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本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『第五章自感法鎮魂に於ては自己の霊魂を石に鎮め、且つその霊力の運転活用(活動)をさせることに有る事は既に述べたが、此の鎮魂で錬えた力、即ち鎮魂力を以て自己の霊魂を神界に行かせる術が“自感法”である。自感法には、顕幽(有形と無形)の二通り在るとされて居るが、顕と謂っても幽を兼ねなければ出来得ないものである。従って「顕と幽」とで行う法式と、「幽の幽」で行う方法とに分かれている
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『問憑依を願う場合に、当方より特に指定せる御神霊や御春属に御降霊願う事は出来得るや。答当方にて特に各種諸要件の有る場合は、其の御分掌の御活きある霊に御降霊願う事はあり得る。』(「顕神本田霊学法典」)その時の幽斎の目的にもよる。審神者が質問したい内容が専門的な事柄である場合には、その職掌の御神霊の降臨を願うことは許されよう。佐藤先生の御存命中に、筆者も何度かそのような
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『鎮魂修法の時には上袋から取り出し、「白羽二重」のまま天井から吊り下げて修する』だが、これは原則論であり、絶対にそうするべきというわけではない。筆者は審神者になった頃から、先生の許可を得て別の方式で鎮魂法をしていた。先生御自身も吊るしていないと仰っていた。ただし基本は、先生の著書や渡辺氏の書かれている通りである。『包んだ石を直に取り出したり、鎮魂中に他人に見られると
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************扨、本題に戻るが、鎮魂法の魂とは何か、記紀を見ると、神には霊と魂の2文字が使われるのに対し、天武紀より前の天皇について「魂」の文字は使われていない(「五月己巳朔己卯、祭皇祖御魂」日本書紀)。つまり古代に於て魂とは神の魂を意味していたということだ。古代の宮中に於て鎮魂祭が行われなかったのは、その必要がなかったからだろう。鎮魂祭が天皇以外をその対象としていないことからみても、神と天
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************鎮魂と祓いについて鎮魂法の実修は祓いにもなる。だがそれが鎮魂法の目的ではない。御神霊に触れることで祓いが起こるわけだが、その意味では帰神術でも、或いは然るべき神社の参拝でも祓いを受けることは出来る。渡辺氏は、『本田霊学における鎮魂は人間の奥底に眠る天授の霊魂を、神霊との交流によって目覚めさせ、自己の霊魂を覆っている先祖からの罪穢れ(魄の穢れ)を神霊の御光りに浴するたび
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************鎮魂について語る際に必ず持ち出されるのが、以下の文章だ。『令義解(リヨウノギゲ)の職員令神祗官の部に曰く「鎮魂は謂る、鎮は安なり。人の陽気を魂と曰う。魂は運なり。言うところは、離遊の運魂を招き身体の中府に鎮む。故にこれを鎮魂と曰う」』(「顕神本田霊学法典」)この離遊の運魂が何を指すのかが、昔から議論になっているが、これは鎮魂法の一部に過ぎない。故に此の考え方を全てに当