や賄の人数を含めると総勢8万人といわれ、まさに空前絶後の大行列でした。行列は、11月3日に藪原宿で御泊り、11月4日には奈良井宿で御小休、贄川宿で御昼、本
天皇家=公家のトップ=武家がソコから生まれたのは坂上田村麻呂の征夷大将軍か清和源氏か?源氏には源頼光の頼光四天王あり=酒呑童子を倒し羅生門の鬼で有名さあり金太郎で有名な坂田金時あり=神道の天皇家から発生したから鬼に相対するかどわかされられるアリ=卑弥呼と呪殺の2人を欠いた一族だったから。