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本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『問よく判明せり。今一つ初歩的に思考するに、先づ一回目に憑られし霊気、それに次の転霊にて二回目の霊気が入りし場合、前の霊気は御帰りになり、次の霊気と入替る?とも思うが、此の様な形はなきか。答其の様な形態なし。前に述べし如く霊は固体にあらず。幽玄霊妙なる「気」であるが故に、神主の身体に何程転霊なしても皆渾然と融合してしまうものである。』(「顕神本田霊学法典」)幽斎に際
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************この部分について、西原壮聡氏による現代語訳([カッコ]内は訳者注・以下同じ)を見てみよう。『○「此時伊邪那伎命大歡喜詔。吾者生生子而於生終得三貴子。」この文もまた例の設神理[である]。太陽[国]、地球[国]、月国の主宰のみについて言っているのは、我が太陽系の[星々の]中において、[これらの三つの星々が]大地球と大いに関係があるからである。修理固成の大神[=伊邪那岐命・伊邪
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************「霊学抄」(「本田親徳全集」)の「帰神標目」について、少し説明したいと思う。まず「之ヲ分テ三百六拾二法トナス」とあるので、神界181法、妖魅界181法となる。とりあえず神界に絞って考えると、前段の無形9法と有形9法合計18法が基になるが、後述するようにこれは神の品位に関する分類。「本田親徳全集」に「上神三十六・中神三十六・下神三十六」とある。(合計108)これは先の
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『問その融合せし霊が神主に懸りて口を切り、固有の御名を名乗られるか、此の点に付き説明を願う。答審神者が神主に何回か転霊すると云うことは、一、二回ぐらでは霊気が身体に充実しない為に、全身に溢れる迄続けるのである。この全身に霊気(神気)が充実せし時に、神主が体を切る(専門語−第四節に述べる)のが正則とされている。さて御名を名乗られると云う事は右の如く「神気充満して体を切っ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************抑々、上記の本田翁の伝書にある「鎮魂法」は、神を鎮祭する際の鎮魂法であって、個人が行う修行としての鎮魂法ではない。その鎮祭目的の方法が鈴木廣道氏に伝授されたということだ。これが可能になるには、審神者レベルで霊魂の運転活用ができることが必要条件だが、北海道に帰郷する鈴木氏に対して、その時点では無理でもいつか役立てられるように伝えおいたものと推測する。何故なら、これは御霊璽、鎮魂石
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************佐藤先生の新刊が出版された時に、先生に一筆書いて頂いた。神懸百首の一首だったが『難しとて努弛みなく勉めなば遂に至らむ道の奥がに』先生の解説によれば、「努=決して・必ず。道=神の道。奥処=奥深い所。解、神術は難かしい事だが決して弛めることなく勉めるならば、遂には神の道の奥深い所に至るであろう。」という。筆者は、佐藤先生の門に入り、本田霊学を学ぶようになってから
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************鎮魂法では、自らの一霊四魂を「分魂」し鎮魂石に鎮めるわけだが、その際にいくつかの段階を踏むと鎮魂法がやり易くなる。何年経ってもいい感触が得られない場合は、集中を意識しすぎるからかもしれない。先生が書かれているように『前述の如く手を組み神気(精神)を鎮め、石に向って「吾が霊魂が鎮魂石に鎮まる」と云う、強い思念を四、五回送る』わけだが、それには幾つか心掛けた方がいいことがある