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前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。大鎧を構成する小札はほとんどが革平安時代の鎧についてのあれこれ(2)で大鎧は日本史上最も軽い鎧という話をしました(この表現にはかなり語弊はありますが)。奈良時
本日も『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』企画をやります。今回で第4弾。藤原北家の祖・房前から数えて5代目(玄孫)にあたる良房(よしふさ)を取りあげます。良房は冬嗣の次男として生まれました。長兄は、長良(ながら)。802年生まれなので、良房(804年生まれ)とは2歳差。どちらも、母は藤原美津子(藤原南家・真作の娘)なので、同母兄弟にあたります。前回は脱線してしまいましたが、今回こそ、良房が兄を差し置いて藤原氏本流になっていったのは何故なのか…について、迫って
まだ大河ドラマ『平清盛』がリアル放送されていた2012年。「平安時代はドラマの題材に向いてないのでは」と語ったことがありました。ややこし過ぎる時代(関連)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11250851859.html平安時代は、まだ「名字」がない時代。似たような名前がいっぱい出てきます。テレビという音声が重要なメディアで、音声では聞き分けがややこしい名前ばっかり出て来たら、混乱しちゃいますよね…というようなニュアンスでした。
アメブロで知りあったカルトナージュ作家のpompadourpinkさんが、作品集を出版されましたもちろん早速買わせていただきました♪カルトナージュは、ハンドメイド好きな私がやりたかったことの一つです。その上、pompadourpinkさんの記事を拝読すると奈良時代や平安時代が好き、正倉院が好き、雛道具も好き、、、など私の琴線に触れる記事がたくさんいつかお会いして、正倉院や奈良時代のことを語り合いたいと、勝手に思っています同じく勝手に、ブロ友だと思っています
昨日、チビ子の名前の由来を書いたところ「氷室冴子、読んでいました!」のコメントをいただき嬉しくなったので、『ジャパネスク』についてちょっと。。。お話は、平安時代。内大臣家のお姫様、瑠璃姫が宮中での政治的陰謀に首を突っ込んじゃって、それを「解決していくラブコメディ」とウィキペディアには書いてあるけど、違いますけど。解決なんてしてないから。なるようにしか、ならなくて、それが切ないの。前のブログ記事のコメントになみのこさんが書いてくださったよ
ワタクシはすっかり忘れてました&出勤でどのみち見れない身の上でしたが、『光る君へ』総集編の放送があったようですねー。SNSによると、三条天皇や周明、刀伊の入寇、そして道長薨去あたりは、ごっそり「無かったこと」になっていたとか…w『光る君へ』総集編で“全カット”された重要キャラネット衝撃「嘘でしょ!?」「道長が編集しただろw」⇒★(外部リンク)どーせ無かったことにするなら、ソウルメ(シュクセイ!!シュクセイ!!)『光る君へ』、ワタクシは全体的には楽しく見れたのです
今回はこういうお題でいきます。鬼童丸とは、平安時代を代表する鬼ですが、その説話はたくさん種類があって、それぞれ内容が異なっています。で、説話によって、①鬼童丸はもとは人間の稚児であったが、悪行の末に鬼になった。②もともと鬼である。③鬼と人間のハーフだったのが、だんだんに鬼に化していった。この3つの説話があるようです。全部を紹介すると長くなってしまうので、この中から、③について主に解説していきたいと思います。これは鎌倉時代の説話集『古今著聞集』に載っているエピソードです。
さて、平安時代に起きた合戦や戦争を一通り見てきた。ここで再び合戦のルールと武士のフェアプレイ精神について論じたいと思う。最初に私の結論から言おう。原則として平安時代の武士が行う合戦にルールはない。平安時代の武士道たる兵の道(つわものの道)にもフェアプレイ精神といった精神性はない。なぜそう言えるのかと言えば、ルールには罰則が必要である。罰則のないルールなど守られるはずがないし、仮に罰則があったとしても、それを強制し行わせる強力な権力が平安時代にない。唯一、天皇や朝廷が公的権力として存
今日は、こちらの記事からネタを引っ張ります。『光る君へ』相関図ガラリで視聴者震撼女房たちに「この圧すごい」「これは…怖い」⇒★(外部リンク)(前略)公式サイトの相関図に彰子の女房たちが新たに加わった。宮の宣旨(小林きな子)、大納言の君(真下玲奈)、宰相の君(瀬戸さおり)、小少将の君(福井夏)、左衛門の内侍(菅野莉央)、馬中将の君(羽惟)の6人が「彰子のサロン」の欄に入ったのだ。また、次週第32回のギャラリーにも女房たちが待ち受ける場面が写っており、視聴者から「なんか怖い」「こ
はっきり言って、後鳥羽上皇が藤原秀康を上総国に派遣したことは大失敗であった。いかに各国の国司を歴任し、また、北面武士として鎌倉幕府とは独立した独自の武力を有している人材を派遣したとしても、現地でやっていることは看過できることではないとなると、後鳥羽上皇の失策とするしかない。どうにかして納得できる理由を探すとすれば、観測気球といったところか。鎌倉幕府の勢力が極めて強い地域に独自の武力を持った人物を国司として送り出すことで、鎌倉幕府に対する楔(くさび)を打ち込めるのではないかと観測するのである
NHK大河ドラマで、いまんとこ扱った時代が一番古いのは「風と雲と虹と」の平安時代でしょうか。奈良時代とか飛鳥時代とかは、大河になったことはないですよね。とはいえ、10年以上まえ、NHK大阪が、1.5時間×2のドラマで、「聖徳太子」「大化改新」「大仏開眼」と特集ドラマをやったことがあります。かなりいいドラマでした。ちなみに主役はそれぞれ本木雅弘(厩戸)、岡田准一(鎌足)、吉岡秀隆(吉備真備)で、ちゃんとしたキャスティングで(大河ドラマ並みの豪華な配役です)、制作に相当金もかけてました(ちな
大河ドラマ『光る君へ』第29話「母として」見ましたー。藤原宣孝、卒去。長保3年4月25日(1001年5月20日)没。52歳(推定)藤原詮子、崩御。長保3年閏12月22日(1002年2月7日)没。40歳。前回の定子の崩御に続き、第1話からレギュラー出演していた宣孝、詮子たち2人のクランクアップ。寂しくなってまいりましたね…。冒頭、天皇の健康と長寿を祈る「御薬の儀」で、帝が飲み切れなかった薬を飲み干す「後取(しんどり)」という名誉な役割を授かった宣孝。
大河ドラマ『光る君へ』は、次回からいよいよ「越前編」へ。為時が下国「淡路守」から大国「越前守」に「国替え」となる経緯が、今週の放送で描かれました。「国替え」されてしまったのは、源国盛。源国盛@森田甘露さん2024年大河ドラマ『光る君へ』よりドラマでは、選ばれた国盛が「漢文ができない」ということで「越前守」は不適格であるとされ、漢学に長けた為時が選ばれる…という流れでした。「漢文は命じて書かせたもので私は苦手です」とか「どこかにいい通詞はおりませんかね~」とかの
↓まず法金剛院の記事をチェック☑️↓『桜満開の法金剛院|京都の隠れた桜の名所を訪ねて』実は寺猫の黒猫ちゃんに会いに出かけたのですが、猫には会えず、代わりに桜の穴場を発見しました。会いたかったのはこの子。今日は寒くて出てこなかったです。法金剛院…ameblo.jp法金剛院に関する京都検定の過去問まとめ法金剛院に関する京都検定の出題内容を整理すると、以下のポイントが重要です。🌸法金剛院と花の名所1.春:待賢門院桜(しだれ桜)•(第15回3級)「春は待賢門院桜、夏は蓮の名所の寺院は
昭和26年(1951年)。「太平洋戦争」が終結して日本はまだGHQの占領下だった時代。『百人秀歌』と呼ばれる和歌集が、宮内庁書陵部から「発見」されました。「京極黄門撰」と書かれていて、著者は『百人一首』の撰者である藤原定家その人。開いてみると、それは『百人一首』とあまりにも酷似した和歌集でした。「これは…『百人一首』の"原本"となったものではないか…!?」まさしく、歴史的大発見。世の中の常として、「ぜんぜん違うもの同士」よりも「ちょっと違うもの同士」の方が、そ
先日、平安貴族と遭遇しました変な出だしこういう方々です。3~4人の集団なのですが、全員ぷんすか怒っています「どうされました?」一応のコミュニケーションを図ってみると…「三条何某に歌合わせで馬鹿にされた!」「あやつは我らの歌を田舎臭いと小馬鹿にし、足で踏んずけたのですぞ!」「この恨み!憎しみ!晴らさずおられるものか!」歌合わせで三条何某に負け、プライドを踏みにじられた憎しみで怨霊化していたようでした歌合わせ。なんじゃそりゃ
大鎧は日本史上最も軽い鎧大鎧は日本史上最も軽い鎧、と言い切ってしまうと大変な語弊はあるものの、平安時代の鎧についてのあれこれ(1)に記載したとおり、少なくとも奈良時代後期の光仁天皇や桓武天皇が国家的に革製の鎧兜をつくらせて以降、挂甲や短甲よりもずっと軽い鎧として大鎧が出現したことは間違いありません(『続日本紀』)。挂甲や短甲など重装歩兵が蝦夷(阿弖流為)にこてんぱんにやられて以後、蝦夷(俘囚)によって弓馬戦法とともに騎馬用の革製鎧がもたらされていきました。大鎧の実態は重装歩兵をやっつけたロ
新潟では昨晩から雪が降り始めて、積もるまではないものの、寒さが冬らしくなっております。毎年「ホワイトクリスマスになるかどうか」が関心事だったりするんですが、今年はどうでしょうかねぇ…。ちょっとは白くなっちゃいそうかな。さて、「勧修寺流藤原氏」、前回は紫式部までと、夫の宣孝・弟の惟規の子孫をご紹介しました。系図で見てみよう(藤原氏/紫式部周辺)(関連)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12804259307.html今回は、宣孝の
昨日、仕上がった刺し子「七宝つなぎ」七宝つなぎとは中国の唐時代に起源を持ち平安時代に日本に伝わったとされています。円が連なる幾何学模様として知られている。どこまでも繋がり続けさらなる繁栄を思い起こさせます。華やかで人のご縁、円満な関係性を志向する縁起の良い文様です。✢刺し子花ふきんオリムパス製(株)✢hidamari.SASHIKo&(株ルシアン)COl201練乳いちご🍓
茨城県で再会したメンヘラサエコ!お互いめんへら!↑snidelのこういうガウンコート!何年発売のやつかは忘れました!このコートは年式、種類によっては「平安時代の○○○が着ていた様なやつみたいで!でも○○年発売のやつは可愛かった!」と言っていました。この記憶の会話も記憶から抹消される寸前。正確な言葉は忘れてしまいました。その気に入った年式のガウンコートをメルカリで購入!その取引相手が小学校、中学校で同級生、仲良しだったゆかっぷだった。これも凄い巡り合わせ!本当に。
前回の記事と同じ日。お昼になったので琵琶湖ホテルを出て、買っていたおにぎりとパンを休憩所で頬張ります。それが済むと、京阪で大津市役所前に向かいます。大津市歴史博物館での袿体験です。現在は行っておらず、「光る君へ」放送中の限定でした。予約が必要で、あらかじめカードで支払いして申し込みました。京阪の駅から徒歩10分くらいで着きました。14時の予約にはまだ1時間ほどあり、まずは展示物を見学します。先ほど、びわ湖ホテルで見た、えさし藤原の里の十二単と同じまひろ
(=^・^=)/奈良時代723年三世一身の法からの743年墾田永年私財法それでええねんええねんええーーーねん♪そして、平安時代のお話し宇多天皇は大の猫好きであった。それが分かるのは、宇多天皇在位中の日記「宇多天皇御記(寛平御記)」だ。アメーバブログをしていたら、「猫との生活ジャンル」を選んでいたでしょう。日本で初めてのベットとして飼われていた猫に関する日記。その内容を読んでみましょう。うちの
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。今回は立物(前立)についてです。平安時代の兜(遺物)には1つも鍬形はついていない立物の1つに鍬形および鍬形台があり、兜の正面に掲げる一双の角状の立物のこと
歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきますみなさんこんばんは(´Д`)。本日は歴史好きなぶたさんの大好物!楽しい歴史系図でございます(´Д`)!ぶたさんは歴史上の人物の系図がとにかく好きなんです。はい(´Д`)。本日は大河ドラマ「光る君へ」でもお馴染みの藤原伊周の子孫について見ていきたいと思います。藤原伊周は平安時代中期の公卿で、摂政関白を勤めた藤原道隆の子です。母は女流歌人の高階貴子で、同母妹に一条天皇の皇后・定子
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。今回は縅毛の色目についてです。死に装束としての鮮やかさ縅毛の色目は、赤・紺・白・紫・萌黄・浅葱・茶・薄青などの色絲が一般的です。色目には一部の色を変える
鎧の変遷について平安時代の鎧についてのあれこれ(1)鎧の小札について平安時代の鎧についてのあれこれ(2)平安初期の鎧について平安時代の鎧についてのあれこれ(3)平安時代中期から平安時代後期にかけての鎧について岡山県立博物館所蔵の赤韋縅鎧は備中国赤木氏に伝来の鎧です。赤木氏は信濃国の豪族で、承久の乱(1221年)の功績により新浦地頭として備中国に移りました。鎌倉時代に改変が加えられていますが平安時代のものと推定されています。大型の三目札(敷目札)を用いています。幅広
前回は江戸時代を想定して考えてみたが、今回はさらにさかのぼり、平安時代に心不全になっていたらどうなっていたかを考えてみる。平安時代の医療と心不全平安時代の医療は、中国から伝わった陰陽五行説に基づくもので、病気は「気の乱れ」や「陰陽のバランスの崩れ」と考えられていた。当時の医者(典薬寮に属する医師や陰陽師)は、薬草やお祓いで病気を治そうとすることが多かった。もし心不全の症状が出ていたら、おそらく「水滞(すいたい)」、つまり体内に水が溜まる病として認識されていた可能性がある。これは江戸時代の
鎧に鉄が使われなくなった時期古墳時代・奈良時代には挂甲・短甲といった主に鉄でつくられた鎧兜が使用されていましたが、平安時代には綴牛皮(てごひ)という革製の鎧兜が出現し、大鎧が誕生します。奈良時代後期の光仁天皇(709~781年)が780年に「甲冑は皆よろしく革を用いるべし」と勅命を出し、平安時代初期の桓武天皇(737~806年)は790年に蝦夷征討にあたり坂東諸国に2,000領の革鎧をつくらせるなど、2度にわたり「鉄の鎧は不便なので革製の鎧兜に切り換えるように」と命令が下され、国家的につくら
大河ドラマ『光る君へ』第28話「一帝二后」見ましたー。一条院の御時皇后宮かくれたまひてのち帳の帷の紐に結び付けられたる文を見付けたりければ内にもご覧ぜさせよとおぼし顔に歌三つ書き付けられたりける中に夜もすがら契りしことを忘れずはこひむ涙の色ぞゆかしき知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな作者不明/後拾遺集哀傷536・537あの夜に約束したことを覚えていますか。私のことを思って流すあなたの涙が何色なのか知りたかったです。誰も
本日も、前々回からの続き。藤原氏魚名流を取りあげて行こうと思います。魚名が見た夢(再掲)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12728328493.html前回は、「武士系藤原氏の代表格」とも言える「藤原氏秀郷流」をご紹介しました。系図で見てみよう(藤原氏秀郷流)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12730979360.html今回は、秀郷流の祖となった藤成の兄・鷲取の末裔をご紹介します。