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桜の季節に来たかった場所吉野山と枚方八景の一つ牧野公園ここは牧野の桜と呼ばれる名称そして阿弖流為と母禮の塚が有る場所です『神様の御用人』特集|メディアワークス文庫公式サイト2021年3月25日発売『神様の御用人(著:浅葉なつ)』第10巻は豪華声優キャストによるドラマCD付き特装版の発売が決定!神様にだって願いがある。フリーター青年が神様の“御用人”を命じられ狐神との東奔西走の日々が始まる!mwbunko.com神様の御用人が10巻をもって完結した最後に登場する阿弖流為と母
南北朝の争いは「南朝が正統」で決着しました。北朝の天皇が「北朝1」「北朝2」みたいな脇扱いされているのは、そのときの「政治決着」が今も生きているからです。北朝のスポンサーである室町幕府、足利義満が、三種の神器を南朝から取り戻すための方便として、名目上だけ妥協した、ということです。どういうことか、以下、説明します。天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。後嵯峨上皇という困った人がいて、末っ子が可愛いからといって、兄
先日、浜松に行った際立ち寄りたかったスポットの一つ浜松八幡宮…こちらには徳川家康が三方ヶ原の戦いで大惨敗した時に逃げてきて隠れたと言われる楠の木があります。雲立楠と言われています。わかるでしょうか?楠の間が洞窟のようになっており、そこに身を隠し再起を誓ったと言われています。八幡宮と言えば鎌倉…鎌倉八幡宮と言えば源氏…源氏は皆様ご存知、征夷大将軍になった武士…その八幡宮で、後に征夷大将軍になる家康が再起を誓うというのは何か感慨深い物を感じます。ちなみに今使っている御朱印帳鎌倉八幡
かつて、東北地方に住んでいた「蝦夷」と呼ばれた人たち。朝廷による「和人」たちの支配が、次第に、北上し、「蝦夷」たちは、存在感を失って行くことになる。有名なのは、平安時代の初期、「蝦夷」のリーダーである「阿弖流為」と、朝廷側の征夷大将軍「坂上田村麻呂」の戦いでしょう。阿弖流為は、坂上田村麻呂に敗れ、「蝦夷」は、朝廷によって支配されることになる。しかし、まだ、東北地方は、完全に、朝廷の支配下になった訳ではないようですね。そこに登場をするのが、「蝦夷の末裔」の人たち。蝦夷の末裔―前九年
歴史イベントの最大のお楽しみ。征夷大将軍就任足利将軍家を倒し、山城を含めた30国以上の国を支配することが条件です。・引き受けると、対象大名家の家臣忠誠度+10領国の文化+10対象大名の魅力+10・断ると、対象大名の政治・魅力+10なお、足利将軍家で30国支配になっても、何も起きません。(動画に関しては、間違いがあるようですが、スペックのせいでしょう)せっかくなので、足利将軍家(ここからは、「将軍家」で省略します)にまつわる歴史イベントをもう一つ。「○○追討令」とい
それにしてもなぜ鳥羽か?過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。なぜ独自の根拠地を持たなければならないかというと、実は、上皇や法皇は内裏に入ることができないのである。平治の乱で藤原信頼によって後白河上皇が二条天皇とともに内裏に監禁されたことがあるが、これは例外中の例外で、天皇が内裏を離れて父や祖父や曾祖父のもとを、すなわち、上皇や法皇のもとに向かうことはできても、上皇や法皇が内裏にいる子や孫や曾孫のもとを、すなわち、天皇のもと
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで
上皇となり院政を始めるメリットは多々ある。責任からの回避や政治的自由も無視できないメリットであるが、忘れることのできないメリットとして資産がある。天皇は皇室予算や国家予算が資産であり、自由に行使できる資産は、ゼロではないにしても乏しい。行使できる資産の量は多大であるが、天皇の独断で行使できるものではない。しかし、院政となると違う。院が独自に資産を手にできるだけでなく、手にした資産を院が自由に使うことができる。その成果が如実に示されたのが建久九(一一九八)年四月二一日のことである。二条東
室町幕府十三代征夷大将軍・足利義輝(1536-1565)塚原卜伝に師事し、免許皆伝を習得し、「剣豪将軍」と呼ばれた。三好三人衆の軍勢に槍や刀で応戦したが、力尽きた。支配国戦国の動乱(義輝)山城飛躍の時(義輝)山城信長包囲網(義昭)山城覇王の後継者×群雄集結(義輝)山城夢幻大転封(義昭)上野、武蔵天下布武(義昭)山城手取川合戦×本能寺の変×信玄上洛(義昭)山城戦術威光・弓構・矢雨難易度☆☆☆☆攻略法山城国(京都府)に君臨する
幕末の激動期、ペリー来航から始まった開国要求とそれに反対する尊皇攘夷の中で、公武一和のもと仁孝天皇の皇女・和宮(15)の14代将軍徳川家茂(16)への降嫁が決まりました。文久元年(1861)旧暦10月20日に京都を出発した行列は、中山道を一路江戸へと向かいました。京方1万人、江戸方1万5千人、諸藩の警固1万人、その他人足や賄の人数を含めると総勢8万人といわれ、まさに空前絶後の大行列でした。行列は、11月3日に藪原宿で御泊り、11月4日には奈良井宿で御小休、贄川宿で御昼、本
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦