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『此神憑り百首は長澤翁が審神者、相州雨降山麓大山神社武栄太夫宮司が神主を務められ昭和元年より昭和四年迄の間に神憑りして得られた神歌であり、昭和九年春に武氏が発刊したものであります。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」佐藤卿彦述)神懸百首より審神者長沢雄楯翁。神主武栄太夫(大山神社官司)(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)五十四神術はいと奇日なれと別きてまた審神者の法ぞあやにたふとしいと=非常に、大そう。別きて=とりわけ、ことさら、わけても。奇に=たとえようも
『此神憑り百首は長澤翁が審神者、相州雨降山麓大山神社武栄太夫宮司が神主を務められ昭和元年より昭和四年迄の間に神憑りして得られた神歌であり、昭和九年春に武氏が発刊したものであります。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」佐藤卿彦述)神懸百首より審神者長沢雄楯翁。神主武栄太夫(大山神社官司)(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)五十三術も無きあらぬ沙庭の嚮導には横さま道を踏みや迷はむ沙庭=斎み清めた場所。神意を審察する人・神命を承る人・審神者。嚮導=みちびく。道じるべ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************(本田親徳全集「霊学抄」の西原壮聡氏による現代語訳)<帰神>帰神の法を幽斎の法、と言う。[※ここに〝帰神の法〟と書かれているのは、神感法を含んだ内容であるため。自感法と他感法の二つを指す場合が〝帰神術〟。神感法を含めると〝帰神法〟。神感法は、自感法や他感法と異なり、訓練で身につけた能力や技能ではないことから、〝術〟とは言わない。筆者の見解だが。]神界に感合する方法は
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************(本田親徳全集「霊学抄」の西原壮聡氏による現代語訳)この鎮魂の法は、天授の神法[=天から授かった神の法]であり、現世、神界[の双方に通じた]学則なので、上は天皇の治国平天下の御事[=国政の重大事]から、下は国民が修身斎家[=自分の行いを正しくし、家庭を整えること※『礼記・大学』に「修身斉家治国平天下」と記されている]の基本[であり]、さらに、無形である神界を探知する[ため
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************(本田親徳全集「霊学抄」の西原壮聡氏による現代語訳)こ[の記載]は、その[=伊邪那岐命の]霊魂を附着させ[た玉によって、天照大御神を]現天[=顕天=顕の高天原⇔幽天=天御中主神が主宰するのが幽の高天原]の主宰たらしめようと、[伊邪那岐命が]御定めになった[ことに関する]ものである。そして、[時代が下り、天孫降臨の条において、]この玉は天照大御神から皇孫二二岐命[=邇邇芸
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************まず「霊学抄」(「本田親徳全集」)の現代語訳(西原壮聡氏訳)を読んで頂きたい。但し理解しやすい様に「鎮魂」から「審神者の覚悟」までの全体を掲載する。<鎮魂>鎮魂の法は、霊学の根本なので、[まずは、]その原由[=神界における起源と由来]について論じ定め、[その上で]その末法[=神界が生み出した顕界の鎮魂法]について解明しなければならない。なので、これから皇典にもとづい
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************本田翁の遺訓に『帰神ノ法ヲ幽斎ノ法トイフ。神界ニ感合スルノ道ハ至尊至貴、濫ニ語ル可キ者ニ非ズ。吾朝古典往々其実績ヲ載スト雖モ、中世祭祀ノ道衰へ其術ヲ失フ既二久シ。神法ニ依リ其古ニ復ス。是即チ玄理ノ窮極、皇祖ノ以テ皇孫ニ伝ヘシ治国ノ大本ニシテ祭祀ノ薀奥ナリ。蓋シ幽斎ノ法タル至厳至重、深ク戒慎シ其人ニ非レバ行フ可ラザル者アリ。濫ニ伝フ可ラザル意蚊ニ存ス。然リト雖モ其精神萬難ニ撓
『此神憑り百首は長澤翁が審神者、相州雨降山麓大山神社武栄太夫宮司が神主を務められ昭和元年より昭和四年迄の間に神憑りして得られた神歌であり、昭和九年春に武氏が発刊したものであります。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」佐藤卿彦述)神懸百首より審神者長沢雄楯翁。神主武栄太夫(大山神社官司)(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)五十二神術の林の奥に入らむには審神者ぞ道のしるべなりける林=物事の多く集まっている所。ぞ=強意をあらわす。しるべ=導、みちびき、てびき、道標
『此神憑り百首は長澤翁が審神者、相州雨降山麓大山神社武栄太夫宮司が神主を務められ昭和元年より昭和四年迄の間に神憑りして得られた神歌であり、昭和九年春に武氏が発刊したものであります。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」佐藤卿彦述)神懸百首より審神者長沢雄楯翁。神主武栄太夫(大山神社官司)(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)五十一慿かります御霊にいかて有る可しや月日のわかち道のへたたりいかて=如何で。どのように。有る可しや=あるまじき。わかち=わかれ。けじめ、
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『第二章本田翁法式の帰神術(かむがかり)古法式は、三員構成で執行された事は既に述べたが、本田親徳翁によって此の古法は改められたのである。それは、三員の内琴師の一員を省かれたのである。なお琴を弾く代りに、石笛(いわぶえ)を使用する事になされた。何故に石笛を用いられたか此の点は不明であるが、恐らく神示に依られた事と推察する。古代は、石笛を楽器として使用された事も有ろうとも思はれ
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『第六編帰神術の法式第一章帰神術の古法式帰神(神懸り)は、古来では(古法式)、三員を以て執行された。即ち左図の如し。古代は、神主・琴師・審神者の三者に厳粛に執行された。琴師は、琴を弾じて神界より神霊の御降りを願い(琴師自身に)、その御降霊を神主に「転霊(御移しする)」するの役を謂ふ。神主とは、神霊の憑依(御懸り)されるところの役を謂い、審神者とは、神主に憑依された霊
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************ここでは前回琴師を担当していた仲哀天皇が居られないので、武内宿禰を琴師としている。古代の3員制に於ける各自の役割についてだが、本田霊学での2員制とどう違うのか、ここで考えてみたい。神主は両方とも同じだと思うが、琴師と審神者はどうなのだろうか。本田霊学では審神者が琴師を兼ねるため、その点が明確ではない。たとえば2員制の審神者が、岩笛を吹いている時が琴師であり、他の場合が3員制の審
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『九年春二月に、足仲彦天皇は筑紫の橿日宮で崩御された。その時、皇后は、天皇が神のお教えに従わないために早く崩御されたことを悲しくお思いになって、祟りの神を知って、その上で財宝の国を求めようと考えられた。そこで、群臣及び百官に命じて、罪を祓い過ちを改めて、さらに斎宮を小山田邑に造らせられた。三月壬申朔(一日)に、皇后は吉日を選んで斎宮にお入りになり、自ら神主となられ、武内宿
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『四日本書紀巻九神功皇后の御紀(巻末O参照)九月春二月足仲彦天皇筑紫の橿日宮に崩りたまふ。時に皇后、天皇の神教に従はずして、早く崩りまししことを傷みたまひて、以為さく、崇りたまふ所の神を知りて、財宝国を求めむと欲ふと。是を以て群臣及び百寮に命せて罪を解へ過を改め、更斎宮を小山田邑に造らしめたまふ。三月壬申朔、皇后、吉日を選びて斎官に入り、親ら神主と為りたまふ。則ち武内
『此神憑り百首は長澤翁が審神者、相州雨降山麓大山神社武栄太夫宮司が神主を務められ昭和元年より昭和四年迄の間に神憑りして得られた神歌であり、昭和九年春に武氏が発刊したものであります。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」佐藤卿彦述)神懸百首より審神者長沢雄楯翁。神主武栄太夫(大山神社官司)(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)五十神術を修め得てこそ前の世も此の世もさとり後の世も知れ前の世=前世・生れる前の世界。此の世=現世・現在の世。後の世=後世・未来。解、
『此神憑り百首は長澤翁が審神者、相州雨降山麓大山神社武栄太夫宮司が神主を務められ昭和元年より昭和四年迄の間に神憑りして得られた神歌であり、昭和九年春に武氏が発刊したものであります。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」佐藤卿彦述)神懸百首より審神者長沢雄楯翁。神主武栄太夫(大山神社官司)(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)四十九神術を修め得すては霊幸ふ神の真実を知るよしもあらず霊幸ふ=魂幸栄え所謂直霊を幸栄えさせることは「真心」を神霊に感合させること
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『三日本書紀巻第八仲哀天皇の御紀(巻末M参照)秋九月乙亥朔。乙卯群臣に詔して熊襲を討つことを議らしめたまふ。時に神有して、皇后に託りて誨へまつりて曰はく、「天皇何ぞ熊襲の服はざることを憂ひたまふや。是れ膂宍の空国ぞ。豈兵を挙げて伐つに足らむや。」(中略)、天皇神の言を聞きて疑の情有します。便ち高き岳に登りて遙に望りたまふに、大海曠く遠くして国も見えす。是に天皇、神
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************恐らく欽明天皇の御代以前から、中国や朝鮮半島との交流を通して、仏教は流入していたと思う。しかしながら前述の理由で、天皇とその周辺の権力者たちは、天皇の帰依を望まなかった。むしろ神格化を進めることで、権威を高める方向へ進んでいった。後年、物部氏が蘇我氏に敗れた後も、廃仏派が一掃されたわけではない。伊勢神宮を神仏習合の嵐から守ったように。ある意味、これこそ神慮ではないだろうか。
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************古代日本に道教が浸透してきた頃、当然仏教的な要素も入ってきただろう。日本では神を重んじる支配層にとって道教は許容できても、仏教は受け入れ難かったはずだ。なぜなら、天(神)と民の間に天皇を置くならば天皇は人間界で最高の地位にいられるが、天皇が仏教に帰依したならばどうだろう。天皇が仏弟子になるには、深く三宝に帰依しなければならない。三宝とは「仏、法、僧」である。つまり「仏」と
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************話を仏教に戻すが、中国に仏教が伝来した時、混乱が先に立った。それは上座部仏教から大乗仏教までがほぼ同じ頃に流入したからだろう。後に大乗非仏論と言われるように、当時も原始仏典から密教迄、ひとつの宗教とはとても思えなかったに違いない。しかも中国の儒教や道教と相性が悪かったため、仏教側は儒教や道教の思想を借用してカスタマイズせざるおえなかった。思想的な乖離というか隙間を埋めようと
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************仏教が日本に伝えられたのは、6世紀の欽明天皇(539?-571?)の御代とされている。朝鮮半島はと言えば、公式には高句麗に372年、百済に384年だという。さらに中国についていえば、歴史書の「三国志」によると、仏教の初伝は紀元前後の漢の時代だという。『漢書』(「地理志」)によれば、日本は紀元前1世紀頃に既に朝鮮半島にある漢帝国の直轄地・楽浪郡に、定期的に使節を派遣し交流が
『此神憑り百首は長澤翁が審神者、相州雨降山麓大山神社武栄太夫宮司が神主を務められ昭和元年より昭和四年迄の間に神憑りして得られた神歌であり、昭和九年春に武氏が発刊したものであります。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」佐藤卿彦述)神懸百首より審神者長沢雄楯翁。神主武栄太夫(大山神社官司)(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)四十八何すとも人の業には限りあれど霊の奇日は限り知られず何すとも=何をするにも業=行なうこと。仕業。奇日=ふじぎなこと。霊妙。解、何をす
『此神憑り百首は長澤翁が審神者、相州雨降山麓大山神社武栄太夫宮司が神主を務められ昭和元年より昭和四年迄の間に神憑りして得られた神歌であり、昭和九年春に武氏が発刊したものであります。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」佐藤卿彦述)神懸百首より審神者長沢雄楯翁。神主武栄太夫(大山神社官司)(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)四十七幽身は自由自在なり大海の底にも入らむみ空にも行け幽身=隠身・神。自由=心(思い)のまま。自在=自分の思うままにできること。み空=大虚。
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************この倭姫命だが第11代垂仁天皇の皇女である。「倭姫命世記」によれば、崇神天皇(第10代)の次の天皇の御代に、既に伊勢神宮では仏教用語が禁止されていたというが、それは、推古天皇の御代に聖徳太子が「十七条の憲法」(604年)において、「二曰、篤敬三寶。三寶者佛法僧也。」(「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。」)と定めるよりも、なんと22代も前のことだ。もちろん根拠とな
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************渡辺氏が言う①祖孫一体、②神人分離、③一定の儀礼的手続きを必要とする、という「移行・変容」があるのはその通りだが、その理由を更に掘り下げる必要があろう。筆者は①から②に移行したのは、直接的には「同床共殿が変更」(天皇と鎮魂の器械との分離)されたことに起因すると想っているが、歴史を俯瞰してみると、全てが神意だと想える。つまり崇神天皇は間違っていなかったような気がする。神界
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『ここでは、わが国古代においても国家的重大事に際しては求めずしての神懸り(神の方から一方的に人に憑り、託宣を発すること)や、積極的に神教を乞うての厳粛な神託式(神主・琴師・審神者の三者構成による)が存在したこと、お憑りになる神霊が高位の神であり、しかも託宣が正確であること、①また神武天皇の御代は皇祖神たる天照大神・高皇産霊神が影の形に添うように常に見守り給うており、「祖孫一
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************崇神天皇の時代に、八咫鏡の同床共殿が変更された。本田翁は三種の神器を鎮魂の器械だと言われているが、それを失ったが故に天皇と神々との交流の形が変わったのだと筆者は考えている。もちろん、形代として宮中に神器を残してはいるが、神界の許可がなければ、同じというわけにはゆかない。記紀によれば、切掛けは五年の疫病(疾疫)により人口の半数が死亡し、更にその翌年百姓が流亡離散し背くものも
本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。************************『二日本書紀巻第五崇神天皇の御紀(巻末K参照)七年春二月、丁丑朔。辛卯詔して曰はく、昔、我が皇祖大に鴻基を啓きたまひき。其の後、聖業途高く、王風博く盛なり。意はざりき、今朕が世に当りて数災有らむとは。恐らくは朝に善政無くして、咎を神祗に取るか。盍にぞ命神亀て以て災を致せる所由を極めざらむやと。是に於て天皇、乃ち神浅茅原に幸して、八十萬神を会へて卜問ひたまふ。是の時、倭
『此神憑り百首は長澤翁が審神者、相州雨降山麓大山神社武栄太夫宮司が神主を務められ昭和元年より昭和四年迄の間に神憑りして得られた神歌であり、昭和九年春に武氏が発刊したものであります。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」佐藤卿彦述)神懸百首より審神者長沢雄楯翁。神主武栄太夫(大山神社官司)(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)四十六外辺より我が身の上に犯し来む千々の感覚に心乱すな外辺=外のあたり。犯し来む=心の隙に乗じて来る。千々=数が多いこと。沢山。さまざま。
『此神憑り百首は長澤翁が審神者、相州雨降山麓大山神社武栄太夫宮司が神主を務められ昭和元年より昭和四年迄の間に神憑りして得られた神歌であり、昭和九年春に武氏が発刊したものであります。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」佐藤卿彦述)神懸百首より審神者長沢雄楯翁。神主武栄太夫(大山神社官司)(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)四十五雑々の心の内に起り来るあらぬ思念をまつ払へかし雑々=種類の多いこと。いろいろ。雑念妄想。あらぬ=そうではなく、別の。ちがう。思いもよらな